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未唯への手紙

未唯への手紙

『世界歴史㉓』

2023年10月01日 | 4.歴史
『世界歴史㉓』

「大加速」時代の諸相

科学技術イノベーションと大量消費社会

世界は前と同じでないことを私たちは悟った。笑う
人もいた。泣く人もいた。大部分の人はおし黙っていた。

マンハッタン計画を主導した物理学者ロバート・オッペンハイマーが、一九四五年七月一六日午前五時二九分、ニューメキシコ州アラモゴード射爆場で実施したトリニティ核実験で、プルトニウム型原子爆弾による人類史上初めての核爆発を目撃したときの様子を、のちに回想して語った言葉である。プルトニウム同位体が人新世のGSSPを定めるシグナル候補とされているという点でも、二〇世紀後半世界史の点描は、この瞬間から始められなければならないだろう。

それはまた、二〇世紀科学技術イノベーションの最も劇的な到達点であっただけでなく、科学技術が歴史を駆動する時代の幕開けを告げる出来事でもあった。一般的な世界史・各国史の通史や教科書において、科学的発明・発見や技術革新、それらの推進力となった企業や組織の歴史は、政治経済史の後段で副次的・補論的に、あるいは個別のジャンルとして扱われがちである。しかし、たとえば核開発と冷戦のように、科学技術と歴史の因果と機序が絡み合う二〇世紀の、とりわけ後半においては、歴史叙述についても再考が必要である。科学技術イノベーションの歴史的衝撃に着目するとき、「長い二〇世紀」とその後半「大加速」の時代はどのように映るだろうか。

第二次産業革命の時代を起点とする「長い二〇世紀」論は、科学技術イノベーションの歴史においても有用である。アメリカでトーマス・エジソンが研究開発の事業化を目指してニュージャージー州メンロ・パークに研究所を開設したのは一八七六年のことだった。同研究所による白熱電球の開発成功を起爆剤として事業化されていった電気をはじめとして、第二次産業革命の時代には、とりわけアメリカとドイツにおいて今日の社会を支える多くの画期的な発見・発明が相次いだ。

具体例として、「大加速」グラフ群に採用された三指標――電話回線の契約数(通信手段の発達と普及)、自動車台数(モータリゼーション)、同:海外旅行入国者数(その前提となる航空の発達)、――に注目してみよう。それらの実用化・事業化・標準化の歴史的起点もまた、一八七六年のグラハム・ベルによる電話機の特許取得、一八七〇年代から八〇年代にかけてのゴットリープ・ダイムラーやカール・ベンツらによるガソリンエンジンや自動車の開発、一九〇三年のライト兄弟による初の有人飛行に到るまでの航空技術の開発競争など、おおむね第二次産業革命の時代に遡る。

二〇世紀前半には、これらの技術革新に対する積極的な資本投入による事業化が進み、イノベーションと需要(軍民需)が相互を牽引しつつ、先進工業国を中心に三指標ともに成長を続けた。そして、テイラー・システム(科学的管理手法)、フォード・システム(大量生産方式)、フレキシブル大量生産・マーケティング・会計手法など現代企業経営の基礎を確立したスローン主義など、生産方式・経営ノウハウの発達との好循環が働いて、ドイツのシーメンス、BASFやアメリカのGE、フォード、デュポン、GMなど、二〇世紀を代表する大企業群が次々と成長した。

二〇世紀後半には、三指標をめぐる消費の大衆化・高度化・グローバル化がいよいよ加速して、地球規模における成長の「対数期」を迎えた。本巻原山論文は、多品目にわたる耐久消費財の普及について、日本と中国をそれぞれ農家・非農家に分けて比較している(一九六頁)。その分析からも、異なる「対数期」の総和が地球規模での消費の「大加速」をもたらしてきたことが窺われる。そして「大加速データ・コレクション」によれば、二〇一〇年時点においても、他の「社会経済トレンド」の多くと同様に、これら三指標もまた「大加速」が継続しているのである。

ここで例示した科学技術イノベーションとその社会実装・普及のプロセスは、市場経済の競争的環境のもとであれ、指令経済や戦時体制の非競争的環境のもとであれ、人間社会や国家の様々な欲望を実現する方向に向けてイノベーションがシステム化されてきた二〇世紀「物質文明」のあり方を反映している。もちろん、失敗・偶然・試行錯誤に満ちた発明や発見は、二〇世紀の科学技術史において欠かせない役割を果たし続けた。例えば、

ヤン・チョクラルスキーが、メモを取りながらの実験中にインク壺と間違えてスズを溶かした坩堝にペン先を入れなければ、のちの半導体デバイス開発に不可欠なシリコンウェ製造技術の基礎となる単結晶の作製方法(チョクラルスキー法、一九一六年)は発見されず、二〇世紀後半の半導体開発は大幅に遅れるか、あるいは全く異なった発展経路を辿っていたかもしれない(Tomaszewski2002:1-2)。

二〇世紀「物質文明」の発展は、その多くを物質や生命の様々な性質の発見に負っており、毎年繰り返されるノーベル賞受賞者たちの物語は、チョクラルスキーと同様の失敗・偶然・試行錯誤に満ちている。しかしそれら無数の試みから生まれる成功物語としての幸福な偶然(セレンディピティ)は、一個人・天才の営為である以上に、社会から企業・研究機関・国家などの組織に対して資本・人材・ノウハウを継続的に投入・調達する仕組みがあって初めて可能となった確率論的必然であり、発見・発明から事業化までが可能となる営みだった。チョクラルスキーの発見も、ベルリンでドイツ大手電機会社AEGの技術者として研究開発に取り組んでいる最中の出来事であった。

発見と同様に、あるいはそれ以上に、応用と進化はシステム化されたイノベーションにおいて不可欠の要素だった。チョクラルスキー法の発見から三〇年あまり後の一九四七年、アメリカでAT&Tベル研究所の三人の研究者が同法を応用して半導体デバイスおよびトランジスタの発見・発明に成功(一九五六年にはノーベル物理学賞を受賞)、エレクトロニクスの世界でやがて半導体が真空管に取って代わることになる。そして半導体集積度の対数的増加に関する「ムーアの法則」に象徴されるような連続的に進化するエレクトロニクスの「大加速」が世界を変貌させていく。映画・ラジオ・テレビなどの音声・映像メディア、家電、コンピューター、通信など、ほかにも「長い二〇世紀」を通じてイノベーションがもたらした常に進化し続けるモノ・製品とコト・消費体験は、大量生産・大量消費社会の不可欠の構成要素となって、世界や人々の暮らしを不断に変化させてきたのである。

このように、二〇世紀は、科学技術イノベーションと経済成長が相互を牽引するシステムが稼働して、絶え間ない技術革新が進み、社会と人間活動のあり方を大きく変化させた。その変化において重要なことは、技術革新そのものよりも、むしろ持続的な革新・改革・成長の追求--実現していく欲望、高度化していく消費体験を前提とする世界観が社会のうちに内面化されたことかもしれない。そして、二〇世紀後半とは、そのような不断の社会改造―さらに言えば人間改造のプロセスが、アメリカそして主要工業国から世界へと拡大しつつ「大加速」した時代として捉えることができるのではないかと思われるのである。

アラモゴードから

体制間競争の「勝者」・資本主義体制における中心国としてのアメリカの優位性は、「大加速」論および発展経路の複数性の観点からどのように理解すべきだろうか。いま一度、アラモゴードに舞台を戻して考えてみよう。

あの早朝のアラモゴードで原子時代の幕開けを見た[中略]私たちは、今や、人間は労を惜しまぬ意志さえあれば、ほとんどいかなることでも成し遂げられるということを知っているのです。(Groves1962:415)

陸軍軍人としてマンハッタン計画を統括したレズリー・グローヴス准将の回顧録結語からの引用である。その溢れる自信と自己肯定感は、このとき確かに事実によって裏付けられていた。アメリカの核兵器開発は、一九三九年に核分裂連鎖反応が実験で確認され、ドイツによる核開発を憂慮する物理学者たちを代表してアルバート・アインシュタインがフランクリン・ローズヴェルト大統領に書簡を送ってから六年、計画開始(一九四二年八月)からわずか三年で核兵器の実戦使用にまで到った。ドイツや日本でも同じ時期に核兵器開発が検討・試行されたも実を結ばなかったことはよく知られている。

マンハッタン計画では、テネシー州オークリッジにウラン濃縮施設等、ワシントン州ハンフォードに本格的なプルトニウム生産炉等をもつ巨大な工場群が、ニューメキシコ州に核兵器開発を主導するロスアラモス研究所がそれぞれ建設され、常時一〇万人を超える人員が施設の建設、工場稼働、研究開発、運営管理の動員・雇用された。このような巨大プロジェクトを短期間のうちに設計・実行できたのは、「生産技術、製品・製法技術、流通システム、経営管理ノウハウ」など、あらゆる側面にわたり優れた分厚い技術蓄積がアメリカに存在していたからだった(橋本一九九八b)。

グローヴスは、同じ結語で「マンハッタン計画を成功させた五つの要因」として、①目的の明瞭さ、②タスク・デリゲーションに基づく効率的な分業システム、③目的の共有、④既存組織の活用、⑤政府による無制限の支援を、経営管理の教科書風に列挙している。実際のところ、オッペンハイマーとグローヴスが二人三脚で成功に導いたマンハッタン計画は、経営管理の教科書的な成功事例として二一世紀の今日も繰り返し参照されている「語り草」である。グローヴスは退役後、ジャイロスコープの製造から出発して軍需によって大きく成長した機械・電気メーカーで、コンピューター生産にも乗り出していくスペリー社の副社長に就任した。第二次世界大戦は、軍民を跨いだ経営人材育成の場でもあった。

しかし、アラモゴードや第二次世界大戦の成功体験だけでは、アメリカの優位性を説明できない。ソ連もまた総力戦でドイツに勝利し、さらにアメリカに遅れることわずか四年後の一九四九年八月、核実験に成功したからだ。一四四年にはサイクロトロンを組み上げるなど基礎研究が進んでいたソ連は、アメリカの原爆開発・使用の衝撃を受けて、スターリンの号令のもと国家最優先のプロジェクトとして大規模・急速に資源・人員を動員して独自に核開発を進めたのである。オッペハイマーとグローヴスの役割をソ連で担ったのは、核物理学者のイーゴリ・クルチャートフと、軍人で軍需工業指導者のボリス・ヴァンニュフだった(市川二〇二二:二六一四八頁)。宇宙開発でもソ連はアメリカをリードして、一九五七年一〇月四日には世界初の人工衛星スプートニク一号の軌道投入に成功、アメリカ・西側諸国を「スプートニクショック」が襲った。一九六一年にはユーリイ・ガガーリンが世界最初の宇宙飛行に成功、六三年にはワレンチナ・テレシコワが女性初の宇宙飛行に成功した。ソ連の指令経済・中央集権体制は、目標が明確で市場性が問われない軍需や宇宙開発では、少なくとも一九五〇年代から一九六〇年代にかけてアメリカに伍する科学技術力・巨大プロジェクトの遂行能力を示したのである。

軍需の民生転用では、資本主義体制における軍産複合体の方が社会主義体制と比較して優っていたとは言えるだろ冷戦による準戦時体制の恒久化は、世界最大の軍事大国となったアメリカの軍産複合体に莫大な利益をもたらし、ボーイング社、ロッキード社などの航空機産業などに代表されるように民需・軍需の双方を取り込んだ多くの大企業が成長するとともに、軍需で開発された技術は、重化学工業、トランジスタ、集積回路(IC)などのエレクトロニクス技術、NC工作機械などへ転用され普及した。

しかし、軍産複合体だけでは、体制間競争における資本主義の優位も、資本主義体制におけるアメリカの中心性も十分には説明できない。大量消費社会との関係では、むしろアメリカの軍産複合体も、競争の不在による生産性の低さという弱みを抱えていた点でソ連の国営企業と同類であったからだ。トランジスタ、IC、NC工作機械なども、開発したのはアメリカだったが、トランジスタ・ラジオやテレビなど民需での利用が拡がるにつれて、軍需の政府調達に依存しがちな米企業に対して民需を競う日本企業等の方がコスト削減や品質改善で優位に立った。一九七〇年代までアメリカが七割近いシェアをもっていたICも、一九八六年には日米のシェアが逆転するなど、アメリカは各分野で大きくシェアを日欧企業に(藤田二〇一八:三一頁)。一九七〇年代から八〇年代にかけて製造業を中心にアメリカ衰退論が囁かれたときには、中核産業として軍産複合体を抱える超大国であることは、むしろ製造業の競争力低下の要因でさえあったのである。

アップルへ

衰退論を裏切ってアメリカ経済が再生の方向に向かい、冷戦に「勝利」し、一九九〇年代には「ニューエコノミー」とさえ呼ばれた長期の好況を実現して、冷戦後の資本主義世界体制と高度化した進化し続ける大量消費社会のなかで競争力と中心性を維持できた最大の要因は、ICT(情報通信技術)分野での圧倒的な先行・優位にあった。半導体(一九四七年)に始まり、IC(一九五八年)、中央処理装置・CPU(一九七一年)の開発などを背景とする大型コンピュ―ターの小型化(一九六〇年代)、パーソナル・コンピューター(PC)(一九八〇年代)、インターネット(一九九〇年代)、モバイル通信(二〇〇〇年代)の爆発的普及に到る展開は、「大加速」時代の核心をなす産業革命・ICT革命であり、一九六〇年代から現在まで長期にわたって社会を連続的に改造してきた。それは資本主義世界のなかでグローバルに展開したとはいえ、右に示した開発事例の全てを含めて、その圧倒的中心はアメリカだった。他方、ICT革命を起こすことができず、またその模倣・複写にも限界があったことは、のちに検討するサハロフらの書簡(本稿四二頁)が危惧したように、ソ連・社会主義圏に体制転換をもたらす一因となっていく。

ローニング

ここで注目すべきことは、ICT革命を主導したのが、多くの場合、既存の大企業ではなく、既存組織を離職した、あるいは企業・組織への就業経験を持たないことさえあり得るような、わずか数名の仲間が集まって起業するスタートアップから成功をつかんだ新興企業群だった点である。それぞれ技術者仲間で設立した、一九五七年創業のDEC社は大型コンピューター市場を独占するIBMに対して小型コンピューター市場で大成功し、一九六八年に創業したインテル社は半導体開発で既存企業を淘汰して急成長した。さらに一九七六年、二〇代の青年スティーヴ・ジョブズとスティーヴン・ウォズニが、いわゆるガレージ・カンパニーとして創業したアップル・コンピューター社は、その前年にビル・ゲイツとポール・アレンが創業したマイクロソフト社などと並んで、PCの世界で先陣を切って巨大な成功を収め、その後もビッグ・テック企業としてⅠCT革命を主導して今日に到る、間違いなく「大加速」時代の主役企業のひとつとなった。

DECやアップルのような成功を生み出していくためには、くのスタートアップ企業群に投資し、ほんの一握りの投資先の成功から莫大な利益を獲得することを目指す投資方法を事業化したベンチャーキャピタルの存在が大きな役割を果たした。このような資金調達システムや、それを支える文化・風土におけるアメリカの優位性には、リスク投資が必要だった一九世紀ニューイングランドの遠洋捕鯨ビジネスにおけるファイナンスなどに遡る歴史があることが指摘されている(ニコラス二〇二二:二七―六二頁)。より現代的な起源としては、第二次世界大戦復員兵たちによる起業を支援する目的で一九四六年に設立されたARD(AmericanResearchandDevelopmentCorporation)が知られている。同社が体系的にスタートアップ企業群に投資してDEC社への投資から莫大な利益を収めたことは、ベンチャーキャピタル事業の出発点となった。一九七八年、創業直後のアップル社に五〇万ドルを投資したベンチャーキャピタル法人のベンロックは、三年半後には一億一六六〇万ドルの利益を獲得した(同:二四〇頁)。こうしたスタートアップ企業やベンチャー投資の成功譚は、ICT革命が体制間競争の行方や「大加速」に与えた影響を考えれば、経営大学院の教材(ケース)として以上の意味を汲み取る必要があるだろう。

インテル(サンタクララ郡マウンテンビュー)、アップル(同郡クパティーノ)などIT革命を主導した企業の多くは、カリフォルニア州サンフランシスコ湾ベイエリア一帯の、いわゆるシリコンバレーで起業・成長した。なぜシリコンバレーだったのか。ニュラス(二〇二二)は明るい気候風土が生み出した開放的な文化を強調するとともに――UCバークスタンフォードをはじめとするベイエリアの大学・研究拠点が若く優秀な人材を引きつけたことに加えて、第二次世界大戦以来、テクノロジー・エレクトロニクス分野の軍需がカリフォルニア州とりわけシリコンバレーに集中したことを背景に、大学と軍部の投資が早くからスタートアップ企業を繁栄させてきたことを指摘する(二六一―二六九頁)。DEC創業者の二人は国防総省がMITと設立したリンカーン研究所の出身であり、初期半導体の開発は資金を国防総省に多く依存していた。よく知られているように、一九九〇年に開放されたインターネットは一九六九年にアメリカ国防高等研究計画局(ARPA)が軍事目的で開発したARPAネットに起源をもち、国防総省によるGPS開発は一九七三年に始まり、一九九三年、全球を二四のGPS衛星がカバーするシステムが完成した。ICT革命と軍需、アップルとアラモゴードは深い縁で結ばれてきたのである。

いまひとつ指摘したいのは、ICT革命を通じて称揚されてきた起業家精神と結びつく独立自尊の人間類型である。アップル創業者スティーヴ・ジョブズが、がんを宣告された後の二〇〇五年、スタンフォード大学卒業式で行った祝辞に残した言葉からはその一端を窺うことができる。

あなたの時間は限られているのだから、誰かの人生を生きることに浪費してはいけない。[中略]最も重要なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。それらは、あなたが本当になりたいものを、なぜかすでに知っているのだから。(StanfordNews2005)

死は避けられないのだから、限られた人生、あくまで自分の直感を信じて自己実現に向けて迷わずに歩めと若者を勇気づけるジョブズの感動的なスピーチは長く記憶され、スタンフォード大学YouTube公式チャンネルでの再生回数は二〇二三年現在で四一〇〇万回を超えている3(https://youtu.be/UF8uR6Z6KLc)。同じ個体の死の不可避性の認識から、利他的選択の可能性を語ったポラニーとは異なり、ジョブズは、新自由主義時代の美徳として極限の自由と個性の賛歌を力強く語った。「スティ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」の結語が示す、独創を貫くために成熟を拒否する人生観はまた、ソ連において称揚された超人的能力でノルマを超過達成したとして生産性向上運動の象徴となった炭鉱夫アレクセイ・スタハノフ、無着陸飛行の世界記録を樹立してスターリンが絶賛した飛行士ヴァレリI・チカロフ、さらに冷戦下で「豊かな精神性、道徳的純粋性、身体的完全性を調和」させた英雄として称えられた宇宙飛行士ガガーリンらに代表される「新しいソビエト人」(Gerovitch2007:135)の人間類型ともかけ離れていたのである。

台所論争

ロシアを対象とする「長期経済統計」研究によれば、一九一三一九〇年のロシア共和国一人当たりGDP成長率は欧米諸国の水準を大きく上回っており、スターリン時代の第一次高度成長期(一九二八一四〇年)は群を抜くなど、ソ連期ロシア共和国は相対的に安定した恒常的成長軌道を歩んできた。一九六〇年代以降、生産性低下の問題や停滞感が次第に強まったことは事実だとしても、一九七〇年代から八〇年代にかけても経済成長は継続しており、「GDPの「量的な問題」だけではソ連崩壊は説明できない(久保庭ほか二〇二〇一九九一二〇五頁)。また、「歴史の敗者」としてのイメージがついて回るソ連・社会主義圏については、とりわけ二〇世紀を知らない世代の間で、資本主義世界・自由主義と「両極端」に位置する価値観が支配していた社会であったと捉えられがちである。確かにスティーヴ・ジョブズと「新しいソビエト人」たちは水と油の関係にあるかれない。しかし、この「両極端」な世界像には訂正が必要である。

あなたはロシア人がこれら〔ユニット・キッチンなどのアメリカ製品〕を見て吃驚するだろうと思っているんだろうが、実際のところ新築のロシア住宅は今まさにこういう設備を備えていますよ。(Krushchev1959)

一九五九年七月、アメリカ副大統領としてソ連を訪問したリチャードニクソンとの「台所論争」で、ソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフが放った言葉である。論争の舞台となった「アメリカ博」は、本巻齋藤論文が検討する、ソ連の「文化攻勢」から始まった東西文化交流におけるアメリカの「反撃」の場とも言うべきもので、六週間の期間中三〇〇万人が訪れたモスクワの会場で市民の関心を集めたのは、芸術作品などの高級文化よりも「郊外に住む中流階級の平均的な暮らし」を紹介して家電品を「主婦」がデモンストレーションするモデルルームのような空間だった(鈴木二〇二四一頁)。この会場で通訳を介して交わされた論争は、テレビで録画放映もされ、冷戦を象徴する一コマとして長く記憶されてきた。

当時、ソ連の指導者が消費社会における市民の生活満足度を競い合うことを拒まなかった事実を示すこの出来事を「大加速」論の観点からふり返るとき、米ソ・東西体制間競争は、両極端・二項対立のイデオロギー闘争というよりは、同じ近代、同じ物質文明において、同じ欲望を実現することを目指した競争であったと捉えた方が有用ではないかと思われてくる。スターリン批判(一九五六年)後の「雪どけ」の明るさとともに、この時期のソ連は、スターリン時代に続く「第二次高度成長期」(一九五〇年代後半―六〇年代前半)を迎えていた。平和共存路線を唱え、軍事的対決ではなく体制間競争での勝利を「アメリカに追いつけ追い越せ」など様々なレを使いながら強調したフルシチョフは、少なくとも表面的には好調だったソ連経済を頼みにして、社会主義による近代化を大衆的規模で実現することをめざしていた。

なかでも喧伝されたのが、労働者への集合住宅の大量供給だった。スターリンの死の翌年(一九五四年)、フルシチョフはコンクリートの効用を説く三時間にわたる大演説を行い、まもなく統一規格の五階建てコンクリート・プレハブ集合住宅建設の大号令をかけた(Forty2019)。第六次(一九五六―六〇年)五ヵ年計画では第五次からほぼ倍増の一一三万戸分のフルシチョフカと呼ばれた-住宅団地が全ソ連に建設されていった。フルシチョフ失脚(一九六四年)後も集合住宅の供給はソ連・社会主義圏の看板政策であり続け、一九七〇年代にはエレベーター付き高層集合住宅が主流となり、年間二二〇万戸のペースで世界最大規模の住宅建設がソ連崩壊直前の一九八〇年代末まで続いた(大津一九九八:二八六頁)。

住宅の大量供給は住宅不足と表裏一体であるから、社会主義の成果として額面通りに受け取ることはできない。一九八九年の調査でも、複数家族で共用する「共同フラット」利用者が三五〇万家族にのぼっていた(外池一九九一:一二二二二頁)。それでも長い待ち時間「行列」を経てでも、入居後は無償に近い低廉な住宅に住み、質量ともに低レベルとはいえ消費生活と福祉を享受できたことは、社会主義体制下の統合の基礎となった。西側モデルとは比較にならない陳腐さは否めないものの、家電も量的には一定の普及が進み、一九六八年までにはテレビと洗濯機の普及率は五〇%を上回り、テレビ販売台数も一九五九年の一一三万余台から一九八五年には九三七万余台に達した(大津一九九八:二九〇一二九一頁)。チェコ「プラハの春」弾圧後の「正常化」体制を批判したヴァーツラフ・ハヴェルから見れば、このような状況は独裁と消費主義が結合した「ポスト全体主義」であった(本巻福田論文:一七三頁)。しかし、いったん消費社会の窓を開いてしまうと、完全な統制と情報の遮断をしない限り、競争的市場経済のなかで不断に高度化していく西側の大量消費社会の情報に接した人々の欲望を抑えつけることは難しい。西側の情報に晒される機会が増えるにつれて、「行列」に象徴される慢性的な消費財の不足や品質の低さは東側市民の不満を高めた。「長期経済統計」分析は、「消費財選択・営業・貿易・旅行・為替の自由化」がないままに「不足経済」を国民に強いたことによる「GDPと経済構造の内実の貧困」がソ連崩壊の最大の経済的要因だったとして、消費者不満が体制転換に向かう大きな要因だったという見方を示している(久保庭ほか二〇二〇二〇七頁)。

本巻松井論文が検討する人権と民主主義を求めた異論派の役割、ソ連末期の改革(ペレストロイカ)、冷戦終結、資本主義・市場経済への転換を求める動き、豊かな消費生活への人々の期待などが、どのように組み合わさってソ連・社会主義圏の崩壊へと事態が展開したのかについては議論の尽きないところであり、本巻の各論文からも多様な示唆を得ることができる。ここでつけ加えたいのは、それら諸要素の絡みあいがソ連において強く認識されていたことである。台所論争から一〇年後、アンドレイ・サハロフ博士ら三名が共産党中央委員会に宛てた書簡(一九七〇年三月)からも、そのことが読み取れる。

最近の一〇年、わが国の経済には混乱と停滞の危険な兆候が現れるようになりました。[中略]第二次産業革命が始まり、七〇年代初めにわれわれは、アメリカに追いつかず、ますますアカから遅れを取っているのを見るのです。「略」民主化を行わない場合にわが国を待っているのは何でしょうか。第二次産業革命の資本主義諸国からの立ち遅れ、そして二流の地域国家への漸次的変化(歴史はその例を知っています)。経済苦境の増大。党=国家機関と知識人の関係の尖鋭化。左右決裂の危険。民族問題の尖鋭化。(歴史学研究会二〇一二三二〇一三二一頁)

この書簡はソ連人権運動史を代表する文章のひとつとして知られている。ここではあえて民主化に関する文章の前後を引用した。相手を意識して意図的に強調されたとしても、サハロフらが人権擁護と民主化が必要な根拠としてソ連の国力停滞・衰退への懸念を強調していたことは重要である。ここで書簡が「第二次産業革命」と呼んでいたのは、本巻「展望」が検討してきた一九世紀第4四半期に始まったそれではなく、「生産システムと文化総体の様相をラディカルに変えつつある最も重要な現象」としてのコンピューター化すなわちICT革命に他ならなかった。すでに米ソのコンピューター普及率には一〇〇対一の格差があり、ソフトウェアの格差は計測できないほど大きく、「私たちは別の時代に住んでいる」と、サハロフらは危機感を露わにしていた(Dallin&Lapidus1991:83)。

「現存した社会主義」を考究した塩川(一九九九)は、社会主義は「組織化による近代化」という趨勢を最も徹底して体現していたという意味で「二〇世紀」の最も極限的なモデルであったが、そのことが「社会主義の位置をある時期まで高いものにし、そして時代の反転とともに低下させた基底的な要因だったのではないか」と述べる(六二六頁)。「時代の反転」が指し示していた趨勢とは、資本主義体制に「第二次産業革命」すなわちICT革命をもたらした脱工業化・情報化・知識社会化であった。そして、コンピューター化による技術の高度化は、軍拡競争でアメリカと伍するためにも絶対に必要だった。もしそのためにも集権から分権へ、組織から個人へ、規律から自由への転回が、必ずしも目的としてなく手段としても必要だったとすれば、そしてが集権的な権威主義体制であるソ連には到底出来ない相談であったとすれば、冷戦・体制間競争の勝敗を分けたのは、やはり、アラモゴードではなく、アップルーを生み出すようなアメリカ資本主義体制の土壌とソ連におけるその不在―――だったことになる。

問題は、「第二次産業革命」を起こす要素の不だけではなかった。むしろ「組織化による近代化」そのものに「時代の反転」をもたらす要素が内在していた。近代化は、どこかで必ず共同性から「個人への転回」をもたらさざるを得ないからだ。フルシチョフの大号令で建設されていったアパートは、浴室・トイレに加えて、スターリン時代までの共同炊事場付きアパ―トには無かった個別専用台所をソ連のこうした集合住宅としては初めて備え、戸別にプライバシーが確保されたことが大きな意味をもった(鈴木二〇二二:三八三九頁)。社会主義の公共性が建前では強調されても、「共同フラット」を脱出して個別住宅で快適な私生活を送るために人々が長い待ち時間を耐えたのは「個人への転回」を意味していたし、住宅供給を喧伝した体制もその欲望に応えることの必要性を理解していたことになる。「時代の反転」は外から訪れただけでなく、ソ連・社会主義圏が自ら作り出したものでもあった。

そして、「組織化による近代化」からの反転という時代の趨勢が押し寄せたのは、何もソ連ばかりではなかった。資本主義体制においても、生産性が低迷する製造業や肥大化した官民の諸組織のリストラ、国家資本主義・修正資本主義の産物である国営企業・公社の民営化、社会保障制度の見直しなど、要するに一九七〇年代以降の新自由主義政策・思潮が生まれていく。本巻小沢論文が新自由主義の世界体制化を論じるなかで、ソ連・社会主義圏解体の基底にあるものを「内発的新自由主義」(一三二頁)と呼んでいることを踏まえると、ソ連・社会主義圏の崩壊は、このような時代の趨勢のなかで、「大加速」時代における複数の発展経路のひとつが淘汰されていく過程であり、また「大加速」心向けで世界が、そして人間の挙動が最適化されていく過程であったと解釈することも可能だろう。

ポーランド社会主義時代の人工都市ノヴァ・フータをめぐるツアーやベルリンのDDR博物館など、消費者不満の記憶は、二一世紀に入ると皮肉と懐古の入り交じったレトロ消費の対象ともなった。その一方、九九〇年代の深刻な体制移行不況を経て、旧ソ連・東欧諸国では、「古きよき社会主義」を懐かしむ視線が強まった(菅原二〇一八)。究代ドイツでは、ナチスだけでなく東ドイツの過去をどう扱うかが問題とされる(本巻星乃コラム)。こうして、淘汰された過去を生きた記憶と新自由主義の現在を生きる意識は、旧ソ連・東欧諸国の二一世紀におけるポピュリズム・を与えていくのである。ナショナリズムの台頭に複雑な影響を与えていくのである。

「大加速」時代の日本とアジア

台所論争をせず、真っ向からアメリカ的生活様式を否定したという意味では、第二次世界大戦における日本は「持たざる国」としての必要に迫られたからとは言え、物質主義と対決して欠乏に耐える精神主義を掲げた点でソ連よりもよほど両極端で二項対立的なイデオロギー闘争をアメリカに挑んだと言える。しかし、日本の精神主義は、たとえば東南アジア占領において被占領者の住民にはほとんど理解不能であったし、またアメリカの物量に圧倒された悲惨な敗戦という事実をもって完膚なきまでに否定された(中野二〇一二)。何よりも戦後日本人が、戦時の精神主義の愚かさと欺瞞を否定し、またあっさりと忘却して、戦後世界でアメリカナイゼーションの優等生となった。これも「大加速」に向けて世界が最適化されていく過程で起きた一大事件だったと言えるだろう。

第二次世界大戦後になると、政治的な出来事を中心に叙述する世界史では日本の影が一挙に薄くなる。高度経済成長期(一九五五―七三年)も、世界史とつながらない内向きの成功体験として語られがちである。しかし、地球から見れは、「大加速」グラフ群二四項目のほぼ全てにわたり、日本は大活躍する立派な主役のひとりであった。別府湾が人新世GSSPの有力候補のひとつになったことも、決して偶然ではない(日本経済新聞「地球史に人類の爪痕環境激変の新年代「人新世」検討」二〇二三年二月一九日朝刊)。同湾海底堆積物からはプルトニウム同位体のグローバル・フォールアウトが一九五三年から急増した明瞭な痕跡とともに―――マイクロプラスチック、PCB、重金属、富栄養化、低酸素化、窒素同位体など人新世を示すさまざまなシグナルが検出される。化石燃料燃焼によるフライアッシュの球状炭化粒子(SCP)もまたそのひとつで、一九六四年から値が急上昇したことが検出される(Kuwaeetal.2022:26)

 奥さんへの買い物依頼
食パン8枚   118
ビンチョウマグロ         255
家族の潤いアップル    88
冷凍肉まん   218
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生ハンバーグ 158
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『世界の歴史㉘』

2023年09月29日 | 4.歴史
209『世界の歴史㉘』

第二次世界大戦から米ソ対立へ

米ソ核戦争の脅威と雪どけの模索

朝鮮戦争と核軍拡競争の激化

ソ連の原爆保有と中国革命の衝撃

一九四九年秋には、合衆国にとって衝撃的な事件が立て続けに起こった。まず九月末にはソ連が公式に原爆の保有を認めた。また、十月一日には中華人民共和国の成立が宣言された。アチソン国務長官はすでに同年八月、中国革命の原因を、トルーマン政権の失政ではなく、蒋介石政権側の独裁的体質や腐敗に求める見解を「中国白書」として公表していた。しかし、合衆国国内では共和党を中心としてトルーマン政権の責任を追及する声が高まっていた。

それゆえ、トルーマン大統領は、翌五〇年一月末になり、水爆製造を命令するとともに、国務・国防両長官に対して合衆国の安全保障政策を全般的に見直すよう命令した。その結果、国家安全保障会議(NSC)文書六八号がまとめられたが、ここでは四、五年以内にソ連が合衆国に奇襲の核攻撃をできるようになると予想し、ソ連を圧倒できるだけの核攻撃力や民間防衛力を合衆国が装備するとともに、同盟国の軍備を強化する必要性が強調されていた。しかし、この文書を読んだトルーマンはその基調を承認したが、軍事費の倍増が必要になる点については議会の承認が難しいと判断して、決定を延期した。

また、中国革命後のアジア政策の見直しについては、四九年十二月末にNSC文書四八号としてまとめられ、アチソン国務長官がその骨子を翌年一月に首都ワシントンにあるナショナル・プレス・クラブの演説で公表した。そこでは、太平洋地域における合衆国の防衛ラインをアリューシャン列島から日本を経て、沖縄、フィリピンに至る線に求めた。このラインは米軍が実際に駐留している地点を結ぶものであったが、そこには韓国と台湾が除外されていたため、後に朝鮮戦争を誘発したと非難された。

しかし、アチソンの真意は、台湾への不介入を表明することによって、当時台湾の解放を狙っていた中国政府に歩み寄りをはかり、中ソの離間を狙ったものであった。韓国の場合は、北朝鮮からのソ連軍の撤退に対応して、米軍も四九年六月に撤退し、軍事顧問団だけを残していたが、五〇年一月末には米韓相互防衛援助協定が調印されていたので、有事の介入は予想されていた。ただし、トルーマン政権としては、武力による北進統一を主張していた李承晩政権への警戒から、重火器や戦闘機の供給は制限していた。

当時の韓国では悪性のインフレーションに悩まされていたうえ、五月末の選挙で李承晩派が大敗したため、政治的に不安定な情勢が生まれていた。他方、北朝鮮側は南北の分断が長期化する状況に危機感を抱き、六月初めに二度にわたり韓国に対して平和統一を提案したが、李承晩は拒否した。

朝鮮戦争の勃発

一九五〇年六月二十五日早朝、北緯三八度線の全域にわたって突然戦端が開かれた。緒戦は北朝鮮軍の優位のうちに推移し、二十八日には早くもソウルが陥落した。

この開戦の起源について、韓国や合衆国側は最初から北朝鮮による侵攻説を主張していたが、北朝鮮側は南の挑発説を主張し、長年対立してきた。しかし、一九七〇年に出版されたフルシチョフの回想録の中で、四九年末と五〇年三月に金日成がソ連を訪問し、スターリンから武力統一方針への支持を取り付けていた事実が暴露されてからは、北朝鮮による武力南進説が一般的となっている。ただし、その際、フルシチョフは、「真の共産主義者なら、金日成が李承晩やアメリカの反動的影響から南朝鮮を解放しようというやむにやまれぬいを思いとどまらせたりしなかった」と語っており、戦争が北朝鮮による武力統一をめざした「内戦」の性格をもっていたことが明らかになっている。しかし、スターリンは原爆の保有や中国革命の成功で自信を深め、北朝鮮に対する支援を決断したが、極力それを隠す努力をしていたことが、ソ連解体後に明らかになったスターリン文書でも示されている。他方、開戦の報に接したトル―マン大統領は、ミズーリ州の実家から急遽ワシントンに戻る機中で、三〇年代における枢軸諸国による満洲やエチオピア、オーストリア侵略を想起し、今度こそ侵略を許さぬ決意を固めた。つまり、トルーマンは、事態を朝鮮固有の民族問題とは見ず、国際共産主義運動をファシズムと同一視したうえで、その共産勢力が従来の政治宣伝を主とした「間接侵略」段階から武力を使った「直接侵略」段階に移行した事件と受けとめた。

その結果、トルーマンはただちに米海空軍を韓国に派遣しただけでなく、台湾に第七艦隊を派遣したり、フィリピンやベトナムへの軍事援助の強化を発表した。また、緊急に招集された国連安全保障理事会で、合衆国は北朝鮮の行為を「平和に対する侵犯」と見なし、三八度線以北への撤退を要求する決議案を提案した。一方ソ連は、中国革命後も台湾政府が安保理の常任理事国の議席を譲らない事態に抗議して、欠席を続けていたため、合衆国の提案には拒否権が発動されず、可決された。その折り、ユーゴスラヴィア代表は即時に停戦させたうえで、北朝鮮の代表を国連に招致し、弁明の機会を与えるように提案したが、否決された。

このような国連安保理の意思表示にもかかわらず、北朝鮮軍は進撃をやめなかったため、六月三十日、トルーマンは米地上軍の投入を決定した。さらに七月七日に国連は米軍を中心として国連軍を派遣することを決定、マッカーサーが最高司令官に任命され、韓国軍は国連軍の指揮下に編入された。それでも韓国側の劣勢は挽回されず、八月に入ると、国連軍は朝鮮半島の南端に位置する釜山近郊に追い込まれた。しかし、九月十五日、マッカーサーは兵站の伸びきった北朝鮮軍の中央部を直撃する仁川上陸作戦に成功すると、形勢は一挙に逆転し、十月七日には国連軍が三八度線を越えて北進した。その後、国連軍が中国国境にまで接近すると、中国が「抗美援朝(合衆国に抵抗し、朝鮮を支援すること)」を掲げて北朝鮮側に大量の義勇軍を密かに派遣したため、十一月末に国連軍は総崩れになった。

それは、合衆国が初めて体験した中国革命軍の威力であったが、態勢建て直しのため、トルーマンは原爆の使用を示唆した。しかし、この示唆は世界中に衝撃を与えた。とくに西欧諸国は、朝鮮戦争が米中戦争に拡大し、さらにはソ連が参戦して第三次世界大戦に飛躍すれば、西欧自体もソ連の攻撃目標となると恐れた。イギリスのアトリー首相が急遽ワシントンを訪問し、原爆を使用しないで戦争目的を限定するように説得したのはそのような国際世論を背景にしていた。

結局、トルーマンも戦争目的を三八線の回復に置き直したが、同時に、十二月十六日には国家非常事態を宣言して、兵力を開戦時の一五〇万から三五〇万へと二倍以上に増加させた。また、連邦予算における軍事費も、四〇年代後半の四五・五パーセントから五〇年代前半には六二・二パーセント水準へとはねあがった。それは、まさにNSC文書六八号が提案していたもので、合衆国は朝鮮戦争を契機に軍事力の飛躍的な強化を実現した形となった。

その後、朝鮮戦争は、翌五一年三月ごろから三八度線を境として膠着状態に入ったが、マッカーサーは中国本土への爆撃や台湾の国府軍による大陸侵攻を主張してトルーマンと対立した結果、四月十一日には国連最高司令官を解任された。また、アジアや英連邦諸国を中心に休戦を求める国際世論が高まるなかで、六月二十三日、ソ連のマリク国連代表が停戦を提案、国連軍側もこれを受け入れたが、実際の停戦交渉は休戦ラインや捕虜交換の問題などで難航し、休戦協定は五三年七月にようやく締結された。結局、朝鮮戦争は、国連軍側が九三万、北朝鮮側が中国義勇軍も含めて一〇〇万の兵力を投入して、三八度線をはさんで一進一退を繰り返した末、両軍合わせて一四六万人もの死傷者を出しながら、最終的には戦前状態に復帰しただけに終わった。そのうえ、南北朝鮮の双方に深い不信感を残し、分断のいっそうの固定化を招いた。合衆国の側では大規模な軍備を恒常的に維持することを当然視する風潮を生んだだけでなく、中国を敵視する外交姿勢を固定化させるとともに、議会や世論のレベルでは「赤狩り」の異常なムードを激化させる効果を生んだ。

マッカーシー旋風

五〇年二月九日、全国的にはまったく無名であったウィスコンシン州選出の上院議員ジョセフ・マッカーシーが、ある地方都市の共和党婦人クラブの演説で、世界的に共産陣営の進出を許しているのは、国務省にいる「銀の匙をくわえて生まれてきた賢い若者たち」の裏切りによるもので、自分は国務省内の「二〇五人の共産主義者のリスト」をもっている、という爆弾演説を行った。当初は、共和党議員の中でも同調するものは少なかったが、トルーマン政権の中国政策に不満をもつ、親蒋介石派の「チャイナ・ロビー」のグループがマッカーシーに情報提供を始めた。

標的とされたのは、ジョン・ヴィンセントやジョン・サーヴィスなどの国務省の中国政策担当者と、ジョンズ・ホプキンス大学教授で中国専門家のオーウェン・ラティモアであった。彼らは蒋介石政権の腐敗体質に批判的で、中国共産党をソ連の分派としてよりも、「農本主義的ラディカル」と評価して、国共合作を推進した人びとであったが、マッカーシーによると、「共産主義者」と決めつけられてしまった。民主党側は、上院の外交委員会のもとにタイディングス議員を委員長とする小委員会を設置して真相の解明に乗り出し、七月二十日に提出された報告書の多数意見ではマッカーシーの告発は「虚偽」であると判定した。

しかし、秋の中間選挙を前にして党派対立が激化していたうえに、六月に朝鮮戦争が勃発したため、マッカーシーの煽動にマスコミが注目し始め、多くの共和党議員が「政府内共産主義者」問題を中間選挙の争点に選んでいった。そして、実際に十一月の中間選挙では共和党が議席を伸ばしていった。これ以降、合衆国の国内政治では「マッカ―シー旋風」と呼ばれた「赤狩り」の嵐が吹き荒れてゆくことになった。それは、戦後の合衆国が圧倒的な経済的優位を背景として、「反共十字軍」的な使命感に駆られて、世界中の紛争に関与するようになりながら、四九年秋いらいソ連の原爆保有や中国革命などむしろ東側の優勢を見せつけられてきたことによるフラストレ―ションの産物であった。自らを「全能」と教え込まれてきた国民にとって、東側の勝因は合衆国内の「共産主義者」による「利敵行為」以外に考えられない、とする政治心理が形成されていった。

この反共ムードの高まりは、五二年の大統領選挙においては当然民主党政権側に不利に働き、選挙では共和党のアイゼンハワーが当選した(在任一九五三〜六一年)。しかし皮肉なことに、マッカーシーは共和党政権が成立しても「赤狩り」を止めず、五四年四月からはこともあろうにアイゼンハワーのおひざもとの陸軍を攻撃し始めた。ところが、この陸軍公聴会の場合には、マッカーシーはFBIから極秘で手に入れた資料の入手経路を逆に陸軍側の弁護士に追及され、証言拒否を行ったため、共和党の中でマッカーシーが孤立する状況が生まれていった。その結果、七月末には共和党の同僚議員から弾劾決議が上程さ失脚することになった。これ以降、彼の政治生命は絶たれ、失意のどん底の生活を送五七年五月に過度の飲酒が原因で死亡した。

しかし、マッカーシーの没落後も、下院の非米活動委員会や上院の国内治安委員会を中心に「赤狩り」は五〇年代いっぱい続いたため、合衆国国内では左翼運動が逼塞し、政府に批判的な意見は述べにくい雰囲気が生まれていった。とくにアジア担当の外交官に与えた影響は深刻で、激動するアジア情勢をリアルに把握できる人物は放逐されるか、沈黙を余儀なくされた結果、合衆国のアジア政策はきわめて硬直したものになった。それが後に合衆国がベトナム戦争に泥沼的な介入をする遠因となった。

西側諸国の軍備拡張と経済復興

朝鮮戦争が勃発し、ソ連参戦の懸念が高まるにつれて、西欧においてもソ連に対抗する軍備強化の議論が高まり、とくに西ドイツの再軍備が中心的な争点となった。西ドイツ内部ではキリスト教民主同盟の党首アデナウアー首相在任一九四九〜六三年)が再軍備に応じて「西側」の一員としての立場を鮮明にし、それによって占領を早期に終結させ、主権の回復を図ろうと考えた。それに対して社会民主党は、従来からの反軍国主義の立場に加えて、再軍備による「西側」傾斜がドイツの再統一をいっそう困難にすると考え、再軍備に反対した。しかし、ドイツ内部では、結局、アデナウアーの路線が多数を占めたものの、ドイツの再軍備に対しては近隣諸国、とくにフランスが強い難色を示し、合衆国の西独再軍備論と対立することになった。

その結果、フランス政府は五〇年十月になって、妥協案として西ドイツ軍を西欧統合軍の一部とする案を提案した。この案は、当時のフランス首相の名をとって「プレヴァン・プラン」と呼ばれ、翌五一年七月には「ヨーロッパ防衛共同体(EDC)」構想に結実していった。他方、西ドイツの西側への軍事統合の検討が進むのと並行して、西ドイツ政府は占領の早期終結を強く要求した。その結果、五二年五月末に、占領の終結を規定した一般条約が、EDC条約とともに調印された。

このような西ドイツの西側傾斜に対して危機感を募らせたスターリンは、五二年三月に、西ドイツ側の主張にかなり歩み寄った形でドイツ再統一のための交渉を提案したが、アデナウアーはあくまで西側の一員としての西ドイツ復興の路線に固執して、スターリン提案を拒否した。そのため、以後、ソ連側はドイツの分断を前提としたドイツ政策を推進するようになった。

つまり、アデナウアーとしては、当面、ドイツの再統一よりも西側との同盟を優先させたのであったが、フランスの側ではドイツへの懸念が晴れず、EDC条約は肝心のフランス議会において五四年八月に批准が拒否されてしまった。経済統合は「石炭鉄鋼共同体」として進展していたものの、軍事力の統合にはなお抵抗感が強かったのであった。そのため、次善の策として、ブリュッセル条約を改正し、西欧同盟を結成して西ドイツを加盟させるとともに、NATOにも西ドイツを加入させることが決定された。五五年五月に発効したパリ条約にその旨規定され、この条約によって西ドイツは長年の占領状態に終止符を打つことができた。

朝鮮戦争と対日講和

日本に対しても朝鮮戦争は大きな衝撃を与えた。まず、マッカーサーは、五〇年七月初め、在日米軍四個師団を南朝鮮に派遣する穴埋めとして、七万五〇〇〇人規模の警察予備隊を創設することを日本政府に命令した。吉田首相(第一次在任一九四六〜四七年、第二~五次在任四八~五四年)は、憲法九条との関連が国会で問題となるのを避けるため、八月十日にポツダム政令の形で警察予備隊の設置を決定し、ここに日本の再軍備が始まった。

また、マッカーサー司令部は朝鮮戦争の勃発を機に、共産党への規制を強め、機関紙の停止や政府・民間企業での「レッド・パージ」を強行し、十一月末までに約一万二〇〇〇人が解雇された。

さらに、合衆国政府の内部では、日本を西側陣営に確保するため、対日講和を急ぐ意見が強まった。しかし、逆に軍部の側では、朝鮮戦争の勃発でむしろ在日米軍基地の重要性が高まったため、講和延期論も強く、妥協の結果、五〇年九月、トルーマンは沖縄を本土から分離し、本土の米軍基地を確保できる形での対日講和条約の締結を提唱した。この方針に基づいて対日講和条約は、翌五一年九月にサンフランシスコで招集された講和会議で調印されたが、在日米軍基地を確保するための日米安全保障条約とセットになって調印されたため、ソ連や東欧諸国は調印を拒否した。また、中国代表権問題で米英が対立したことから、日本による戦争被害をもっとも多く受けた中国は招請されなかったし、賠償放棄を打ち出した合衆国側の方針に東南アジア諸国は強い不満を表明したため、対日講和は「片面講和」と呼ばれるように、米ソ冷戦の影響を色濃く受けるものとなった。

同時に、朝鮮戦争は日本経済の復興にも大きな影響を与えた。それは、トルーマン政権が日本経済の安定化のために特命公使として派遣した、当時デトロイト銀行頭取であったドッジの指導により四九年四月いらい導入された超緊縮予算のために、不況に喘いでいた日本経済に復興への手がかりを与えたからであった。つまり、「朝鮮特需」と呼ばれた米軍の軍需が繊維、自動車、石炭などの部門を中心として急増したためであり、吉田政権や財界の首脳は朝鮮戦争を「天佑」と歓迎したといわれる。以後、日本では経済復興が軌道に乗っていくが、内需の拡大だけでは限界があり、輸出市場を確保することが持続的な経済成長を実現するうえで重要な条件となっていた。しかし、戦前期には中心的な比重を占めていた対中国貿易については、合衆国の中国敵視政策に規制されて大きな伸びは期待できなかった。むしろ合衆国は対外援助をテコとして日本と東南アジアの経済的結合を推進しようとしたが、当時の東南アジアではまだイギリスの影響が強かったため、合衆国としては「日米経済協力」の名の下に自国市場に多くの日本製品を輸入する構造を許容していった。これが後に「日米経済摩擦」の原因となってゆく。

 イスラムの女性 家族に縛られている存在 戦場に行く男中心の社会 から生まれたアイディア 火星から離脱することで生まれる エネルギー
 バス停で思うこと 豊田市に向かう車が山ほどいるにもかからずバスという媒体をまず 共有すればいい
 政党は保守とか革新とかではない 国民に対する態度でサービスするか支配するか 個の有限にサービスする組織
 サービスストア 共有する仕組みを作り出すこと 移動を欲する人には全ての手段を用いる
 やっと席が空いた
 とりあえず『世界の歴史』 8巻 を追加


 豊田市図書館の11冊
209.74『第二次世界大戦1』湧き起こる戦雲
209ア『岩波講座 世界歴史11』構造化される世界 一四~一九世紀
134.9『マルクス・ガブリエルの哲学』ポスト現代思想の射程
209 『世界の歴史①』人類の起原と古代オリエント
209『世界の歴史④』オリエント世界の発展
209『世界の歴史⑩』西ヨーロッパ世界の形成
209『世界の歴史㉔』アフリカの民族と社会
209『世界の歴史㉕』アジアと欧米社会
209『世界の歴史㉖』世界大戦と現代文化の開幕
209『世界の歴史㉘』第二次世界大戦から米ソ対立へ
209『世界の歴史③』古代インドの文明と社会

『世界の歴史㉖』

2023年09月28日 | 4.歴史
 209『世界の歴史㉖』

世界大戦と現代文化の開幕

ナチ党の台頭

二三年のヒトラー一揆で嘲笑まじりの注目を一時的に集めたものの、その後は騒々しい泡沫政党にすぎなかったナチ党が、三〇年九月選挙以来わずか三年で政治的選択肢の一つにのし上がったのはなぜだろう。近年の研究成果をまとめて、ナチ党の展開を見てみよう。

これまでナチ党、ナチスと書いてきたが、実はこの言い方はナチ党の政敵、社会主義者がナチ党を侮蔑的によんだ言葉に由来し、ナチス自身はけっして使わない呼称であった。かれらは国民社会主義ドイツ労働者党と長い党名をそのまま使うか、略称のNSDAPを使った。本書ではすでに定着しているナチ党、ナチスで統一する。

成立から権力獲得までのナチ党の展開は、共和国と同じく、三期に分けられる。というより、三つのナチ党があったといったほうがよいかもしれない。

軍事組織から政党へ

一九一九年、ミュンヘンで創設されたドイツ労働者党を前身として、二〇年にナチ党が成立した。このころのナチ党は当時数多くあった右翼組織、反ユダヤ主義団体の一つにすぎず、党といっても選挙に出るわけでもなく、地方宣伝団体の域を出なかった。しかし、他の右翼組織は指導者間の対立で離合集散がはげしく、また右翼団体同士の連合をめざしたのに対し、ナチ党の場合、二一年に党の全権をにぎったヒトラーのもとにまとまり、大衆への直接的働きかけを重視したことに特色があった。ヒトラーの弁舌の才はこの大衆への影響という点で不可欠であり、定職もなく家族もいないという孤独な境遇が、かえって党活動に専念できる長所になり、かれを指導者に押し上げたのである。

このころの右翼運動と同じく、ナチ党も軍や保守派政治家の指導のもとに、クーデタによる共和国打倒をめざしていたから、この段階では疑似軍事団体という性格が強かった。二三年秋、保守派の独裁計画が進まないのをみて、ヒトラーはそれを先導しようとして、十一月ミュンヘンで武装蜂起を企てて失敗した。ヒトラーは逮捕されて裁判にかけられたが、寛大な判決を受けた。ヒトラーが『我が闘争』を口述筆記させたのが獄中であったとは、かれが特別扱いされたことをよく物語っている。これが第一期ナチ党の終焉であった。

二五年のナチ党再建から第二期が始まる。ヒトラーは保守派に頼ることをやめ、武装蜂起ではなく、選挙による合法的権力奪取に方針を変えた。ナチ党ははじめて政党らしくり、突撃隊も政治宣伝・選挙活動組織に変わった。右翼団体、疑似軍事組織の多くは、安定期でのこの転換に失敗して消滅し、ナチ党はそのメンバーの多くを吸収することができた。

ナチ党は地方政党を脱して全国に組織を広げ、大衆宣伝方法に習熟し、二八年には党員は一〇万を超え、中堅活動家層の育成に成功した。この段階のナチ党は党員の自発的活動に支えられ、経済界の資金援助は問題になる規模ではなかった。保守的経営者には、「社会主義」「労働者」を掲げる党名や大衆志向が胡散臭く思われていた。

ナチ党が小勢力ながら持続できた背景には、この間の市民層の政治文化の変容があった。

「社会主義」のインフレ

大戦後、左翼陣営では、社会主義理念のインパクトが共産主義という新理念の出現で薄れたが、逆に右翼勢力の一部に「社会主義」がはやるようになった。あのシュペングラーも一九一九年に『プロイセン主義と社会主義』を出版した。シュペングラーはもちろん、マルクス主義的社会主義を考えていたのではない。かれの説ではマルクス主義は誤りで、ドイツ社会主義の真髄はプロイセンにあり、その創始者はなんとフリードリヒ大王なのである。かれの「社会主義」は、家柄・身分ではなく、能力・業績で選抜される指導者のもとに国民が結束し、経済が政治に従属する一種の兵営国家のことであった。

興味深いのは、かれの「社会主義」の内容より、現状を否定する新しい未来像を、社会主義という言葉で表現したことである。こうした「社会主義」者はシュペングラーだけではなかった。共和国・マルクス主義・帝制に反対する市民層出身の若い保守思想家に、「社会主義」はお気に入りのスローガンになり、かれらの論文や著作で「社会主義」はインフレ気味に多用された。こうした思想は、「保守革命論」とか「革命的保守主義」とかよばれている。あるべきドイツをめざすには、現状の革命的転換が必要で、そのためには労働者の統合が不可欠である、という認識が、「社会主義」をキーワードにさせたのである。右翼運動や市民層には、用語としての「社会主義」へのアレルギーが少なくなった。

政治文化としてのテロ

西欧諸国をのぞいて、ドイツ、イタリア、東欧諸国などでは、左翼の革命運動に対抗し、それ。出するために、市民層は旧軍人などを集めて反革命武装組織をつくった。ドイツでは、革命のなかで設置された義勇軍や自警団がそれにあたる。政府や軍はヴェルサイユ条約による軍備制限で正規軍が一〇万に限定されたため、いざというときの予備軍として、義勇軍解散後も民間の疑似軍事組織を容認した。

軍事組織やかれらがおこなうテロ行為が市民社会のなかにもちこまれた。ローザ・ルクセンブルクの虐殺から、エルツベルガー、ラーテナウの暗殺、右翼団体内の「裏切り者」の処刑(中世の秘密裁判にちなんでフェーメ殺人とよばれた)、ヒトラー一揆まで、テロは続いた。これを批判する人びとも少なくなかったが、訴追された犯人の多くは市民層出身の裁判官の寛大な判決を受けるか、当局の黙認のもとに逃亡した。これは左翼の蜂起やデモへのきびしい判決ときわだった対照をなしていた。

二四年から、個人テロは少なくなったが、政治行動のなかで疑似軍事組織が演じる役割はかえって増大した。統一的制服、独特のシンボル、軍事的規律で政敵を威圧する疑似軍事的政治団体の行進は、ワイマール・ドイツの日常の光景になった。政敵へのテロの黙認から政治行動の軍事化は、ワイマールの政治文化の暗い構成部分になっていたのである。

大衆政党への上昇

ナチ党は、この間党名通り都市を中心に労働者を獲得する戦術をとった。それが成功しなかったことは二八年選挙での後退が示した。ところが、二九年末のプロイセン州の統一地方選挙では、ナチスがあまり力を入れていなかった農業不況に苦しむ農村部、たとえば北部のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン地方で思いがけない高い支持があり、全体として得票率は二八年選挙の二・五倍になった。

目を引くのはオスナブリュック市議会選挙の例である。ここでは、ある地方週刊紙編集者が仲間五人と語らって選挙綱領もなしに新党を結成して出馬したところ、七人分の当選票が集まり、一挙に第三党になった。既成政党や既成政治家への失望がいかに市民層のあいだに広がっていたか、それでも人びとはなお政治に救済を求め、新しい政党、強力な指導者に期待したかがここからうかがえる。ナチ党はこれを機に地方都市や農民への宣伝を強めた。

ナチ党は反ヤング案闘争で既成の保守党派からパートナーとして認められて知名度を上げ、バーデンやチューリンゲンの州選挙でもかなりの票を集めた。チューリンゲン州では初のナチ閣僚が出た。三〇年九月の国会選挙では、政府の事前予測でもナチ党は前回の一二議席から四〇議席程度は取るだろうと見ていた。ところが、実際は九倍増の一〇七議席であり、ヒトラー自身も驚いたといわれる。ナチスの宣伝活動がすぐれていたことはたしかだが、現状不満票が向こうから押しかけてきたという面も無視できない。ここからナチ党の第三期が始まる。

ナチスの支持者

ところで、ナチスの支持者はどんな人びとだったのだろう。時期によってもちがうが、一般党員と投票者に焦点を当ててみよう。これまでは中小自営業者や商店員、中下級事務系職員・公務員・農民などの中間層がナチス最近の新しい研究はの基盤といわれてきた。これを否定はしていないが、いくつかの点で修正している。

一般党員については、中間層出身者が国民に占める比率をはるかに上回ることは確かめられているが、労働者も三分の一以上を占め、しかも非熟練労働者や失業者ではなく、熟練・専門労働者が多い。

社会的上層出身者も案外多く、これは教養市民層に属する学生のナチ支持者が多かったことからきている。大学はナチスがもっとも早く制覇した領域であったからである。

投票者についても、それまで棄権していた者、また、あらたに選挙権を得た者からの支持投票がかなりあり、中間層の支持も大きいが、これまでの推測以上に国民各層から広く票を集めていた。地域的には、プロテスタント系の農村部・地方中小都市で大量票を得た。新規投票者は青年にほかならないから、「青年の反乱」と「地方の逆襲」がナチ党に有利に働いたといえる。得票では国民政党的性格をもつとはいえ、ナチ党を国民政党とはいえない。ナチ投票者は流動的で、ナチ党は投票者を党につなぎ止め、統合できなかったのである。

このことは突撃隊の動向からも確かめられる。突撃隊では「半年も隊員を続ければ、もうベテランになった」ほど出入りがはげしかった。突撃隊員は圧倒的に青年が主体で、失業者の比率が非常に高かった。したがって、突撃隊員はナチ党員になる時間も金もない者も多く(党員は別に党費を支払わなければならない)、党員が一人もいない突撃隊支部もあったという。興味深いのは、「失業労働者は共産党からナチ党に移動することが多かった」、つまり「両極端は相通ず」といわれたことがまちがいであったことである。最近の詳細な選挙分析研究は、失業労働者の共産党支持はかなり安定していて、ナチ党への移動は非常に少ないことを明らかにした。またナチスは、組織労働者層やカトリック地域には、最後までくいこめなかった。

ナチ党支持の理由

人びとのナチ党支持の理由を知るのは、支持者の分析よりむずかしい。政治的失望と経済的絶望による終末ムードの広がりと未知数の政党としてのナチ党が、消極的ではあれ一つの理由であったことはたしかであろう。同時代人の記録からは、ナチ党の宣伝活動の活発さが強い印象を与えたことがわかる。既成政党が選挙期間中にせいぜい一、二回集会を開く程度の村や町でも、ナチ党の宣伝隊列は何度も訪れたし、青年が多かったことも運動の若々しさを感じさせた。恐慌下で生活はすさび、三二年には家を失った放浪者が四〇万人と推定されるなかで、突撃隊の暴力も熱意のあらわれとみなされた。

ナチ党のイデオロギーは、ラディカルな現状否定、すべての職業が救済される民族共同体建設という目標以外は、スローガンの羅列で内容がほとんどなかったから、それが大きなインパクトを与えたとは考えにくい。支持基盤の不安定性も、間接的にそれを裏づけている。突撃隊でも、失業者はイデオロギーに惹かれたというより、日常生活では得られない仲間や交流の場、あるいは行動の機会を求めて参加した者が少なくなかった。後に悲惨な結果をもたらした反ユダヤ主義も党の中核メンバーには重要であったが、選挙戦ではあまり強調されず、支持の大きな理由でもなかった。

ヒトラー個人の影響も判定しにくい問題である。ヒトラーは、二〇年代後半、ドイツ最大のプロイセン州などで野外演説を禁止され、解禁後もヒトラー演説会の聴衆はナチ党員が主であった。ヒトラーの存在は党員の結束には大きな意味があったが、普通の選挙民が直接かれを見聞する機会は多くなく、かれのラジオ演説も一九三三三年までは一度もなかった。その意味でかれの個人的「魅力」や演説能力も、選挙でのナチ党拡大の要因としては重視できない。ただ、他の政党では党指導者個人を前面に立てる選挙活動をあまりやらなかったが、ナチ党はヒトラーの党、ヒトラーの運動であることを強調したから、それが強力な政治指導者を願望する選挙民にアピールしたことは考えられる。

大統領内閣の行き詰まり

バーペンは、ブリューニングがテロ続発に耐えかねて出した突撃隊禁止令を解除し、チスの暗黙の了解をとりつけ、社会政策費の削減、社会民主党の最後の拠点プロイセン州政府の罷免など、ワイマール体制の主柱を次々と打ち壊した。七月末の選挙では、ナチ党は予想通り第一党になり、反共和国勢力は過半数を超えたが、政府を支持する党派は国会の五パーセントもなかった。

パーペン、大統領ともヒトラーを首相にする気はなく、一方、ヒトラーは首相職を要求して譲らなかったから、ナチ党は政府との対決路線に戻った。パーペンは開会したばかりの国会をすぐに解散するという暴挙に出て、三二年は全ドイツで選挙づけの年になった。選挙の結果は、政府に何の展望ももたらさなかったが、ナチ党ははじめて二〇〇万票を失って後退した。すでにそれ以前から、ナチ党内部でヒトラーの「すべてか無か」の方針には危惧感が生まれていた。選挙後のナチ党内部文書も、支持基盤の流動性を指摘し、政権

に参加して積極的な成果を示さなければ、また二〇年代の中核党員だけの運動に逆戻りする、と警告した。

一方、パーペンには、もはや軍を頼りにした大統領独裁の道しか残されていなかった。軍の黒幕で国防相のシュライヒャーが協力を拒否すると、大統領もお気に入りのパーペンを辞任させるしかなく、ついに黒幕がみずから表舞台に出てきた。シュライヒャー新首相は、ナチ党内の動揺を見越してナチ党議員団長シュトラッサーを抱きこみ、社会民主党系の労働組合も引きいれて、大衆的軍事独裁路線を構想した。シュトラッサーは乗り気だったが、ヒトラーは頑として譲らず、シュトラッサーは全役職を辞任して去った。この事件で、ナチ党はやはりヒトラーの党であることが証明された。こうなっては、シュライヒャーもなすすべがなかった。

パーペンはこの間シュライヒャーに一泡吹かせる機会をうかがい、ヒトラーとひそかに接触し、ヒトラー政権に逡巡する大統領の説得に成功した。一九三三年一月末、大統領内閣路線が破綻し、国会の出番がきたとき、第一党として待機していたのはナチ党であった。保守派の陰謀は皮肉にも国会への復帰をもたらしたが、それは議会主義そのものの終焉となったのである。

一国社会主義路線の確立

スターリンとトロツキー

ソ連邦結成直前の二二年十二月、レーニンは病をおして口述筆記させた「大会への手紙」のなかで、ロシア共産党の分裂を招きかねない危険な要素として、スターリンとトロツキーとの対立をあげている。スターリンはこの年の四月に党の書記長に就任しており、党のすべてのポストを掌握できる書記長の地位を利用して党組織に影響力を拡大し、多大な権力を振るうようになっていた。理論的には、社会主義は一国でも建設可能だとする一国社会主義論を唱えるスターリン、ブハーリンと、世界革命論を唱えるトロツキー、ジノヴィエフを対立軸として、ロシア共産党内の主導権争いが展開された。

二二年末、スターリンは同じく、党の最高の政策決定機関である政治局員のジノヴィエフ、カーメネフと「トロイカ(三頭立ての馬車)」体制を組み、党員のあいだに強い影響力を保持していたトロツキーに対抗した。「トロイカ」は二三年四月に開催された第十二回党大会を乗り切ったが、この年の夏には、トロツキーが指摘した「鋏状価格差」(工業製品が高く、農産物が安くなること)が拡大し、経済恐慌が生じた。農業生産の回復が早かったことに加え、政府の穀物買い上げ価格が低かったのに対して、工業の復興は遅れ、流通のマージンが高かったため、工業製品価格が上昇したのである。

工業製品の売れ行きが落ち、労働者への賃金支払いは滞りがちになった。労働者は不満を募らせたが、労働組合はこうした不満を等閑視しつづけた。党指導部に対する党員の不満も強まった。政治局内で孤立していたトロツキーはこうした不満を背景として、党の経済政策や党内行政を批判し、党内民主主義を求めた。しかし、トロツキーの要求は党の秩序を破壊する行為として、二四年一月の党協議会で否決された。

レーニンの死後に開かれたこの党協議会では、トロツキーの批判をかわす目的も含め、従来の厳格な入党資格をゆるめ、二二年の時点で六五万人しかいなかった党員を拡大する方針が決められた。この結果、現場の労働者が数多く入党することになり、大衆政党への転換がなされた。

しかし、農村社会の組織化はほとんどできていなかった。二四年十月の党中央委員会総会で、農村ソヴィエトへのてこ入れが提起された。当時、人口の八〇パーセント、一億二〇◯◯万人が農村社会に住んでいたが、二二年の調査では、党員数はそのうちのわずか〇一三パーセントにすぎなかった。しかも、党員の大部分は村の教師や医者、農業技術者、農村ソヴィエトの役人であった。農民はソヴィエトに統合されることなく、相変わらず伝統的なミール共同体を基盤として生活を送っていたのである。

スターリンの台頭

党員が拡大し、スターリンは新党員に影響力を強める一方で、反トロツキー・キャンペ―ンが続けられた。二四年十月、トロツキーは論文集『十月の教訓』を出版し、このなかでジノヴィエフやカーメネフが十月革命の直前に武装蜂起に反対したことを暴露した。これに反発したジノヴィエフはトロツキー攻撃の先頭に立ち、トロツキーを政治局から追放することを要求した。二五年一月、トロツキーは政治局員にはとどまったが、軍事人民委員を辞任せざるをえなかった。トロツキーの政治的影響力は大幅に減少した。

反トロツキー・キャンペーンの嵐がおさまると、今度は、二五年五月にスターリンがはじめて公言した一国社会主義論の是非をめぐって、理論家として知られるブハーリンの支持を受けたスターリンと、一国社会主義は不可能だとするレニングラード・ソヴィエト議長のジノヴィエフ、カーメネフらとの対立が表面化した。この対立は、一国社会主義論がはじめて明確化された二五年十二月の第十四回党大会から二七年十二月の第十五回党大会まで継続した。

結局、二七年十一月に、トロツキーとジノヴィエフは党を除名され、翌月の党大会で論争に決着がつけられた。党大会の時点で、党員数は一二四万人であり、二二年とくらべると二倍に増えていた。にもかかわらず、この大会に出席した約一七〇〇人の代表者のうち、反対派は一人もいなくなってしまう。スターリンによれば、このように「一枚岩」となった党が、プロレタリア独裁を実現する。党の指令は絶対であり、労働組合や協同組合などの大衆組織によって伝達され、実行されることになる。農村社会をのぞき、上意下達の一党国家体制がほぼ完成されたのである。

ソ連とヨーロッパ諸国

内戦が終息し、新経済政策が導入された二一年は、ソ連の対外関係にとっても重要な年であった。ソヴィエト政権は荒廃した経済の再建のために、対外関係の改善を求めていた。ヨーロッパ諸国のなかでは、イギリスがロシアをできるだけ早く資本主義経済圏に引き入れ、戦後の経済復興をはかろうとしていた。両者の利害関係が一致して、正式の国家承認はともなわなかったものの、二一年三月に英ソ通商協定が結ばれた。これに対して、アメリカやフランスはソ連政府に革命前の債務の支払いなどを要求して、通商関係を開こうとしなかった。

二二年四月から五月にかけて、戦後復興の経済問題を協議するために、アメリカは出席しなかったが、「ロシア連邦共和国」と敗戦国ドイツを含めたヨーロッパ諸国の国際会議がイタリアのジェノヴァで開催された。この会議に出席していたヨーロッパ諸国の代表は、ボリシェヴィキ政権の代表がどのような服装で会議に出席するか興味津々であった。レーニンの代理で代表団を率いたチェチェーリンは、シルクハットに白手袋といった伝統的な外交官の服装であらわれたので、参加者一同胸をなで下ろした。

会議では、ボリシェヴィキ政権に対するフランスの強硬な姿勢が目立ち、交渉は実りなく終わった。しかし、チェチェーリンは会議期間中に、同じく賠償問題で苦しんでいたドイツ代表とジェノヴァ近郊の保養地ラパロでひそかに会談し、相互に賠償を放棄する内容のラパロ条約を締結して外交関係を開き、世界を驚かせた。もっとも、両国は一九年からすでに軍事協力の交渉を始めており、秘密の軍事協力関係はヒトラーが政権についた三三年まで継続した。ヴェルサイユ条約によって再軍備を禁止されていたドイツは、ロシアで新兵器の開発や生産を進めようとした。一方、ロシアはドイツから軍事技術を学び、軍需産業の建設を援助してもらおうとしたのである。

奥さんへの買い物依頼
卵パック       148
お茶 138
ベーコンブロック         298
豚肉ロース   348
きゅうり        58
ブルガリアヨーグルト   148
カップヌードルカレー    148
すし 499

『世界の歴史㉔』

2023年09月27日 | 4.歴史
 209『世界の歴史㉔』

アフリカの民族と社会

人類の誕生と〝砂漠化”

大地溝帯の形成――繰り返される地殻変動

アフリカ大陸には、三六億年間にもわたる歴史が秘められている、という。地質学者は、アフリカ大陸を踏査することによって、地球の長い歴史を解読しようとしている。アフリカ大陸としての大地の歴史は、一般に約三~一億年前(古生代後期から中生代半ば)に、巨大大陸として南半球に存在したゴンドワナ大陸にはじまる、とされている。

その後、じつに長い歴史過程で数々の地殻変動が繰り返され、しだいに現在私たちがみるようなアフリカ大陸が形成されていく。そのひとつのピークが四〇〇〇万年前に形成されはじめた紅海地溝帯である。それより南に位置するケニアのグレゴリー地溝帯地域では大地溝帯の形成はかなり遅れ、中新世前期・中期(二三〇〇万~一四〇〇万年前)になってトゥルカナ沈降溝が形成され、玄武岩の流出がはじまった。この地域では、活発な火山活動が繰り返されながらも、東アフリカでは中新世(二三三〇万~五二〇万年前)から第四紀(一六四万年前以降)にかけて、火山活動の中心地は西から東に移っていった。一方アフリカ北東部では、鮮新世(五二〇~一六四万年前)になってから現在のように紅海がアデン湾を経て、インド洋につながった。

このように、東アフリカ大地溝帯は、フリカ大陸とアラビア半島とを引き裂く運動によって形成されたものと解釈されている。四〇〇〇万年前にはじまった活動はいまなお続き、活発な火山活動がおこっている。

二足歩行のサル

こうしたアフリカ地溝帯の、とりわけ東部地溝帯を中心とする地殻変動が繰り返されるなかで、人類は誕生し、進化してきたのである。最近のDNA研究によって、現生類人猿とヒトの比較がすすみ、ヒトとチンパンジーが分岐したのは、四〇〇〜六〇〇万年前と推定されるようになった。それを跡づけるように、一九九二年T・ホワイト、諏訪元、B・アスフォオらの主宰する調査隊によって、四四〇万年前の猿人がエティオピア北東部のアラミス遺跡で発見された。一九九五年になって同調査隊のホワイトは、一九九四年その新発見のヒト科の一種として公表したアウストラロピテクス・ラミダスの化石を、アルディピテクス・ラミダスと改名した。その理由として、その猿人は二足歩行であるが、初期人類というよりチンパンジーに似ている歯の化石を追加発見したためである。アルディピテクスというのは、「地上のサル」という意味である。

同じ時期に、ケニア国立博物館のミーブ・リーキーらのグループは、二足歩行であるがやはり類人猿に似た歯をもつアウストラロピテクス・アナメンシスと名づけた新種の化石の公表をした。アナメンシスやラミダスが、ともに四〇〇万年以上も前に東アフリカの森や林にすんでいたことはたいへん重要である。

家族の原型をもつ猿人

東アフリカの地溝帯を中心として、多くの化石が発見されているアウストラロピテクスは、サバンナに適応していった二足歩行の猿人として位置づけられ、オスとメスのペアである家族の原型をもっていたもの、と諏訪は推定している。その代表的な例が、アファール猿人である。アウストラロピテクスが生息していたのは、約四〇〇万~一〇〇万年の間のじつに長い期間にわたる。歴史上最初に発見されたのは、南アフリカのタウングである。それは、レイモンド・ダートによってアウストラロピテクス・アフリカヌス(アフリカの南のサル)と命名され、人類の仲間ヒト科として系統的に位置づけられた。

その後南アフリカを中心にこの種の猿人の化石がつぎつぎと発見され、一九五〇年代になってしだいに東アフリカにおける発掘がさかんになった。一九七四年にはエティオピア北東部のハダール遺跡で、ドナルド・ジョハンソンらによって、三〇〇万年以上も前のト科の化石としてほぼ完全な女性の骨格が発見され、「ルーシー」と命名された。

中新世後期から鮮新世の初め約一〇〇〇万~四〇〇万年前)の時期は、化石の空白期間になっているが、およそ九五〇万年前と推定される化石サンブル・ホミノイドがケニアの北部で石田英実が発見している。ヒト科の直接の祖先かどうかまだわからないが、中新世前・中期のアフリカ類人猿とアファール猿人をつなぐ化石がヒト科の起原研究にはどうしても必要になってくる。

いずれにしても、初期人類は、森林からより開けた草原へと進出し、二五〇万年前以降は、地球規模の気候変化とともに季節性の強くなったサバンナの環境に適応していった。

ヒト(ホモ)属の出現と拡散

約一八〇万年前のタンザニアのオルドヴァイ峡谷で発見された人類頭蓋の破片は、アウストラロピテクスより大きい脳容量をもち、ルイス・リーキーなどによってホモ・ハビリスと命名された。約二〇〇万~一六〇万年前にわたって生息していたものと資料から推定される。最初のヒト属の出現である。

エティオピアのゴナ川遺跡の出土品から、最古の石器製作の年代が二六〇万年から二五〇万年前にまでさかのぼることがわかった。どんな人類の集団がゴナで数千個もの石器を製作していたのかわからないが、ヒト属の集団、あるいはアウストラロピテクス属のパラントロプス集団という二つの候補が考えられている。それらの石器は、のちの更新世前期のオルドヴァイの石器に酷似しているので、オルドヴァイ文化に位置づけられている。このことは、オルドヴァイ複合文化が、二六〇万~一五〇万年前の期間にあたる鮮新世更新世の時代のさまざまな集団に広がっていたことを意味している。

約一八〇万年前には、ハビリスよりさらに脳容量が大きい人類ホモ・エレクトス(原人)が登場する。この人類は、アフリカで約一〇〇万年間存続し、ハンドアックスという高度な道具を製作し、火の使用を始め、猿人の二倍にもおよぶ脳容量をもつにいたった。一方、完全な直立二足歩行となり、約一〇〇万年前に人類は初めてアフリカ大陸の外へと移動していった。

ホモ・エレクトスは、その後各地域で独自の道を歩み、四〇万~二五万年前に新たな形態へと進化していった。現生種ホモ・サピエンスの誕生である。しかし、ネアンデルタール人(旧人)と現代型サピエンス(新人)がどのような関係にあり、どのように進化していったのか、まだ不明な点が多い。アフリカ単一起原説にもとづくなら、およそ一五万~一〇万年前にアフリカ大陸からレヴァント地域をへて、少なくとも一万二五〇〇年前には南米にまで広がっていったことになる。

年ごとに新しい遺跡が発見され、現生人類にいたる進化の道と拡散のルートは、しだいに明らかになっていく。現生人類の誕生に関する研究は、二十一世紀における化石人類学の課題である。しかし、アフリカ大陸が人類の誕生と進化の揺籃の地であったことはまちがいない。

気候変動・人為圧と“砂漠化〟

アフリカ大陸において砂漠化がいつ、どのようにはじまり、今後それがどのように継続していくのか。この問いかけは、アフリカに住む人びとにとってのみならず、二十一世紀における地球環境問題と食糧問題に直にかかわってくることである。

世界で最大の乾燥地帯であるサハラ砂漠では、砂砂漠はその約一四パーセントにすぎず、岩や礫でおおわれた台地が広い面積を占めている。もうひとつの砂漠地域は、南西アフリカ海岸のナミブ砂漠にみられる砂丘である。アフリカ大陸のおよそ六三パーセントを占めているのは、サバンナとステップである。雨がほとんど降らない乾燥した月数が二・五〜七・五ヵ月にわたり、イネ科草本が広がる大地に、雨の量におうじてアカシアなどの灌木・高木がでてくる。人類が誕生し進化していったのは、北東アフリカから南部アフリカにつらなる大地溝帯のサバンナである。いくつかの重要な作物が栽培化され、数々の王国が誕生したのは、おもにこのサバンナ地帯である。

熱帯多雨林は、おもにコンゴ盆地の赤道地帯と西アフリカ・ギニア湾岸に広がっている。

年間降水量は、約一三五〇ミリ以上、乾燥期間が二・五ヵ月以下の湿潤な地域を占めている。いずれの森林においても、四〇~五〇メートルに達する高木が最上層にみられる。ピグミーとよばれる狩猟採集民のほか、焼畑に依存しているバントゥー系の人が―系の人びとがおもにすんでいる。近年、人口増加と現金経済にまきこまれた市場圧によって、休閑期間の短い焼畑耕作が盛んになり、焼畑による森林の減少が指摘されるようになった。東部や南部アフリカの高山地帯では、かつては針葉樹を中心にした森林がみられたが、この一〇〇年の間にほとんど消滅してしまった。

西アフリカの熱帯林では、過去一〇〇年間にコートジボワールの九〇パーセントを筆頭に、各国平均して数十パーセント以上の森林が消滅している。そして、エティオピアにおける森林の残存率は、いまや国土全体の三パーセントになってしまっている。さらに、中部アフリカをのぞいた熱帯雨林地帯コートジボワールやナイジェリアでは、わずかに残っている森林が毎年一五パーセント前後という速さで破壊されている、という。こうした森林面積の激減によって、強雨による土壌の浸食にともない、土地のいちじるしい荒廃をもたらすばかりでなく、川の水の流れが不安定になってしまう。このことは、結果的に大陸の保水力を奪い、土地の生産力や人びとの住み場を脆弱にしていくことになる。(口絵参照)

“砂漠化〟とは

こうした近年にみられる森林破壊のほとんどは、明らかに人間の活動によってもたらされるものである。過放牧や過耕地などの人為圧も否定できないが、もっとも大きい要因は薪炭材や建築材としての伐採があげられる。人びとが町や都市に集中し、その周辺地域をはじめとする森林はまたたくまに破壊されていく。伐採したのち、しばらく放っておくと、強雨によって表土が流され、植物の再生が困難になってくる。アフリカのほとんどの地域では、伐採したのちに植林するといった法律や慣習が国家レベルのみならず村落レベルでも、これまでほとんどみられなかった。

むろん年降水量の変化による影響も大きい。たとえば、年降水量が平年の三〇~四〇パ―セントにまで落ち込んだ一九七二年と一九八四年には、おびただしい数の人間と家畜が犠牲になり、多くの環境難民を生んだ。折も折、地球環境問題として“砂漠化〟がとりあげられ、国際社会の注目を集めることになった。しかし、“砂漠化〟は、自然圧によるものなのか、それとも人為圧によるものなのか、という議論はさておくにしても、少なくとも人為圧にたいして評価されるような防御策がこれまでほとんどほどこされていないのが、現状である。

アフリカにおける気候は、地球全体の気候変動によるばかりではなく、チャド湖の水位などを復元することなどによって、かなり歴史的に追跡することができる。一万年レベルでみていくと、近いところではウルム氷期(七万~一万年前)に求められる。ウルム氷期がはじまると、地球全体の気温はしだいに低下し、大気中の水蒸気が雨になりやすく、湿潤な気候がつづく。ところが、氷期の最盛期である寒冷の状態になってしまうと、気温は低くなりすぎ、地上からの蒸発量は激減してしまう。すると、大気中の水分は極端に減少するので、乾燥気候がつづくようになる、という。

このようにウルム氷期の寒冷期(二万~一万二〇〇〇年前)には、緑の大地は砂漠化して、サハラ砂漠は、現在よりもかなり南に拡大していた。いまよりはるかにきびしい“砂漠化〟をむかえていたのである。ところが、その寒冷期をすぎ後氷期になると、気温がしだいに上昇していくにつれ、水の蒸発量もふえて、ふたたび湿潤期にはいる。約一万一〇〇〇年前ぐらいから、人びとはサハラにもどり、現在より多い降水量で豊かなサハラ時代を形成していた。とりわけ湿潤のピークは、一万~八〇〇〇年前と七〇〇〇~五〇〇〇年前の二回にわたって認められる。一万~八〇〇〇年前には、チャド湖の水位は、現在よりも四〇メートル以上も上昇した。このころ、いまのサハラ砂漠地帯は、緑あふれたステップやサバンナ的景観をなし、さまざまな野生動物が群がり、広い地域に人びとが住み、旧石器文化が栄えた。

一万五〇〇年前ごろと同様、熱帯アフリカは七五〇〇年前ごろには短いがきびしい小乾燥期をむかえる。これまで栄えた漁撈や狩猟の文化は、いったん途絶えることになるが、約七〇〇〇~五〇○○年前には湿潤期がおとずれ、チャド湖の水位は四〇メートルほど上昇し、サハラにはふたたび緑がよみがえった。

初期の後氷期におけるサハラの狩猟民たちは、数々の豊かな岩壁画を残している。もっとも早い時期(約一万五〇〇年前)の岩壁画には、野生動物だけが描かれている。いまや消滅してしまった大型のアフリカ・アローやキリン、ゾウ、サイ、カバなどが彼らの絵の対象物になっていた。

約八〇〇〇年前ごろになると、野生動物やその狩猟シーンにかわって、家畜化されたウシがひんぱんに描かれるようになる。約四五〇〇年前ごろからしだいに乾燥してくると、岩壁画に描かれていた多くの種はしだいに少なくなり、約三五〇〇~一五〇〇年前にウマが、約二〇〇〇年前からラクダが主流になってくる。このことは、明確に乾燥化と対応しており、以後サハラ砂漠にいた人びとは、ナイル川やサハラ南部に移動していったものと考えられる。

地質学者の諏訪兼位によれば、「長期的スケールでみると、サハラ砂漠の南限は、地球的規模の気候変動と対応して、五〇〇~一〇〇〇キロのオーダーで南北移動している」という。なるほど、いまから約一万二〇〇〇年前や四五〇〇年前ごろには、現在よりはるかにきびしい乾燥期をむかえ、サハラ砂漠はかなり拡大していた。しかし、雨が降り湿潤になれば、緑豊かな大地に回復していたのである。つまり、可逆可能な潜在性をもつ大地であった。ところが、最近一〇〇年間の人為圧は、過去数千年の人類が自然に与えてきた影響とは比較することができないほど大きい。人為圧によって表土が浸食され、岩盤が露出した状態で、かりに今より降水量が多くなり、より湿潤になったところで、アフリカの自然はどれだけ回復力をそなえているのだろうか。アフリカ再生の可能性は、まさしくここに存在するように思われる。アフリカの人びとが一万年のレベルで築いてきた自然との共生が、外圧も含めてたかだかこの一〇〇年間でとりかえしのつかない自然との矛盾に直面していくように思われて仕方がない。

 私の世界の私の言葉は他者は理解不可能
 新しい商品の時になぜ理念を持てないのか 世界を変えるという理念 Google も Amazon も理念で勝負した

『世界の歴史⑱』

2023年09月26日 | 4.歴史
209『世界の歴史⑱』

ラテンアメリカ文明の興亡

キューバ革命

バティスタと真正キューバ革命党

一九三三年の反革命でキューバ政界の黒幕となった統合参謀本部長バティスタは、卓越した日和見政治家であり、キューバの社会経済はほかの中米・カリブ諸国とはモノが違から、ウビコ、ソモサ、トルヒーヨらの反動一辺倒政治ではどうにもならないことを重々承知していた。一九三五年のゼネストを血の弾圧でおさえこみ秩序を回復すると、バティスタは軍隊の組織と人員を使って農村教育など社会奉仕計画を実施する一方で、一九四〇年に新憲法下の大統領選挙をもって黒幕政治を清算する政治日程を決めた。まず、グラウを亡命先から帰国させ、その支持母体である真正キューバ革命党を率いて出馬することを許した。そして自分は、キューバ共産党を合法化して、傘下に全国労組連合を組織するのをも許し、これと連合を組んで立候補した。共産党は一九三三年にはグラウ政府を微温的として不支持にまわったのだが、その後コミンテルンが人民戦線戦術に転じたためにすっかり穏健化していたのである。

一九四〇年憲法はきわめて進歩的なもので、普通選挙、国民投票制度、最低賃金、ストライキ権、年金制度、労災保障を定めた。選挙結果は八〇万対五八万でバティスタがグラウを破った。大統領バティスタは、軍部をおさえ、共産党員を入閣させた。経済面も、戦時下だから物不足ではあったが砂糖はよく売れ好景気に恵まれた。

続く一九四四年の大統領選挙ではグラウが圧倒的勝利をおさめ、真正キューバ革命党は二期八年間にわたり政権を担当した。外貨準備は積み上がり、砂糖景気は戦後もしばらくは続いた。この経済の好調を背景に真正キューバ革命党が推進したポピュリズム政策は、しかし戯画のような様相を呈した。バティスタ時代に六万人だった公務員の数は労働力人口の一割を超える一八万人に達し、人件費は国家予算の八割を占めた。労働者の賃金は一九四〇年代に、名目で四倍、実質で一六倍になった。いかに砂糖輸出が好調でもこれではたまらない。インフレは昂進し、稼得外貨は隠れて外国に持ち出され、国内総生産に対する粗投資率は一割を下回った(中南米の普通の国は通例一割五分から二割、日本は三割)。政治家の不正利得スキャンダルが続発し、真正キューバ革命党それ自体が二つに割れてしまった。

一九五二年三月、軍部はクーデターを起こしてバティスタを推戴した。バティスタはその第二期政権では第一期とはうってかわった強権抑圧政治を行った。ひとつにはポピュリズム政策の原資が使い果たされてしまっていたためにほかに打つ手がなかったのである。だがこの間の経済成長により、一九五〇年代前半のキューバの一人あたり国民所得は中南米諸国のうちで産油国ベネズエラに次ぐ第二位につけていた。社会指標でも、平均寿命が五十九歳、幼児死亡率が一〇〇〇人あたり八二人(五九年に三五人)と、どちらもアルゼンチン、ウルグアイに次ぐ第三位であった。中間層・労働者に対しても経済力の許す限りの給付をすでにあてがっていた。ヴァルガスやペロンは、全体としてこれよりずいぶん貧弱な実績をもとでに、政治的求心力を生み出しうるポピュリスト政治体制を構築したのである。ところがバティスタも真正キューバ革命党もそれを達成できず、給付を受けたキューバ人は受け取った分だけさらに欲求を募らせるばかりだった。

ひとつには、比較にならないほど豊かなアメリカ社会がすぐ海峡の向こうに見えている、という事情がある。だがそれよりも重要なのは、キューバの政治的経験の不足だった。ポピュリズム政策を介して、給付のやりとりに徐々に制度的性格を与え、参入自由の多元政治下における公秩序の運用に予測可能性を高めることで多元政治体制そのものを強化してゆく素地が、指導者の側にも市民の側にもできていなかったのである。この政治的未成熟のために、ポピュリズムの破綻により他の中南米諸国もやがて直面することになる左翼革命か長期軍政かの二者択一に、キューバは極端に早い時点で逢着したのだった。

「七月二十六日運動」の決断

もちろん強権抑圧政治はこの極端に意識の高いキューバという国では通用しない。バティスタ第二期政権に対する中間層・労働者の不満は次第に募ってきた。玉砕に終わったがその果敢さで内外の耳目を集めた一九五三年七月二十六日のモンカダ兵営襲撃を政治資産に、一九五六年から島の山がちな東部でゲリラ活動を始めたカストロは、最初のうち数十人の部隊を率いて警察治安部隊の駐屯地を襲撃しているばかりだった。だが、そうやって田舎警察相手の小競り合いを繰り返すだけで、一九五八年に入ると敵の政権基盤が自然に崩れだした。味方は数千に増えて島の西部へあふれ、一九五九年一月にバティスタは亡命した。ゲリラ組織「七月二十六日運動」は国軍を解体して島の唯一の暴力装置となり、カストロ、弟ラウル、ゲバラらその幹部の手中に国の全権力がころがりこんだ。すべて、船が三十歳内外の若者たちである。

かれらは、はからずも手に入った絶対権力を保持したまま、キューバの社会経済の根本的変革を実現したかった。アメリカが唱えるように民主政治を通じてそれを実現することは、民主体制構築のためのポピュリスト政策の原資がもう砂糖経済から引き出せない以上、極度に困難である。仮にそれが可能であっても、「七月二十六日運動」に広範な基盤を与えて選挙に勝てる政党に変えたなら、この国の政治の過去の実績からして、真正キューバ革命党がそうなったと同じ腐敗堕落が待っているのではないか。いや、そもそも経済の基幹をなす砂糖生産の四割がアメリカ系資本の手中にあるのだから、根本的変革をめざす以上アメリカとの対決は避けられない。乾坤一擲、かれらは東側と手を結ぶ覚悟を決めた。

一九五九年五月に農地改革法が公布され、アメリカ企業所有の砂糖プランテーションの接収が始まり、六月に政府から穏健派が排除され始めると、早くも対米関係は緊張した。秋からキューバは民兵制度を整備する一方でソ連に関係強化の意向を伝え、六〇年二月にソ連副首相ミコヤンをむかえて二国間貿易援助協定を締結した。その年のうちにキューバはアメリカ人所有の全資産時価一○億ドル相当を接収し、アメリカはキューバ糖の輸入割り当てをゼロとした。六一年四月、CIAの支援のもとグアテマラとニカラグアで編成された亡命キューバ人一個旅団が、七年前のアルベンス潰しの再現をねらって祖国に上陸したが、キューバ正規軍と民兵の反撃を受けて二日後に撃退された(ピッグズ湾事件)。

東西冷戦の渦中で

一九六一年十二月、カストロがみずからマルクス・レーニン主義の信奉者であると宣言すると、六二年一月、米州機構はアメリカの提案を受けてキューバを除名し、二月、アメリカは若干の食糧・医薬品をのぞきキューバ相手のすべての貿易を国民に禁じた。七月に国防相ラウル・カストロがソ連を訪問し、おそらくこの時のとりきめにもとづき、ソ連はキューバに核運搬能力をもつ準中距離弾道ミサイル四二基を配備した。これを察知したアメリカ政府は、十月二十二日、海軍艦艇と軍用機で島を海上封鎖し、ミサイルの撤去と、将来にわたり戦略兵器をキューバに配備しない旨の約束を要求した。六日間の緊張のすえ、ソ連が譲歩してミサイルを撤去し、ひきかえに、キューバに侵攻しない旨の暗黙の約束をアメリカからとりつけた(いわゆる「キューバ危機」)。これはキューバにとって頭越しの合意だったから、対ソ関係は冷えこんだが、革命キューバが核戦略上の意義を失ったこの時

を境に、対米関係は敵対的共存のかたちで安定化したのである。

他方で国内政治体制の構築が着々と進んでいた。ラウル・カストロが国防相に就任したのは一九五九年十月であった。かれは国内統制のための民兵の編成から始めて、以後三〇年間にキューバ軍を世界的水準の戦闘集団に育て上げた(現在兵員数二七万で日本の自衛隊とほぼ同規模、ほかに一〇〇万余の民兵を動員できる)。五九年のうちにカストロは、「七月二十六日運動」内から旧共産党との提携に反対する勢力を排除し、全国学生組織と全国労組連合の執行部を自派で固めた。六〇年にはキューバ女性連盟(FMC)、革命青年協会(AJR)、近隣統制組織である革命防衛委員会(CDR)を、六一年には全国小農協会(ANAP)を傘下に編成した。

 肯定が否定より難しく感じられるのは
肯定した時
「何を」
肯定したことになるのかが不明だからである
否定の作用は、それ自体が認識だからである

 地球人類は失敗した
それだけのことなのでもある
ほかの星紀におけるほかの人類のやり方があるのだし
べつにこの人類でなくてもいいのだし
あるいは、この人類の失敗の仕方も、ひとつの
存在のやり方である
という言い方もできる
それはそれでいいのでもある
しかし
どうならばどうだと言えるのか

 普通に人が、地球人類が全てだと思っているのは、
身体が自分だと思っているからである
見えているものが見えているものだと思っている、これは驚くべきことである
しかし、
地球外生命
ということではない
生命とか人類とかの形状が問題なのではない
在る
ということが、そのことなのである
内的宇宙は外的宇宙である
主観は客観である
というこの一点を理解しない限り、 人は地上の思想しか考えられない
人類が問題なのではなく存在が問題なのだ
 とりあえずリマーク的な日記をつけること で新しい本の形式で

『全体主義の起原』

2023年09月25日 | 4.歴史
 『全体主義の起原』ハナ・アーレント

大衆

全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分たちにふさわしいと考えた唯一の組織形態である。この点だけからしても運動はすべての政党と異なっている。政党は、利益政党、世界観政党として国民国家の諸階級を政治的に代表するか、あるいはアングロサクソン諸国の二大政党制におけるように、公的問題の取扱いに対してその時々に一定の見解と共通の利害を持つ市民を組織するかのいずれかである。政党の勢力はその国内での支持者の数に比例するから、小国における大政党ということもあり得るが、これに反して運動は幾百万もの人々を擁してはじめて運動たりうるのであって、その他の点でいかに好条件に恵まれようと、比較的少い人口しか持たない国では成立が不可能である。このため、第一次世界大戦後、中部、南部、東部ヨーロッパの全土に反議会主義的、半ファッシスト的、半全体主義的運動が氾濫したにもかかわらず、全体主義政権が生れるまでになったのはヨーロッパ大陸で最も人口の多い国、ドイツとロシアだけだった。また「全体的国家」という言葉をはじめて使ったムッソリーニですら、一党支配国家という独裁で我慢するほかはなかった。この独裁は、ルーマニア、ポーランド、バルト諸国、ハンガリア、ポルトガル、さらにはスペインにおける同じく非全体主義的な軍事的独裁と本質的には異ならない。ナツィは全体主義的な支配とそれ以前の多様なファッシスト支配との間の原理的な相違を明確にすることに最大の努力を払い、彼らの同盟者であるファッシストに対する侮蔑と、敵であるポルシェヴィキーに対する共感を公然と表明して憚らなかった。ヒットラーが「無条件の尊敬」を捧げたのは「天才スターリン」に対してだけだった。われわれはスターリンとロシアの支配形式とに関してはドイツに関するほど豊富な原資料を利用できない(おそらくは将来も決してできるようにならないだろう)が、それでも、もちろん両体制の類縁性のきわめて正確な認識に基づいたヒットラーの感情が片思いではなかったことを示す手がかりは相当にあるのである。

ただここで確認しておきたいのは、小国においては全体主義運動のあとに成立したのは非全体主義政権だったため、全体的支配というものはこれらの小国にとっては手の届かない目標だったと思われるということだけである。確かに小国であっても全体主義運動を利用して大衆を組織しモップを権力につけることはできた。しかし真の全体的支配を達成することはできなかった。なぜなら、全体的支配の機構が絶えず要求する大な人命の損失に堪えるだけの充分な人的資源を、これらの小国は持たなかったからである。ムッソリーニはこの難関を克服しようとして植民地の冒険に飛び込んだ。これが彼にもたらしたものといえば、先進帝国主義諸国なかんずくイギリスとの彼にとってきわめて不利な敵対関係だけだった。しかしこの面でたとえ成功したにしても、彼はせいぜい植民地をイタリアの出産過剰の捌け口として確保したことになるだけで、全体的支配の実験をなし得る人的資源を得たことにはならなかっただろう。ドイツですら戦前の国境で限られていた人口ではこのような支配には不充分だった。ヒットラーは、開戦までの被支配人口数が彼の支配に或る程度の抑制を余儀なくさせていることをよく自覚していた――このような抑制は彼の運動の本来の傾向と長期にわたっては一致させ得ないものだった。ドイツは戦争に勝ってはじめて完全に発達した全体的支配の機構を経験する筈だったのだが、それが単に「劣等人種」ばかりでなくドイツ人自身にもどれほどの犠牲を強いることになるかについては、われわれはヒットラーの遺した諸計画から推測することができる。いずれにせよドイツがその支配機構を実際に全体主義化し得たのは戦争を始めてからのことであり、東部の征服によって絶滅収容所が可能となり大な数の人口を意のままにできるようになった後のことだった。全体的支配は大人口の基礎なしには不可能だというまさにこの理由から、この支配形式はなかんずく中国やインドにおけるアジア的専制の遺産を継ぐにきわめて適していると思われる。これらの国には、権力を蓄積し人間を破壊する全体主義運動の装置の回転を絶えず維持するに足るだけの無尽蔵な人的資源がある。これに加えてアジアには、一人一人の人間の生命の価値を重んずるヨ―ロッパ的=キリスト教的な伝統がなく、人間が余っているという大衆の感情がひろく根づいている――この感情はヨーロッパではごく最近に現れたもので、ここ百五十年間の甚だしい人口増加によってはじめて生れ、大量失業の危機の時代に尖鋭化してきた。全体主義の独裁者にとって内政における最大の危険は自国の人口激減とそれに伴う権力低下だが、この危険はアジアでは意味を持たないばかりでなく、むしろ、アジア諸国の目下の最大の難問である無秩序な人口増加に歯止めをかけて、これを統御しうる軌道に乗せることすらできるかもしれないのである。なぜなら、完全に発達した全体的支配が実現可能となるのは、全体主義運動の場合とは異なり、大な数の人間が余っているか、あるいは人口激減の危険なしに大量の人間を始末できるところだけだからである。

これに対し全体主義運動は、いかなる理由からであれ政治的組織を要求する大衆が存在するところならばどこでも可能である。大衆は共通の利害で結ばれてはいないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する個別的な階級意識を全く持たない。「大衆」という表現は、人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるかのために、人々がともに経験しともに管理する世界に対する共通の利害を基盤とする組織、すなわち政党、利益団体、地域の自治組織、労働組合、職業団体などに自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。潜在的には大衆はすべての国、すべての時代に存在しており、たとえ高度の文明国であっても大抵は住民の多数を占めている。ただ彼らは正常な時代には政治的に中立の態度をとり、投票をせず政党に加入しないことで満足しているのである。

ファッシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の興隆に特徴的な点は、これらの運動が政治的には全く無関心だと思われていた大衆、他のすべての政党が馬鹿か無感覚で相手にならないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。ただこの場合、ファッシズムは最初からヨーロッパ住民のこの分子に目を向けたのに対し、共産党は成立当初は完全に国民国家の利益政党としての、労働者階級の一過激政党だったため、ファッシズムと同じ道をとり始めたのは比較的おそく、ほぼ一九三〇年以後のことだという違いがある。共産党のこの変化の原因は、一つには、やはり一九三〇年頃にようやく勝利を収めたロシアのスターリン政権の意向にこの方向が完全に沿ったこと、また一つには、ファッシズムとの競争の中で共産主義者がファッシスト的方法を自分も利用しようと意識的に学びとったことだった。「大衆の心」を摑もうとするこの競争の結果は、双方の運動の成員がともにこれまで一度も政治の舞台に登場したことのない人々から成り立つようになったことである。これは当然に政治的プロパガンダの全く新しい方法を著しく導入し易くし、なかんずく、政治上の敵対者の論議を黙殺できるようにした。運動は原理的に政党制度の枠外に身を置いたばかりでなく、一度もこの政党制度に組み込まれたことのない、従って政党制度によって「堕落」させられていない大衆を集めてメンバーとしたからである。それ故、運動は敵の論議を意に介する必要はなく、大衆を論議によって説得する必要などさらさらなかった――説得というものは相手がそれまで何らかの別の意見を持っていることを前提としているのだから。運動は平和時のただ中に、革命的変革を伴うことなしに、正常な政治的プロパガンダに内戦の手法を持ち込むことができた。つまり敵を論駁する代りに殺害し、運動に組織されていない人々を説得する代りにテロルで嚇すとすいう手法である。運動はつねに、自分の運動の信奉者は他のすべての市民といかなる共通点も持っていないという前提から出発し、一切の意見の相違を、理性による理解も個人によるコントロールも不可能な、社会的、民族的、もしくは心理的な性格の不変の差異であると解していた。このような態度は、もし運動が現存する諸政党とまともに競合してメンバーの獲得競争をするつもりであったなら非常な不利益をもたらした筈である。だがその相手が実際に運動の考えたとおりに、もとは無関心だったが今や政党と名のつくものにはすべて敵意を燃やすべき理由を発見した人々であるならば、この態度は不利どころか明らかに有利であった。

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、特にヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた二つの幻想の終りを意味した。その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心をもつ市民でもあり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまでは行かなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくともその政党によって自分も代表されていると感じている、という幻想である。ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数派しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。全体主義運動が叩き潰した第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性も持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な与えたが、それはつまり、民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意志表示をする組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意志表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。全体主義運動はその議会蔑視にもかかわらず公職選挙に参加し帝国議会に代表を送った――この矛盾は外見だけのものに過ぎないが――ことによって、民主主義のルールの枠内で次のことを実証することさえできた。すなわち、議会における多数派なぞ見せかけだけに過ぎず、反議会的な運動は人民の多数を代表するところまで迫っており、政党制度の枠内で政党が議会に多数を占めたにしてもそれは決して国の現実を反映などしていない、ということである。そして運動はこれを議会自体の中で実証することで議員たちの自信を内部から掘り崩すという計算までできた。なぜなら戦後の各共和国の議員は一人の例外者もなく、民主主義的多数を信ずるほどには共和制憲法を信じていなかったからである。

全体主義運動が民主主義的な自由を葬るためにほかならぬその自由を利用したとは、繰り返し言われてきたことである。全体主義的な雰囲気が国全体に広がって全体主義運動が一定の強さに達すると、いかに抗議の声が上がろうとこの計略はつねに成功裡に遂行されてしまうのだが、このようなやり方の背後には、全体主義の指導者の側の優れた奸智が潜んでいるわけでも、民主主義的な政治家の側の、経験から何ひとつ学ばない救い難い愚さや弱点があるわけでもない。民主主義的な自由は確かに法の前でのすべての市民の平等に立脚してはいるのだが、ただこの自由が意味を持ち機能し得るのは、市民が自分を代表してくれる特定の集団に属しているか、あるいは社会的もしくは政治的ヒエラルヒーの中に生きているか、そのいずれかの場合だけである。法の前での平等とはとりもなおさず不平等な人々のためにのみ、すなわち政治的に言えば、生れにより、もしくは職業や政治的意志によってそれぞれに異なる集団に属し、相互に差別し合う人々のためにのみ存在しうるのである。国民国家の構造は社会的にも政治的にも階級社会によってのみ規定されていたのだが、その階級社会の崩壊は疑いもなく「最近のドイツ史における最も劇的な事件の一つ」であった。これがナツィ運動の擡頭に有利な条件を提供したのは、ロシアの巨大な地方の住民が何らの社会的構造性をも持たなかった(ゴーリキーの言葉によれば「政治的教育を全く欠いたこの捉えどころのない巨体」)ことがポルシェヴィキーによるケレンスキー政府打倒を有利にしたのと同じである。大衆社会というこの条件のもとでは、民主主義の諸制度は民主主義的な自由と同様にその意義を失ってしまう。それらは民衆の多数を代表しない故に機能し得なくなり、民衆のうちの実際の多数を占める代表されていない部分が名ばかりの多数派の支配に抗して起ちあがるとき、それらは危険を宣告されることになる。

この危険は第二次世界大戦後の今日、ほとんどすべてのヨーロッパ諸国に現れている。イタリアやフランスの共産主義運動の強大な勢力はこのことを明白に語っている――しかもネオ・ファッシスト運動が同じ力を得て明日にもこれらと肩を並べる可能性がないとは言えない。今ここで起っていることは第一次世界大戦後のドイツで起ったことの繰り返しに過ぎない。すなわち、階級社会が崩壊し、そしてもはや存在しない階級をまだ代表すると自称する政党制度が、大衆を代表する運動によって窮地に追いつめられているのである。今日のわれわれは世界中いたるところで、一切の社会的構造のますます進行する大衆化――これに対しては伝統的な政治的、社会的諸組織が大なり小なり抵抗を試みてはいるが―――という条件のもとで生きている。ヒットラー以前のドイツの社会的、政治的な崩壊現象は、西欧世界におけるこれと同じ過程が将来辿るかもしれない方向の指標であり、同様に、ロシアの条件はアジア大陸での同じ発展の可能性を示している。現在の全体主義運動がボルシェヴィズム運動の型に従う傾向を持ち、ネオ・ファッシスト集団がヒットラーとムッソリーニの敗北によって重要性を失い、人種イデオロギーは戦後世界で大きな役割を果していないということは、「白」と「有色」の諸民族の間に現にある対立を考えるならば、一時的な現象だと言えるかもしれない。いずれにせよ全体的支配の機構のもつ政治的構造にとっては、大衆の組織化を人種の名において行なおうと階級の名において行なおうと、生命の法則・自然法則の力を借りようと唯物弁証法的な歴史法則を担ぎ出そうと、実際的にはそれほど重大な違いはないのである。

公的生活のすべての事象に対する無関心と政治問題に対する冷淡さは、それ自体としては全体主義運動の原因ではない。ブルジョワジーの競争的な営利社会は初めから公的・政治的問題に対する無感覚、いや或る程度の敵意さえ生んできた。この傾向は、ブルジョワジーに搾取され長い間政治的に代表されることのなかった社会層の中ではそれほどでもなかったが、ブルジョワ階級自体の中では特に著しかった。彼らは国民の経済生活における支配階級としての地位だけに満足し、統治は貴族と官僚に任せてきたのだが、国民国家の伝統的政策がブルジョワジーの利害とはっきり衝突し始めた帝国主義時代に入るや、はじめて彼らはそれまでの政治面での謙虚さを捨て、ほとんどが対外政策に関するものではあったが政治的な要求を出すようになった。初期の慎ましさも後期の対外政策への専念(帝国主義時代にあってはどこでも対外政策こそおよそ政治の唯一の重要な形式だと考えられていた)もともに、営利社会の世界像、世界観ときわめて密接な関係を持っている。営利社会においては人間生活は経済戦争という仮借ない競争における成功か失敗のいずれかの型に分けられるものとして経験され、なんとしてでも私的、個人的成功を遂げねばならぬという必要のみに全生活が集中されるため、市民としての義務と責任は耐え難い余計な重荷となってしまう。このような態度が、一人の「強い男」がこの重荷をすっかり引受けてくれる独裁という形式にきわめて好都合なのは勿論だが、それと同時に、全体主義運動の発展にとってはこの態度に内在する個人主義は障害でしかあり得ない。全人民の政治化や「政治的兵士」の育成を求める全体主義の要求は本質的には欺瞞であったにせよ、それは大体が初めから、政治的に限度のある専制を可能にするだけでまさに全体的支配を不可能にするこのブルジョワ的、個人主義的な行動様式に対する宣戦布告以上のものを意味していたわけではなかった。ブルジョワジーを支配階級とする社会の政治的な無関心層は、政治的には無責任ではあろうが個人としては無傷な人格であり、個人の諸資質を完全に保有しているたとえそれが、これなしには競争に勝ちぬくことができないというだけの理由からであるにしても。

十九世紀のモップ組織と二十世紀の大衆運動の間の決定的な相違がきわめて見過され易いのは、現代の全体主義の指導者が心理学的には近代のデマゴーグやモップ指導者とまださほど違っていないためである。後者の道徳的準則と政治的手法はブルジョワジーのそれとまだ非常に密接な関係にあったため、それらはブルジョワジーの世界観の裏側、すなわち市民社会の偽善によって必死に覆い隠されていた部分を明らさまに示したものに過ぎないことが多かった。全体主義運動がブルジョワジーとその落し子たるモッブ――運動の指導者はこの出身であるにもかかわらず―の双方の個人主義を清算したという限りでは、これらの運動が自分たちこそヨーロッパ最初の真の反ブルジョワ政党だと主張しているのは正しい。ルイ・ボナパルトに帝国を準備してやった十二月十日会、ドレフュス事件の間パリをテロルで踏みにじった屠殺者部隊、ロシアのポグロームの黒百人組、汎民族運動などの全体主義運動の先駆者たちはどれ一つとして、個人の権利主張や名誉心まで死滅させるほどに自分のメンバーを「トータル」に把握することはなし得なかったし、また、一人一人のメンバーの個人としてのアイデンティティーを一回きりの英雄的行動の続く間だけでなく全生涯の長きにわたって抹殺するような組織形態が存在し得るとは、予想もしなかったのである。

ブルジョワ的階級社会と、その崩壊後に成立した大衆との間の関係は、ブルジョワジーと、資本主義的な生産方法の副産物たるモッブとの間の関係と同じではない。大衆とモッブの共通点は、双方とも一切の社会的構造および社会的帰属から締め出されて、政治的に全然代表されることのない立場に追いやられているという点だけである。モップは支配階級の遺産を引継ぎ、その基準を捨て去りはせず、やがてその基準を倒錯させることによって逆にブルジョワジーに対する或る種の影響力をかち得た。大衆はこのような「階級的基盤」すら持たず、彼らが反映し倒錯させているのは全人民の基準とものの観方である。大衆が体現しているのは実際に「時代精神」以外の何ものでもない。それ故、彼らに訴え彼らを動かし得るのは、もはや具体的な政治状況にではなく歴史的瞬間なるもの一般にのみ対応するきわめて括的なスローガンだけである。この場合、階級制度の崩壊によって大衆の中に投げ込まれた個々の人間が自分の出身階級の尻尾をまだはっきりつけているという事実は、ほとんど何の役割も果さない。彼は大衆の一員となった瞬間に、社会の全階級を漠とした形でではあってもすでに捉えていたこの滲透力のある流れとそれにふさわしいスローガンとの虜となったのである。

階級社会とそれが発展させた政党制度の中では、個々の人間が公的問題に参加する仕方もその程度の強弱も、彼がどの階級に属すかによって決まっていた。そしてぬきんでた才能とか数奇な運命とかの例外的なケースを別とすれば、彼の階級的帰属を決定したのは彼の生れであるただしこの決定は封建社会の没落の後はもはや法的基礎を持たず破棄不可能ではなくなっていたが。通常の市民が本来の国政に直面するのは、市民が一切の社会的、党派的拘束に捉われずに行動し決断することを要求される国民的危機に際してのみだった。平時にあっては彼は国政に何らの責任を負わず、国政に影響を与える可能性も持たなかった。一方、社会全体の構造の中で或る階級が重要性を増し上昇を始めると、その階級は一定数の人間に政治のための教育を施すようになり、次第にその人々が実際に政治を職業とするようになった――その場合、この職業が国家官僚、国会議員、政党指導者などのいずれであろうと、有給、無給のいずれであろうと大した問題ではない。民衆の大多数は職業として遂行されるこの政治とは無関係で、すべての政治団体や政治組織の外側にいた。このことは諸階級の代表制が機能するうえで別に障碍にもならなかったし、そのうえ貴族階級から労働者階級に至るまですべての階級がそれを無関心に放置しておいた。換言すれば、市民の各階級への帰属と、この階級制度の中で発展した代表という形式こそ、市民の一人一人が国政に多かれ少かれ責任を感ずるような政治的自覚の発展を阻害した元凶だったのである。しかしながら、この状態でもとにかく大体において満足しうる程度に全階級の利益を代表することが可能になっていたため、国民国家の統治形式の本来非政治的な性格は明るみに出ずに済んでいた。これがはじめて露呈されたのは、階級制度が解体し、それによって国民を政治体および真に政治的な諸制度と結びつけていた無数の見える糸、見えない糸が断ち切られたときである。

階級制度の解体は自動的に政党制度の崩壊を意味していた。というのは、これらの政党は実際に利益政党であったため、今や政党が代表すべき利益がなくなってしまったからである。もっとも政党は政党制度自体の崩壊後も生き残っており、この点では階級社会の死後まで生き延びられなかった民衆の比ではない。というのも、政党はそれぞれに自分の党機構を発展させたが、そのような機構はそれ自体が、人間の作ったあらゆるインスティテューションと同じく、或る程度の生命力を持つようになるからである。(もはや何ら現実に即応しなくなったときですらこのような機構がいかに頑強に生き続けるかは、政党が第二次世界大戦後ですらいわば復活を遂げ得たことからも特によく見て取れる。殊にフランスがそうだが、またイタリアやドイツでも、まるで何事も起らなかったと信じたくなるほどの政党の復活ぶりである。)しかし政党員の見地からすれば、こうして命脈を保っている政党の意味は、いつの日にか再びすべてが旧き秩序に復する保証と見えるという点に特にある。別の言い方をするならば、政党員を結合させているのは共通の利害というよりは、政党がそういう利害を再び呼び覚してくれるようにという共通の期待なのである。

政党の階級基盤が不明確に、非現実的になるにつれて、政党はますます世界観政党への方向を強めていった。この方向はこれまでの政党が知らなかったものでは決してないが、今やそれは全く別の意味を持つようになった。政党には世界観的な「原理」しか訴えるものがなくなったため、そのプロパガンダは硬直化しファナティックとなり、しかも同時に古きよき時代への郷愁に彩られた独特の弁解がましさを帯びるようになった。政党の全般的な衰退は数の上での勢力にはそれほど根本的な打撃を与えなかったが、政党はほかならぬこの事実に惑わされて、それまでは沈黙の共感を寄せてくれた大衆を失ってしまったことには気付かなかった。大衆が政治に関心を持たなかったのは、彼らの利益を計ってくれる適当な政党がないと思っていた間だけだったのである。衰退の最初の徴候は古い政党員の減少ではなく、若い世代を迎えて党機構の後継者に養成することができなくなった点に現れた。しかしこのことですら実際に表面化したのは、政党が突然次のことに気付かされたときである。すなわち、これまで政党がその無関心で受動的な支持を当てにしてきた未組織の大衆が今では無関心を捨て、しかも政党への支持を止めてしまったこと、そして打って変って、全体制に対する彼ら一般の敵意を表明する機会さえ見付ければ到るところで声を上げていたことである。階級構造の瓦解とともに、これまで各政党の背後に立っていた無関心な潜在的多数派は、絶望し憎悪を燃やす個人から成る組織されない無構造の大衆へと変容した。これら個人を結び合せた唯一のものは、全員に共通の一つの洞察だった。すなわち、古きよき時代の再来を望む政党員の期待は満されないだろうし、いずれにせよ自分たちがその再来を経験することはまずあるまい、それ故、これまで共同体を代表していた人々、最も明晰な発言力と最も多くの情報を持つ共同体員として尊敬されてきた人々は、本当は道化であって、本物の愚鈍さから、あるいは詐欺師らしい卑劣さから、他の者すべてを奈落の底に突き落すべく既成の諸権力と手を結んでいた、と彼らは見たのである。この場合、この恐るべき否定的な連帯が様々な動機から出ていたことは大して重要ではなかった。例えば、失業者は社会民主党こそスタトゥス・クオであり共和国の権力者だと見てこの党に憎悪を集中させ、一方、財産を失った小資産家は中産階級政党に憤懣を向け、旧中間層や上層市民階級は伝統的な右派政党に腹いせをしようとした。絶望と怨恨に満ちみちた個人から成るこの大衆は、軍事的敗北とその諸結果のすぐあとにインフレイションと失業が続いた第一次世界大戦後のドイツとオーストリアでは、きわめて急速にふくれ上った。しかしこれに劣らぬ悪条件にあった継承国家にも謄大な数の大衆が存在したし、第二次世界大戦後ではフランスとイタリアに大衆が驚くべき速さで形成され増大した。

ヨーロッパの大衆の特殊なメンタリティーはこの全般的崩壊の雰囲気の中で出来上ったものである。彼らは大衆社会以外の社会を知らない大衆ではなく、一つの階級社会の崩壊の産物であり、その階級社会は個々の成員の側からは基本的には個人主義的なものとして捉えられてきたのである。この身に染みついた個人主義のため、大衆はすべての個人が全く同じ形で同じ運命におそわれるという事態に立たされながら、旧態依然として自分自身には競争的な営利社会の基準を当てはめ、個人としての成功という観念に立って自分自身を評価し断罪することを止めなかった。人を騙し人の災難を利用してうまく立ち廻ることができなかった者は、自分を敗残者と看做した。しかし、個人心理として見れば一世代全体の特徴となったこのような利己的な酷薄さですら、彼らに共通のものではなかった――もっともあらゆる個人的な差異は結局は一つの全般的なルサンチマンの中で見えなくなってしまったことは確かだが。利己主義は何ら共通の利害を成立させることはできなかった。従ってそれは自己保存の本能の典型的な退化と結びつくことが非常に多かった。徳としてのではなく感情としての没我自分自身など問題ではない、自分はいつでもどこでも取り替えがきくは全般的な大衆現象となった。この感情は個々の人間を動かして生命を賭けさせることもできはしたが、それはしかしわれわれが普通、理想主義という言葉で理解しているものとは全く似ても似つかなかった。このような人間に対して諸君は鎖のほかに失うべきものを持たないと語ることで、彼らを政治的行動や革命的行動に駆り立てることはもはやできなかった。彼らは自分自身に対する関心を奪われてしまったとき、すでに貧困や搾取の鎖より遙かに多くのものを失っていた。彼らの物質的な貧困は現代の国家の社会保障のお蔭で大抵はそうひどくない程度になっていたが、そのことで共同の世界への彼らの失われた関係が回復したわけではなかった。共同の世界を失うことによって、大衆化した個人は一切の不安や心配の源泉を失ってしまった不安や心配はこの共同の世界における人間生活を煩わすだけでなく、導き調整する役目も果しているのである。彼らは事実「唯物的」ではなくなっており、唯物主義的な論議にはもはや耳を藉さなかった。なぜなら、純粋に物質的な利益ですらこの状況の中ではほとんど意味を失ってしまったからである。彼らの無世界性Weltlosigkeitと比べれば、キリスト教の修道士でさえこの世に捉われ、世俗の問題への関心に満たされていると言えよう。組織すべき相手のメンタリティーをきわめてよく理解していたヒムラーの次の言葉は、SS隊員のメンタリティーだけでなく、SS隊員の補給源だったドイツ民衆のいくつかの階層のメンタリティーをも説明している彼らは「日常的な問題」に関しては全く無関心であり、彼らが関心を持つのは「世界観的な問題」と、「歴史の幾時代をも占め幾千年の後までも跡の消えることのないような使命に選ばれて携わるという大いなる幸福」とだけである。個人の大衆化は、誇大妄想狂のセシル・ローズが幾世代か以前に「大陸の規模で考え」数百年の規模で感ずると語ったのとよく似たメンタリティーを生み出したのである。

十九世紀の初頭以来、多くのすぐれた歴史家や政治家が大衆時代の到来を予言してきた。前世紀の半ば以来、大衆心理学に関して魔大な書物が現れ、民主主義と独裁、モッブ支配と専制の間の親近性についての、古代にはきわめてよく知られていた古い教えをありとあらゆる形で述べ立ててきた。疑いもなくヨーロッパの政治学者たちは、少くともヤーコプ・ブルクハルトとニーチェ以後は、デマゴーグと軍事的独裁の擡頭についても、迷信、軽信、愚行、残虐の跋扈についても準備ができていた筈である。これらの予言は今やすべて現実となった。しかし大抵の予言がそうであるように、それらは予言者が予期しなかった仕方で実現したのである。彼らがほとんど予見していなかったこと、もしくはその本来の結果について正しく見通せなかったことは、徹底した自己喪失という全く意外なこの現象であり、自分自身の死や他人の個人的破滅に対して大衆が示したこのシニカルな、あるいは退屈しきった無関心さであり、そしてさらに、抽象的観念に対する彼らの意外な嗜好であり、何よりも軽蔑する常識と日常性から逃れるのだけに自分の人生を馬鹿げた概念の教える型にはめようとまでする彼らのこの情熱的な傾倒であった。

しかしながら十九世紀の歴史的ペシミズム――その総決算とも言うべきものがシュペングラーの『西欧の没落』だが―――の最も目に立つ誤りは、この同じ現象のもう一つの側面に関してだった。あらゆる予期に反して、大衆は新しい平等と「平等主義」、つまり十八世紀の諸革命によって企てられたような一切の階級的差異の意識的な平均化、小学校教育の拡大、およびそれと結びついた教育水準の低下と教育内容の平俗化などの結果ではなかったのである。アメリカ合衆国では、法の前の平等は初めから生活条件の並はずれた平等および画一化と結びついていたため、国の急速な資本主義的・工業的発展にもかかわらず決してヨーロッパ的意味での階級社会が形成されるには到らなかったから、確かに合衆国は「平等主義」と教養貴族の欠如とが文化にもたらしたあらゆる欠点を知ってはいるものの、その代り現代的な大衆の形成と大衆心理の成立に関しては恐らくきわめて僅かの経験だけで済んでいると言えよう。この状態がこれからの数十年に変化して――そうなりそうに思えるが――アメリカが二十世紀の典型的な政治的問題に直面するようになったとしても、教育と生活状態の画一化が必ずしも社会の大衆化を結果するとは限らないという一度なされた実験の結論には、大して変化が起るわけではないだろう。というのは、ヨーロッパの教養貴族階級は他のすべての住民層と少くとも同じ程度に大衆運動の魅力に惹かれたからである。いやむしろヨーロッパ文化の本来のエリットたちこそ、大衆運動に身を投ずることで起る奇妙な自己喪失と個人の独自性の放棄とにとりわけ感染し易いと見えたことさえ多かった。人々はこのような発展を予期せず、むしろ大衆と知識人層の明確な敵対関係をつねに想定してきた。ところが今や教養も際立った知性も、「大衆を捉えた」理論でさえあればどんなに卑俗なものでも知識人が受容れるのを妨げはしないという、明白な事実に人々は直面した。そこで多くの人は今度は逆にこう考えることにしたのである。すなわち、「精神」は自分自身を憎む傾向を持ち、ほかならぬ知識人こそ精神を裏切りがちであると。広く流布されたこの意見バンダの『知識人の背任』trahisondesclercsがその最もよく知られた表現だが――が看過している点は、知識人がこれらの運動でも必然的にスポークスマンになり精神的代表者になったのは、彼らが他の人々以上に強く運動に惹きつけられたからではなく、他の人並みに惹きつけられたからであること、ただ彼らは他の人々とは違って、一般の人々の典型的な意見や観念に表現を与え世界観に結晶させるだけの明晰さを具えていただけだということだった。

ガイスト

知識人が特に感染し易かったといっても、それは彼らが他の階層の人々と全く同様に極度に個人主義化し、それ故に政治的に無関心だったという限りにおいてに過ぎない。彼らの態度は、国民国家が政党制度の中に、従って政治への積極的な参加に一度として誘い込むことのできなかった人々(この人々こそ多数派を占めていた)の態度と、本質的には異ならなかった。

ヨーロッパの大衆は、すでにアトム化していた社会の解体によって成立した。この社会においては、個人間の競争とそこから生ずる孤立感の問題を一定の限度内に抑えていたものは、各個人は生れると同時に一つの階級に属し、成功や失敗とは関わりなくその階級を故郷として終生そこに留まるという仕組だけだった。大衆社会の中の個人の主たる特徴は残酷さでも愚さでも無教養でもなく、他人との繋がりの喪失と根無し草的性格である。人々がかつての出身階級における経験を拠り所に新しい生活を築き得る程度に、国民国家の階級社会に記憶を通じて強く結びつけられていた間は、彼らはファナティシズムやショーヴィニズムの色の特別に濃いナショナリズムに迷い込んだ。まさにナショナリズムこそ、あらゆる階級対立を超えて国民を統一する接着剤だったからである。しかしまさにこの点において彼らはいわば時代遅れだった。そのことを全体主義運動の指導者は非常によく知っていたから、このナショナリスティ・クな「旧弊」を考慮に入れて初めうちは重要な妥協をしたのである。大衆のナショナリスティックな感情をプロパガンダに利用したという点では、全体主義の指導者の態度は十九世紀のデマゴーグの態度と変らない。だがこの両者の違いは、前者は自分ではナショナリストではなく、またナショナリスティックなプロパガンダ路線を必要最低限以上に続けようとは思っていなかった点にある。

種族的ナショナリズムも敵意と怨恨に満ちたニヒリズムも、あらゆる種類のモップをあれほど容易に虜にし心酔させることができたが、しかし大衆に対しては長期にわたってそれほどの威力を発揮することはできない。このことは全体主義運動の初期には実証がむずかしかった。なぜなら運動の最も才能ある指導者たちは本来まだ大衆の出ではなく、民衆のモップ層から這い上って来た連中だったからである。ヒットラーの伝記はこの点で教科書的な好例であるまたスターリンの場合も、本来の党育ちではなく地下の謀略組織--革命政党のごろつきはこういう所に好んで巣を作りたがるものだが――から出世したことが彼の本質的な特徴をなしている。国民社会党の初期の党員はほとんど例外なく市民生活に退屈し切った冒険家や落伍者ばかりであって、確かにこの党は「武装したボヘミアン連中」(コンラート・ハイデン)を代表していた。彼らは前世紀の半ば以来、上流社会の裏面をなしてきた連中なのだから、ドイツのブルジョワジーは本来なら彼らを利用できた筈だった。だがこの時にはもう手遅れだった。ヒットラーに資金を提供した工業資本家たちは、国防軍のレーム=シュライヒャー派と全く同じに自分たちがナツィに裏切られ騙されたことを悟らされた。レーム=シュライヒャー派にしても彼ら同様、元国防軍スパイのヒットラーとSAを自分たちの手中に握って利用すれば、ナツィの政権掌握後にSAを国防軍に編入することで軍に狂信的な大衆基盤を与え、それによってドイツに軍事的独裁を確立できると信じていたのである。ルール工業資本家やフォン・パーペン氏に代表される上流社会も、SAの指導者レーム大尉に代表されるモップも、ともにナツィ運動を初期の姿からだけ判断して、相手をただの賤民的な、あるいは山師的なごろつきだと見くびっていた。彼らはヒットラーのような型の指導者の真に新しいところを見落し、ヒットラーの背後に立って彼を支えている大衆が、彼らが知っていると考えていたモッブとは全く別のメンタリティーと要求を持っていることに気付かなかった。レームは国防軍なりブルジョワジーなりの単なる手先には確かに打ってりの人物だったが、ヒットラーやヒムラーと比べると、フォン・パーペン氏に劣らず時代遅れだったのである。



『悪と全体主義』ハンナ・アーレントから考える

2023年09月24日 | 4.歴史
 『悪と全体主義』ハンナ・アーレントから考える

大衆は「世界観」を欲望する

あふれ出した「大衆」と瓦解する国民国家

アーレントが「全体主義の起原」の第一巻、第二巻で考察したのは「国民」と「国民国家」のあり方でした。これを受けて第三巻では、国民国家を一応の基盤としつつも、その枠組みを突き崩すような「運動」として姿を現した「全体主義」の実体を明らかにしようと試みています。

近代ヨーロッパの主要な国民国家は、互いの境界線を守ることで均衡を保っていました。しかし、十九世紀末に勃興した「民族」的ナショナリズムは次第に人々の「国民」意識を侵食し、国民国家を支えていた階級社会も資本主義経済の進展によって崩れていきます。ほころびが目立ち始めた国民国家を、文字通り瓦解させたのが全体主義だったのです。

第三巻「全体主義」のキーワードは「大衆」、「世界観」、「運動」、そして「人格」です。アーレントはまず、かつては階級というそれぞれの抽き出しに収まっていた人々が「大衆」となって巷にあふれ出したこと、そこに提示されたのが強い磁力をもつ「世界観」だったと指摘します。

「世界観」とは、この世界のあり方を捉えるための系統だったものの見方、考え方を意味します。たとえばナチス・ドイツの場合には、第一巻で見た反ユダヤ主義や、第二巻で指摘された優生学的人種思想を巧みに取り入れながら構築された、「ユダヤ人が世界をわがものにしようとしている」という陰謀論的な物語のことです。こうした虚構によって人心を掌握した全体主義国家は、いわば砂上の楼閣です。砂上の国体は、つねに手を加えつづけなければ、その輪郭と権力を維持することはできません。つまり全体主義は、立ち止まることが許されない「運動」だったということです。

第二巻では、ヨーロッパの人々が信奉してきた「人権」概念が無国籍者の出現によって大きく揺らいだことが指摘されていました。しかし、先鋭化した全体主義「運動」は、権利のみならず、人間から「人格」まで奪い去ってしまいます。第三巻の第三章でアーレントは、ユダヤ人の大量虐殺が行われた強制収容所・絶滅収容所の問題に触れています。

ナチス・ドイツの強制収容所は、囚人や捕虜ではなく、ユダヤ人や、流浪の民とみなされたロマ(ジプシー)、同性愛者など、「民族共同体」にとっての異分子を強制的に監禁し、社会から隔離して「矯正」を行う施設として設けられたものでした。しかし、世界大戦が始まり、ドイツが支配する地域が広がるにつれて、支配下のユダヤ人は膨大な数に増え、最終的に、ガス室などを備えた「絶滅収容所」の建設に至ったのです。絶滅収容所にはヘウムノ、ベウゼツ、ソビボル、トレブリンカ、マイダネク、そして悪名高いアウシュヴィッツの六施設があります。

何百万もの人間を計画的かつ組織的に虐殺しつづけることが可能だったのはなぜなのか、また、なぜナチスにはそこまでする必要があったのかという問題を提起しています。

階級が消え、「大衆」が生まれる

全体主義とは何だったのか。数多ある政党と全体主義政党との違いを、アーレントはまず「大衆」との関係で論じています。

全体主義運動は大衆運動である。それは今日までに現代の大衆が見出した、彼らにふさわしいと思われる唯一の組織形態だ。この点で既に、全体主義運動はすべての政党と異なっている。(「全体主義の起原」第三巻、以下引用部はすべて同様)

ヨーロッパ社会に「大衆」の存在が浮上し、その特質が論じられるようになったのは十九世紀の終わり頃からです。そこで強調されたのは、「市民」との違いでした。国民国家で「市民」として想定されたのは、自分たちの利益や、それを守るにはどう行動すればいいかということを明確に意識している人たちです。彼らは自分たちの利益を代表する政党を選び、政党は市民間の利害を調整して、その支持を保っていました。

「市民」社会における政党が特定の利益を代表していたのに対し、何が自分にとっての利益なのか分からない「大衆」が自分たちに「ふさわしい」と思ったのが全体主義です。全体主義を動かしたのは大衆だったということです。

全体主義運動は、いかなる理由であれ政治的組織を要求する大衆が存在するところならばどこでも可能だ。大衆は共通の利害で結ばれてはいないし、特定の達成可能な有限の目標を設定する固有の階級意識を全く持たない。

労働者階級、資本家階級など、自分の所属階級がはっきりしていた時代であれば、自分にとっての利益や対立勢力を意識することは容易でした。逆に言うと、資本主義経済の発展により階級に縛られていた人々が解放されることは、大勢の「どこにも所属しない」人々を生み出すことを意味したのです。

アーレントはこれを、大衆の「アトム化」と表現しています。多くの人がてんでんバラバラに、自分のことだけを考えて存在しているような状態のことです。大衆のアトム化は、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、西欧世界全般で見られました。

かつては一部の人しか持ち得なかった選挙権が、国民国家という枠組みのなかで、多くの人にもたらされたことも、「大衆」が社会で存在感をもつことにつながりました。選挙権は得たものの、彼らは自分にとっての利益がどこにあるのか、どうすれば自分が幸福になることができるのか分からない。そもそも大衆の多くは、政治に対する関心が極めて希薄でした。

「大衆」という表現は、その人数が多すぎるか公的問題に無関心すぎるがゆえに、共通に経験され管理される世界に対する共通の利害に基づく組織、すなわち政党、利益団体、地域自治体、労働組合、職業団体等のかたちで自らを構成することをしない人々の集団であればどんな集団にも当てはまるし、またそのような集団についてのみ当てはまる。大衆は潜在的にすべての国、すべての時代に存在し、高度の文明国でも住民の多数を占めている。ただし彼らは普通の時代には、政治的に中立の態度をとり、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足しているのである。

階級社会では、同じ階級に属する誰かが自分の居場所や利益を示してくれるので、政治や社会の問題に無関心であっても生きていくことができました。これに対して、階級から解放されると、自由である反面、選ぶべき道を示してくれる人も、利害を共有できる仲間もいなくなってしまうのです。

「大衆」と「市民」

誰に(どの政党に投票すればいいのか分からない「大衆」は、どの時代の、どこの国にもいるし、高度な文明国においてすら政治に無関心な大衆は「住民の多数を占めている」と、アーレントは耳の痛い指摘をしています。投票率から言えば、日本人の半数は「投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している」大衆だということになります。「市民社会」を構成する「市民」が、自由や平等に関する自らの権利を積極的に主張し、要求を実現するために各種の政党やアソシエーションを結成することに熱心な人たちだとすれば、「大衆」は国家や政治家が何かいいものを与えてくれるのを待っているお客様です。自分自身の個性を際立たせようとする「市民」に対し、「大衆」は周りの人に合わせ、没個性的に漫然とした生き方をします。

しかし、平生は政治を他人任せにしている人も、景気が悪化し、社会に不穏な空気が広がると、にわかに政治を語るようになります。こうした状況になったとき、何も考えていない大衆の一人一人が、誰かに何とかしてほしいという切迫した感情を抱くようになると危険です。深く考えることをしない大衆が求めるのは、安直な安心材料や、分かりやすいイデオロギーのようなものです。それが全体主義的な運動へとつながっていったとアーレントは考察しています。

ファシスト運動であれ共産主義運動であれヨーロッパの全体主義運動の台頭に特徴的なのは、これらの運動が政治には全く無関心と見えていた大衆、他のすべての政党が、愚かあるいは無感動でどうしようもないと諦めてきた大衆からメンバーをかき集めたことである。

「愚かあるいは無感動でどうしようもない」とは直截な表現ですが、階級社会の崩壊で支持基盤を失った政党も、アトム化した大衆の動員を狙っていたということです。党是を理解できないような人であっても、とにかくたくさんのメンバーをかき集めて支持基盤を築きたかったのです。こうした動きは、第一次世界大戦後のヨーロッパで広く認められました。しかし、実際に大衆を動員して政権を奪取できたのは、ドイツとロシアだけだったことにもアーレントは注目しています。

政党の勢力はその国内での支持者の割合に比例するから、小国における大政党ということもあり得るが、これに反して運動は何百万もの人々を擁してはじめて運動たりうるのであって、その他の点ではいかに好条件であっても、比較的少ない人口の国では成立が不可能である。

確かに、ある程度の規模の「大衆」が存在しなければ、社会を大きく動かすような運動にはなり得ません。ヨーロッパ大陸で最も人口が多かったのが、ドイツとロシアであり、しかも第二巻で考察されていた通り、この両国には全体主義へと発展しやすい民族的ナショナリズムも広がっていました。

陰謀論という「世界観」

第一次世界大戦で敗戦したドイツは領土を削られ、賠償金問題で経済も逼迫。さらに九二九年に始まる世界恐慌で多くの有力企業が倒産し、街には失業者があふれていました。

この先、自分はどうなるのか、経済が破綻したこの国は、どうなってしまうのか――不安と極度の緊張に晒された大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる「世界観」、それを与えてくれたのがナチズムであり、ソ連ではボルシェヴィズムでした。

人間は、次第にアナーキーになっていく状況の中で、為す術もなく偶然に身を委ねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直した、狂気を帯びた一貫性に己を捧げるかという前代未聞の二者択一の前に立たされたときには、常に論理的一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろう――だがそれは人間が愚かだからとか邪悪だからということではなく、全般的崩壊のカオスの状態にあっては、こうした虚構の世界への逃避こそが、とにかく最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるように思えるからなのである。

ともかく救われたいともがく大衆に対して全体主義的な政党が提示したのは、現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を支配すべき選民であるとか、それを他民族が妨げているといった架空の物語でした。

全体主義運動は自らの教義というプロクルステスのベッドに世界を縛りつける権力を握る以前から、一貫性を具えた嘘の世界をつくり出す。この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている。ここにおいて初めて根無し草の大衆は人間的想像力の助けで自己を確立する。そして、現実の生活が人間とその期待にもたらす、あの絶え間ない動揺を免れるようになる。

「現実世界」の不安や緊張感に耐えられなくなった大衆は、全体主義が構築した、文字通りトータル(全体的)な「空想世界」に逃げ込みました。それは、自分たちが見たいように現実を見させてくれる、ある種のユートピアでした。

空想世界といっても、現実世界から完全に切り離されたものではなく、現実を(かなり歪曲した形で)加工したものが基盤となっています。大衆が想像力を働かせやすいエピソードをちりばめながら、分かりやすく、全体として破綻のない物語を構築するためにナチスが利用したのは「反ユダヤ主義」と、ユダヤ人による「世界征服陰謀説」でした。

周知のようにユダヤ人の世界的陰謀の作り話は、権力掌握前のナチスのプロパガンダのうち最大の効果を発揮するフィクションとなった。反ユダヤ主義は十九世紀の最後の三分の一以来、デマゴギー的プロパガンダの最も効果的な武器となっており、ナチスが影響を与えるようになる前、すでに一九二〇年代のドイツとオーストリアで世論の最も強力な要素の一つになっていた。

荒唐無稽な「作り話」であっても、ユダヤ系資本が力を持っていた英米仏から政治的、経済的に締め付けられ、厳しい暮らしを強いられていたドイツの大衆にとっては説得力のあるシナリオになり得ました。

これまでお話ししたように、ドイツではユダヤ人の同化がかなり進み、見た目だけでは普通のドイツ人と区別がつかない人が多く、学者、法律家、ジャーナリスト等、知的職業の人の割合がかなり高かった。その一方で、ユダヤ教の信仰や慣習を強く保持している人もいました。ドイツが急速に工業化を進めたのに伴って、東欧から多くのユダヤ人が移住してきましたが、そういう人たちは、いかにもユダヤ人という風体で、特定の地域に集まって貧しい生活をしていました。

私たちの中国人や韓国人に対する偏見がそうですが、自分と見た目がほぼ変わらない人が、自分から見て違和感のある振る舞いをしているのを見ると、余計に気に障るということがあります。ユダヤ人に対する偏見をぬぐえない人、自分は能力があるのにどうしてもっと認められないのだろう、社会がおかしいのではないかと不満を持っている人にとっては、本来ドイツ人とは全然違う異分子、「外」から圧力をかけている連中の一部が、表面的に姿を変えて、「民族共同体」の「内」にも潜り込んでいて飲んでいるかのようにも思えてきます。ゴビノーやチェンバレンの人種理論は、そういう見方を正当化してくれます。ユダヤ人は恰好のターゲットだったのです。

暴走する想像力

『永遠のユダヤ人』というナチスのプロパガンダ映画があります。ゲットー風のところに住んでいるいかにもユダヤっぽい人たちと、エリート的なユダヤ人を一つの流れの中に描き出し、両者の正体が「同じ」であることを強調します。ユダヤ人をめぐる文化的緊張を実感として知らない現代の日本人が見ると、あまりにわざとらしくてどうしてこれで騙されるのかと感じてしまうような代物ですが、当時のドイツ人の中には元々そういうイメージを持っていた人が多かったのかもしれません。

ヒトラーは政権獲得後も、自らを支持した大衆の反ユダヤ的な想像力を利用し、「ユダヤ人を排してドイツ民族の血を浄化する」という人種差別的なイデオロギーで大衆を率いていきました。大衆を動員するために利用した物語的世界観を、そのまま国家の指導原理に応用し、特殊な世界観で統一された全体主義の国家を作り上げていったわけです。

ナチス以前およびナチス以後のいかなる大衆プロパガンダより現代大衆の願望をよく知っていたナチス・プロパガンダは、「ユダヤ人」を世界支配者に仕立て上げることによって、「最初にユダヤ人の正体を見抜き、それを闘争で打ち破る民族こそがユダヤ人の世界支配の地位を引き継ぐだろう」ことを保証しようとした。現代におけるユダヤの世界支配というフィクションは、将来におけるドイツの世界支配という幻想を支える基盤となったのである。

「最初にユダヤ人の正体」はゲッベルスの日記からの引用です。陰のユダヤ人ネットワークが世界を支配しているのだとしたら、その仕組みを乗っ取れば自分たちが世界の支配者になれる――。単に「悪いのはユダヤ人だ」と糾弾するだけでなく、「ゆくゆくはドイツ人が世界の支配者として君臨する」という将来像を提示したわけです。

このような陰謀論にかぶれてしまうと、あらゆることが「それらしく」見えてきます。ジグソーパズルのピースがぴたりとはまるように、それまで気にもしていなかったことが「あれも」「これも」陰謀を裏付けているように思えてくる。ナチスの提示した世界観の場合には、ユダヤ人の政界進出がその好例と言えるでしょう。

第一次世界大戦の頃からユダヤ系の人々が政治の表舞台で活躍するようになり、ドイツでは外相、内相、オーストリアでは外相、蔵相のポストを占めました。ドイツもオーストリアも憲法の主要な起草者はユダヤ系でした。かつては金融界や知識層に多かったユダヤ人が、政治にも進出してきているとなると、世界征服の陰謀がにわかに真実味を帯びて感じられるようになります。

それが真実かどうかは、ここでは問題になりません。陰謀論にはまった大衆が勝手に想像力を働かせてくれたおかげで物語世界がふくらみ、ナチスの世界観を強化していくことになりました。仮にその物語に疑問を持つ人がいても、何か変わったことを言えば、秘密国家警察であるゲシュタポに検挙されるかもしれないので、なかなか口にできません―――何をやったら反体制派と見なされることになるのかよく分からない状況を作り出して不安にさせることが、全体主義下の秘密警察の特徴です。誰も表立って口にしない。だから政権に対抗するもう一つの物語へと発展していかない。疑問に思っていた人も、自分の気のせいだったかもしれない、と自分に言い聞かせ、修正しようとする。そのため、ナチスの作り出した世界観に合った物語だけが流通し続けることになります。

求心力を維持するための「奥義」

世界観によって大衆の心をつかみ、組織化することが全体主義運動の最初のステップだとすると、その世界観が示すゴールに向けて、大衆が自発的に動くよう仕向けるのが次なるステップです。その手法を、ナチスは秘密結社に学んだとアーレントは指摘しています。

模範として秘密結社が全体主義運動に与えた最大の寄与は、奥義に通ずる者とそうでない者との間にヒエラルキー的な段階づけをすることから必然的に生ずる、組織上の手段としての嘘の導入である。虚構の世界を築くには嘘に頼るしかないことは明らかだが、その世界を確実に維持するには、嘘はすぐばれるという周知の格言が本当にならないようにし得るほどに緻密な、矛盾のない嘘の網が必要である。全体主義組織では、嘘は構造的に組織自体の中に、それも段階的に組み込まれることで一貫性を与えられており、その結果、ナイーヴなシンパ層から党員と精鋭組織を経て指導者側近に至る運動の全ヒエラルキーの序列は、各層ごとの軽信とシニカルな態度の混合の割合によって判別できるようになっている。全体主義運動の各成員は、指導層の猫の目のように変わる嘘の説明に対しても、運動の中核にある不動のイデオロギー的フィクションに対しても、運動内で各自が属する階層と身分に応じた一定の混合の割合に従って反応するように定められているのである。このヒエラルキーもまた、秘密結社における奥義通暁の程度によるヒエラルキーときわめて正確に対応している。

単なる下っ端の「よく分かっていない人間」のままなのは嫌だ、という大衆の心理を巧みに利用して、秘密結社的なヒエラルキーを導入したということです。アーレントは「奥義」と表現していますが、「真実」あるいは「トップシークレット」と言い換えてみるとイメージが湧くのではないでしょうか。

人間は、何が真実なのか分からない、自分だけが真実を知らされていない状態というのは落ち着かないものです。秘密結社に入っても、トップシークレットを知り得るのはヒエラルキーの階段を昇り詰めた、ごく一部の人たちだけ。自分も知りたい、教えてもらえるようなポジションに就きたいと思わせるヒエラルキーを、ナチスは構築したわけです。

信用されればされるほど、上に行けば行くほど、より多くを知ることができる組織と言えば、ある程度の年齢の方であれば、オウム真理教のケースを想起されるのではないでしょうか。これはメンバーの忠誠心と組織の求心力を高める、最も効果的な方法です。もともと上昇志向が強い人はもちろんですが、出世に無関心であったような人でも、一度「他の人が知らないことを自分は知っている」ということの妙を味わうと、知らないまま(知らされない状態のままではいられなくなります。

こうした心理状態は、いじめという現象のなかにも見出すことができます。いじめの第一歩は、仲間外れを作り出すことです。任意の人物を、集団の意思決定のネットワークから排除する。すると、それまで無関心だった人も、身近に意思決定のネットワーク――いじめっ子のグループがあると分かる。分かると妙に気になって、自分もそのネットワークに加わり、なるべく中核に近いところへ行こうとします。それが自分を安心させ、満足させる最も手近な方法だからです。ヒトラーには、このような人間の心理がよく分かっていたのだと思います。

流動し増殖する組織-「運動」としての全体主義

アーレントは、全体主義は「国家」でなく「運動」だと言っています。奥義通暁の程度に応じて細分化されたヒエラルキーも、大衆の心を組織の中枢へと引き寄せ、絶えず動かしていくための仕組みといえるでしょう。

通常の国家は、指導者を頂点として、命令系統が明確なピラミッド状(もしくはツリー状)の組織を形成します。法による統制を徹底するには、それが不可欠だからです。これに対し、組織が実体として固まっていかないのが「運動」。イメージとしては台風や渦潮に近いと思います。

台風の目(中枢)は確認できても、全体の形状は不安定で、輪郭も定かではありません。全体主義においては、命令を発する台風の目も常に運動し、それに合わせて周辺の雲(組織)もどんどん形を変えていきます。

「運動」は全体主義の特徴であると同時に、急所でもありました。気圧の運動が鈍化すると台風の勢力が弱まるように、運動の担い手である大衆が安定してしまうと求心力が落ちてしまう。それを防ぐためにナチスが講じた諸策のなかで、アーレントが特に注目したのが「組織の二重構造化」でした。

第三帝国の初期には、ナチスは何等かの意味で重要な官庁はすべて二重化し、同じ職務が一つは官吏によって、もう一つは党員によって執行されるようにすべく配慮していた。

例えば外務組織も、旧来の外務省とその職員を温存しつつ、党の機関として新たに二つの外務組織を設け、片方には東欧やバルカンのファシスト運動との関係を、もう片方には西欧諸国との外交関係を担当させています。

警察組織に関しても、悪名高きゲシュタポ(秘密国家警察)がすべてを牛耳っていたわけではありません。単一機関に任せると、肥大化してヒトラーを脅かす存在になりかねないからです。同等の組織を横に並べる二重化のほか、エリート組織の上に新たなエリート組織を重ねることも行っています。

一例として、ナチスの軍事的な任務がどのように担われていたかを見てみましょう。通常の国家であれば、それは国防軍が独占的に遂行するものですが、ヒトラーはゲシュタポやSS(親衛隊)、SA(突撃隊)のような複数の機関に分散しています。

SAはナチスの武装行動隊で、一九二一年に設立されました。SSはヒトラー個人を守る護衛隊で、二五年に設立されたときはSAの下部組織だったのです。しかし、三三年の政権獲得後、SAがヒトラーの統制を外れる行動をとり始めると、ヒトラーはこれを許しませんでした。SSに指示してSA幹部の虐殺を実行し、組織を無力化したのです(レーム事件)。その後、SSは正規軍に準ずる武装部隊を擁する組織に発展し、武装SSと呼ばれるようになりました。SSの指導者だったヒムラーは、三三年から三六年にかけて各州の警察長官のポストも掌握して、SSの統轄下にゲシュタポ(秘密国家警察)を設立。SS・ゲシュタポの両組織が反ユダヤ政策の実行にあたることになります。SSにはこの他、国防軍が闘っている最前線の後ろでユダヤ人を虐殺して回る特別行動部隊という準軍事的な部隊もありました。

このように、ナチス・ドイツの組織構造は、二重化どころか、次第に「増殖」の様相を呈し始めます。あまりに複雑で、外からはもちろん、組織のなかにいてもその全貌や指揮系統が見えづらい――それこそがヒトラーの狙いでした。ヒトラーが優先したのは、統治の安定化ではなく、不安定な状態のまま、組織の求心力を維持し高めていくことでした。何重にも組織を作って忠誠心を競わせたのはそのためです。

強制収容所がユダヤ人から奪ったもの

ナチス政権は十二年しか続きませんでしたが、少なくともその間はヒトラーの絶対的支配が揺らぐことはありませんでした。すべての計画、殲滅すべき敵は、特段の理由もなく彼の一存で決められ、「なぜ」ということを彼に問う者も、それどころかそこに疑問を持つ者すらいなくなったとアーレントは指摘しています。

誰が逮捕され粛清さるべき人間であるか、彼が何を考え何を計画するかははじめから決まっているのであり、彼が実際に何を考え何を計画したかは誰の興味もひかない。彼の犯罪が何であるかは、客観的に、いかなる〈主観的因子〉も参考にすることなく決定される。世界のユダヤ人と闘うのであれば、敵はシオンの賢者の陰謀の一味である。親アラブ的な対外政策を展開しようとしているのであれば、敵はシオニストである。

誰が、どんな罪を犯したかは、もはや問題ではありません。ユダヤ人による世界征服の陰謀などというものが嘘だったとしても、それが露見する怖れはありませんでした。それ

は、全体主義が不安定な「運動」だったからです。

安定した現実のなかでは、そしてすべての人に監視されている世界のなかでは嘘はすぐばれてしまう。嘘がばれないですむのは、全体的支配の状況がすでに日常世界を広く蔽ってしまい、プロパガンダが不必要になったときだけである。

不安定な運動のなかにあっては視界が悪く、嘘も見えなかったのです。いったん支配が確立し、全体主義という「台風」が人々の日常を完全に呑み込んでしまうと、「計画」を遂行するために誰かを説得したり、理由を説明したりする必要もなくなります。ナチスが「ユダヤ人のいない世界」を実現することは、さほど困難なことではなくなりました。その世界観を完成させたのが強制収容所であり、絶滅収容所です。

ナチスが最終的に「絶滅」を目指すようになった要因に、第二巻でアーレントが論じていた優生学的人種思想の影響があったと考えられます。文化的アイデンティティをベースとする「国民」概念で選別していれば、例えばユダヤ教を捨てた人は迫害の対象外にできたかもしれません。そうでなければ国外に亡命してもらう、という方法もあったでしょう。しかし、運動の初期段階で「人種」や「民族」という概念を世界観に持ち込み、それを統治の原理に組み込んだナチスは、ドイツ人たちにとって分かりやすい形で、「血」を浄化するつまり、守るべき血統と絶やすべき血統を厳密に弁別し、後者を排除する必要があったのです。「浄化」を最も分かりやすい形で実現するのが、絶滅です。絶滅させてしまえば、これ以上、血が汚されることはありません。突拍子もない話ですが、巨大な警察+軍事国家による全体的支配体制を確立すれば、不可能ではありません。そうやって、辻褄を合わせようとしたわけです。

ちなみに「血」のたとえは、ヒトラーが発案し、多くのナチス宣伝家が取り入れました。具体的には、異人種間の婚姻を「血の屈辱」と呼ぶことなどによって、ドイツ人の心理に原初的な感情を喚起したのです。一九三五年に制定されたニュルンベルク法は、ユダヤ人とドイツ人との婚姻・性交を禁止するなど、まさに「血の浄化」を法制化したものです。ナチスは、当初は単なるレトリックにしか見えなかったものを現実化していったのです。

強制収容所および絶滅収容所の罪過について、アーレントは次のように指摘します。

強制収容所および絶滅収容所の本当の恐ろしさは、被収容者がたとえ偶然生き残ったとしても、死んだ人間以上に生者の世界から切り離されている――なぜならテロルによって忘却が強いられているからということにある。ここでは殺害はまったく無差別におこなわれる。まるで蚊をたたきつぶすようなものだ。誰かが死ぬのは、組織的な拷問もしくは飢えに堪えられなかったからかもしれないし、あるいは収容所が一杯になりすぎていて、物質としての人間の量の超過分を処分しなければならなかったからかもしれない。また逆に、新たに供給される物質としての人間の量が不足する場合には収容所の定員充足率が下がり、労働力不足になる危険が生じるので、今度はあらゆる手段をもって死亡率を減らせという命令が出されることもある。

「生者の世界」とは、一般のドイツ人の社会を指します。彼らの多くは、強制収容所や絶滅収容所の内情を知りませんでした。情報統制が敷かれていたということもありますが、ナチスがユダヤ人を段階的にドイツ社会から切り離していたので、すでに「自分たちとは関わりのない存在」になっていたというのです。

ユダヤ人の段階的切り離し

ユダヤ人の段階的切り離しについて、少し歴史的な過程を補足しておきましょう。ヒトラーが首相に就任した三ヵ月後、一九三三年四月に制定された職業官吏再建法で非アーリア人は官庁から排除されます。次いで、大学教師、弁護士、公証人、保険医など、公的職業にユダヤ人が就くことが禁止され、民間企業にも圧力がかかります。自営業の人はアーリア系企業への売却が迫られ、自由業の場合でも、ユダヤ人の作家の著作が焚書に遭うなど、ユダヤ人の職業生活が次第に困難になり、多くの人がドイツを離れます。序章でもふれたようにアーレントたちも比較的初期に亡命しています。そして一九三五年九月に先ほどのニュルンベルク法が制定され、ユダヤ人はドイツ人と性的関わりを持てないだけでなく、選挙権や公務就任権が奪われます。

九三八年十一月、ユダヤ人少年による在パリ・ドイツ大使館員狙撃事件を口実に、ナチスに扇動された民衆による本格的なユダヤ人迫害が始まります。ユダヤ人商店やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)、企業、住宅が破壊されました。その際砕けたガラス片を水晶にたとえて、この事件は「水晶の夜」と呼ばれました。こうしたなかで、SSとゲシュタポはユダヤ人の国外追放や強制収容所送りを進めました。約三万人のユダヤ人男性が強制収容所に入れられました。更にユダヤ人に特別税が課され、損害保険金も没収され、ユダヤ系の企業の資産はアーリア系の企業に無償譲渡されました。こうやって、ユダヤ人を迫害して追い出すこと、ユダヤ人がいない環境で暮らすことが次第に当たり前になりました。またそれが、ユダヤ人がいなくなった後の官僚ポストに就いたり、国外に出て行ったユダヤ人の財産を受け継いだ人たちにとっての利益になりました。

翌三九年、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が始まり、ドイツが東欧の各地を占領支配するようになると、ヒトラーは東欧をドイツ民族の新たな入植地(東方生存圏)にするという、『我が闘争』(一九二五、二六年)以来の構想を実現しようとしました。しかし、それを実現するには占領地に暮らしている人々、特にユダヤ人をどうにかしないといけません。東欧には数百万人単位のユダヤ人がいました。フランス降伏後の仏領マダガスカル島へのユダヤ人移送計画(四〇年)、独ソ戦勝利後のロシア東部への移送計画(四一年)も立てられますが、いずれも計画倒れに終わってしまいます。その間、東方ではナチスの支配地域が広がっていきました。敵対勢力であるユダヤ人を監視下に置きながら占領を続けるのは負担ですし、彼らをどうにかしないと、ドイツ民族を中心とした東欧地域の再編(東部総合計画)が進みません。実際、ドイツ本国の人や民族ドイツ人の移住計画が既に動き始めていました。そこで文字通り、絶滅させるという選択肢が浮上してきます。

四一年六月に独ソ戦が始まると、特別行動部隊が前線の背後で、現地に居住するユダヤ人を虐殺し始めます。半年間に五十万人以上が殺されたとされています。この虐殺の進行によって、問題の解決のために彼らを丸ごと殺害するというやり方が、既成事実になっていきました。当初は、ソ連を速やかに征服して、ロシア東部にユダヤ人を移送するつもりだったのに、戦線が膠着化して、うまくいかなくなったこともあって、この路線が有力になりました。ユダヤ人問題の解決策は、「強制移送」から収容所での「絶滅=ホロコースト」に転換したわけです。

絶滅計画はなぜ可能だったか

ナチスの歴史を研究する歴史家の間で、直接的に虐殺の任務を与えられていなかった人たち、例えば治安維持を担当する予備警察部隊の隊員にも、ユダヤ人をなぶりものにして楽しみながら殺そうとする残酷な態度が見られるのをどう解するかが話題になったことがあります。「普通のドイツ人」にも、単なるユダヤ人嫌悪にとどまらない、絶滅を志向するようなメンタリティがあったのではないか、ということです。なかなかはっきりした答えの出ない問題ですが、十九世紀以降次第にヨーロッパ諸国、特にドイツ語圏に浸透していた反ユダヤ主義が、ナチス政権の八年間の間にドイツ的日常の一部になっていたことと、総力戦の戦場における緊張・高揚感が相乗作用を引き起こしたということは言えるでしょう。

「絶滅計画」が実行された主要な舞台が、ドイツ本国ではなく、東欧の占領地域だったことも、実行者たちにとって殺害のハードルが低くなった要因かもしれません。「追放計画」は政策として公表されていましたが、「絶滅計画」は一般国民向けには公表されず、ヒトラーと側近だけで方針を決め、特別行動部隊やSSの絶滅収容所の管理部門で実行されました。ただ一般国民も、戦争中とはいえ、隣人がいきなり連行されたら、心配したり、不安になったり、少なくとも行き先くらいは気になると思いますが、今までお話ししたようにユダヤ人が徹底して隔離され、そこにいてはならない存在だという教えが浸透したためか、あまり気にする人はいなかったようです。“自分と同じ一般市民〟である隣人がいなくなれば、我が身にも同じことが起こるかもしれないと不安になるかもしれませんが、ユダヤ人は自分たちとは縁もゆかりもない異質な存在になっていました。つまり、いなくなっても、あまり気にならない存在になっていた、ということです。

西欧世界はこれまで、その最も暗黒の時代においてさえ、われわれはすべて人間である(そして人間以外の何ものでもない)ということの当然の認知として、追憶される権利を殺された敵にも認めて来た。アキレスはみずからヘクトールの埋葬におもむいたし、専制政府も死んだ敵を敬ったし、ローマ人はキリスト教徒が殉教者伝を書くことを許したし、教会は異端者を人間の記憶のなかにとどめた。だからこそすべて跡形なく消え去ることはなかったし、あり得なかったのだ。人は常に自分の信条のために死ぬことができた。強制収容所は死そのものをすら無名なものにする―――ソ連では或る人がすでに死んでいるかまだ生きているかをつきとめることすらほとんど不可能なのだ――ことで、死というものがいかなる場合にも持つことができた意味を奪った。それは謂わば、各人の手から彼自身の死を挽ぎ取ることで、彼がもはや何も所有せず何ぴとにも属さないということを証明したのだ。彼の死は彼という人間がいまだかつて存在しなかったことの確認にすぎなかった。

アーレントがここでこだわっているのは、ナチスがユダヤ人の「死」をどう扱ったかということです。ただ命を奪ったのではなく、そもそも、その人が存在していたという事実まで抹消した名前も信条も、人格や個性も「なかった」ことにした――というのです。

アーレントが参照しているように、古代ギリシアの叙事詩に登場するアキレスは、仇の遺体を家族の元に返しています。有史以来、人間は自分が殺した敵のことも、殺さなければならなかった理由や経緯と共に記憶に留め、ときには敵を敬いもしました。しかし強制収容所での死は、殺した側が「人を殺した」という実感すら持たないようなものでした。ナチスは「ユダヤ人がいない世界」を作ろうとしたのではなく、「そもそもユダヤ人などいなかった世界」に仕立てようとしたわけです。

それが可能だったのは、ナチスがドイツ人からも道徳的人格を奪っていたからだとアーレントは示唆しています。道徳的人格は、私たちがお互いを単なる生物学的な意味でのヒトではなく、自由な意思を持った、自分と同等の存在として尊重し合う根拠になるものです。道徳的人格がないヒトは、ただの有機体、動く物質です。道徳的人格が否定された存在を殺すのは、物質を壊すこと、せいぜい、他の生き物を殺傷処分することと同じです。隣人が連行されたドイツ人の無関心も、良心の呵責に苛まれることなくユダヤ人を死に至らしめた人々のメンタリティも、全体主義支配が進展していく中で、ユダヤ人の法的人格が段階的に剥奪され、それに伴って、その根底にある道徳的人格も否定されたことの帰結です。

道徳的人格と「複数性」

アーレントは、そうした道徳的人格は生得的なものではないと考えます。生物としてのヒトが育っていくうちに、自然とお互いの人格を認め合い、かけがえのないものと見做すようになるわけではありません。アーレントにとって、人間は私的(プライベートな)領域だけでなく、「政治的領域」でも生活する存在です。私的領域は、生物として生きていくうえでのニーズを満たすだけの領域です―――アーレントは、私的領域を親しい人同士の親密な関係が築かれる領域というより、人の生活に関わる様々なことが秘密裏に(inprivate)処理される領域としてネガティヴに捉えています。それに対して、政治が営まれる公的領域では、人々はお互いに言語や演技によってお互いに働きかけ、説得しようと努力する中で、他者が人格をもった存在であること、更に言えば、自分とは異なった意思を持つ存在であることを学んでいきます。

そのようにして自律した道徳的人格として認め合い、自分たちの属する政治的共同体のために一緒に何かをしようとしている状態を、アーレントは「複数性plurality」と呼びます。アーレントにとって「政治」の本質は、物質的な利害関係の調整、妥協形成ではなく、自律した人格同士が言葉を介して向かい合い、一緒に多元的(plural)なパースペクティヴを獲得することなのです。異なった意見を持つ他者と対話することがなく、常に同じ角度から世界を見ることを強いられた人たちは、次第に人間らしさを失っていきます。

全体主義的支配は、一方では政治的・公的領域の消滅の後にも残っている人間間の一切の関係を破壊し、他方ではこのように孤立化され、お互いを見捨てたあげく、放置された状態にある人々が再び、政治行動―もちろんそれは真の政治的行為ではないのだが――に動員されるような状況を否応なしに作り出す。

ナチスの全体主義的支配で、言葉によって人々が結び付く「公的領域」が崩壊した状態で生き続けた人たちは、プロパガンダの分かりやすい言葉に反応しやすくなります。そうやって他者との繋がりを回復しようとするわけですが、それは対話を通して他者を理解するようになる言葉ではなく、動物の群れを同じ方向に引っ張っていく合図の呼び声のようなものです。人々は、そういう単純なシグナルに従って、同じ方向に進んでいくことが政治で、それによって人間らしい繋がりを回復できると勘違いしてしまうのです。「公的領域/私的領域」の関係や、「複数性」をめぐるアーレントの議論は結構複雑なのですが、終章で少しまとめた形でお話ししたいと思います。

道徳的人格が解体されていく(つまり、自分の頭で考えたり、判断したりしなくなる)過程や、人格としての自律を失った人間のメンタリティについて、アーレントがより本格的に取り組むきっかけとなったのがアイヒマン裁判です。

元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの裁判は、ユダヤ人が建国したイスラエルで開かれました。これを傍聴したアーレントが何を感じ、どのような結論に至ったのか。第4章では、裁判の一部始終から死刑執行までを追ったアーレントの著作『エルサレムのアイヒマン』を紐解いていきたいと思います。

現代にも起こり得る全体主義

アーレントは『全体主義の起原』のエピローグで、先ほど見たように、全体主義支配が人間の「自己」を徹底的に破壊することを指摘しています。彼女自身はナチスのような全体主義が再興する危険性を、具体的な形で言及してはいません。しかし、条件が揃えば現代でも全体主義支配が起こる可能性はゼロではないと思います。

ナチスが台頭した頃と同様、現代は個人がバラバラになっています。人間同士のリアルなつながりが薄れる一方、人々が逃げ込むインターネット上ではプロパガンダが跋扈しています。

人間は、明快な世界観や陰謀論的なものに弱いものです。大人向けのアニメの多くに陰謀論的な筋書きが施され、またそうしたものが支持されているということに、それは表れているでしょう。

強い不安や緊張状態にさらされるようになったとき、人は救済の物語を渇望するようになります。それまでの安定と、現在の不安とのギャップが大きければ大きいほど、分かりやすい物語的世界観の誘惑は強くなります。経済的格差が拡大し、雇用や福祉制度などの社会政策が崩壊しかけていると言われる今の日本は、物語的世界観が浸透しやすい状況と言えるかもしれません。

ナチスも、結党当初はそれほど強い支持を得ていたわけではありません。しかし第一次世界大戦で敗北して以降、急速に経済が逼迫するなか、当時の政権(ヴァイマル共和政の社会民主党政権)は、大衆が国の再興を実感できる(期待できる)処方箋を提示できずにいました。議会での民主的審議を重視するあまり、物事を決定できなくなっていたのです。戦勝国に対しても、強い交渉力を発揮できていないように(大衆には)見えた。我慢できなくなった大衆が求めたのは、強力なリーダーシップを発揮できる剛腕でした。様々な問題を一発解消してくれる秘策が、どこかに必ずあるはず-そう期待したのです。それまで政治に対してまったく無関心・無責任だった人たちが、危機感のなかで急に“政治〟に過大な期待を寄せるようになると、そういう発想に陥りがちだという点にも留意する必要があるでしょう。

現代でも、特に安全保障や経済に関連して、多くの人が飛びつくのは単純明快な政策です。完全に武力放棄するか、徹底武装するか。思い切った量的緩和こそ最善の策と主張する人がいる一方で、古典的自由主義に則って市場介入を一切やめるのが正解という人もいますが、世界はそれほど単純ではありません。

単純な解決策に心を奪われたときは、「ちょっと待てよ」と、現状を俯瞰する視点を持つことが大切でしょう。人間、何かを知り始めて、下手に「分かったつもり」になると、陰謀論じみた世界観にとらわれ、その深みにはまりやすくなります。全体主義は、単に妄信的な人の集まりではなく、実は、「自分は分かっている」と信じている(思い込んでいる)人の集まりなのです。

分かりやすい説明や、唯一無二の正解を求めるのではなく、一人ひとりが試行錯誤をつづけること。アーレントの「全体主義の起原」は、その重要性を言外に示唆しているように思います。

第一次世界大戦後の賠償金問題

一九一九年、連合国側とドイツはヴェルサイユ条約に調印し、ドイツはすべての植民地と領土の一部を失い、さらに巨額の賠償金の支払い(一九二一年、千三百二十億金マルクに決定)を課せられた。

世界恐慌

一九二九年、ニューヨーク株式市場での株価の大暴落から世界中に拡大した経済恐慌。ドイツはヴェルサイユ条約と世界恐慌により、深刻な経済状況に陥った。

ボルシェヴィズム

ソ連共産党の前身であるボルシェヴィキの政治思想。ボルシェヴィキは「多数派」の意味で、一九〇三年にロシア社会民主労働党が分裂した際にレーニンが率いた勢力。彼らはブルジョア階級との妥協を排し、前衛政党が労働者・農民を指導する武装革命を提唱し、一七年の十月革命で政権に就くと党による独裁体制を築いた。分裂したもう一方の勢力は「メンシェヴィキ(少数派)」と呼ばれた。

プロクルステスのベッド

ギリシア神話に出てくるアッティカの追い剥ぎプロクルステスが、通行人を捕らえてベッドに無理やり寝かせ、身長がベッドより長ければその長さだけ足を切り落とし、短ければ槌で打ち伸ばしたというエピソードから、容赦ない強制や杓子定規の意味で使われる。

『永遠のユダヤ人』

一九四〇年に公開された、ナチスの宣伝相ゲッベルスの指示で製作された反ユダヤ主義のプロパガンダ映画。原題の〈DerewigeJude>は、十字架のイエスを侮辱したため、永遠に放浪する呪いを受けた「彷徨えるユダヤ人」という民間伝承の登場人物を指す。アーリア人の優秀さとユダヤ人の劣等性の対比を強調しながら、ユダヤ人の世界支配の陰謀を描き出す。

ゲッベルス

一八九七~一九四五。ナチス政権の宣伝相として、言論・文化統制を行って反ユダヤ主義を喧伝し、国民を戦争に動員した。ヒトラーは彼を後継首相に指名して自殺したが、ゲッベルスもその翌日に自殺。

レーム事件

ナチス政権樹立後、SAの正規軍への格上げを主張し、ヒトラーや国防軍の首脳部と対立を深めていたSA幕僚長のレームや、社会主義的な路線を追求するナチス左派の領袖グレゴール・シュトラッサー、ヒトラーを公然と批判していたシュライヒャー元首相等がSSやゲシュタポ、国防軍によって粛清された事件。一九三四年六〜七月。これによってヒトラーの権力は絶対的なものになる。

ヒムラー

一九〇〇~四五。ナチスの党官僚。一九三六年にSS全国指導者兼全ドイツ警察長官に就任し、国内の警察機構を掌握する。政権末期には内務大臣も兼務する。

ニュルンベルク法

ナチス政権下のドイツで、一九三五年九月に制定された「ドイツ人の血と名誉るための法律」「帝国市民法」の二つの法律の総称。ナチスの全国党大会が開かれていたニュルンベルクにおいて召集された国会で議決されたことから、この名称で呼ばれている。前者でドイツ人とユダヤ人の婚姻や性交渉が禁止され、後者で非アーリア人に対して、選挙権や公職就任権などの帝国市民権が否定された。これらの法律の施行令でユダヤ人の定義が明確にされた。

マダガスカル計画

ドイツの勢力圏内に住む三百万~四百万人と言われるユダヤ人を集めてアフリカ東岸の仏領マダガスカル島に移住させることで、ユダヤ人問題を解決する計画。一九三八年頃からゲーリングやリッベップなどのナチス幹部の間で強制移住味が検討され始め、三九年一月に保安警察長官のハイドリヒを本部長とし、アイヒマンを実質的責任者とする「ユダヤ人移住中央本部」が創設される。一九四〇年六月にフランスがドイツに降伏したことで、現実味が増すが、大西洋の制海権を握る英国との講和が前提だった。四〇年八~九月のイギリス本土大空襲(バトル・オブ・ブリテン)が失敗したため、この計画も挫折した。

民族ドイツ人

ドイツの国外に居住しているが、血統的・人種的にドイツ人と認められる人。ナチスは東欧の占領地域で、民族ドイツ人とユダヤ人やスラブ人を区別し、前者を優遇した。また、ポーランドの占領地域の内、ドイツ帝国に編入した西部地域に、ポーランド東部、ソ連、バルト三国、ルーマニア等に居住する民族ドイツ人を移住させ、ゲルマン化を図った。*122独ソ戦ナチスは当初は徹底した反共の立場を取り、ソ連と敵対していたが、チェコスロヴァキアの併合をめぐって西欧諸国との緊張関係が高まると、同じ様に西欧諸国と緊張関係にあったソ連と相互に接近するようになる。一九三九年八月に独ソ不可侵条約を結び、九月にそれぞれポーランドに侵攻し、分割占領する。しかし、東方こそがドイツの生存圏だと信じていたヒトラーは、対ソ戦争の準備を命じ、四一年六月に三百万の兵力を投入してソ連を奇襲攻撃する(バルバロッサ作戦)。

アキレス

ギリシア神話の英雄、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の主人公。女神と人間の王の間に生まれた半神で、踵(アキレス腱)以外はいかなる攻撃によっても傷つかない。トロイ戦争で、自分の親友を殺したトロイの王子ヘクトールと戦い、復讐を遂げる。ヘクトールの遺体を戦車につないで引き摺り回すが、ヘクトールの父である、トロイの王プリアモスの懇願に心を動かされ、遺体を引き渡す。

 209『世界の歴史⑮』

成熟のイスラーム社会

オスマン帝国の成立

王子メフメトの夢

一四五一年にメフメト二世が最終的に即位すると、オスマン朝の歴史は新しい局面をむかえた。かれは、その精力的な征服活動もあって、ヨーロッパ諸国からは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血に塗れた君主」などと恐れられているが、トルコ人にとっては偉大なる君主以外の何者でもないことはもちろんである。一四五三年五月二十九日にコンスタンティノープルは五三日間の激しい抵抗の末に陥落した。この町の征服はかれの子どものころからの夢の実現であった。それは、継母であるセルビアの旧封建領主の娘マラからコンスタンティノープルの絵を見せてもらったりして、早くからこの町になみなみならぬ関心をもっていたからである。一方、イスラーム勢力としては、六四二年のニハーワンドの戦いでサーサーン朝ペルシアを滅亡させて以来の目的の達成であった。コンスタンティノープルの攻防の様子はわが国でもすでによく知られている!

ハンガリー人ウルバンに作らせた巨大な大砲や、金角湾の入り口が鉄の鎖で閉鎖されたためにボスフォラス海峡側から陸地を通って金角湾に船を降ろした「艦隊山越え」のエピソードなど話は尽きない。しかしなんといっても勝利を決定づけたのは、メフメトがハンガリー人の技術者ウルバンを、高い報酬を支払って雇うことができたのに対して、ビザンツ側は自分の技術を売り込んできたウルバンを資金不足で雇うことができなかった事実にみられる、オスマン朝とビザンツ帝国との経済力の差である。そしてこの差こそ、すでにアナトリアとバルカンの多くの地域をオスマン側が確保し、エーゲ海とマルマラ海一帯に一つの商業圏すら成立させていたという現実に根ざしていた。その中心がブルサとエディルネ(旧アドリアノープル)であった。当時まだエーゲ海沿岸各地に領土を持っていたヴェネツィアと、クリミア半島のカッファ港をコロニーとしていたジエノヴァとは、すでにビザンツ帝国を見限り、トルコ勢との通商に将来を託していた形跡がある。コンスタンティノープルの攻防におけるオスマン朝の軍勢は一〇万から一二万にのぼったのに対して、ビザンツ側は七〇〇〇人であったという。それもそのはずで、コンスタンティノープルは第四回十字軍の略奪によりすでに荒廃しきっており、かつて一〇〇万といわれた住民もいまや五万人前後に減少していた。

オスマン帝国の成立

コンスタンティノープル征服によるビザンツ(東ローマ帝国の消滅は、ヨーロッパ史上に中世の終わりを告げる大事件であった。この事件が当時のヨーロッパ諸国にあたえた「恐怖」は想像にかたくない。しかし、コンスタンティノープル征服は、オスマン朝にとってもその国家の本質的な転換につながるできごととなった。その第一は、これまで大きな都市をもったことのないオスマン朝が、はじめてメガロポリスともいえる大都市を手中にしたことにある。第二は、すでにスルタンというイスラーム国家の君主の称号をえていたとはいえ、実質的にはいまだトルコ系ガーズィ集団のリーダーにすぎなかったオスマン朝の君主が、いまや中央ユーラシア以来の遊牧君主ハーン(大可汗)、古代ペルシア以来の伝統のあるシャー(オスマン帝国ではパーディシャー)、そしてビザンツ皇帝の威容をもおびる専制君主となったことである。メフメト二世は征服直後に父ムラト二世の時代から絶大な影響力をもっていたトルコ人の有力者チャンダルル・ハリル・パシャを処刑し、代わってバルカンのキリスト教徒出身のザガノス・パシャを大宰相に据えることによって中央集権支配の足場を築いた。これ以後、草創期に活躍したガーズィやアナトリアのトルコ系の有力な家系の者たちはしだいに政治の中枢から排除され、ザガノスのような「デヴシルメ」(後述)出身の「奴隷」身分の軍人・官僚が重用されることになる。こうした一連の中央集権化政策は、オスマン国家の永続性を確保した点で、オスマン朝の歴史の上に決定的な転換点をなした。つまり、オスマン朝は、征服によって獲得された国土を一族の間で分割(分封)するという中央ユーラシア以来の遊牧国家の慣習を払拭できず短期間に分裂・消滅したセルジューク朝やティムール朝などの限界を乗り越えたのである。

こうして、イスタンブルを首都とし、広大な地域を中央集権的な支配のもとにおさめたこの国家を、以後われわれは「オスマン帝国」と呼ぶことにしよう。少しのち、十六世紀はじめのことになるが、シャルル八世の率いるフランス軍の侵入を経験して、小国家の分立状態にあったイタリアのマキアヴェリが祖国を救う手だてとして範としたのは、専制君主のもとに「力と統一」を実現した「トルコ」であった。ただし、こうした中央集権化への道も、ただメフメト二世の個性とコンスタンティノープル征服とによって突然生まれたものではない。アンカラの戦いで挫折したとはいえ、バヤズィト一世以来の歴史的な経験の所産であったことをつけ加えておこう。また、この国家の統治理念や官僚機構などについては、のちにふれることにしよう。

コスモポリタンな宮廷

メフメト二世は最初、グランド・バザールの近く、現在イスタンブル大学の本部のおかれている場所に宮殿を作ったが、やがて帝都にふさわしい新たな宮殿の建設が一四六五年に着手され、七八年に完成した。これがトプカプ宮殿である。以後ここは一八五三年までオスマン王家の居所であり、かつ政治の中心として機能した。ただし、ここにオスマン王家の女性や子供たちが移り住んで「ハレム」ができたのは、ずっとのちムラト三世(在位一五七四~九五年)時代のことである。「ハレム」の名は、ヨーロッパ人のオリエンタリズムによって歪んだイメージが持たれているが、要は、オスマン王家の「家庭」であり、またオスマン帝国の文化の先端をいく「上流文化のサロン」である。

トプカプ宮殿は、左の図にみるように、ヨーロッパ型の大宮殿とはまったく違う景観をもっている。第一の門、第二の門と順々に進んだのち、ようやく内廷へとたどりつく。そうした手順は中国の紫禁城をしのばせるという考え方もなりたつ。しかし、それよりも、歴代のスルタンたちが思い思い気に入った場所にキオスク(東屋)を建てることによってできあがったこの宮殿は、遊牧民の天幕の集合体といった趣きである。それは遊牧文化の伝統をしのばせる。

第二門をくぐった御前会議のある庭園には、珍しい花が咲き乱れ、鹿やダチョウなどの動物が放し飼いにされ、芝の上を流れる水音だけが静寂を乱す唯一のものだったという。これは自然をこよなく愛するトルコ人の感覚であり、むしろバ―グ(庭園)を好んだサファヴィー朝の宮殿と一脈通じるものがある。スルタンたちは、ここでいくさと政務に疲れた心と体をいやしたのである。

しかし、メフメトの宮廷での生活ぶりは、やはりコスモポリタンであった。メフメトはトルコ語のほかにアラビア語、ペルシア語をよく知っており、少しではあるが、イタリア語とギリシア語も知っていた可能性がある。かれの宮殿で文学用語として幅をきかせていたのはペルシア語であった。ニザーミーの『ハムサ(五部作)』やフェルドウシーの『シャー・ナーメ(王書)』が好まれたという。また、イル・ハーン国の宰相ラシード・アッディーンの『集史』も盛んに読まれた。ペルシア語と張り合ったのはティムール朝のアリ・シール・ナヴァーイーとジャーミーに代表されるチャガタイ文学であった。これらのことは、一方ではオスマン・トルコ語がまだ文学としては十分に成熟していなかったことを示すとともに、他方では、中央ユーラシアやイランとの文化的連続性が濃厚であったことを物語っている。こうした雰囲気を伝えるのが、メフメトがアリー・クシュチュ(一四七四年没)という人物を厚遇した事実である。クシュチュの父は、サマルカンドに天文台を作ったことで知られるウルグ・ベク(ティムールの孫)の鷹匠(クシュチュ)であった。

クシュチュはウルグ・ベクのもとで天文台建設の指揮をとったが、一四四九年にウルグ・ベクが暗殺されると、つぎの君主に仕えることを嫌ってメッカへの巡礼にでかけるとの口実でサマルカンドを離れ、タブリーズでトルコ系アクコユンル(白羊朝)の英主ウズン・ハサンを訪問した。ハサンもかれを歓迎して召し抱えた。その後、かれがメフメト二世のもとへ使節として派遣されたとき、メフメトはイスタンブルでかれをよい待遇で召し抱えることを提案した。クシュチュは一度タブリーズへ戻って使節の役目を果たした後、約束通りイスタンブルへ戻ったという。

メフメト二世は晩年に「御前会議」を直接主宰することをやめ、そのすぐ後ろの部屋から会議を見守る習慣を作った。そのきっかけとなったのは、ある日、アナトリアから来た遊牧民の族長が部屋に入ってきて「われらがスルタン陛下はどなたかな?」と聞いたからであるという。こうした話の真偽は定かではない。しかし、それはメフメト二世が臣下たちとあまり変わらぬ風体をしていたことを示している。以後、メフメト二世の宮廷ではこれまでのトルコ的・遊牧的で質素な雰囲気を改めて、ビザンツ的な重々しい雰囲気を醸し出すことに気をつかい、スルタンは、これまでのように大臣たちと一緒に食事する習慣を改めて別室で食事するようになったという。

メフメト二世の肖像画は本物か?

メフメト二世はイスラームの造形表現に対する忌避の観念を大胆に犯してイタリアのルネサンス画家ジェンティーレ・ベッリーニ(一四二九~一五〇七年)に肖像画を描かせたことで有名である。現在ロンドンにあるこの絵は後代の画家が修復したものらしい。一九三五年にこの絵の真偽を確かめるために行われたレントゲン撮影の結果、オリジナルな部分として残されたのはターバンだけであったという。あるトルコ人学者によれば、ジェンティーレ・ベッリーニが描いたメフメトのオリジナルの絵は王者の風格とはほど遠いやつれた姿であった。かれは二つの絵を比較して、メフメトは、実は癌であったと推測している。ベッリーニが肖像画を描いたのはメフメトの死のわずか八ヵ月前のことであった。メフメトがベッリーニだけではなく、イタリアのルネサンス画家を何人か招待したのは事実である。かれはイスラームの彫像に対する禁止戒律には無頓着であった。いまでもイスタンブルに残るヒポドローム(競馬場)の「三匹の蛇」の柱頭も、ウラマーたちの反対を押し切ってメフメトが破壊から救ったのだという。

不満なトルコ人たち

このように、メフメトは文人や学者の保護者であったが、かれがイタリア・ルネサンス画家のパトロンであったとするのは、もちろんいいすぎである。かれは基本的にはムスリム君主であった。かれがイタリア人教師からイタリア事情を学んでいたのは、ローマの征服を射程に入れていたからであろう。それにもかかわらず、メフメトがトルコ人よりもペルシア人、イタリア人、ユダヤ人を重用したことは、トルコ人にとっては不満の種であった。次の言葉はこうした不満を象徴している。

お前がスルタンの宮殿で名を高めようとするなら、お前はユダヤ人か、ペルシア人か、フランク(ヨーロッパ人)にならねばならぬ。

お前の名をハービル、カービル、ハミディと変えねばならぬ。

こうした言葉を聞くと、メフメト二世の時代はコスモポリタンな雰囲気にあふれてはいるが、その実はいまだイスラーム国家としてのオスマン帝国の体制とその文化とが確立するまでにいたらない過渡的な時代、オスマン朝史上にきわめて特異な時代であった。といえるであろう。

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 『分断と統合への試練 1950-2017』

2023年09月21日 | 4.歴史
プーチンの攻勢

ヨーロッパが移民の流入への対応に苦心すると同時に、テロ攻撃の脅威の高まりに直面しているとき、大陸の東方では、もう一つの別の危機が起きつつあった。二〇一四年三月一八日、ロシア大統領プーチンは、クリミア半島のロシアへの併合を発表した――三日後にはロシア連邦議会の下院(ドゥーマ)によって承認された。一九七四年のトルコ軍によるキプロス北部侵略と占領を除けば、第二次世界大戦の終結以降、ヨーロッパでは唯一の領土併合の例である。これは、ロシアとウクライナ間の緊迫した関係の深刻なエスカレートを示すだけではなかった。ロシアを欧米の北大西洋条約機構(NATO)諸国と直接対峙させることになったのである。ロシアはさらなる拡張を意図しているのではないか。そんな懸念がロシアの近隣諸国、とりわけバルト諸国に広がった。新たな冷戦という妖怪があるいはもっと悪い事態が-目を覚ました。恐怖がはっきり感じられたのは、またもや東欧及び中欧であった。

クリミア併合は、ウクライナで一段の不安定状況が表面化したことに続いて起きた。一九九一年以前は独立したことがなく、疑問の余地のない国民的意識を欠いた国での分裂と紛争は、二〇〇四年の「オレンジ革命」の結果によっても、解決されるにはほど遠かった。二〇一〇年にもなると、疑問を付された六年前の大統領選の勝者、ヴィトル・ユシチェンコは派閥争いと諸々の政治論争、そしてひどい汚職に対する批判の結果、事実上すべての支持を失っていた。だが、新大統領ヴィクトル・ヤヌコ―ヴィチの下で、ウクライナ特有の汚職と縁故主義はいっそう悪化した。ロシアと同様、多くの新興財閥が、たいていは贈収賄や脅迫または暴力で手に入れた不動産の窃取によって、莫大な財産を築いた。ヤヌコーヴィチの息子オレクサンドルも、たちまち莫大な財を成した者たちの一人だ。対外関係では、ヤヌコーヴィチはEUとロシアの間で微妙な舵取りをしようとした。ところがモスクワとしては、ヤヌコーヴィチがウクライナの公然の長期目標であるEU入りの抱負を公言するのが面白くない。ロシアの反対はあなどることができなかった。ウクライナはこの強力な隣国にガス供給を依存しているからだ。二〇一三年一一月、ヤヌコーヴィチは予定されていたEUとの連合協定を突然キャンセルし、代わりにロシア、ベラルーシ、カザフスタンとのユーラシア関税同盟を支持した。彼がロシアの圧力なしにその措置を取ったとは考えられない。それは致命的な策になった。キエフのマ–ダン(独立広場)を中心に、数十万人による巨大な抗議行動を誘発したのだ。その結果、暴力がエスカレーし、政府による抑圧が強まった。二〇一四年二月二欧米からの圧力でヤヌコーヴィチは退陣させられ、新たな臨時政府が発足。大統領選が前倒しされた。ヤヌコーチはヘリコプターでウクライナ東部へ、そこからさらにロシアへ逃げた。

プーチンがそんな屈辱に甘んじるわけはなかった。ロシアの力を誇示するには、クリミアは格好の標的だった。クリミアは一九五四年以来ウクライナの一部であり、混住する民族のなかでロシア人が多数派を形成している。それに、ロシア黒海艦隊の本拠だ――セバストーポリ港はウクライナから租借されていた。クリミアに介入すれば、ウクライナ指導部の反ロシア姿勢を罰するとともに、ロシア国内では、ナショナリストたちからプーチンに対する喝采を勝ち取ることになる。欧米がクリミアのために世界戦争の危険を冒すことは考えにくい。経済制裁は不可避だが、耐えられる代償だ。これがプーチンの計算だった。

ヤヌコーヴィチは、プーチンとの関係はいまや芳しくないものの、モスクワでは依然としてウクライナの正当な大統領と見なされていた。彼が追放されて数日後に、国章をつけていない武装集団がシンフェローポリにあるクリミアの州議会建物を占拠した。続いて、クリミアのロシア市民の保護を求めるモスクワ宛ての要請が滞りなく行われ、モスクワに受け容れられた。その後数日にわたり、ロシア軍がクリミアに入った。州議会はクリミアの独立を宣言し、ロシア連邦への加入希望を表明。これは三月一六日の国民投票で、有権者のほぼ九七パーセントが支持したとされた。翌日、議会からの正式のモスクワ宛て要請が行われ、これを受けて三月一八日、プーチンがクリミアのロシア連邦への統合を発表したのである。クリミア危機を政治的に解決しようとする欧米諸国首脳の外交努力は、予想どおり、まったく実を結ばなかった。ロシアは国連による非難にもためらわなかった。核戦争にまでエスカレートさせることは問題外である以上、明らかな国際法違反に対する報復として残った唯一の手は、制裁に訴えることだった。ロシアの外国口座が凍結され、渡航禁止が科されたが、EUはロシアからのガス・石炭輸入に依存しているため、行動を制約されていた。制裁はプーチンをそれほど困らせそうもなかった。そしてブーチンは、先進八カ国(G8)グループ参加国としての資格停止は我慢することができた。ロシアは孤立した。だが、クリミアが再びロシアから切り離される見込みはなかった。ロシア国内ではプーチンの人気は急上昇した。ロシアのメディアはクリミアの「回帰」を、偉大な国民的勝利としてはやし立てた。ミハイル・ゴルバチョフまでが、もし自分が同じ立場に置かれていたら、プーチンと違わない行動を取っただろうと述べた。かつての時代を思わせるプーチンのパワーポリティクスは、奏功したのであった。

とかくするうち、暴力は(ドンバスの工業地帯を中心に)東部及び南部ウクライナに広がっていた。炭鉱で働くために一九世紀末以降、モスクワ地方から大挙して移住していたロシア民族が人口の多数を占めている地域だ。権威ある国際的世論調査機関が実施した調査によれば、親ロシア感情は西部ウクライナに比べると間違いなく強いものの、分離主義を支持しているのは少数にすぎず、大多数は統一ウクライナ国家を望んでいた。ドンバスへのロシアの介入に対しては、東部及び南部ウクライナでさえ住民の大多数が――そしてロシア語話者の過半数が――反対の意見だった。だが、モスクワが東部ウクライナの分離主義勢力に軍事支援を与える用意があるとき、世論はほとんど問題にならなかった。それにドンバスの地域社会には、自分たちの地域をキエフから切り離し、ロシアに統合するために戦う用意のある活動家が実在することは間違いなかった。反抗勢力は単に、プーチンの振り付けに合わせて踊るだけの操り人形ではなかった。

親ロシア派の抗議デモは二〇一四年三月以降、ロシア軍及び民兵に一段と支援を受ける分離主義の反抗勢力と、ウクライナ政府の間の武力衝突に急速にエスカレートした。モスクワの支援がある限り、この暴力は止めようがなかった。分離主義勢力は行政庁舎を急襲、占拠した。

空港は砲撃を受けた。秋までにすでに数百人の死者を出していた戦闘に、重砲やロケット弾発射機、ヘリコプター、それに装甲車が投入された。背筋が凍るような関連の悲劇として七月一七日、マレーシア航空機がロシア製ミサイルで撃墜された。おそらくウクライナ軍用機と取り違えた反抗勢力による可能性が強く、乗っていた二九八人全員が死亡した。

米国とEU、全欧安全保障協力機構(OSCE)、それに独仏首脳と新たに選出されたウクライナ大統領ペーロ・ポロシェンコ――ウクライナの新興財閥の一人――も加えた紛争終結のための数々の国際的試みによっても、目ぼしい打開策は生まれなかった。二〇一四~一七年の間に計一一の個別の停戦合意があったが、どれも長続きしなかった。もっとも重要な試みである二〇一四年九月五日のミンスク議定書で、戦闘は一時的に下火になったものの、たちまち停戦違反が起き、停戦は数週間で死文化してしまった。ウクライナとロシアに独仏を加えた首脳による協議を受けた二〇一五年二月一一日の第二のミンスク停戦合意も、結果はたいして変わらなかった。一縷の希望が時折そうして兆したものの、プーチンは自国内でウクライナに対する姿勢への支持があることを確信して、おおむね不屈の態度を取り続け、ウクライナ全土を不安定化し、同国が欧米の軌道に引き込まれるのを阻止しようと狙っている様子だった。

ポロシェンコの目標は、その正反対の方向を向いていた。ウクライナのEU加盟という彼の希望が、予見できる将来において実現する可能性はまったくなさそうだった。ウクライナの汚職と経済・政治運営の失敗のひどさ、そして、ウライナがいささかでも加盟の展望を抱けるようになる前になすべき大改革の必要性が、あまりにも大きすぎて、EUとしてはその展望を抱けなかったのだ。しかし、二〇一四年九月一六日に合意されたウクライナとEUの間の新たな連合協定は(発行は二年後の予定だったが)、ウクライナをロシアに近づけようとするプーチンの戦略が不首尾に終わったことを示す一つのしるしだった。

ウクライナ国内では、紛争の各勢力がすみやかに足場を固めていた。双方とも折れなかった。二〇一四年九月、ウクライナ国会はナショナリストの反対に抗して現実に妥協し、ドンバスの事実上の自治を意味する諸権利を認めた。一〇月二六日にウクライナのほとんどの地域で実施された最高会議(国会)選挙では、親欧米姿勢の諸党が勝利したが、一一月二日に実施された分離選挙(ロシアのみが承認)では、驚くまでもなく、親ロシアの分離主義に対する圧倒的支持が示された。予見できる将来、ウクライナの領土分断を克服する明確な道はなかった。それでもプーチンは譲歩しようとしなかったし、おそらく出来なかったのだ。国内での立場を危険にさらすわけにはいかなかった。ロシア国内では当然ながら、メディアが東部ウクライナの分離派勢力に対する支持を、国家の威信問題として伝えているのだ。いずれにせよ、ロシアに支援された分離派による暴力のパンドラの箱は、いったん開かれてしまうとたとえプーチンが閉じようとしても閉じることができなくなった。EUが科した制裁は、ロシアがウクライナで非妥協的姿勢を示すたびに強化された。当初は目立った影響はなかったものの、口座凍結と渡航禁止に加え、金融、エネルギー装備にまで拡大された二〇一四年九月以降、ロシア経済の悪化に一役買い、効果を表わしはじめた。欧米に残された他の唯一の選択肢は、中欧及び東欧におけるNATOのプレゼンスの強化だ。ポーランドとバルト諸国の兵員数が増強され、二〇一六年にはポーランドで軍事演習が実施された。ロシアもまた――国境の内側でだが――軍事演習を行うに及んで、ロシアと欧米の関係は冷戦終結後のどの時期よりも緊張した。

二〇一七年三月までに一万人(四分の一は民間人)近くが殺され、数千人が負傷、一〇〇万人を超す人びとが戦闘のために住居を追われた。激しいプロパガンダ戦争では、真実が明らかな犠牲者だった。だが、ロシアが紛争の主要な扇動者だったことを疑う余地はほとんどない。そして、ロシアの支援がなければ--その規模を隠す見え透いた試みがなされたけれども分離派勢力は武力闘争を続けられなかっただろう。にもかかわらず、プ―チンにとってウクラ―ナ紛争は完全な成功にはほど遠かった。たしかにドンバスはほぼ自治地域になった。だがプーチンは、ウクライナの大部分を西欧から遠ざけるのではなく、西欧に近づけ、その過程でウクライナの国民感情を強めてしまった。ウクライナ抜きではプーチンの「ユーラシア経済連合」(ユーラシア関税同盟がそうだったように、EUに対応する組織が意図されていた)の構想はほとんど成果がなかった。とかくするうちに、ロシア経済は制裁(そして石油価格の下落)にひどく苦しむようになった。それに、プーチンはおそらく、ロシアと欧米の関係を取り返しがつかないほど傷つけてしまった。では、なぜクリミア併合に加えて、ウクライナで戦争を促したのだろうか?プーチンの戦略目標は何だったのか?

もっとも簡単な説明が、もっとも理にかなっている。本質的には、プーチンは大国としてのロシアの失われた威信と地位を回復しようとしたのだ。元KGB将校として、プーチンはソ連の崩壊を、二〇世紀最大の地政学的破局として語っていた。彼の目には(そして多くの同人の目には)、ソ連の崩壊は、世界における大国としてのロシアの地位と誇りを劇的に低下させてしまった。ロシアの指導者たちは旧ソ連共和国諸国をロシア独自の影響圏として眺め続けていた。だが、多くの人びとの目には、共産主義の崩壊は、かつて強力だった国に屈辱を加えた。米国が唯一生き残った超大国として世界を牛耳る一方で、ロシアはマフィア国家に堕してしまい、大方のロシア人が崩壊寸前の経済に苦しんでいるのに、クロイソスの富を享受する強力な新興財閥が支配している。ロシアは、NATOがかつてのロシアの影響圏へロシアのまさに戸口であるバルト諸国までも拡大するのを防ぐ力がなかった。欧米の目から見れば、NATOは敵意のない組織だが、ロシアはそれを危険と見ている。欧米では人道的行為として見られた一九九九年のNATOのコソヴォ介入は、モスクワでは憤激を引き起こした。同盟国を守る防衛組織としての、NATOの限定的役割を乱用するものと見られたのだ。だが、ロシアは介入を止めることができなかった。要するにロシアは、一九九〇年代を通じて深刻な国民的屈辱感に苦しむ旧大国だったのだ。

プーチンはたしかに、多くの国民的誇りと国内のまとまりを取り戻した。ことあるごとにナショナリズムを意識的に呼び覚ますことで、確かな国民的支持基盤済的不満の広がりに対する平衡力――を手にした。ウクライナとクリミアは一八世紀以来、ロシア帝国の一部で、大国としてのロシアの地位に欠かせなかったし、のちにはソ連の影響圏の重要な構成要素だった。プーチンは二〇一二年に、ソ連消滅後の空間を再統合する任務について語っていた。ところが、二〇一四年のヤヌコーヴィチの追放は、ウクライナの対ロシア依存を固めるという目標を害してしまった。それへの対応が、東部及び南部ウクライナと、究極的には同国全体を不安定化させるという広い目標の一環として、クリミアをロシアに「取り戻す」ことだったのだ。このより広い目標において、プーチンは計算を誤った。明確な出口ルートがないまま、自分がウクライナで解き放った勢力に自らを縛りつけてしまったのだ。後退することも前進することもできないまま、プーチンはロシアを東部ウクライナの泥沼に無期限に沈めてしまった。これはおそらくプーチンが幾晩か眠れない夜を過ごす原因になっただろう。彼が少なくとも満足できたのは、東部ウクライナがモスクワに支配されている限り、EUとNATOへの加盟を目指しかねない統一ウクライナ国家はあり得ないということだった。プーチンは国内では、欧米との対決において賞賛を勝ち得た。シリア内戦は、国際舞台におけるロシアの支配的役割を再び確立するさらなる好機を彼に与えた。二〇一五年のロシアによる軍事介入は、旧ソ連の国境の外側では共産主義の終焉以来初めてであり、恐ろしいシリア紛争の極めて重要な一局面だけでなく、プーチンが世界パワーとしてのロシアの復興を試みる新たな段階をしるすものだった。

クリミアとウクライナをめぐるロシアと欧米の対決は、暗い過去へ逆戻りする恐怖を中欧及び東欧じゅうに送った。これは世界大戦につながるのだろうか?ロシアは東欧の他の国々、そしてひょっとしてその先まで併合するのだろうか?とりわけソ連に併合された苦しみの記憶も生々しいバルト諸国では、その恐怖は理解できたけれども、おそらく誇張されていた。クリミアとウクライナでプーチンは手いっぱいだった。なぜ彼が、バルト諸国を併合し力で抑え込もうとして、問題を増やしたがるだろうか。バルト諸国の非常にはっきりした国民的帰属意識は(東部ウクライナの場合と違って)、かなりの程度、ロシアへの抵抗によって培われたのだ。プーチンが、すでに実行した以上の、ヨーロッパでのより広い拡張主義的計画をもっているという証拠も、まったくなかった。一方、シリアへの介入は、プーチンがロシアの伝統的同盟国シリアとイランを支援して、国際舞台でロシアの力と影響力を誇示するため、米国の政策の弱みにつけ込んだケースだった。しかし、ロシアがソ連のそれに比肩し得る世界的役割への野心を抱いたことを示す兆候はない。そのためには、ロシアの資源だけでは十分ではないだろう。それに、ロシアの国力回復というのでは、非ロシア系民族に訴えそうなイデオロギー的目標には、まずならなかった。

そうこうするうち、ウクライナの危機は不安な膠着状態に落ち着き、世界平和やヨーロッパのより広い安定に重大な脅威を与えることはなかった。しかし、ヨーロッパ大陸の全般的危機のもう一つの要素の帰結として、非常に長きにわたって、まさにその安定の重要な支柱であったEUそのものが維持できるのかどうかが、直接的に問われることになった。すなわち「ブレグジット」、英国のEU離脱決定である。

 209『世界の歴史⑨』

大モンゴルの時代

蒼き狼たちの伝説

モンゴル時代の幕あき

草原と森林のはざま

海を遠くはなれ、アジアの内陸へとむかう。海からの風と湿り気はしだいにうすらいで、乾燥した大気が、ゆるやかな風となって夏の草原をすずやかに渡ってゆく。

アジアの大陸のうちぶところに、巨大な高原がひろがる。チベット高原のように、はげしく高すぎるわけではない。北からはシベリアの大森林が迫り、山と渓谷に緑をしきつめて、南側の草原と交錯する。草原と森林が織りなす世界である。

いま、そこをモンゴル高原という。はじめからそう呼ばれていたわけではない。十三世紀のはじめ、モンゴルというささやかな集団が、この高原に割拠するトルコ・モンゴル系のさまざまな遊牧民をとりまとめて、ひとつの政治勢力として浮上した。その名を「イェモンゴルウルス」といった、大モンゴル国である。

.モンゴルという名でくくられることになった雑多な牧民たちは、テムジンあらため「チンギス・カン」と称した男にひきいられ、はるかなる山河をこえて外征の旅に出た。それは、驚異の成功と拡大を、この新興の遊牧国家にもたらすこととなった。

それが、すべての始まりであった。モンゴルという嵐は、ユーラシアの東西を席捲した。そして、ついに人類史上で最大の帝国を形成する。モンゴルが世界と時代の導き手となる道が、ひらかれることになる。―――大モンゴルの時代は、かくて幕をあけた。

蒼き狼のイメージ

人類の歴史に一大画期をもたらした、モンゴルというもともとはまことにささやかな集団の起源については、モンゴル自身も、世界の支配者となってから、ペルシア語や漢文、もしくはみずからのことばであるモンゴル語などで、それなりのはなしを語り綴った。しかし、それらは、当然のこととして、伝説の色彩にいろどられている。

政治権力をにぎり、王者ともなれば、自分たちの出自について美しいはなしをつくるのは、むかしも今も、そう大きくは変わらない。とくにチンギス・カンは、モンゴル時代いご、神聖なる存在とされまさに神になった。

モンゴルの族祖伝承として名高いのは、蒼き狼と惨白き鹿のめぐりあいである。これは、漢語のタイトルは「元朝秘史」、ほんらいのモンゴル語の名では「モンゴルの秘密の歴史」(モンゴルン・ニウチャ・トブチアン)の冒頭にしるされる。

しばしば頭韻の四行、ないし二~五行(もっと長いものもある)詩、つまりあたまにおなじ母音がそろう詩句もまじえたかたちで綴られる『元朝秘史』については、いまわたくしたちは、書かれたものとして知っている。明代のはじめ、洪武年間に、モンゴルの故都の「大都」あらため北平で、モンゴル政権下での漢訳のやり方のまま、漢字音によるモンゴル語原文と、その直訳体による口語ふうの漢文訳(語順はモンゴル語そのままで、訳語は伝統漢文ではない日常会話の白話で使われることば)との完全バイリンガルで構成されたものとして、知っている。

おそらくは、そのもととなるなにかが、「大都」にのこっていたのだろう。その原文が、クビライ時代の至元六年(一二六九)にチベット文字をもとにつくられたパスパ文字で綴られていたか、それとも、チンギス時代に導入したとされるウイグル文字でしるされていたかについては、世界の学者のあいだで意見がわかれる。

頭四行、ないし二五行の詩ということが示すように、そもそもは、まず語り謳われるものとしてつくられた(なお、こうした詩の伝統は、トルコ・モンゴル系の遊牧民に古くからあったものだろう。小川環樹が、トルコ族の民歌だとした「勅勤の歌」も、まさにそうである。さらに四行詩という点にこだわれば、イランにおける脚韻四行詩のルバイヤートとも、おそらくは無縁でないとされる)。それが、モンゴル時代のいつかの段階で、文字化されたのである。そのモンゴル時代、いまやすっかり王族や貴族となって、世界の各地に散っていたモンゴルたちは、専門家の語り部が独特の声音で弾き語る先祖たちの英雄物語に、心おどらせて聴きいったことだろう。自分たちの家祖とされる人物が、国家草創の英主チンギス・カンと、いったいどんな経緯でめぐりあい、その創業にどのように参画したのか。

ふむ、そうか。われらが先祖は、こうしたことで、チンギスの覇業に貢献したのか。さればこそ、現在の自分たちの富貴も、このようにあるのか。

おそらくは、モンゴル遊牧民連合体の絆を確かめるものとして、チンギスカン物語といってもいい『元朝秘史』は、まずあった。

その劈頭に登場する蒼き狼のイメージは、モンゴルたちの心に、はるかなる国家のみなもとを飾るシンボルとして、雄々しく美しく映ったことだろう。

噴仙洞とエルグネ・クン

もちろん、狼を先祖とする考えは、トルコ・モンゴル系の遊牧民たちだけにとどまらず、ひろく中央ユーラシアに暮らす人びとにみとめられる。『周書』の突厥伝は、六世紀に出現するテュルク帝国の先祖たちについて、ひとつの伝承として狼に育てられたはなしを書きとめる。また、現在のハンガリー国民の主体をなすマジャールたちは、東方からの征服者として、九世紀、ハンガリー平原にあらわれるが、かれらも狼祖伝説をもっていたことは、よくしられている。

こうした狼にかかわるイメージは、モンゴルが、もともと純粋な草原の民ではなく、多分に森林の狩猟民の面影をのこす「遊牧狩猟民」だったからだという考え方がある。鹿を追う狼というイメージは、森に暮らす狩猟民の観念を反映するのだという。これは、おそらくそうだろう。

そうしたことにつらなる別の族祖伝承として、『集史』が語る「エルグネ・クン伝説」が想いおこされる。はなしのあらましは、こうである。

いまを去ることおよそ二〇〇〇年、モンゴルと呼ばれていた部族は、別のトルコ諸部族との戦いに敗れ大虐殺された。わずかに生きのこった二組の男女は、敵から逃れ、四方が険しい山と森にかこまれた地にたどりついた。難渋のあげくにやっと通れるほどのかすかな隘路がただひとつあるだけであった。ところが、そこには、牧草が豊かに茂る素晴らしい草原がひろがっていた。その地の名は、エルグネ・クンといった。エルグネとは険しいこと、クンとは岩壁のことである。

ふたりの男は、ノヤズとキヤンといった。ながい間、かれらとその子孫たちは、その地に暮らした。婚姻をかさねて人口がふえ、その草原だけでは生活しにくくなった。かれらは相談して脱出路をさがし、鉄鉱のでる山に決めた。いつも、そこから鉄を溶かしていたからである。森から薪と炭をあつめ、七〇頭の牛と馬を殺して、鍛冶のためのふいごをつくった。そして、いっきょに火を吹きたてて鉄の岩壁を溶解させると、一すじの道が開けた。かれらは、一団となって外の広大な草原世界にでていった。

はなしのなかのキヤンこそ、モンゴル王族のキヤン氏である。また、そもそもテムジンという名は、鉄をつくる人とか、鍛冶屋を意味することも想いおこされる。じつは、このはなしは、『周書』突厥伝が語る突厥の始祖伝説ととてもよく似ている。

いわく――、突厥の中核部族をなす阿史那氏は、むかし隣国に敗れて、いったん全滅した。ただ十歳になるかならないかの男の子だけが、足を切りおとされて生きのこった。それを牝狼が育て、成長後、交わって懐妊した。ところが、まだひとり生きのこっていることを聞いた隣国の王は、人をやって男子を殺させた。牝狼だけは逃れて、高昌国の北の山中に入った。山には洞穴があって、そのなかは牧草が茂る草原であった。周囲は数百里で、山に囲まれていた。狼は、そこで一〇人の男の子を生み、それぞれの子は外から妻をつれてきて子孫がふえた。やがて、みなともに穴を出て、外の世界におもむき、金山(アルタイ山のこと)の南で柔然の鉄工となった。

ほとんど同工異曲といっていい。モンゴルのほうは、狼祖伝説と別ものになっているだけである。モンゴルという集団が、ひろい意味でのトルコ系の人びとという「大海」のなかにいたことも、よくうかがわせる。

この連動現象には、さらにもうひとつがくわわるかもしれない。それは、北魏太武帝の祭文を洞壁に刻してあることから、鮮卑族の北魏王朝の発祥にまつわる地とされ、近年とみに知られるようになった嘎仙洞(ガ・シェン・ドン)である。興安嶺の北部にあるこの洞穴は、アムール(黒龍江)の上流のアルグン河、すなわちモンゴル語ではエルグネ河畔から森林のなかをわけ入る。ようするに、エルグネ地方なのである。嗅仙洞の位置、洞穴のあり方、そして北魏王室の拓跋氏の先祖がそこにいたという『魏書』の記述は、意外なほど時をこえてエルグネ・クンのはなしと似かよう。

「エルグネ・クン」と嘆仙洞、そして鮮卑・突厥・モンゴルの連動――。これは、はたしてなにを物語るのか。

謎のチンギス・カン

さて、チンギスカンである。この男は、本当によくわからない。

顔も容姿も、確実なことは、ほとんどわからない。「中国歴代帝后像」におさめられた有名な肖像画がしられているが、もとより中国ふうに描かれた想像画にすぎず、どこまで真実にちかいのかは、わからない。

中央アジア遠征中のチンギスカンを見た伝聞記録として、ある史書には、髪の毛のうすい大男だったと述べている。当時チンギスは、すくなくとも六十歳ちかくには達していたはずである。当時の六十歳は、重い。チンギスは王者となったとき、もはや老人であった。なお、大男というのは、なににつけ目立つことがもとめられる遊牧民のリーダーとしては欠かせぬ要件であり、おそらくは大柄だったということを、否定することはできない。チンギスは、年齢さえさだかでない。他界したのは、「集史」によれば一二二七年の陰暦八月十五日と、これは確実だから、ようするに生年がわからないのである。「集史」は、一一五五年の誕生とする。そうだとすると、満七十二歳で没したことになる。ただし、これは少し作為が目につく。トルコ・モンゴル系の人びとは、十二支とおなじ一二獣暦を用いており、チンギスは、ブタの年(亥の年のこと)に生まれ、ブタの年に没したという。一二年のまわりを六回分かさねて、生涯を終えたといいたいのである。「六」には、聖なるニュアンスがある。

ところが『集史』は、そういいながら、「チンギス紀」において、チンギスが誕生してから最初の一二年についてはなにも伝えられるところがない、といい切って平然としている。みずから、一一五五年の誕生が根拠に乏しいことを吐露している。根拠のあるなしにかかわりなく、『集史』は、一一五五年の誕生にしたいのである。

チンギスがプタ年の生まれだとすると、たしかになにかと都合がいい。生年と没年が、おなじブタ年になるだけでない。まだテムジンといったかれが、高原の覇者へと大きく浮上するのは、一二〇三年の秋、主筋にあたるケレイトのオン・カン(もしくはワン・カン)を一瞬の隙をついて奇襲で嬉し、高原の東半分をおさえてからである。『集史』はそれを、「天佑」にめぐまれたと表現する。ようするに、ラッキーだったというのである。

じつは、このときから、チンギスについて、東西の史料がほぼ足並みをそろえておなじことを述べはじめる。つまり、テムジンが確実な権力者として、周囲からその存在を認知され、警戒されだしたときであった。いわば、このときから、テムジンという男の人生は実像化する。その重大な年が、ブタの年なのである。

さらに、一二〇三年から、ひとまわりした一二一五年、つまり、一二二七年に他界するまでのちょうど中間にあたる年、女真族王朝の金帝国にたいする足かけ五年の戦争を、全面勝利で終えた。金の首都の中都(現在の北京市街の西南地区にあった)は開城し、金朝は黄河の南に逃れて、アジア東方の最強国から河南と陝西を保つだけの二流国に転落した。反対に、誕生後まもない新興の「モンゴル・ウルス」は、いっきょにアジア屈指の強国にのしあがる。

一二〇六年に結成されたばかりのモンゴル遊牧国家にとって、一二一一年から開始された「モンゴル–金戦争」は、存亡をかけた大戦争であった。チンギスは麾下のモンゴル軍を、ほとんどこそげるように引き具して、乾坤一擲といってもいい大勝負に出た。そして、五年のあいだずっと、ゴビの北の本拠地にかえることなく、金帝国の北境にあたる内蒙草原にはりついたまま集団生活を送り、ただひたすら金帝国を攻撃しつづけた。

この大勝利により、新生モンゴル国の将来は開けた。前後五年の国家ぐるみの集団生活は、雑多な牧民たちの寄せあつめにすぎなかった「モンゴル・ウルス」を、文字どおり一枚岩にした。勝利にともなう多くの収穫物も、チンギス麾下の牧民騎士たちに、この指導者、このウルスであればともに生きてゆきたい、とおもわせるに十分な効果があったことだろう。そうした重要な節目の年が、またしてもブタの年であった。

かたや、東方の中国正史としての『元史』は、六十六歳で没したとする。一一六一年の誕生というわけである。この場合でも、聖数といっていい「六」のくりかえしである。ようするに、チンギスの誕生から幼年期少年期・青年期については、すべて伝説のかなたにあるといっていい。

「ウルス」という国家意識

チンギスという個人も、かれが出身したモンゴル部という小集団も、確たる政治権力に浮上するまでの素性や来歴については、どちらも闇のなかにある。それを真剣にあれこれ論じても、しょせんは小説と大きくは変わらない。

歴史として意味があるのは、「モンゴル・ウルス」という遊牧民の連合体をつくってからである。それこそが、モンゴル世界帝国の原点だからである。では、「ウルス」とはなにか。

「ウルス」ということばそのものは、モンゴル語である。じつは、外蒙を国域とする現在のモンゴル国も、「モンゴル・ウルス」というのが本当の名である。「ウルス」は、トルコ語の「イル」もしくは「エル」に相当する。六世紀から八世紀に、モンゴル高原を中心として、中央ユーラシアの天地に雄飛したいわゆる突厥、すなわちテュルク帝国も、その本質は牧民連合体であり、それを「イル」もしくは「エル」といった。

ようするに、モンゴル語の「ウルス」は、その流れをくみ、ユーラシアの内側の世界に生きる遊牧民たちに独特の集団概念といっていい。辞書・事典ふうに語釈をすれば、「ウルス」も「イル」「エル」も、「人間の集団」を原義とする。そこから、部衆、国民、さらには国そのものも意味することになる。現在のモンゴル国の「国」は、まさにその意味で使っているわけである。

『集史』には、アラビア文字によるペルシア語の表記のため長音化したかたちになってはいるが、「ウールース」と、モンゴル語そのままの語形でしきりにあらわれる。これにかぎらず、「集史」には膨大なトルコ語・モンゴル語の語彙が使われ、とくに遊牧国家システムにかかわるテクニカル・タームは、ほとんど原語のままで出てくる。おそらくは、ペルシア語-アラビア語に訳しようがなかったことと、そもそもトルコ語–モンゴル語をはなす遊牧民たちばかりでなく、モンゴル帝国の全域で登用されたペルシア語をはなすイラン系ムスリムたちもまた、そうしたモンゴル本来の概念語については、そのまま使っていたことを反映するのだろう。

そうした『集史』に見られるウルスの用法をしらべると、やはり「国」にちかい意味で使われている。ただし、農耕地域における国家や、西欧型をモデルとする近現代の国家とはちがい、土地や領域の側面での意味合いは限りなく希薄で、あくまで人間集団にウェイトがおかれている。つまり、固定された国家ではなく、人間のかたまりが移動すれば、「国」も移動してしまう類の国家としてである。その意味では、はなはだ可動性にとむ、融通無礙な国家であった。

超広域の巨大帝国に発展するもとの「モンゴル・ウルス」とは、そういう集団概念なのであった。人のかたまりをもとに、可変性と移動性を本質とする「ウルス」という国家意識――。これこそ、モンゴルの驚異の拡大の鍵である。

周到な戦略構想

それにしても、モンゴルウルスは、またく出来合いの国家であった。にもかかわらず、誕生まもないときから、まことに内政・外交ともに、周到きわまりない手配りで、わずかな乱れをみせることもなく、すべてが整然と、おしすすめられている。

多言語でしるされる数多くの原典史料をつきあわせ、そこから割りだされる確実な国家政権としての行動を考えると、おそるべき用意周到さが目につく。計算ずくの布石・展開に、おもわずうならざるをえないことも、しばしばである。国家として、子供時代がないのである。はじめから、大人になってしまっている。それは、いったいどうしてか。

いくつかの原因と要素があるだろう。まず、モンゴル・ウルスそのものは、たしかに出来合いだったが、それよりまえ、すでに長い遊牧国家の伝統が脈々とあったことは、無視できない。

ふるく瀕れば、匈奴帝国がモンゴル高原を中核地域にして、強大な遊牧国家を三〇〇年いじょうの長期間にわたって保持した。匈奴と南北に対峙した漢王朝が、そのごの中華帝国の基本型をつくったように、匈奴帝国で確立したパターンが、いごの遊牧国家の枠組みを決定した。

国家全体が、東西に左翼(東方)・中央・右翼(西方)の三大部分にわかれること、社会組織としては、十人隊百人隊・千人隊・万人隊という十進法体系の軍事組織に編成されたこと、そして君主は、その縦と横の中心にいて、政権中核となる自分の遊牧宮廷に、国家の各部分の長たちの子弟をあつめ、人間組織の面でも国家全体のつなぎ手となること、などである。こうしたシステムは、柔然、突厥、遊牧ウイグル、キタイ(本書では「キタン」ではなく、「キタイ」の表記を採りたい。筆者は、一時期、「キタン」を使用した。それは漢語表記「契丹」とのかねあいから、古くは「キタン」と発音されたのだろうと考えたこと、それに「キタイ」の語尾の「イ」は、ペルシア語の影響もありうることなどからであった。しかし、八世紀の突厥碑文で「キタニュ」としるされているものが、十世紀以降のウイグル文書では「キタイ」と語尾変化していることが示すように、キタイ帝国期からモンゴル時代においては、やはり「キタイ」と発音されたことは明白であり、あえて「キタン」と表記する必要はないと考え直した。ここにおわびして訂正したい)などでも踏襲された。チンギスのモンゴル・ウルスもまた、まぎれもなくその後継者であった。一二〇六年のウルス結成ののち、対金戦争に旅立つまでの五年ほどは、まさにそうしたマニュアルどおりの国家システムづくりと内政整備にあてられたのであった。

しかし、なんといっても直接には、キタイ帝国の知恵と経験が、それをささえたキタイ族の武将・行政官の子孫たちとともに、そっくり新興モンゴルに投入されていたことが大きかった。

中華風には「大遼」とも名のることのあったキタイ帝国は、十世紀から十二世紀はじめまで、中華本土の北宋王朝を圧して、アジア東方の覇者であった。遊牧国家でありながら、旧渤海国のマンチュリア、中華本土の北辺のいわゆる「燕雲十六州」(燕は現在の北京地区、雲は大同地区)をも領有して、遊牧と農耕の両世界を支配するすべを身につけた。それまでにないかたちであり、歴史上におけるキタイ帝国の意味は大きい。

十二世紀のはじめ、キタイ帝国は、マンチュリアに出現した女真族の金王朝に喰いこまれて国家が瓦解したが、それはキタイ連合体の内紛のためであり、キタイ族の多くは、表面上の主人になり代わった女真王朝の金帝国のもとで、そのまま横すべりして生きつづけた。さらに、キタイ国家瓦解のさい、王族のひとり耶律大石は、モンゴル高原を経由して、その地の遊牧民をひきいつつ、中央アジアにおもむき、そこで第二次キタイ帝国を樹立した。

つまり、モンゴル出現のころ、高原をはさんで、東の金帝国のもとにいる東方系キタイ集団と、西には、中華風に「西遼」とも呼ばれた中央アジア版の第二次キタイ国家そのものと、ふたつのキタイ族の群れがならびあうように存在していたのであった。そのうち、東のキタイ集団のリーダー格の耶律阿海・禿花の兄弟をはじめ、金朝治下でも屈指の立場にあったキタイ伝統貴族の流れをくむ人びとが、金帝国を見限って、高原の覇者となるまえの段階からテムジンのもとに投じていた。これらキタイ族の「ブレーン」たちこそ、チンギスとモンゴルを導くプランナーであり参謀であった。

キタイ三〇〇年の知恵が、モンゴルというパワーにリンクしたとき、かつてない統制された国家と軍事力が出現した。もちろん、すでに老成しきったチンギスカンという求心力の存在こそ、それらを束ねるかなめではあったが。

「時」がモンゴルをもとめた

そして、もうひとつ。モンゴルをとりまく周囲の国際情勢が、まことにモンゴルに有利に働いた。というよりも、まるで時代がモンゴルの出現を待っているかのようであった。十二世紀後半から十三世紀のはじめ、ユーラシア大陸をぐるりと見まわして、不思議なことに、これといって強力な国家や政権は、見当たらなかった。

東方の最強国、金帝国は、モンゴル出現のころ、表面上は文化の華がさく全盛期のように見えたが、そのじつ内外うちつづくダメージでひどく痛んでいた。総人口は、当時の正式な登録人口だけで四八五〇万をかぞえるほどの大国金の人口については、五三五三万という数字もあるが、文献上で少し問題があり、ここではあえて採用しない。なお、後述する南宋国の最大人口もあわせ、これに関連する事情については、拙著『耶律楚材とその時代』白帝社、一九九六年、一二~一二二ページにおいてやや詳しく述べている)であったものの、キタイ族の大反乱と黄河の大氾濫、それにともなう大飢饉によって、国内は沈論した。それを見すかすように、江南の南宋国が、八〇年ほどの和平を破っていっせいに軍を北上させた。金朝は余力をふりしぼって迎撃し、南宋軍をおしかえして、逆に国境線の淮水ラインをこえて長江ラインまで迫るいきおいを示した。予想と反対のなりゆきにすっかりあわてふためいた南宋政府は、事実上の独裁者であった韓佐冑を、文字どおり誠にし、そのかわりに平あやまりにあやまった。

このまことに愚かしくあさましい「金-南宋戦争」は、一二〇六年に始まり一二〇八年に尻すぼみで終わった。一二〇六年といえば、まさにモンゴル・ウルスが誕生した年であった。大義名分論・君臣論・正閏論、そして華夷思想が大好きな南宋国が仕掛けた愚挙は、生まれたばかりのモンゴル遊牧連合体に、順調に育成する国際環境と時間のゆとりをあたえたのであった。

南宋が演出してくれた「ひま」がなければ、はたしてチンギスのモンゴル国がどうなったか、知れたものではなかった。高原の牧民たちが、ウイグル遊牧帝国の瓦解いご、三百数十年ぶりに、ついにひとつとなったことの意味を、周辺の諸国は恐怖とともによく知っていた。とくに金朝は、かねてより、高原に少しでも有力な勢力があらわれると、すぐに介入して強力な統一権力の出現を阻止するのを国是としてきた。もし、南宋の破約と開戦がなければ、弱っていたとはいえ、金朝は、すぐさま生まれたてのモンゴル・ウルスへ必死の攻撃を仕掛けたことだろう。じつは、金帝国のほうから、モンゴル・ウルスをたたけるチャンスは、このときしかなかっただろう。それがわかっていながら、南宋軍を迎えうつために、南のかた華中へ兵を繰りださなければならなかった金朝の武将たちは、内心歯ぎしりする想いだったことだろう。

その南宋国は、みずから「半璧の天下」などと、もったいぶった格好をよろこんだように、どこか自虐めいた自尊・虚勢が目についた。そのじつ、公式に登録された人口数でいえば、なおまだ最高値で二八〇〇万ていどにとどまり(南宋時代でも、中華本土全体からみれば、江南はまだあくまでも「田舎」であり、金朝のおさえる「中原」にはおよばなかった。しろ、江南は、モンゴル時代に北からの資金や人間が入って、開発に加速度がつく。なお、宋代中国史の研究者が、北宋の人口を一億いじょう、南宋の人口を六〇〇〇万とする根拠はどこにあるのだろうか)、社会の産業力・生産力は頭抜けてはいたものの、国家としては二流国で、せいぜいのところ華北情勢の様子をうかがって小股すくいをねらうほどの力しかなかった。甘粛地方の西夏国は、モンゴルの脅威をもっとも身近に感じていた。モンゴルの本拠、ルコン、トーラ、ケルレン三河の上流部の平原にほどちかい最前線のエチナにおいて、西夏の防衛兵士たちが決死の覚悟を固めていたことを伝える記録が、今世紀のカラ・ホト遺跡の調査でみつかっている。西夏には、みずからモンゴル・ウルスをたたけるだけの国力は、もともとなかった。

いっぽう、東西トルキスタンをおさえたはずの第二次キタイ帝国は、だいぶまえから求心力を失い、急速に威信を低下させつつあった。やはり、せいぜいが高原の覇権争いに敗れた遊牧首長をかくまってやり、折を見てふたたび送りだしてやるくらいのことしかできなくなっていた。

さらに、一五〇年ほどまえ、西アジアに覇を唱えたトルコ族のイスラーム軍事政権、ルジューク朝は、もともとの分裂体質から数個の権力体にわかれゆき、もうこのころは、すっかり昔日の面影はなかった。ゆいいつ、アム河の下流部に出現したトルコ系のイスラ―ム王朝、ホラズム・シャー王国だけが勢いがあり、ちょうど東のモンゴルとおなじようにいまや浮上しようとしていた。


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 マクニールの『世界史』に原因に遡ろうとする記述をやっと見つけた

『ケンブリッジ世界近現代史事典』

2023年09月18日 | 4.歴史
第一次世界大戦(1914~1918) WorldWarl

第一次世界大戦と知られるようになった大戦争は、1914年7月のバルカン半島危機で始まってヨーロッパ全土を巻き込む軍事紛争となり、1918年11月11日に連合国(イギリス、フランス、イタリア、アメリカ)と同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー)との休戦が成立して終結した。この紛争は西ヨーロッパおよび中央ヨーロッパを徹底的に破壊し、オスマン帝国とロシア帝国とオーストリア帝国の崩壊に手を貸し、東ヨーロッパおよび中央ヨーロッパ、ドイツ、フランス、イギリスでの大量動員とインフレと政治変動によって社会と経済革命を生み出した。そのせいでイギリスは債権国から債務国となってイギリス帝国の崩壊が始まり、ロシア内戦(そして間接的にソ連)を作り出した。動員され計6500万人の兵のうち戦闘で850万人が命を落とし、2500万人が負傷または行方不明となり、アメリカが経済と文化の世界大国として表舞台に登場した。

戦後の和平交渉ではドイツ代表団は戦争を始めた責任を認めることを要求されたが、紛争の真の原因は1914年からずっと物議をかもしている。直接の原因は、サラエボでセルビア人民族主義者によってセルビアの皇位継承者フランツ・フェルディナンド大公とその妻が暗殺され、その後オーストリアがセルビアに最後通告し、ヨーロッパの同盟システムが発動したことだった。ロシアはセルビアを支持し、オーストリアとその同盟国のドイツに対する戦争準備を始め、これによってフランスは同盟国のロシア支援のために戦争準備にかかった。イギリスもフランスとロシアの同盟国であるため、イギリス政府が戦争に関与した1914年8月4日にヨーロッパは戦争へ邁進した。イタリアは同盟国のドイツとオーストリアに加わらず、1915年に忠誠先を切り替えて対オーストリア作戦を開始し、それを1918年まで続けた。同様にルーマニア、日本、ギリシア、1917年にアメリカが連合国に加わり、ブルガリアとオスマン帝国がドイツ率いる連合の支援にまわった。

1890年代終わりから顕著になってきたヨーロッパの同盟システムの致命的な不安定さは、戦争開始へと流れる他の理由と並行している。例えば、海軍の軍備増強におけるイギリスとドイツの対抗意識、いったん始まれば戦闘計画を撤回できない無能な国家、ドイツの皇帝の性格ドイツとロシアの経済的な対抗意識、オーストリア=ハンガリーの不安定性などを主な戦争開始の原因として歴史研究が行なわれてきた。ほかに、ドイツの卓越した戦争準備(近代史上ロシアを破った最初で最後の国)、近代的プロパガンダの効果、動員の技術と技巧がもたらす偽りの希望、どちらの側も西部戦線で決定的な勝利を収められなかったことなどの理由も考えられる。これらの説明だけでは歴史家は満足しなかった。だがドイツが近代技術を駆使した帝国建設と搾取の世界でより大きな役割を求めたこと、制度的社会的に不安定なドイツ帝国、ドイツ皇帝およびプロイセン人の幕僚たちの性格という理由はいうならばかなり筋道が通っていた。

大戦争は19世紀以降に発展してきた戦争に多数の流行をもたらした。塹壕、ライフル、機関銃、海上兵器、毒ガス、有刺鉄線、民間人への航空攻撃、戦車といった近代的方式の利用である。後半の4件は西部戦線での最初の軍事作戦の失敗に対して生じたものだった。例えば、フランスとドイツが戦略的および戦術的計画をいくつも用意して戦争に突入したことは広く知られているが、そうした努力が一貫して統一して行なわれていたとは思われていなかった。ドイツはベルギーを抜けてフランスへ迅速に部隊を展開し、パリを包囲する必要があったドイツに対し、フランスはドイツに攻撃をしかけることをもくろんでいた。ドイツはこれを予想し、フランス軍をアルザス=ロレーヌ地方へおびき出し、そこで叩きのめす計画を立てていた。それは現実とならず、その後ドイツ軍をモンスで食い止めるために北部戦線のフランス軍にイギリス軍が合流したことで列強間の「海へのレース」が発生して膠着状態となって終わり、イギリス海峡と大西洋沿岸をイギリスとフランスが支配し続けたことが戦争を長引かせた。連合国も同盟国も西部戦線で敵を圧倒することができないまま塹壕戦は北東フランスに広がった。長大につながる塹壕と入り組んだ地下トンネルに隠れて発砲し、ときには大規模な戦闘が行なわれた。そうした戦闘は普通は大量の死以外のものをもたらさなかった。ここから技術を基本として勝利する方法の考案に拍車がかかった。

西部戦線の状態は東部戦線の機動戦と対照的である。1914年、ドイツとオーストリアの部隊は、優位に見えていた敵軍のまずい組織編成と非効率な動きのおかげで大きな成功を収めた。タンネンベルクの戦いとマズーリ湖の戦いでの圧倒的な勝利は1917年のロシアの偶発的な敗北と1918年のブレスト=リトフスク条約による戦争終結の前兆だったかもしれない。この東部戦線の状況はおおむね忘れられてしまった。だがマルヌ、モンス、第1次と第2次のイーペルの戦い(1914~15)ヴェルダンの戦い(1916)、「ヨー「ロッパの自殺」と呼ばれイギリスだけで50万人の死傷者を出した1916年夏と秋の壊滅的なソンムの戦い、アラスとパシャンデールの戦(1917)、失敗に終わったガリポリ上陸作戦(1915)は当時の敵国の人々の記憶に残っている。

世界大戦と名がついており、多くの植民地部隊(インド軍が有名)が参戦したが、第一次世界大戦はおおむね西ユーラシア大陸だけで行なわれた。イギリスとドイツの大艦隊はユトランド沖海戦の1度を除いて互いを避け、ヨーロッパ以外での交戦はほとんどなかった。ドイツ軍は南西アフリカと西アフリカ、ベルギー領コンゴと太平洋の島で戦闘したが死傷者はわずかで、イギリスとフランスの植民地軍に簡単に抑えられた。

だが戦争は様々な国で大きな変化をもたらした。例えば、男性が戦争に行き女性が工場や畑で働いたので社会における女性の地位は後戻りできないほど様変わりした。産業は国有化され、国家に従属した。インフレと家族の死によりイギリスとドイツでヨーロッパの貴族社会の根本が崩れた。ドイツやハンガリーやロシアや東ヨーロッパで古い帝国が崩壊し、共和国か革命会議が取って代わった。中東の国境線が書き換えられた。イギリスはアイルランドの大半を失い(アイルランド共和国の独立により)、世界を支配していた経済大国という地位をアメリカに明け渡した。1917年に参戦したアメリカは1919年のパリ講和会議で国際連盟や新しい経済秩序を始めとする自身の希望する解決案を押しつけようとした。その会議からヴェルサイユ条約も生まれた。戦争の後には答えのない疑問が数多く残った。そしてヨーロッパ人は政治形態として自由主義とファシズムと共産主義からどれを選ぶかという厳しい選択に迫られた。戦争が生み出した混乱と苦しみという遺産はその後21年間消えずに残り、第二次世界大戦が勃発した。

第一次世界大戦中のアラブ反乱Arabrevolt(WorldWarl)

いわゆるアラブ反乱はメッカのシャリーフであるフサイン・イブン・アリーとイギリス駐エジプト高等弁務官のサー・ヘンリー・マクマホンの交渉の成果であった。のちにフサイン=マクマホン書簡と呼ばれるこの交渉でシャリーフとイギリスの同盟関係の基礎が築かれ、「アラブ反乱」を条件にした第一次世界大戦後のアラブの独立支持が約束された。オスマン帝国の有力者でオスマン・トルコ語にも堪能な野心家のフサイン・イブン・アリーは、この交渉をイギリスから与えられたアラブ王国実現の可能性と見なした。一方のイギリスはフサインがカリフの名のもとにイスラム世界の指導権を主張するオスマン帝国を倒す鍵、ダーダネルス海峡攻撃作戦の失敗による行き詰まりの打開策、オスマン帝国支配に対する大衆の抵抗運動をアラブ諸州で呼び起こす希望、そしてイギリスが戦後にアラブ世界の「保護者」になるための手段と考えた。イギリスとフサインのあいだで交わされたこの約束と、イギリスがフランスと結んだサイクス=ピコ協定(1916)、シオニストに向けたバルフォア宣言(1917)の内容が明らかに矛盾するという議論は戦後の外交論争の原因となった。

イギリスの旗のもとに集まりエドモンド・アレンビーの指揮下で戦ったアラブ兵もいたが、その大半はフサインの息子ファイサルが率いる非正規軍として戦闘に加わった。非正規軍の訓練と反乱の戦略指揮にはイギリスとフランスの軍事顧問が協力した。なかでももっとも有名なのがT.E.ロレンスで、彼は1916年10月に反乱に加わった。戦闘を通してアラブ軍はオスマン帝国軍の護衛艦、前哨地、とくにヒジャーズ鉄道を集中的に攻撃した。戦況が大詰めを迎える頃にはオスマン帝国は統制力を失い、一方の反乱軍は軍勢を増やし、ますます果敢に標的を攻め、1917年にアカバを占領し、1918年にダマスカスへ入城した。しかしイギリスの戦争努力にもっとも貢献したのは、反乱軍がオスマン帝国の供給路を断ち、情報を提供し、オスマン軍の動きを封じたことだった。

伝承に反し、アラブ反乱はオスマン帝国に対するアラブ人の大衆蜂起ではなく、それどころかほとんどのアラブ人は帝国の敗戦が明白になるまで帝国に忠実だったようだ。アラブ反乱は大戦の結果や戦後の中東の構造を劇的に変えることはなかった。しかしその真の意義はいたるところに見受けられる。まず、フサイン一族(ハーシム家)とイギリスのあいだに同盟が結ばれ、これにより戦後のイラクとヨルダンはハーシム家の王国となった。(イラクは1958年まで。ヨルダンは現在に至る)。しかしもっとも意義深いのは、創成期のアラブ諸国にオスマン帝国支配に抵抗したという記憶を授け、民族主義の観点からアラブの歴史を書き替えることが重要なのだと証明したことだろう。

第二次世界大戦(1939~1945)WorldWarII

1939年9月に始まり1945年8月に終わった世界的紛争。主な参戦国は枢軸国のドイツ、イタリア、日本とその同盟国と、「連合国」のイギリス帝国、アメリカ、フランス、中国、ソ連(1941から)だった。戦場はヨーロッパからユーラシア、北アフリカ、太平洋の島々、東南アジア、南北大西洋におよんだ。戦争では組織的な激しい航空爆撃、ホロコースト、核兵器の使用、社会全体の戦時動員が見られた。この戦争で1919年のパリ講和会議でまとまった国際連盟と世界秩序は実質的に崩壊した。

戦争の種はドイツの国家社会主義政権の拡張政策と、ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーの戦略地政学に潜んでいた。ヴェルサイユ条約のくびきからドイツを解放する決心をして1933年に政権の座についたヒトラーの目的は、ドイツ語を話す人々全員を経済的に自立した帝国(ドイツの歴史では3つめ)でまとめ、ソ連に侵攻し分割して世界の共産主義を破壊すると同時に「生活圏」を獲得することだった。そのためには、イギリスとフランスその他の国で約束された第一次世界大戦後のヨーロッパの国境線を帳消しにしなければならない。1935年から1939年にかけてはイギリスとフランスの「宥和政策」とアメリカの無関心のおかげでヒトラーはこの計画を進めることができた。1939年からイギリスとフランスがヒトラーの思うようにはさせないと決断したことから世界戦争に発展し、少なくとも6千万人が死んだ(ソ連だけで2千万人、ホロコーストで600万人、他の戦域で3400万人)。戦争に向かうヒトラーとナチスと希望を共にするベニート・ムッソリーニ率いるイタリアのファシスト党が、1940年に対フランス作戦に勝利してドイツの仲間に加わった。だがスペインとポルトガルは参加しなかった。それとは別に、1941年に大日本帝国がアメリカ攻撃を決断したことと、その後日本を支援するドイツの動きが、大西洋沿岸諸国の自由民主主義の伝統と、既存のヨーロッパの帝国全体に対する世界的挑戦となった。

戦争の直接の原因は1938〜39年のチェコとポーランドの危機にあった。チェコスロバキアは第一次世界大戦後に安定した民主主義の国となり、国内にチェコ人、スロバキア人、ドイツ人、ユダヤ系その他の民族が共存していた。ヒトラーはオーストリアの併合に成功したのち、チェコのドイツ系が住む地域を合併しようともくろんだ。ミュヘン会談でイギリスとフランスとイタリアはチェコスロバキアの分割に同意した。抵抗勢力がドイツ軍で反ヒトラーのクーデターを起こすことも、ヒトラーが勝つとは限らない困難な冬の戦争になることも考慮された結果だった。この交渉に成功したヒトラー(と次の年にヒトラーと邪な同盟を結んだソ連)の民主主義に対する軽蔑は深まり、1939年には残りのチェコとポーランドの大半の併合にいたった。イギリスとフランスはそれを見過ごすことはできず、ポーランドの国境を守る決意を表明したが、同様にソ連がドイツと連携してポーランドの侵攻を決めていたため、守るためには戦争も辞さないと脅すしかなかった。ヒトラーはその脅しをはったりと解釈したが、それは1939年9月に表明されたものだった。

イギリスとフランスの側から見ればほとんど何も起きなかったように見える「偽りの戦争」は1940年まで続いた。実はポーランド侵攻作戦で、軍馬に引かせるドイツ軍部隊の弱点とスペイン内戦以降改良が重ねられてきた電撃戦と戦術的展開計画が未完成だったことが明らかになった。ポーランドでドイツ軍は4万9千人の死傷者を出し、ソ連は8千人を失ったが、100万人近いポーランド人が犠牲になった。ポーランドを吸収したのち、西部戦線の戦闘は1940年に本格化した。激戦が続き、フランスは5月に敗北した。空権をかけたバトル・オブ・ブリテンがあった。フランスの残党がヴィシーに臨時政府を設立した。同じ頃、イギリス軍とフランス軍は敗戦を喫したダンケルクから撤退し、首相になったばかりのウィンストン・チャーチルの弁舌の才のおかげでその作戦は「圧倒的な勝利」とされた。翌年はギリシアと北アフリカで軍事作戦が行なわれ、ブリッツと呼ばれるイギリスの都市空襲が続いた。ヒトラーがソ連に攻撃をしかけてほぼ勝利を収めたのもその年だっ12月には大日本帝国が太平洋上の真珠湾のアメリカ海軍基地を攻撃した。1941年はドイツでヨーロッパのユダヤ人とロマ、同性愛者と共産主義者を特殊な大量処理機構によって虐殺する計画が持ち上がった年でもあった。この計画は、ラインハルト・ハイドリヒ主導のヴァンゼー会議で「最終的解決」として改良され、ヒトラーの様々な部隊によって推し進められ、ホロコーストと呼ばれるようになった。

それまで優勢だった日本とドイツに1942年には逆風が吹きはじめた。スターリングラード攻防戦とエルアラメインの戦いでドイツ軍の前進は止まり、日本はその年前半にシンガポールで勝ちはしたがミッドウェー海戦で太平洋地域での衰退を決定づけられた。1942年から連合軍は兵力、テクノロジー、国内組織、経済力の優位が「連合国」の勢いをさらに後押しした。さらなる激戦が続いたのち1943年にイタリアが降伏した。1944年、連合軍はイタリアのアンツィオ上陸作戦ののち、ノルマンディー侵攻作戦いわゆるDデイを成功させた。ソ連の「バグラチオン」作戦でスターリンの部隊はベルリンに迫った。1945年ヒトラーは上級幕僚と一緒に自殺した。一方ソヴィエトの日本侵攻とアメリカ軍侵攻作戦で大勢の兵を失うことを恐れたアメリカは日本に原子爆弾2個を落とし、東アジアでの戦争は終結し

この戦争は矛盾した遺産を残した。アメリカとソ連はナチ指導部と戦争犯罪者のニュルンベルク裁判で協力関係にあったが、実際にはまもなく「植民地から独立」する人々にとって冷戦はすでに始まっていた。戦争はヨーロッバに残っていた植民地を持つ帝国に、また世界の大国としてのイギリスとフランスの権威に致命的な打撃となった。ドイツは東と西に45年間分断され、ヨーロッパと大西洋沿岸諸国の力関係に支配された。他方で、人類史上最悪の紛争は国連と世界人権宣言、ブレトンウッズ体制を生みだした。それらは第一次世界大戦後に設立された機関よりは長く続いている。

探検exploration

18世紀の探検は本質的には、1492年のコロンブスの新大陸発見、1519年のフェルディナンド・マゼランの世界周航に激発された16世紀と17世紀の探検の延長にあった。第一の目的は完全なる略奪であれ、不平等を常とする貿易であれ、富の追求である。それと密接に関連していたのは、新たに発見された土地が発見国の統治下に置かれて国力の証になるという想定であった。探検は20世紀まで帝国主義の重要な側面を維持した。第二は安住の地の探索であり、そのほとんどがアメリカ大陸に限られていた。オランダ人によって発見されたオーストラリアは、1786~87年にイギリスの流刑地に指定された。シベリアも近傍のロシア政府に同様の目的で利用された。第三はキリスト教信仰を広めたいという衝動で、これはヨーロッパの一方のスペインとポルトガルの場合であり、他方のロシアの場合、つまるところ以前は優勢を誇っていたイスラム教との闘いにほかならない。第四の、そして依然として強力な動機は、飽くなき好奇心である。16世紀前半にスペインがメキシコとペルーに侵入したことにより、ヨーロッパにとっては未知の文明の全貌が明らかになった。

南極と北極を除く大陸の全体像は、18世紀初頭までにヨーロッパ人に知れ渡った。ポルトガル人のバルトロメウディアスは、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見よりきぼうほうも早く、1488年に喜望峰を回って東アフリカの海岸に到達した。しかし得られた知識は主に沿岸地帯に限定されており、新しい国の潜在的可能性(現実に存在するにしろ想像にしろ)を活用するには探検が不可欠であった。ところが探検活動のバランスは変化していく。先駆であるスペインは探検を南アメリカの広大な土地に制限していたが、ほどなくのちのアメリカ合衆国の太平洋沿岸を包含した。一方ポルトガルは、1497年にヴァスコ・ダ・ガマ率いる艦隊がインド遠征に乗り出し、1557年に中国沿岸のマカオに居留地を確立したが、17世紀には東洋貿易の支配権争いでオランダに敗れた。

18世紀

今や北アメリカと太平洋沿岸の探検を主導しているのはイギリスとフランスであった。イギリス人のキャプテン・ジェームズ・クック(172879)は、ニュージーランドとオーストラリアに加えてカナダのニューファンドランド海岸を探検し、1773年には史上初めて南極圏の南を航海し、南極大陸を迂回しながら大浮氷群の端まで到達した。しかしカナダの北側に北西航路を見つける本格的な探検は、それ以来行なわれなかった。1611年の試みではヘンリー・ハドソンに死をもたらした。探検が危険であることは今も昔も変わらない。キャプテン・クック自身はハワイの敵対心を持った島民に殺された。海洋列強国が権力を保持するために探検を行なったのは理の当然である。中央ヨーロッパ、オーストリア、プロイセンは探検に参加せず、ロシアはまだ海を越えておらず、農民移住をカザフスタンからシベリアへと拡大していたにすぎない。それでもロシアの船員は18世紀にシベリアの北海岸の大半を探検した。動物的好奇心による動機も洗練と区別化の度合いを高め、何より科学的になりつつあった。キャプテン・クックはオーストラリアの入り江で興味深い植物を見つけたため、ボタニー湾と名づけた。

しかし18世紀は異文化現象の始まりを目の当たりにした時代でもあり、未知の国あるいはほとんど知られていなかった国が、ヨーロッパ人の趣味嗜好に少なからぬ影響を与えた。シノワズリが大流行して食器や家具さらには建築にまで用いられ、ケンブリッジシャーのゴッドマンチェスターにある中国式の橋や、ウィリアム・チェンバーズが1761年に設計したロンドン南西部のキューガーデンのパゴダなどは今も残存している。別の観点からは、コーヒーの物珍しさがロンドンの有名な18世紀のコーヒーハウスを生み、そこが知的生活の中心になる一方、フランスの〈カフェ〉はヨーロッパの共通言語であるかのように定着した。アステカ族の言語の〈ショコラトル〉に由来するチョコレートも、スペインの飲み物として定着した。さらに別の観点で見ると、探検航海の困難さは、遭難した水夫アンドリュー・セルカークの実話に基づいたダニエル・デフォーの小説『ロビンソン・クルーソー』(1719)によって大衆の想像力を刺激した。ロビンソンの従僕のフライデーは、おそらくヨーロッパ文学初の「高「貴な野蛮人」であろう。その後そうした文化的影響はますます増え、その意義も大きくなったが、当時は政治的影響によって影が薄くなっていた。前述のように事情や動機は何であれ、探検には遅かれ早かれ領土権の主張や、少なくとも排他的権利または特権の主張が続くのが常であった。要するに、1770年代までに植民地化と帝国間の競争がヨーロッパの政治の主力になっていたのである。フランスのカナダとインドおよびナポレオン戦争での敗北によってイギリスの優位が確立し、それは1860年代と1870年代まで疑問視されなかった。

19世紀

キャプテン・クックの史上初の南極圏突入に続いて、1820年には南極大陸が初めて目撃されたが、その功績は同じ年に別々の航海を行なった3人の男ロシア帝国海軍士官ファビアン・フォン・ベリングスハウゼン、イギリス海軍士官エドワード・ブランズフィールド、アメリカのアザラシ猟師ナタニエル・ブラウン・パーマーが分け合っている。フランス人のジュール・セバスティアン・セザール・デュモン・デュルヴィルは、1840年に初めて南極大陸に足を踏み入れた人物になった。しかし、総じて19世紀の探検のスタイルは植民地化を伴うものだったが、重要な発展がいくつかあった。好奇心はますます科学的になっていた。おそらくそのもっとも有名な例はイギ

リスの自然科学者チャールズ・ダーウィンであり、著書の『種の起源』(1859)は自然科学者として乗船したビーグル号の世界航海(1831~36)の後で出版された。科学的好奇心は考古学や文化史全般などの分野を受け入れるためにますます多様化していった。この多様化により、探検は海洋権力の保持というよりもヨーロッパの一大事業となった。この探検の新分野で名高いのはドイツの学者たちで、ハインリヒ・シュリーマン(1822~90)はいずれも伝説の都市だと思われていたミケーネとトロイアを発掘した。しかしながら最も有名な業績は、おそらくロゼッタストーンの発見を受けてフランスの古代エジプト学者ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790~1832)が始めたヒエログリフの解読であろう。これらの新しい形態の探検は地理的な焦点も広げた。イギリスのサー・オーレルスタイン(1862~1943)などの考古学者は、ゴビ砂漠周辺でヨーロッパと中国を結ぶシルクロードを探検しチベットに至った。この種の探検には領土的な含みはなかったが、やたらにたくさんの発見物がヨーロッパへ移送された。ロンドンの大英博物館、パリのルーブル美術館、ベルリンのペルガモン博物館、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館のコレクションを見れば事の次第は明々白々である。

しかし従来の形態の探検は基本的ににアフリカに焦点を当てており、イギリス人を先頭に、19世紀半ばからフランス人、ベルギー人、ポルトガル人、しんがりにドイツ人が続いた。これらの探検家のなかでもっとも有名なのはおそらくデイヴィッド・リヴィングストン(1813~73)で、ザンベジ川、ヴィクトリアの滝、ニアサ湖(マラウイ)を発見した。死亡したと思われていた彼は、1871年11月10日にウジジでサー・ヘンリー・スタンリーに発見され、そのときに有名な「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」という言葉が発せられた。その後2人はタンガニーカ湖を探検した。このヨーロッパの探検家によるサハラ以南のアフリカへの進出に商人や入植者がすぐ続き、たちまち「アフリカ分割」と呼ばれる植民地獲得競争が引き起こされ、1884年の国際ベルリン会議においてある程度秩序らしきものがもたらされた。一番の受益者はイギリスで、1890年にはアンゴラとモザンビークを横断しようとするポルトガルの植民地計画を、フランスとドイツが承認していたにもかかわらず迷わず阻止した。

探検は同時に、16世紀にスペインが南北アメリカを征服してから後景に退いていた感覚も取り戻していた。鉱物資源―主として金とダイヤモンドだが、それだけでなく他の貴金属、そして急激に需要を増しつつある石油の探求である。ここでも主導者となったのはイギリスで、金やダイヤモンドを探す人たちが南アフリカのケープ植民地に押し寄せ、オランダ系入植者(ボーア人)とのあいだに軋轢が生じ、彼らを北へ追いやった。

18世紀と同じように探検と発見は、とりわけ文学の面で本国の文化に大きな影響を及ぼした。冒険物語が盛んに綴られ、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『宝島』(1883)やロバート・マイケル・バランタインの『サンゴ島』(1857)などの児童文学の名作を生み出した。フランスの小説家ジュール・ヴェルヌ(1828~1905)は想像力において他の作家と同等だとすればやや科学的な傾向があり、『地底旅行』(1864)や『海底二万里』(1872)などの作品を発表した。影響はスイスにもおよび、ヨハン・ダビット・ウィースの『スイスのロビンソン』が1812~13年にドイツ語で出版された。おそらくもっとも注目すべきはイギリスの作家サー・ヘンリー・ライダー・ハガード(1856~1925)尊敬すべき農業研究家、アフリカの行政官にして入植者であり探検家にしてやや神秘主義者でもあっで、もっとも有名な作品『ソロモン王の洞窟』(1885)は冒険小説の古典だが、『洞窟の女王』(1887)とその続編の『女王の復活』(190)ザンジバルからチベットや中央アジアの僧院や山奥への旅に誘う息を呑むようなファンタジーである。

しかし19世紀末から20世紀初頭の現実の探検は、ファンタジーとは反対にますます科学と技術が駆使され、地球上でもっとも近づきがたかった北極・南極を目指した。これにはスカンジナビア人が大きな役割を果たした。ノルウェーの探検家で科学者のフリチョフ・ナンセン(18611930)は1888年にグリーンランドの氷原を横断し、1893~96年の北極探検で極氷の動きを研究したが、彼の乗った〈フラム〉号はロシアの北の流氷群をほぼ3年間漂流した。スウェーデン人のアドルフ・エリク・ノルデンショルドは、1879年に〈ヴェガ〉号で北東航路の通航に初めて成功した。もうひとりのノルウェー人口アール・アムンセン(1872~1928)は、190305年に〈ヨーア〉号でカナダ沿岸を周って北西航路横断に初めて成功した。そこはヘンリー・ハドソンと、のちの1845年に軍艦〈エレバス〉と〈テラー>を指揮したサー・ジョン・フランクリンが、遠征に失敗して命を落とした場所であった。

20世紀

19世紀の終わりから20世紀の初めにかけては引き続き極地に焦点が当てられ、南極に対する関心が新たになった。1890年に国際的な調査計画が作成され、ノルウェーのカルステン・ボルクグレヴィンクは、1898~1900年に初めて南極で越冬し棚氷を旅した。フランス人のジョゼフ・デ・ジェルラシュ・デ・ゴメリは、1897年に南極の最初の写真を持ち帰った。1901~04年ロバート・ファルコン・スコット隊長(1868~1912)率いるイギリス遠征隊は棚氷を越え、南緯82度17分の最南端に達した。その遠征隊のメンバーであっ(サー)アーネスト・シャクルトン(1874~1922)は、1907~09年のイギリスの南極(ニムロド)遠征隊を指揮し、南極点の156キロメートル(97マイル)以内まで接近した。しかし名高いのはアムンセンの綿密に計画された遠征で、1911年には史上初の南極点到達を成し遂げた。さらには、アメリカの探検家リンカーン・エルズワースとイタリアの航空技術者ウンベルト・ノビレの協力を得て、1926年に飛行船で初めて北極点を通過した。ナンセンとスコット大佐--1912年にアムンセンのあとに南極点に到達した不運なイギリス遠征隊のリーダー――は2人とも探検家であると同時に科学者であった。スコット隊の遠征を後援した王立地理学会も「第一の目的は科学であり、探検や極地到達は二次的な目的になる」ことを明らかにしたほどだ。証明はできないものの、35ポンドもの重さの貴重な地質標本の負担がなかったら、彼の遠征隊は無事到達したかもしれないと推測されている。しかしスコットと彼の仲間の死に対する世論の反応は、探検が冒険ロマン、英雄的行為、犠牲、国の威信と離れがたく結びついている大衆の心を反映していた。国威の要素は無視

できないシャクルトンが1908年にヴィクトリアランド高原をイギリス領として宣言したのはその典型で、イギリス領南極地域は南極大陸におけるもっとも古い領有宣言となった。南極大陸はかつてアフリカ、アジア、アメリカ大陸がそうであったように、その後影響力のある国に分割されることになった。イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、ノルウェー、アルゼンチン、チリが揃って領土を主張した。住みにくい地形や気象条件の困難さのため開拓に二の足を踏んでいるうち、1959年に南極条約が締結された。

極地探検を実行可能にした技術の進歩は、新次元の海底探検でさらにその真価を発揮した。大がかりな海底調査が最初に実施されたのは1872~76年のイギリスの軍艦〈チャレンジャー〉による学際的な遠征だが、スイス生まれのベルギー人物理学者オーギュスト・ピカール(18841962)とその息子ジャック・ピカール(1922~2008)は、バチスカーフ型として知られる深海探査艇を共同で設計した。同じ名を持つ都市で建造された彼らのトリエステ号は、1953年に3150メートル(10330フィート)の深さまで潜水した。1960年1月、ジャック・ピカールはドン・ウォルシュ海軍中尉を伴い、アメリカ海軍に買い上げられた〈トリエステ〉号で太平洋マリアナ海溝の最深部1万912メートル(35800フィート)に到達し、潜航深度の世界記録を更新した。ジャック・ピカールはほかにも1960年代初頭に父親と共同で中深海探検用メソスカーフを設計した。観測用の舷窓を持つこの潜水艇は40人の観光客を乗せることができ、約80年前にジュール・ヴェルヌが空想科学小説『海底二万里』で創造した潜水艦〈ノーチラス>号を彷彿させる。

それに対し、陸地の探検はほぼ限界に達していた。おそらく最後のロマンティックな探検家フォーセット大佐は、失われた文明を求めて1930年代初頭にアマゾン奥地に姿を消した。一方、科学に関する考古学的探検では目覚ましい発見が相次いだ。もっとも有名なのは1922年にカーナヴォン卿の援助を受けたハワード・カーターが、上エジプトのルクソール近くの王家の谷でツタンカーメンの墓を発見したことである。それに勝るとも劣らないのは、1920年代後半から1930年代初頭にかみかけてサー・レオナード・ウーリーがイラク南部で行なった古代都市ウルの発掘であり、思いもよらぬ文明とその芸術的功績が明らかになった。同様の偉業としては、主にアメリカおよび自国の考古学者によって、ラテンアメリカの砂漠やジャングルで目覚ましい発見があった。しかし目覚ましい発見のためとはいえ、わざわざ辺鄙な地域を探検するには及ばない。1939年にイギリスのサフォーク州ウッドブリッジ近くのサットンフーでアングロサクソンの船葬墓が発掘されたことで、歴史家がそれまで「暗黒時代」として顧みなかった時代の認識を一転させた。

文化的影響

しかしながら、20世紀にヨーロッパの文化に大きな影響を与えたのは、現代のアフリカとオセアニアの探検であった。例えばベニン王国の高度な青銅器文化は1897年までヨーロッパ人に知られていなかった。さらにその影響は、冒険、文学、装飾の趣味だけではなく、おそらく初めて芸術の本流にまで及んだ。1907年にスペイン人パブロ・ピカソ(1891~1973)が描いた画期的な『アヴィニョンの娘たち』には、アフリカやオセアニアの仮面の影響がはっきり表われている。フランスの画家アンリ・マティス(1869~1954)の『マティス夫人の肖像』(1913)などの有名な絵画にも同じことが言える。イギリスの彫刻家へンリー・ムーア(1898~1986)の屋外展示用の巨大な石像は、太平洋のイースター島の石像の影響が明確に示されている。「プリミティブ」アートと「モダン」アートは手をつないだのである。先コロンブス期の中央アメリカの階段状建築までもが、20世紀の無線機器用の木製キャビネットに反映された。考古学、人類学、人の移動の研究、純粋な探検的冒険の要素を組み合わせて世界的な注目を集めた偉業は、ノルウェーのトール・ヘイエルダールとその仲間が1950年代に行なったコンティキ号探検であり、アンデス山脈の湖では今でも見かける古いタイプの帆のある筏を複製し、古代人が太平洋を横断できることを証明した。

20世紀半ばはまた極地探検の飛躍的な進歩が続き、1969年には(サー)ウォーリー・ハーバートが初めて北極海を横断した。アメリカの原子力潜水艦〈ノーチラス〉は、1958年に初めて潜航状態で北極点を通過した。南極点を経由した南極大陸の最初の横断は1957~58年の99日間に、ヴィヴィアン・フックス率いるイギリス連邦南極横断遠征隊によって達成された。その後1994年にノルウェーのリブ・アーネセンが女性初の南極点単独到達に成功した。これらは注目に値する偉業であったため、きわめて重要な政治的展開を伴ったことはほぼ間違いない。南極条約は1959年に南極大陸およびその周辺に科学者を派遣していた12カ国により採択され、1961年に効力を発した。その後1991年にそれら12カ国は他の34カ国とともに、環境保護に関する南極条約議定書に署名した。同条約は従来の領土権の主張の有効性については判断を保留し、南極大陸を「平和と科学に捧げられた自然保護区」と定義した。非科学的目的での天然資源の開発は、2048年まで全会一致で禁止された。遺憾ながら、議定書への署名は国家間の競争の終わりを意味しなかった。イギリスは南極大陸において自国の領土を50パーセント拡張する計画を国連に申請することを明らかにした。領有主張地から海底に延びる約38万6千平方マイルを

加えるというのである。アルゼンチンとチリは反訴する構えを明らかにした。あらゆる申し立てを提出する期限は2009年であった。こうした主張の背後には国家の威信ばかりでなく、地球温暖化が石油やその他の鉱物の探査およびその利用を可能にするという目論見もあった。

それでも、20世紀から21世紀にかけての探検の中心は地球ではなかった。それは高層大気であり、宇宙であった。ここでもオーギュスト・ピカールが先鞭をつけた。一種の気密式与圧キャビンその後すべての高空飛行機の標準になった――を備えた新型の気球を設計し、ベルギーで資金を調達すると、1931年5月27日にポール・キプファーを伴って高度1万5781メートル(51762フィート)まで上昇した。1932年にもキャビンを改良した気球で1万6940メートル(55563フィート)まで達し、高度記録を更新した。翌年ソヴィエトおよびアメリカの気球操縦士が1万8500メートル(60700フィート)と1万8665メートル(61221フィート)まで上昇し、さらに記録を更新した。しかし、これは来るべき劇的な変化の予兆に過ぎなかった。1961年4月12日ロシアのユーリイ・ガガーリン(193468)は人類初の宇宙飛行士として〈ボストーク1>号に乗り込み、毎時27万4千キロ(毎時17万マイル)の速さで90分かけて地球を一周し、最高高度327キロメートルに達した。ソ連はそれまでにもすでに地球を周回する世界初の人工衛星〈スプートニク1>号を1957年に打ち上げており、同年に〈ルナ2号を月面に衝突させていた。50年後にロンドンに建立されたガガーリンの記念像は、キャプテン・クックの像と微笑ましく向かいあっている。宇宙飛行に対する反応は、探検における国家主義および政治的特質を強調した。そこには人類の偉大な功績―大勢が夢見たが実際に目撃するとは予想だにしなかったことに対するありふれた喜びに加えて、宇宙工学におけるソ連の大きな勝利であるという認識があった。ソ連はそのプロパガンダ価値を百も承知しており、ソ連以外の国ワルシャワ条約機構同盟国が望ましいがそれに限定されない今後から宇宙飛行士を招いて、の宇宙開発計画に参加させようとした。一方アメリカは、冷戦時代の敵が最大の宣伝価値だけでなく、莫大な軍事的可能性のある技術を習得していたことに危機感を抱いた。ケネディ大統領は「60年代の終わりまでに」アメリカの有人宇宙船を月に着陸させるため、予算を節約するなと要求した。このプロパガンダによって、アメリカのニール・アームストロング(1930~2012)は1969年7月21日に人類で初めて月面に降り立った男になった。世間にあまり知られていない宇宙開発の先駆けは、第二次世界大戦後期にV1およびV2兵器に取り組んだドイツのロケット科学者たちであり、終戦直前にソ連やアメリカに連れて行かれた。アメリカに亡命したヴェルナー・フォン・ブラウンなどはその代表例と言える。

かなり意外なことに、アメリカとソ連の宇宙船事故があったにもかかわらず、宇宙探検は黎明期の探検よりも安全なようである。ガガーリンの〈ボストーク1>号での先駆的な宇宙飛行に続いて、1962年と1963年にも一連の宇宙飛行が行なわれ、後者には世界初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワも含まれる。ソ連は前進を続け、1964年10月に〈ボスホート1>号で3人飛行を成功させ、1965年3月の2人飛行ではアレクセイ・レオーノフが世界で初めて宇宙遊泳を行なった。1971年から82年のあいだに打ち上げられた〈サリュート>シリーズの宇宙ステーションは、搭乗員が長期間居住作業することが可能なため滞在日数211日の記録に達した。こうした長期にわたる滞在は、1978年の東ドイツのジークムント・イェーンをはじめとするワルシャワ条約機構同盟国の飛行士ばかりでなく、フランスとインドの飛行士とのランデブーも可能にした。ヘレン・シャーマンはこうしてイギリス人初の宇宙飛行士になった。ソ連は1986年についに、貨物輸送船用と有人宇宙船の訪問用の6つのドッキングポートと、最大6人のクルーを収容できる膨張式モジュールを備〈ミール〉宇宙ステーションを打ち上げた。米ソが唯一共同で行なった有人宇宙プロジェクトは1975年の〈アポロ・ソユーズ〉テスト計画で、アメリカの3人乗りの〈アポロ>とソ連の2人乗りの〈ソユーズ19>号が2日間軌道上でドッキングした。

こうした有人宇宙探査は当然アメリカも同様のことを行なっていたが無人飛行によって補完されており、アメリカとソ連(ロシア)は最初は月面を、次いで惑星間空間を探ろうとする宇宙開発計画を次々と実施した。アメリカの計画にはイギリスや西ドイツなどの西ヨーロッパ諸国との限定的な共同プロジェクトも含まれていた。ソ連の〈ルナ〉シリーズは1959年に〈ルナ3号で月の裏側を撮影することに成功し、1970年には〈ルナ16>号で月の土壌サンプルを地球に送り返した。ソ連が最初に成功した惑星間打ち上げは1967年のくべネラ4>号で、金星の大気層に探査用カプセルを送り込んだ。1975年の〈ベネラ9〉号と〈ベネラ10>号は、別の惑星の表面の画像を初めて提供した。1971年に火星に打ち上げられた探査機は限られた科学データしか提供できなかった。ロシアはまだソ連時代の宇宙調査における隆盛を取り戻すのが難しいと感じていた。1990年以来初めて2011年11月に火星探査機〈フォボスグルント〉を搭載したロケットを打ち上げたが、土壌サンプルを地球に持ち帰る計画は機器の故障により失敗した。将来の宇宙探査は想像を絶するほどの距離と時間を伴うため、無人探査になることは数十年前から明らかになっていた。無人探査機はすでに火星と金星に関する情報を提供していたが、アメリカの〈ボイジャー〉計画は太陽系の外惑星を調査していた。2015年7月、2006年に打ち上げられたNASAのニュー・ホライズンズは冥王星を接近通過し、海王星軌道の外側にあるカイパーベルトへ向かった。衛星軌道上にある宇宙実験室は、探査というより研究と見なされるかもしれない。距離と時間の問題は、最初はアメリカが発見し、1946~47年にイングランドはチェシャー州のジョドレルバンク天文台で(サー)バーナード・ラヴェルらヨーロッパ勢が開拓した電波天文学が、今後も重要なツールであることを示唆している。電波天文学のおかげで、放射された電波が地球に到達するまでに数千万年かかるような遠い天体を観測することが可能になると同時に、おそらくは宇宙の始まりを探索することも可能になるであろう。

回想

そういったしだいで従来の探検家——冒険家、科学者、国民的英雄など――は、おそらく歴史となりつつある。登山は厳密には探検とは呼べなかったが、1923年に何故危険を冒してまでエベレストに登るのかと問われたジョージ・リー・マロリーの「そこに山がある「から」という簡潔な答えは、探検の精神の要点を押さえたものでもある。現在、地球の表面は探検するには知りつくされている。しかし科学の進歩は人類学および考古学的な探検を促しており、人類の進化と文明の出現についての物語を解き明かす様々な発見が期待されている。考古学的探検は18世紀後半に「ジェントルマン・アマチュア」から始まって徐々に職業化されていったが、金属探知機の開発によりその歴史は繰り返された。金属探知機を備えた週末のアマチュア探検家はイギリスで何度も「貴重な宝」を発掘しており、なかでも2009年にスタッフォードシャーで発見された金銀の財宝はおおいに注目を集めた。しかしながら、従来の探検形態の大半はつねに強力な戦略的側面があり、北極圏にふたたび注目が戻ることになった。ハドソンやフランクリンなどの探検家の死を引き起こした地域は、地球温暖化によって商業、戦略、輸送の機会を持つ地域に変わりつつある。さらに戦略的機会は、軍事的優位と同じくらい資源開発にも関連がある。例えば推定によれば、北極海の底には世界の埋蔵量の4分の1に当たる3750億バレルの石油と、3分の1に当たるガスが埋蔵されている。根拠は定かではないものの、北極の地球温暖化は世界のその他の地域の2倍の速さで進行しているようである。現在の速さで気温が上昇した場合、北極の氷は2070~80年の夏または一部の科学者の見解では2040年までに融けてしまうという。ロシアの調査船〈アカデミク・フョードロフ〉は2005年に砕氷船の先導なしで北極に到達した最初の船となり、2009年にはドイツ船籍の2隻のコンテナ船が開放水面を通って北東航路を通航した。北極に接する8カ国はそれぞれ大陸棚に独自の主張と反対要求を持っている。デンマークは北極がグリーンランドの大陸棚上にあるとして領有権を主張しているが、ロシアは2007年8月2日に正式に北極の領有権を主張した。2009年に採択されたロシアの新しい国家安全保障戦略は、10年以内の軍事的衝突の潜在的可能性として、国境周辺の未開発の石油およびガス埋蔵量の所有権をめぐる激しい戦いを特定している。しかしその後のロシアの外交的動きは、まさに冷戦という名がふさわしい新たな紛争のリスクを軽視したものだった。

 豊田市図書館の6冊
209.5クツ『ケンブリッジ世界近現代史事典 下』
311.8アレ『全体主義の起源 1』反ユダヤ主義
311.8アレ『全体主義の起源 3』全体主義
209マク『世界史(下)』
311.8『悪と全体主義』
104イケ『リマーク1997-2007』

 ブログのワード化完了 #早川聖来
 10時の開店待ちも含めてスタバは満席です #スタバ風景
 出会いを求めて 図書館へ 女性ではなく本ですけど
 vFlatは 心強い 軽く10冊ぐらいは処理できます
 過去に遡って コンテンツを探してきましよう
 6.3 個の覚醒:本はきっかけにすぎない 覚醒は存在を意識し、考えることから始まる
・数学は本質に迫る手段
・個の存在に気づいているはず
・内に答えを求めることが覚醒につながる
・他者の世界が自分のためにあることを知る
知のきっかけ:存在のなぞを求めるためのプロセス
考える:権威は不要 自分の内だけ答えを求める
社会を知る:知るためには一万冊の本が必要
存在している:存在の意味から答えのない問いを発する

 図書館があってよかった 図書館に出会えてよかった マルクスは図書館のために ロンドンを離れるとできなかった #図書館
 電子書籍化の時になぜハイブリッドを選ばなかったのか その時点でのリテラシー
 モーゼがエジプトを出た時に右に行かずに左に行ったのか アラブとの確執と石油の恩恵ではあまりも 差が大きい
 図書館の存在意味は国自体をサービス主体に変えていくための前衛
 革新とか保守との政治理念は必要ない 国民にサービスするかどうかです 役割を明確にすることだけ

豊田市図書館の6冊
209.5『ケンブリッジ世界近現代史事典 下:
311.8『全体主義の起源 1』反ユダヤ主義
311.8『全体主義の起源 3』全体主義
209『世界史(下)
311.8『悪と全体主義』
104『リマーク1997-2007』

イスラムの勃興

2023年09月17日 | 4.歴史
 イスラムの勃興

六三六年、アラブ軍は、シリアとパレスティナに駐屯するローマ(ビザンティン)軍を打ち破り、この二地方からローマの勢力を永久に駆逐した。その少し後、別の遠征軍がメソポタミア(六四一年)とエジプト(六四二年)を平定した。そして六五一年までには、イランもまた、この数々の勝利によって形成されたイスラムの新帝国に併合された。預言者マホメット(六三二年没)に下った新しい天の啓示が、人々の熱情をよびおこし、この異常な連戦連勝の源となった。さらに驚くべきことは、マホメットが与えた宗教的確信のために、粗野なアラブの征服者とその後裔が、中東地方が文明のそもそもの発生期以来受けついできた、多種多様の、時には矛盾する諸要素を融合して、新しいそして明確にイスラム的なひとつの文明を作り上げることができたという事実である。

マホメットの生涯

マホメットの時代には、アラビアは数多くの好戦的な部族に分かれていた。そのある者は遊牧民で、ある者はオアシスの農耕地域や商業都市に定住していた。ユダヤ教とキリスト教はある程度アラビアにも浸透していたが、マホメットの生まれたメッカの町は土着の宗教が占めていた。若いころ、マホメットは隊商に加わって、パレスティナ周辺の町々へ旅をしていたらしい。四十歳位になると、彼はしばしば恍惚状態に陥り、虚空に声を聞いた。そして、すぐにこれが天使ジブリールの訪れであり、自分にアラーの神の意志への服従を命じる声であることを理解した。こうした体験に励まされて、マホメットは、アラーこそ一にして全智全能の神であること、審判の日が近づきつつあること、アラーの意志に完全に服従すべきことなどを説きはじめた。彼は「イスラム」の一語にその教えを要約したが、これはアラーへの「絶対帰依」を意味する言葉である。一日に五回の礼拝、喜捨、少なくとも生涯に一度メッカに巡礼すること、酒と豚肉を控えること、毎年一ヵ月を選んでその間日の出から日没まで断食することなどが、マホメットが信徒に課した戒律のおもなものであった。預言者が明かしたところによると、アラーへの服従の酬いには、死後天国に入ることを許される。それに反して偶像崇拝の徒やその他よこしまな行いの者は永遠の劫火に焼かれるだろう。「最後の日」における肉体の復活も、マホメットが大いに強調した点のひとつだった。

はじめのうち彼は、ユダヤ教徒やキリスト教徒も、彼の教えを神の意志の最後にして最も完全な啓示として認めることになろうと考えていた。なぜならアラーとは、マホメットの信じるところによれば、アブラハム、モーゼ、イエスその他あらゆるヘブライの預言者たちに語りかけたと同一の神格だからである。アラーが矛盾を示すことはあり得ないから、マホメットの啓示とむかしからの諸宗教の教理の間にある差異は、真正の神の教えを守り伝えてくる上での人間的な誤りとして簡単に説明された。

メッカの住民でマホメットの警告を聴き入れる者はわずかで、大部分は、マホメットが偶像崇拝だといって非難したむかしからの信仰を捨てなかった。六二二年、マホメットはメッカからメディナへ逃げた。このオアシス都市の相争う党派が、第三者に紛争の調停を依頼するため彼を招いたのである。この時以来、マホメットは政治指導者、立法者となった。メディナで、マホメットは、ユダヤ人とはじめてじかに衝突した。ユダヤ人たちは彼の権威を認めなかったからである。そこでマホメットは彼らを追い払い、その土地を奪って彼に付き従う信徒たちのものにした。その少し後で、やはりユダヤ人が住む別のオアシスを討ったが、こんどは住民に、そのままその土地を所有することを許し、その代わり彼らから人頭税を徴収することにした。ユダヤ人とのこれら初期の衝突は、守るべき先例として、後々まで支配者のモスレムと被支配者のユダヤ教徒(および後にはキリスト教徒)との関係を決定したから、重要な意味を持っている。

メディナでは、マホメットの教えを受け入れ、改宗して付き従う者は着々と数を増していった。その結果、信徒の共同体は、オアシス都市メディナの狭い境界内で、なんとか生計の途を講じる必要に迫られた。メッカの市民が所有する隊商を襲うのが手っとり早い解決策だった。最初の襲撃は成功だった。そこで直ちにくりかえし試みられ、いずれも勝利を収めたので、ついにメッカの抵抗も止むにいたった。マホメットは勝利者としてメッカに帰還し、引きつづき、アラビア全土をイスラムの旗のもとに統一する仕事に取りかかった。これは戦争によることもあったが、主として外交と談判によって進められた。

この事業が完成するかしないかのうちに、マホメットは死んだ(六三二年)。彼にはその後を継ぐ男の子がいなかったので、預言者の旧友で親しい同志の一人、アブー・バクルが、イスラム教徒の共同体を指導するカリフ(後継者の意)に選ばれた。彼はただちに、各地の族長があいついで彼に離反するという困難に直面した。彼らは、マホメットに服従を誓ったからといって、全体としての信徒の共同体に忠実でいなければならぬ義理はないと考えたのだ。だが戦いとなると、マホメットの信徒のかたく団結した中核部は、その熱情と信念によって再び敵を圧倒した。族長たちは今一度、結束して新しい信仰の旗の後に従うことになった。この危機が過ぎるとまもなくアブー・バクルは死に(六三四年)、指導者の任務はウマル(六三四―六四四年までカリフ)の手に移った。この男は敬虔で献身的な信徒であったばかりでなく、軍事指導者としても行政官としても卓抜な器量を備えていた。

アラブの征服事業とウマイヤ朝

全アラビアの統一は、アラビア人によるめざましい征服事業の端緒となった。小アジアを除く旧中東の全土、インダス下流の荒地(七一五年まで)、北アフリカ、さらにスペイン(七一一―七一五年)がイスラム教徒の支配下に入った。これらの勝利はなんら戦闘技術の変化によるものではなかった。アラブ軍は数において優れていたわけでもなく、特別に装備がよいというわけでもなかった。だが、神が自分たちと共に在すという信念、戦死は天国における至福の生を保証するという確信、さらにウマルの適切な指導、それだけでアラブ軍を無敵の勝者とするに充分だった。

しかし七一五年以後になると、易々たる勝利は見られなくなった。ビザンティウムの都は、きびしい長期の包囲戦に耐え抜いた(七一七七一八年)。この重大な挫折と時を同じくして中央アジアでも、一連の小会戦における敗北があった。ここでは、トルコ軍が、七一五年までにイスラム軍を東部イランから押し返した。さらにそのすぐ後で、フランク軍が、ガリア中央部のトゥールにおける会戦で、イスラム教徒の遠征軍を破った(七三二年)。

これらの敗戦は、最初の頃の宗教的情熱と信念の避けがたい衰えも手伝って、イスラム教徒の共同体の内部に種々の深刻な問題を生じさせた。最初の一、二世代の間は、アラブの戦士たちは、多かれ少なかれ被征服民から孤立していた。ウマルは特別の駐屯都市を設け、アラブ人はそれぞれ部族の長の指揮下にそこに住んだ。各戦士は、ローマやペルシャから引き継いだ官僚機構にもとづいて、一般民衆から徴収される税から給料を得ていた。このやり方は最初のうちはひじょうにうまくいった。そして、イスラム共同体の指導が、初期の二、三の指導者からはるかに能力の劣る者の手に移った後でも、まだかなりの効力を残していた。

最初の試練は、六四四年ウマルが暗殺された時に訪れた。ウマイヤ家の家長がカリフの位を継ぎ、以後世襲されて七五〇年までつづいた。ウマイヤ朝代々のカリフはシリアのダマスクスを首都とした。彼らの権力は、三つのまったく性格を異にする役割の間に微妙なバランスをとることで保たれた。カリフはなによりもまず、対立するアラブの部族や族長たちの衝突を和らげなければならなかった。次に、カリフはローマやペルシャの前任者から引き継いだ官僚機構を維持し、それを手段として民衆全体から税を取り立てる必要があった。最後にカリフは、イスラム共同体の宗教上の長としての任務をはたさなければならなかった。

この三つのうち、最後にあげた役割を、ウマイヤ朝代々のカリフは適切にはたすことができなかった。真面目で敬虔な信仰の人、アラーの意志を知りそれを忠実に実行しようと願っている人々は、ウマイヤ朝の政治が行う、人目を惹くはでな事業にはなんの満足も見出さなかった。軍事的な成功がつづいている間は、このような不満も政治的に力を持つことはなかった。だが、イスラム教徒がはじめて深刻な敗北を蒙った七一五年以後になると、真にカリフの名に価する、神に選ばれたカリフを要求する宗教上の不服従は深刻な問題になった。

全民衆に対する為政者としても、ウマイヤ朝は次第に多くの困難に直面するようになった。キリスト教徒やゾロアスター教徒、あるいはその他の宗教を信じていた者も、イスラム教の神学上の簡潔さ、法における明確さ、実際の成功などに心を動かされて改宗する者が相次いだ。原理的には、これら改宗者は信徒の共同体に喜んで迎え入れられた。だが、改宗が税の免除を意味した時(最初のうちはそうだった)、宗教上の成功は経済上の危機を意味した。さらに、イスラム共同体は以前と同様、部族によって構成されていたが、部族は大勢のよそ者を同胞として迎え入れることなどできず、第一望みもしなかった。アラブ人は、新改宗者に対してとかく軽蔑の目を向け、マホメットの教えの明確な規定にもかかわらず、彼らをイスラム教の共同体の完全に平等な一員としては扱いたがらない傾きがあった。

こうした緊張は七四四年に頂点に達した。この年、後継者争いが内戦に発展したのである。内戦はウマイヤ朝の滅亡をもって終わった(スペインを除く。スペインではウマイヤ朝の後継者が権力を握った)。勝利者アッバース朝が首府をメソポタミアのバグダードに定めたとき、アラブ駐屯軍の特権的地位も崩壊した。彼らの軍事的支柱となったのはおもにペルシャ人の改宗者だった。だからアッバース朝の政策が、かつてのササン朝の先例から多くの特徴を受け継いでいたのも不思議ではない。以前、重要な存在であった、アラブ人の部族集団は崩壊した。部族の構成する駐屯軍の戦士たちは、ウマイヤ朝の時代のように、首領を通じて給料を支給されることがなくなったからである。本来のアラビア地方では、古くからの遊牧生活がつづいていたので、部族的連帯もそのまま残っていた。だが、帝国内の定住地域では、アラビア人は一般住民と混じりあった。普通は地主になったが、その他の特権的地位に就く者もいた。そして、すみやかに部族的特性と規律とを忘れていった。彼らに代わって、旧帝国そのままの型を踏襲した官僚組織が、通常の行政全般を司った。一方、カリフの軍隊も、イラン人やトルコ人その他の傭兵が、次第にその中核を占めるようになった。

こうしていろいろな点で、大むかしからの大帝国の前例に逆戻りしたことは、イスラム教に改宗した非アラブ人の要求に合致するものであった。彼らもアラブ人も、今では一様に、雲のうえの近づき難いカリフの、縁もゆかりもない臣下なのだ。だがこの変化は、神の意志を、あらゆる細かな点にいたるまでこの地上に実現すべしと考えている、敬虔なイスラム教徒たちを満足させるはずがなかった。この難問を解決するためにアッバース朝の政治家たちが採った政策は、以後の全時代のイスラム社会に影響する重要な意味を持っている。すなわちアッバース朝は、以前のように宗教的権威と、軍事的、政治的指導権をひとつに結ぶことをやめ、宗教的に重要な事柄についての立法権を、いわゆるウラマーと総称される、イスラム教神学に精通した学者集団の手に移すことを、暗黙のうちに承認したのである。

イスラム教徒の聖典と律法

ウラマーは自然に発生した。信仰心の篤い人たちが、いかに行動すべきかの問題にぶつかったとき、この場合神はどう望まれるかを知りたいと願った。それを知る方法は、預言者マホメットの言葉や行為に先例を求めることだった。だが、普通の人は、そういう言葉や行為に通じていない。それに通じている専門家に教えてもらわなくてはならない。預言者と行を共にした最初の世代の者は皆亡くなっていたから、このことは系統的な研究を要した。マホメットの生涯の細かな点が研究されたのは、当然ながら、はじめはメディナだった。彼が生前、神の啓示を受けて発した言葉の数々が、この町で集められ細心の注意を払って編纂されたが、それは彼の死後まだ何年もたっていない時だった。こうして出来た聖典が『コーラン』で、今日までイスラム教徒にとって、信仰上究極的に依拠すべき教えの集められた、最高の権威ある経典となっている。

『コーラン』が直接の指針を示していない、その他の多くの事柄についてもなんとかして処理しなければならない。こういう場合の問いに対する答えとして、イスラム学の専門家は、まずマホメットの日常の言行を拠りどころとした。これは、真実であるか作られたものかは別として、いずれもマホメットと行を共にした同志のだれかから伝えられたと称するものが数多く残っていたのである。それでも足りない時には、マホメットと密接な関係にあった人々の行いが補助手段として用いられた。さらにこの「列伝」によっても、適切な解答の得られない場合には、ウラマーは、類推によって問題点を処理することを認めた。最後に類推によっても充分な指針の得られない場合には、結局、信徒たちが一致して決定したことを正しいとせざるを得なかった。個々人の判断がいかにまちがっていても、全体としての成員が過誤を犯すことをアラ―がお認めになるはずはないとするのである。

こうした手段によって、イスラムの学者たちはまもなく精緻な律法の体系をつくり上げた。そしてそこにアラーの意志が表れているとした。この聖なる律法はもちろん不変である。アラ―が変化することなどないからである。すべての努力が、個々の特定の状況において、人間がどう行動するのをアラーが望まれるか、を疑いの余地なく明らかにすることに向けられたので、これはきわめて詳細にわたっていた。その結果、放棄することも改変することも許されないこの律法は、後のイスラム教徒の社会にとって次第に重荷になっていった。

だがアッバース朝のもとでは、この聖なる律法はまだ鋳造したての金貨のように光り輝いていた。人間に対するアラーの意志はそこに確実に表れているように思われ、信徒はあらゆる行いを、そこに示された明確な規定に合致させるように努力する義務があった。そしてこのことはさほど困難ではなかった。と言うのは、『コーラン』と聖伝と律法の細目についての正確な知識で人々の尊敬を受けている学者が、主要都市にはかならずいて、人々が持ち込む良心の問題について判断を下してくれたからである。こうして、個人や個人の生活に関する政府の仕事の多くが、これらの専門的宗教家の立法の手に移されたのである。それゆえ信仰心の篤いイスラム教徒も、真に重要な事柄は、最も正しく最も賢明な人たちが掌握しているのだと実感することができた。それに比べれば、中央政府を動かし、税を徴収し、国境を防衛し、豪奢な宮廷生活を享受しているのが、今一体だれなのかなどということはたいした問題ではなかった。

かつての、完全に神に捧げられた共同体の理想、預言者マホメットの正しい後継者に率いられ、アラーの意志への服従のためにのみ存する共同体という理想を、大多数のイスラム教徒は、こうして不本意ながら放棄したのである。だが全部がそうしたわけではない。頑固な理想主義者たちはもとの理想に固執し、やがて異端者となった。彼らの多くは、預言者マホメットの女婿アリーの後裔のみが、真に信徒の共同体を率いる指導者たるに価すると主張した。アリーの直系が十二代目で絶えたとき、彼らのある者は、預言者マホメットの真の後継者はこの手のつけられぬほどの邪悪な世界から一時身を退いたのだ、だが将来いつか戻って来て、恐るべき復讐の罰を、真理をねじ曲げアラーの命に背いた者共に下すであろう、と論じた。極端な派閥争いから多数の分派を生じたが、そのあるものは、アッバース朝をはじめ、妥協を知らぬ彼らの理想に少しでも欠けるところのある現実のすべての体制に対して、徹底的に否定する革命的態度を貫いた。これらの集団はシーア派と総称される。それに対して、アッバース朝の政策にもとづいて決められた枠内で、生を送ることを望む大多数の者はスンナ派と呼ばれている。

スンナ、シーア両派の抗争はイスラムの全歴史を貫いて今日までつづいている。同様に、アッバース朝が妥協して、世俗の政府の職権に設けたさまざまな制限は、以後すべてのイスラム国家の政府の政策に影響した。

律法が政治権力とは独立して自律的に運用されたことの必然的結果として重要なのは、イスラムの政治的実権者が、他の宗教集団の指導者たちに対して、ウラマーがイスラム教徒の生活を指導したのと同じように、それぞれの信者を、個人的、宗教的な事柄について、指導し規制してくれるように期待したということである。そこで、キリスト教徒やユダヤ教徒の集団に広範な自律性が保証された。

イスラムの掟のもうひとつ重要な意味は、個人はイスラム教を全面的に受け入れるか、全然拒否してしまうかのどちらかでなければならないとする点である。曖昧な態度は不可能である。マホメットがアラーの最後にして唯一の権威ある預言者であり、聖なる律法は、そのあらゆる細部にいたるまで、アラーの人間に対する意志を真に表現したものであるとするか、あるいは、そのような説はまったくの偽りとするかの、ふたつにひとつである。論理的に言って中間点は存在しないし、実際そのようなことを主張した者もほとんどいなかった。イスラム教は、その先駆であるユダヤ教やキリスト教の持つ教義上の不寛容性を受け継ぎ、一層徹底させたのである。

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