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『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

 『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

フォルクスゲマインシャフト―共同体と排除

国家権力は、ナチ党が思い描いた再生ドイツの実現にとって必要な条件でしたが、これだけでは不充分でした。第4章で見てきたように、ナチ党の政治理論とプロパガンダに用いられた決まり文句のひとつに、国家はそれ自体が目的ではなく、目的を達成するための手段であるというものがありました。その目的とはドイツ民族の歴史的運命の実現でした。ナチ指導のもと、統一された国民・人種の共同体、つまりフォルクスゲマインシャフトを築くというのです。フォルクスゲマインシャフトという言葉自体はドイツの政治論ではごく一般的なものでしたが、ナチ・ドイツでそれが具体的になにを意味したのかについては歴史家のあいだでかなりの論争になってきました。論争を呼んだのは、ドイツ人の信念と考え方を支配したナチ・イデオロギーの力について、そしてドイツ人のためという名目で実施された暴力による政治的・社会的実験に国民がどの程度同意していたのかについての、根本的な問いと密接に関係しているからです。

フォルクスゲマインシャフトを理解する

国民国家の時代には、国民や民族を、それを構成する個人を超えて、より崇高な目的へと向かわせる集合体と見なすことがよくあります。ナチ党の思い描いたフォルクスゲマインシャフトは、このなじみのある魅力的な枠組みのなかにありました。当時、第一次世界大戦後のドイツは、軍事的敗北、社会不安、経済危機によって国が分断され、将来どこへ向かえばいいのかを見失っていました。しかしナチ党は、一貫性はないにしても、フォルクスゲマインシャフトに新たに何層かの意味をつけ加えました。権利、交換、選択を重視する、社会的統合による現代的な大量消費主義の市場モデルが国際的に勢力を拡大していましたが、ナチ党はそれに代わるものとして、人種選択的で闘志にあふれ、経済的な自給自足を目指す国民連帯のモデルを提案したのです。“ドイツ人の「血と土」(ブル・ト・ボーデン)”というナチ党の古めかしい言い方にもかかわらず、そのモデルはおそらく反近代的な構想というよりむしろもうひとつの現在を提案したものであり、人種の純粋性と人口の拡大のためのナチ独自の似非科学に基礎を置いていました。

とはいえ、ナチ政権がドイツ国民に受け入れられたのはイデオロギーに説得力があったおかげではありませんでした。むしろ、前向きで新しいなにかを創造したという、一九三三年以降ナチ政権がとりわけ声高に繰り返し宣伝した自慢のひとつが国民の心をつかんだのです。そのなにかとは、有機的でありながら競争のある共同体(ライストゥングスゲマインシャフト)であり、成果に応じた報酬を与える能力主義を採用し、過去の抑圧的な社会階層を消し去ったと宣伝されました。フォルクスゲマインシャフトの一員になるための新たな人種的・社会的な基準に一致し、応分の負担を果たした人びとは、この特権的な民族共同体の貴重な一員として満足のいく自己像を得ることができました。疑い深い人びとでさえ、独立独歩の新生ドイツで、政権が共同体と責任分担について主張した魅力的な公約に心惹かれました。公約には、完全雇用の実現と生活・福祉の水準向上、社会的な規律と家族の安定、男女間の秩序ある関係の確立、富と地位という不平等ではなく能力と努力の競争による人生の可能性の獲得などが謳われていました。

歴史家は、こうした主張を人びとが生きた現実にほとんど即していないプロパガンダ的な煙幕として扱いがちでした。この見方では、階級のない新たな社会というナチ党の主張は、ドイツの労働者が新しい国民共同体に統一されておらず、労働者の政治団体および職場での自由を暴力で破壊することで彼らを脅して従わせていた事実を無視していました。フォルクスゲマインシャフトについて止めどなく発信しつづけたのは、階級区分の根深さを見えにくくし、新たな社会階層と経済格差が生み出されたことを否定するためでした。また、戦争による世界制覇というヒトラーの野望の隠れ蓑ともなったのです。その実現には頼りになる確かな銃後の守りが必要不可欠でした。強制的同質化―ドイツの機関や団体をナチ化された団結した統一体に組み込んで連携させることという詐欺的な策略の陰で、現実には、人びとは小集団に細分化され、停滞した不平等にはまり込んで抜け出せない状態にありました。富と財産は再分配されませんでした。実質の時間給はほんのわずかしか上がらず、住宅建設は再軍備のため断念されました。権力が新たな党エリート層に移譲されると同時に、大衆迎合的な主張とはうらはらに、旧体制の資本家階級と貴族階級は地位と権威の多くをもちつづけていました(そして自分たちの信念も保っており、上流階級のドイツ人ナショナリストは、自分たちが政権の座に就くのを後押しした粗野な指導者たちを見下して軽蔑を強めていた)。その一方で、この解釈によると、無力な大勢の国民は空約束で買収され、「治安」をテロ行為の別名とする警察国家で服従に追い込まれ、戦争が避けられない運命だった、ということになります。

この見方は政権自体の主張よりも現実に即したものでしょうか?一九三三年時点でのナチ政権の第一の目的は、左派を壊滅させ、力のある政治的反対勢力を抑え込むことだったのは明らかです。それと同様に、社会の主要な不平等はそっくりそのまま残しておいて、新たな不平等をつくり出しながら、国民の同意があったというイメージをでっちあげて押しつけようとしたこともまた明白でしょう。とはいえ、イデオロギーはプロパガンダがすべてだと単純化できるものではありません。「ナチ」を、「ドイツ人」という受け身の大衆に向けた指示と政策の立案者とし、ドイツ人には従うか抵抗するかのどちらかしか道はなかったと断定するのでは、単純化しすぎているのです。これは、それまで集団として共有していたアイデンティティと表現方法が突然否定されてしまった社会において、社会生活および私生活の実感と実体験が充分に考慮された見方とは言えません。かつて階級と抵抗の限界に集中していたナチ・ドイツの歴史研究が人種政治をより考慮するようになるにつれて、私たちの見方の角度も変わってきました。社会的カテゴリーと政治的忠誠によってではなく、新たな生政治的な区分によって定義された社会における、アイデンティティと帰属の問題に注目が高まりました。ナチ・ドイツの日常生活史をじっくり見てみると、国民社会主義を徐々に植えつけた入り組んだルートが浮き彫りになります。多様な政治的背景をもつ、あらゆる階級のドイツ人の生活とアイデンティティに、政党、イデオロギー、言語、政策として、国民社会主義を浸透させていったのです。国民社会主義のもとで失ってしまった自由と引き換えに、何百万もの人びとが選択的にイデオロギーを無視し、自分が手に入れのを数えるほうを選ぶことができました。拡大する経済で生まれた勤め口、民族的な権利を与えられた安心感、ヴェルサイユの「恥辱」を経験したのちのドイツの軍事力と国際的地位にいだいた愛国的誇りが得られたのです。それからほどなくして、同じドイツ人でありながら、自分たちに選択権がないと気づいた人びとが数十万いましたが、大多数はそうした人びとが払う代償は胸におさめてしまってかまわないと考えました。

境界線を引く

帰属意識で結ばれたこの共同体が第一の礎としたのは、一員として受け入れる価値がないと判断された全員を強制的に排除することでした。ナチ政権は前代未聞の抜本的な措置を講じる用意ができていました。ドイツ社会のモザイクのような多様性を力ずくで叩きつぶし、人口増加、人種闘争、領土拡大に向けた手段につくり変えるためです。能力不足や不要と見なされた人びとは、フォルクスゲマインシャフトから切り離され、物理的にも言葉のうえでも壁の向こうに閉じ込められることになりました。そして承認と共感というごく普通の感情はその壁を越えることができなくなったのです。

このように、フォルクスゲマインシャフトの根本原則は、帰属するにふさわしい者とそうでない者のあいだに境界線を引き、取り締まることでした。「個人」や「市民」といったリベラルな概念は、Volksgenosse(民族同胞)という生物学的な分類に取って代わられました。これも一九三三年以降に公的な場で盛んに語られるようになった多くの言葉のひとつで、イデオロギーがたっぷり詰まっており、英語にはまったく同じ意味の言葉がありません。たとえば「ethniccomrade」など、不自然な直訳にしかならないのです。その中心となる意味は政治的権利や公民権ではなく、生物学的適応度という意味での「血」でした。ここで言う血とは、有機的共同体の生命と成長のための民族同胞の人種的・優生学的価値のことでした。民族同胞の範疇からはずれた人びとはすべて「その他の人びと」と位置づけられ、フォルクスゲマインシャフトは彼らから守られなければならない、彼らを追放しなければならないとされました。こうした人びとはartfremd(「[人種的な]異種」)やgemeinschaftsfremd(「共同体にとって異質」、つまり「反社会的」共同体異分子)、erbkrank(遺伝病)と指定されました。国は生物学的に健康な(かつ政治的に好ましい)ドイツ人が繁栄し、子孫をつくるのを奨励する一方で、文字どおりに言えば、こうした政治的身体〟である国民に害を及ぼしかねない欠陥があるとみなしたすべての人びとを排除していったのです。ナチが「人種衛生学」と呼ぶのを好んだ優生学の教義と実践は決してナチ・ドイツに限られたものではありませんでした。優生学は二〇世紀初めのヨーロッパとアメリカ合衆国では科学と社会政策に当たり前のように採り入れられており、ドイツでは一九三三年以前にすでにいくらか進歩していました。しかし批判的な発言が禁じられたナチ・ドイツでは、歯止めが効かない状態になり、強制的な計画を進めるための新たな急進的合意と推進力が形成されていきました。医学的な野心が正式に承認された人種イデオロギーと次第に一致し、不適応の問題を生政治上の集団的自己防衛という緊急課題として扱うようになりました。一九三四年にナチ党のある幹部がずばり言ったように、国民社会主義は「応用生物学」にすぎなかったのです。

「反社会的分子」と犯罪者

「反社会的分子」とは社会の基準から逸脱したり、反抗的だったりする個人や集団をひとまとめにした分類で、人種的には「アーリア人」でも、ハイドリヒが一九三八年に言ったように「犯罪に限らず、共同体にとって有害な行動をとおして共同体に順応するつもりのないことを明らかにする人びと」を指しました。危険なほど弾力性のある定義です。政敵の大量拘束がボリシェヴィズムの脅威から共同体を守るためだと公然と正当化されたのと同じように、嫌われ者で取るに足らない逸脱者集団の拘禁は、「犯罪との戦い」であるだけでなく、社会を蝕む危険から国民を守るための緊急措置とされました。

一九三六年、バイエルン政治警察が標的として列挙したのは、そのほとんとがすでに長いあいだ公的な嫌がらせを受けてきた人びとの寄せ集めでした。「物乞い、放浪者、ジプシー、路上生活者、労働忌避者、なまけ者、売春婦、不平家、常習的な大酒飲み、ごろつき、交通違反者、いわゆるサイコパスや精神病患者」だったのです。彼らは一斉に逮捕されて刑務所や労役場、強制収容所に入れられ、何万人もの危険とされた「常習的」あるいは「遺伝的」な犯罪者も、予防拘禁の新たな権限によって同じ運命にさらされました。まず、シンティとロマ(ジプシー))が路上生活者や労働忌避者として迫害されましたが、一九三八年にヒムラーが出した命令では、彼らが厄介者であるばかりではなく、異人種でもあると恐ろしげに説明されました。強制収容所はこうした人びとでいっぱいになり、一九三九年には二万一〇〇〇人の収容者のうち、政治犯は三分の一以下に減っていました。過酷な労働と厳しい規律によって「再教育」された収容者が共同体に復帰するというかすかな可能性も残されたものの、ほとんどの収容者にとってそれは幻想にすぎませんでした。

性、ジェンダー、生殖

「反社会的分子」と犯罪者も、ドイツの人口とその質を高めるための別の優先度の高い計画の標的にされていました。一九三三年七月、「遺伝病」があると認定されたすべての人を強制的に断種する法律が制定されました。知的障碍からアルコール依存症、先天性の聾や盲目まで、広い範囲におよぶ身体・精神にかかわる障碍が遺伝病とされました。実施の際の基準はさらに弾力的に運用され、「反社会的分子」とされた人びとや数は少ないもののアフリカ系ドイツ人にも適用されました。アフリカ系ドイツ人のほとんどは、第一次世界大戦後のラインラントに駐留していた、フランスのアフリカ人部隊〔フランス植民地のアフリカから派遣されていた〕の兵士とドイツ人女性のあいだに生まれた人びとでした。

一九三九年までにおよそ三二万人のドイツ人女性と男性が断種されており、男性対象の処置が「ヒトラー切開」という皮肉な異名をとるほど、断種政策は人びとの意識に急速に浸透しました。

“不適格者”に子孫を残させないことは、第一次世界大戦以来低下していたドイツ人の出生率を回復させるための政策に緊密に結びつけられていました。出生率の低下はナチ党の目には人種的な自殺行為という悪夢に見えたのです。遺伝的に「健康な」男性と女性の断種は禁じられる一方、ドイツですでに違法だった妊娠中絶は取り締まりと刑罰がさらに強化され、避妊手段は利用しにくいものになりました。結婚は、一九三三年六月に始まった結婚奨励貸付金制度を皮切りに、国が課した人種・思想の基準によってますます規制されるようになりました。結婚の資格は人種によって制限されるとともに、結婚した女性は有給の仕事からの退職を義務づけられ、子をひとり出産するごとに貸付金の返済額が減免されました。一九三五年に制定されたいわゆるニュルンベルク法のもと、「ユダヤ人」と「ドイツ人ないし〝同種”(artverwandtes)の血をもつ国籍所有者」との結婚および性交渉が禁止されました。同年、生物学的に「望ましくない」と見なされた結婚も禁止されています。このように生殖活動に対して新たに規制が課せられたのは、一九二〇年代のフェミニズムの躍進を帳消しにする意図もありました。性差による役割分担という慣例的な思想に女性を従わせ、母親になることを共同体に対する義務として強制しようとしたのです。

ヒムラーが陣頭指揮を執った男性同性愛者への激しい迫害は、彼らが共同体に対する子づくりの義務を拒否しているという通俗的な思い込みも理由のひとつになっていました。女性は受け身の性とされていたため、女性同性愛者は守られました。子をつくれる可能性が完全に失われたわけではなかったからです。しかし彼女たちも、男性性と女性性しか存在しないとする、ヒムラーの厳格な道徳観による攻撃にさらされやすくなっていました。ドイツでは男性同士の性交渉が以前から長らく犯罪とされており、一九三五年になると、男性同士の性的親密さという定義が曖昧な状態も犯罪に含まれるよう刑法が拡大されました。大勢の男性同性愛者が裁判にかけられ投獄されましたが、一九三三年から四五年にかけては、約一万五〇〇〇人が強制収容所に送られ、親衛隊の看守からも同じ立場であるはずの囚人からも迫害を受けました。さらには人体実験の犠牲者となりました。

国家が新たに発令した人種衛生上の命令は、個人の選択や倫理観をまったく考慮せず、とりわけ女性を対象に、個人の性交歴や病歴、家系についてひどく立ち入った調査を認めました。人びとの価値観や職業上の規範、言語がゆるやかに変化していくにつれて、抵抗と疑念は徐々に弱まり、新しい現実に批判が及ばないようになっていきます。そして一九三九年以降にいっそう重大な医学的な倫理違反が起こる素地がつくられてしまうのです(第9章参照)。「われわれ対あいつら」という二項対立的な区別を強いることで、政権の政策は、汚名を着せた集団を通常の社会的交流から遠ざけ、抑圧や迫害に対して無防備な状態へと追い込みました。その一方で、彼らの反対側にいる人びとは優越感に浸ることができ、それによってさらにインサイダーとアウトサイダーの距離は広がっていったのです。おそらく、この感情がフォルクスゲマインシャフトを支える最も揺るぎない柱となったのでしょう。しかし、「アーリア人」のドイツ人が受ける資格のある保健福祉計画はコインの片面にすぎませんでした。その提供は、すべての個人をフォルクの単なる生物学的単位として扱う人種的・優生学的差別の原則にまさに左右されていたのでユダヤ人

ナチ党のフォルクスゲマインシャフト構想の犠牲となった人びとのうち、最も執拗な迫害を受けたのがドイツのユダヤ系市民でした。一九三三年、ユダヤ人と認定されたドイツ人の数は五〇万三〇〇〇人ほどで、人口の〇七六パーセントに相当しました。そのうち三分の二以上がフランクフルトやベルリンといった大都市に住んでいたため、都会的なブルジョアという典型的なユダヤ人像が生み出されました。教育を受けたユダヤ人が知的専門職や金融と商業、芸術と文学で頭角を現わす一方で、それほど社会的地位の高くない人びとは熟練工や商店主、工場労働者として生計を立てました。一九二〇年代にはユダヤ人が正式に解放され、社会への統合が進められてから一世紀以上が経っており、異教徒であるキリスト教徒との結婚の比率も高くなっていたため、高度に同化が進んだ共同体ができあがっていました。たとえば、一九三三年のヴァイマル市では九〇人のユダヤ人住民のうち三分の一がキリスト教徒と結婚していました。慣例的に「ユダヤ人社会」とひと括りにして言うものの、ユダヤ系ドイツ人は階級と宗教観によって分かれていました。多くの古くからの家系は自由主義的あるいは世俗的な考え方をしており、「東方ユダヤ人」(オストユーデン)と呼ばれる少数派を見下しがちでした。東方ユダヤ人とは、わりと新しく東ヨーロッパから移住してきたユヤ人のことで、国籍をもたず、貧しく、ユダヤ教の戒律をきわめて厳格に守る傾向がありました。

 宅配弁当の宣伝が本当に増えた 個の自立を理念としての明確にしないと
 無印で衝動買いしたボールこれ面白い
 セブン-イレブンで宅配弁当の販売を始めるのは目に見えてる
 そしてその時にセブンイレブンは後悔する なぜコンビニ袋を辞めたのか 物流が完結しない!
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