goo

新『もういちど読む 山川世界史』

新『もういちど読む 山川世界史』

イスラーム世界

普遍性と多様性

7世紀のアラビア半島に成立したイスラーム世界は,その後,時をへるにしたがって拡大し,今日では東南アジアから西アフリカにいたる広大な地域がこの世界にふくまれる。イスラーム世界は、初期をのぞいて政治的に統一されることはなく,10世紀頃からは,シリア・エジプト,イベリア半島・北アフリカ,イラン,トルコ,インドなどの地域がそれぞれ独自の歴史的発展をとげてきた。しかし,一方ではイスラームという共通の信仰と法をうけいれることにより,一つの世界としてのまとまりをも維持してきた。この世界では,交易巡礼・遊学などをつうじて人や物の移動,学術・情報の交流がさかんにおこなわれた。社会は開放的で柔軟性にとみ,さまざまな出自の人びとが民族の枠にとらわれることなく活躍した。ギリシア・ローマ・イラン・インドなどの古代文明の栄えた地に成立したイスラーム世界は,これら古代文明の伝統を継承して融合し、独自のイスラーム文化を発展させたのである。

1イスラーム世界の成立

預言者ムハンマド

7世紀の初め、唯一神アッラーの啓示をうけたと信じ、神の使徒であることを自覚したムハンマド(570頃~632)は、アラビアのメッカで,偶像崇拝をきびしく禁ずる一神教をとなえた。これがイスラーム教のはじまりである。その聖典『クルアーン(コーラン)』は、ムハンマドにくだされた啓示を,彼の死後あつめ、編集したものである。

イスラーム教の特質

イスラーム教はユダヤ教・キリスト教の流れを汲む一神教であり,『クルアーン(コ―ラン)』の内容も『旧約聖書』『新約聖書』の物語に近い。モーセやイエスも預言者として登場し、両聖書も『クルアーン』と同様に聖典とされる。ただし、最後の預言者ムハンマドを最良の預言者とし、最後にくだされた啓示『クルアーン』を最良の啓示とする。

教義は,正しい信仰をもつだけでなく,その信仰が行為によって具体的に表現されなければならないとするもので,「六信五ぎょう行」といわれる。「六信」とは(1)アッラー,(2)神の啓示を運ぶ天使(3)神の啓示を書き留めた啓典,(4)それを人びとに伝える預言者(5)最後の審判後にやってくる来世,(6)神の予定の実在を信じることで,「五行」とは(1)信仰告白(2)礼拝(1日5回メッカにむかっておこなう),(3)喜捨(富者が貧者にほどこしを与える)(4)断食(ラマダ―ンとよばれるイスラーム暦の月に、1カ月間,夜明けから日没までのすべての飲食と性行為を断つ),(5)巡礼(義務ではなく余裕のあるものがおこなえばよい)を実行することである。六信の成立は10世紀後半,五行の成立は8世紀初頭とされる。

以上は神と人間の関係における規定であるが、信者同士の人間関係の規範も定められている。そこでは,売買,契約,利子,婚姻,離婚,相続にはじまり,賭け事の禁止、禁酒や豚肉を食べないなどの飲食物の禁忌,殺人をしない,秤をごまかさない,汚れから身を清める,女性は夫以外の男性に顔や肌をみせないようにするなどの倫理的徳目や礼儀作法などが問題とされる。たとえば「禁酒」の場合,イスラーム発生期のメッカの住民がことあるごとに酒を飲むようになり、その弊害が目につくようになったことからムハンマドは禁酒の啓示を何回かうけたあと,ついに全面禁酒の啓示(『クルアーン』の5章90~91節)をうけることになった。

多神教を信じるメッカの人びとの迫害をうけたムハンマドは,622年,メディナに移住(ヒジュラ〈聖遷〉)し,この地に彼自身を最高指導者とする信徒の共同体(ウンマ)をつくった。この622年はイスラ―ム暦の元年とされている。その後ウンマの拡大に成功したムハンマドは,彼にしたがう信徒をひきいてメッカを征服し,多神教の神殿カーバから偶像をとりのぞいて,これをイスラーム教の聖殿とした。こうしてムハンマドが死ぬまでには,アラビア半島のほぼ全域がその共同体の支配下にはいった。

アラブ帝国

ムハンマドの死後,イスラーム教徒(ムスリム)は全員で新しい指導者を選んだ。この指導者のことをカリフ(後継者代理の意)とよぶ。最初の4人のカリフは選挙で選ばれ,正統カリフとよばれる。カリフの指導のもとでアラブ人ムスリムは征服活動(ジハード〈聖戦〉)を開始し,7世紀のなかばまでにササン朝をほろぼし,シリア・エジプトをビザンツ帝国からうばった。多くのアラブ人が新しい征服地に移住した。征服地が広がると,カリフ位をめぐって争いがおこった。その結果,第4代カリフのアリー〈位656~661>が暗殺され,彼と対立していたウマイヤ家のムア―ウィヤ〈位661~680>がカリフとなって,ダマスクスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)をたてた。ムアーウィヤは息子を後継カリフに指名し,以後カリフ位は世襲されるようになった。

ウマイヤ朝は8世紀の初め、東方では中央アジアの西半分とインダス川下流域,西方では北アフリカを征服し,やがてイベリア半島に進出して西ゴート王国をほろぼした(711年)。さらにフランク王国にまで進出したが,トゥール・ポワティエ間の戦いに敗れ,ピレネー山脈の南側に領土はかぎられた。この広大な領土をもつ帝国では,征服者アラブ人のムスリムが特権的な地位にあり、膨大な数の被征服民を支配していた。国家財政をささえる地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の先住民だけに課され、彼らがイスラーム教に改宗しても免除されなかった。その意味で,正統カリフとウマイヤ朝カリフが統治した国家はアラブ帝国ともよばれる。

イスラーム帝国

シーア派の人びとやイスラーム教に改宗してもなお不平等なあつかいをうけていた被征服民など,ウマイヤ朝の支配に反対する人びとは,8世紀初め頃から反ウマイヤ朝運動を組織した。ムハンマドの叔父の子孫アッバース家はこの運動をうまく利用してウマイヤ朝をほろぼし,イラクを根拠地としてあらたにアッバース朝(750~1258年)をたてた。まもなく建設された新首都バグダードは国際商業網の中心として発展し,王朝はハールーン・アッラシード〈位786~809〉の時代に最盛期をむかえた。

9世紀頃までに,宰相を頂点とする官僚制度が発達し、行政の中央集権化が進んだ。イラン人を主とする新改宗者が政府の要職につくようになり,アラブ人ムスリムだけが支配者とはいえなくなった。イスラーム教徒であればアラブ人以外でも人頭税は課されず,征服地に土地を所有すればアラブ人にも地租が課されるようになった。イスラームの信仰のもとでの信徒の平等という考えが徐々に浸透していった。また,イスラ―ム法(シャリーア)の体系化も進み,この法を施行して,ウンマを統治することがカリフのもっとも重要な職務となった。アラブ人だけではなく,イスラーム教徒全体の指導者となったカリフが統治するこの時期のアッバース朝国家は,イスラーム帝国ともよばれる。

スンナ派(スンニー)とシーア派

イスラーム教には、大別すると、スンナ派とシーア派という二つの宗派がある。今日,全イスラーム教徒のうちの9割はスンナ派に属する。この両派の対立は、元来,アラブ帝国のカリフの位をめぐる政治的なものだったが,その後,教義の解釈をめぐって宗教的にも意見の相違がみられるようになった。スンナ派は,ムハンマド死後の代々のカリフの政治的な指導権を認めるいっぽう、イスラーム教徒の行動の是非はイスラーム教徒全体の合意によって判断されるべきだと考える。その際,判断の基準として用いられるのが,『クルアーン(コーラン)』と伝承として残されているムハンマドの言行(スンナ)である。この伝承の範囲,解釈の仕方のちがいによって,スンナ派内部に四つの学派がある。

これに対してシーア派は,アリーおよびその子孫のうちの特別な人物だけが、『クルアーン』を真に解釈することができ,政治的にも宗教的にもイスラーム教徒の最高指導者であるとする。彼らには一般の人びとにはない神秘的な力がそなわっていると考えられ,カリフの権威やイスラーム教徒の合意は認めない。シーア派は,このように,アリーの血統を重視するため,最高指導者の地位が子孫のうちのどの人物に伝えられたと考えるかによって,多くの派閥にわかれた。

このうち、今日のイランを中心とした地域に広まっている十二イマーム派では,9世紀の後半に姿をかくした12代目の最高指導者が、正義を実現するために、いつかふたたびこの世にあらわれると信じられている。また、この指導者がかくれているあいだは,徳が高く,学識の豊かな法学者・宗教学者がその権限を代行するものとされている。1979年の革命後のイランで,ホメイニをはじめとする法学者・宗教学者が大きな権限をもっているのはこのためである。

2イスラーム世界の変容と拡大

2イスラーム世界の政治的分裂

アッバース朝の成立後まもなく、後ウマイヤ朝(756~1031年)がイベリア半島に自立した。一つの政治権力が支配するにはイスラーム世界は拡大しすぎていた。9世紀になるとアッバース朝の領内でも各地で地方王朝が自立するようになった。このうち,中央アジアに成立したサーマ―ン朝(875~999年)は,トルコ人奴隷貿易を管理し,経済的に繁栄した。また,この王朝のもとでペルシア語がアラビア語とならんで用いられるようになり,のちに発展するイラン・イスラーム文化の芽生えがみられた。チュニジアにうまれ、のちエジプト・シリアを征服して新都カイロを建設したシーア派のファーティマ朝(909~1171年)の支配者は,建国当初からカリフと称し,アッバース朝と正面から対立した。

このような政治的分裂にくわえ,9世紀頃からカリフの親衛隊として用いられるようになった,トルコ系の奴隷であるマムルークが,やがてカリフの位を左右するようになりアッバース朝カリフの威信は低下した。

国家と社会の変容

946年、シーア派のブワイフ朝(932~1062年)がバグダードを征服し,カリフから大アミール(軍事司令のなかの第一人者)に任じられて政治・軍事の実権をにぎった。アッバース朝カリフはこれ以後実際の統治権を失い、イスラーム教徒の象徴としての役割をはたすだけとなった。

ブワイフ朝の時代,軍隊への俸給支払いがむずかしくなると、俸給にみあう額を租税として徴収できる土地の徴税権を軍人にあたえる制度がうまれた。これをイクター制という。イクター制は,セルジューク朝(1038-1194年)にひきつがれ、やがて西アジア・イスラーム社会でひろく用いられるようになった。

元来ユーラシア草原の遊牧民であったトルコ人は,10世紀頃からしだいに南下し,11世紀には,その一派で,イスラーム教スンナ派に改宗したセルジューク朝が西アジアに進出した。1055年,ブワイフ朝を追ってバグダードにはいったトゥグリル・ベク〈位1038~63>に,カリフはスルタン(支配者)の称号をあたえた。セルジューク朝はビザンツ帝国領だった小アジアを征服し,以後,小アジアはしだいにイスラーム化・トルコ化していった。彼らは領内の主要都市にマドラサ(学院)を設けてスンナ派の法学・神学を奨励した。しかし,王族のあいだでの権力争いが激しく、統一は長続きしなかった。

11世紀以後の西アジア・イスラーム社会では,修行によって神との合一をめざす神秘主義思想が力をもつようになった。12世紀になると,神秘主義者(スーフィー)とその崇拝者たちを中心として各地に神秘主義教団が組織され,都市の手工業者や農民のあいだに熱心な信者をえた。教団は貿易路にそってアフリカやインド・東南アジアに進出し,これらの地域にイスラームの信仰を広めていった

東方イスラーム世界

13世紀初め,東方からモンゴル人が西アジアに進出してきた。フラグにひきいられたモンゴル軍は,1258年,バグダードをおとしいれて,アツバース朝をほろぼし,イル・ハン国(1258~1353年)をひらいた。イル・ハン国は,モンゴル人やトルコ人など軍事力をもつ遊牧民を支配者とし、これにイラン人の都市有力者が行政官僚として協力して成り立っていた。このような国家体制は,これ以後サファヴィー朝(15011736年)にいたるまで同じ地域に成立した諸国家にうけつがれていく。ただし,遊牧民支配者間での争いがたえず,総じて国家の寿命は短かった。イル・ハン国のモンゴル人支配者は,ガザン・ハン〈位1295~1304>のときまでにほぼイスラーム化し,イランイスラーム文化の成熟に寄与した。

1370年,チャガタイ・ハン朝の混乱に乗じてサマルカンドで位についたティムール〈位1370~1405〉は,その後西アジアにはいってイラン全域を征服し,オスマン帝国やマムルーク朝領,北インドやキプチャク草原にまで兵を進めた。ティムール朝(1370~1507年)の時代,成熟しつつあったイラン・イスラーム文化と中央アジアの伝統文化が結びつけられ,文学建築などの分野で特色あるティムール朝文化が花開いた。16世紀の初め、分裂していたティムール朝は北方の草原から南下したトルコ系のウズベク人によってほろぼされた。ウズベク人は,ブハラ,ヒヴァ,コーカンドなどの都市を中心に19世紀なかばまで続く国家をたてた。

16世紀初め,イラン高原にサファヴィー朝が成立した。この国家も、トルコ系遊牧民とイラン系都市有力者の協力のうえに成り立っていたが,シーア派を国教とし,住民の改宗を強要した点がそれまでのこの地域の国家とは異なっていた。イラン人の多くがシーア派をうけいれるのは,サファヴィー朝時代のことである。

1587年に即位したアッバース1世〈位15871629>は,多くの政治・軍事改革をおこなって王朝の最盛期をきずいた。この王の時代に首都となったイスファハーンは,絹・綿織物・香料などの国際交易の中心として「世界の半分」といわれるほど栄え,モスク(礼拝所)・マドラサ(学院)・キャラヴァンサライ(隊商宿)・橋・庭園などが数多くつくられた。

エジプト・シリアの諸王朝

11世紀の末,シリアの沿岸に十字軍(115ページ参照)が進出してきた。セルジューク朝の一侯国の武将サラーフアッディーン(サラディン〈位1169~93〉)は12世紀後半に自立してアイユーブ朝(1169~1250年)をひらき,エジプトのファーティマ朝を倒して,スンナ派を復興させた。彼は十字軍のイェルサレム王国を攻撃してイェルサレムの奪回に成功した。

1250年,アイユーブ朝のマムルーク(奴隷出身の軍人)軍団が権力をうばい、マムルーク朝(12501517年)が成立した。この国家では君主の位が世襲されることは少なく,有力なマムルークがあいついで君主となった。マムルーク朝は軍事制度と農村支配の体制をととのえ,モンゴル軍や十字軍勢力へのジハードを進めた。また,アッバース朝カリフの一族をカイロにむかえて保護するとともに,メッカ・メディナを領有して,イスラーム世界の中心であることを自認した。首都のカイロはバグダードにかわってイスラーム世界の政治・経済・文化の中心地として栄え,東西の香辛料貿易に活躍する商人もあらわれた。

イベリア半島とアフリカの諸王朝

イベリア半島の後ウマイヤ朝(756~1031年)は,10世紀のなかばに最盛期をむかえ,その文化は中世ヨーロッパ世界に大きな影響をあたえた。しかし、この王朝がおとろえた11世紀以後は,小王国が分立し,しだいにキリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)が進展した。

これに対抗して,11世紀なかばベルベル人のあいだでおきた熱狂的な宗教運動を背景に,北西アフリカを拠点として誕生したムラービト朝(1056~1147年),そして同じベルベル系のムワッヒド朝(1130~1269年)がイベリア半島に進出することもあった。1492年,グラナダのナスル朝(1232~1492年)がほろびると,イスラーム教徒の政権は、イベリア半島から姿を消したが,アルハンブラ宮殿にみられるようなイスラーム文化の影響は,その後も長く残った。

ナイル川上流には,前8世紀に一時エジプト王朝をほろぼしたアフリカ人のクシュ王国(920年頃~後350年頃)があり,メロエに都をおいた時代には製鉄と商業で栄えた。しかしエチオピアのアクスム王国(紀元前後頃~12世紀)によってほろぼされた。

西アフリカでは,ガーナ王国(7世紀頃~13世紀なかば頃)が金を豊富に産したことから繁栄し,イスラーム商人との交易もおこなった。そのためイスラーム商人の居留地ができていたが,ムラービト朝の攻撃によってガーナ王国が衰退すると,住民のイスラーム化がいっそう進み,マリ王国(1240~1473年)やソンガイ王国(1464~1591年)などの黒人イスラーム教徒による国家が,北アフリカへ金・奴隷を輸出して発展した。とくにソンガイ王国の中心都市トンブクトゥは黄金の都,イスラームの学問都市として有名である。

東・東南アフリカの海岸には,ザンジバル・マリンディ・キルワなどの海港都市がインド洋貿易の拠点として存在した。9世紀頃からはイスラーム教徒の商人がこれらの町に住みつくようになり,アラビア・イラン・インドなどとの交易に従事した。

オスマン帝国

13世紀末,トルコ化・イスラーム化が進んでいた小アジアにおこったオスマン帝国は,バルカン半島のキリスト教世界に進出し,1453年にはコンスタンティノープル(以後イスタンブルの呼称が一般化した)を征服して,ビザンツ帝国(111ページ参照)をほろぼした。その後,マムルーク朝をほろぼしてシリアとエジプトをあわせ(1517年),メッカ・メディナをその保護下において,スンナ派イスラームスルタンを頂点とする中央集権的な行政機構がしだいに整備され,スレイマン1世〈位1520~66>のときにオスマン帝国は最盛期をむかえた。彼は南イラクと北アフリカに領土を広げるいっぽう,ハンガリーを征服し,1529年にはウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威をあたえた。またプレヴェザの海戦(1538年)でスペイン・ヴェネツィアの連合軍を破って地中海の制海権をにぎった。これ以後,オスマン帝国はフランスと同盟しつつ,ヨーロッパの国際関係と密接なかかわりをもつようになった。

しかし,17世紀にはいると国内政治に乱れがみえはじめ、同世紀末の第2次ウィーン包囲に失敗して以後は,対外的にもヨーロッパ諸国に対してしだいに守勢にたつようになった。

オスマン帝国では、領土の拡大にともなって大幅に増大した領内のキリスト教徒やユダヤ教徒を,それぞれの信仰に応じて宗教別の共同体(ミッレト)に組織し,これに自治をあたえた。また,キリスト教徒の少年を徴発して宮廷で専門教育をおこない,高級官僚やイェニチェリ(新軍)とよばれるスルタンの常備軍に採用した。これらは,異民族・異教徒をもひろくうけいれて共存をはかり,活用してきた西アジア・イスラーム世界に伝統的な政策の特徴をよく示している。

多民族・多宗教国家オスマン帝国

オスマン帝国は、長いあいだ「オスマン・トルコ」とよばれてきた。オスマン帝国はトルコ人の国だと認識されていたのである。しかし、現在は,「オスマン・トルコ」ではなく、「オスマン帝国」や「オスマン朝」という呼称が用いられるようになっている。

オスマン帝国の全臣民は、民族単位ではなく、宗教単位で識別されることが多かった。オスマン帝国内の大多数の非イスラーム教徒(非ムスリム)はギリシア正教徒であったが,そのほかにも、バルカン諸民族,アラブ地域のマロン派ネストリウス派などが存在していた。各集団は,それぞれ属する教会組織のもとで従来の信仰が認められてきた。もともと,イスラーム(ムスリム)諸王朝においては,キリスト教徒やユけいてんたみダヤ教徒は、啓典の民として保護民(ズィじんとうぜいンミー)と位置づけられ,人頭税(ジズヤ)の支払いを条件に信仰の自由が認められてきた。オスマン帝国もこの原則を踏襲したのである。

まざまな人材を登用することにより,その支配を盤石にしていった。当初,オスマン帝国軍の主力を担っていたのは,トルコ系遊牧民軍人であったが,それに並んで君主に忠誠を誓う官僚・軍人が必要とされた。15世紀なると,これらの人材には、組織的な人材登用方法が考案された。それが,デヴシルメ制である。オスマン帝国は、バルカン半島における8~20歳のキリスト教徒を容姿身体・才能などを基準として,イスラーム教に改宗していないことを条件ちょうようくっきょうに徴用した。その後,イスラーム教に改宗させたうえで,トルコ語とムスリムとしての生活習慣を身につけさせた。そのなかで頭脳明晰な者は宮廷官吏に、身体屈強な者は軍人に選出されるなど,オスマン帝国の国政にとって必要不可欠な存在となった。1453年から1600年までに大宰相を務めた36名中,トルコ人と思われる者がわずか5名にすぎないという事実は、オスマン帝国の多民族国家としての特質を象徴している。


3イスラーム文化の発展

イスラーム文化の特色

ギリシア・イラン・インドなど古代の先進文化が栄えた地域に成立したイスラーム文化は、征服者のアラブ人がもたらしたイスラーム教とアラビア語を縦糸,征服地の諸民族が祖先からうけついだ文化遺産を横糸として織りあげられた新しい融合文化であった。インド・イラン・アラビアギリシアなどに起源をもつ説話が,16世紀初め頃までにカイロで現在のようなかたちにまとめられた『千夜一夜物語』はその典型的な作品といえる。

固有の学問として,伝承学・法学・神学・歴史学・アラビア語学などが発達するいっぽう、ギリシア語文献の翻訳をつうじて,哲学・論理学・地理学・医学・天文学など外来の学問も積極的にとりいれられ,それらはやがてギリシアの水準をはるかにこえるようになった。11~12世紀,イブン・シーナーやイブン・ルシュドに代表される哲学者は,とくにアリストテレスの哲学を研究し、合理的で客観的なスンナ派神学体系をうちたてるとともに,中世ヨーロッパのスコラ学派(124ページ参照)にも影響をあたえた。また,インド起源のゼロの観念と十進法・アラビア数字の導入によって発達した数学は,錬金術光学で用いられた実験的方法とともにヨーロッパに伝えられ,近代科学の発展をうながした。

イスラーム教徒の学者はあらゆる学問につうじた知識人で、広大なイスラーム世界の政治的国境をこえて活動することが多かった。詩人として名高いウマル・ハイヤームは,同時にすぐれた天文学者であったし,北アフリカにうまれ,シリア・エジプトで活躍した14世紀の歴史家イブン・ハルドゥーンは,政治家・法学者としても有能だった。大旅行家で『三大陸周遊記』をあらわした法学者のイブン・バットゥータもこのような知識人の一例である。

イスラーム文化の多様性

アラブ人の征服とともに成立した普遍的なイスラーム文化は,9世紀以後,イスラーム世界の政治的分裂にともなって,全体としての統一は保ちながらも,地域ごとに独自の発展をとげた。文化の基調となる言語を例にとると,エジプト・シリアや北アフリカでは,『クルアーン(コーラン)』の言葉,アラビア語が日常生活でも使用され続けたのに対して,10世紀以後のイラン・中央アジアではペルシア語,オスマン帝国ではトルコ語が使われるようになり,これらの言葉で書かれた歴史書・文学作品が数多く残された。

イスラーム世界全域でみられる建築物であるモスクも、共通の特徴を保ちながら、各地域ごとに異なった素材や様式が用いられた。素朴で重厚な石造アーチ式回廊をもつアラブ型(古典型)モスク,ササン朝以来の伝統をもつ煉瓦造りのドームと青や黄の彩色タイルが美しいイラン型モスク,ビザンツの影響をうけた石造大ドームととがった光塔(ミナレット)が特徴的なトルコ型モスクなどはその例である。

イスラーム教は偶像崇拝を禁じたため,彫刻は発達しなかったが,装飾文様としてのアラベスクがうまれ、各地で独特のデザインをもった文様が建築物の表面を飾るいっぽう,じゅうたんや陶磁器の図柄としても用いられた。13世紀以後発達するミニアチュール(細密画)も,地域ごとに特有の主題と画風をもっていた。

イスラーム教と男女の平等

イスラーム教を批判する際によく用いられるのが、男女が不平等で、女性は家のなかに押しこめられ、外出する際には髪や肌を隠すためにヴェールを身に着けなければならない、という類の言説である。

歴史的にみて、イスラーム教徒(ムスリム)の女性の社会的な立場は決して低かったわけではない。たとえばもっとも初期の事例としてムハンマドの妻ハディージャ(619年没)があげられる。彼女は富裕な商人として知られ、その経済的・精神的援助によイスラーム教がおこったといっても過言ではない。また彼女は、もっとも早くイスラーム教の教えをうけいれた信者であった。

その一方で,「クルアーン(コーラン)」には「男は女の擁護者(家長)である」(第4章第34節)とあり、男、女の社会的な役割のちがいを強調している。イスラーム法によれば、婚姻は男女間の個人の契約とされるが,夫は婚姻時の婚資の支払いと妻・家族を扶養する義務を負うかわりに、妻は夫に服従することが求められる。しかし、20世紀にはいると、女性の法的・社会的な地位の向上を求める運動が各地域でもりあがり、管理職の女性や企業家としての経済活動はもちろんのこと、医者や弁護士,大学などの教員として活躍する女性も多い。このような背景のもとで,イスラーム法の規定の合理的執行が模索されている。

イスラーム教と女性に関する問題の象徴の一つとしてよくとりあげられるのが,女性のヴェール着用の問題であるが,現在トルコやエジプトをはじめとする多くの国では,ヴェールを着用するか否かは個人の判断にゆだねられている。実際に女性のヴェ―ル着用が義務づけられているのは,サウジアラビアやイランなどのいくつかの国だけである。しかし,そのような状況にあるにもかかわらず,1990年代以降イスラーム復興の潮流のなかで,ヴェールを着用する女性の数は増加傾向にある。そこにみられるのは、西洋的な文明や生活様式に触れるなかでこれに対して疑問をもち,イスラ―ム教徒としてのアイデンティティを主張する象徴としてヴェールを着用するという傾向である。

4インド・東南アジアのイスラーム国家

イスラーム教徒のインド支配

インドでは,8世紀初めにウマイヤ朝のアラブ軍がインダス川下流域を占領したが,それ以上の進出はみられなかった。イスラーム教徒の組織的なインド征服がはじまったのは,アフガニスタンにガズナ朝(977~1187年)とゴール朝(1148頃~1215年)があいついでおこってからである。これら両王朝は10世紀末からインド侵入をくりかえし,ヒンドゥー教徒の諸王国を破って,しだいにインド支配の足場をかためた。そして13世紀初めに,ゴール朝の解放奴隷出身の将軍アイバク〈位1206~10〉によって,デリーにインド最初のイスラーム王朝(奴隷王朝,1206~90年)が創始された。

その後の約3世紀間,デリーには五つのイスラーム王朝が興亡し(デリ・スルタン朝),14世紀初めには,半島最南端部をのぞくインド亜大陸の大部分がその支配下にはいった。イスラーム勢力進出の初期には仏教を弾圧しヒンドゥー教の寺院を破壊することもあったが,信仰を強制することはなく,経済・文化面など,のちのムガル帝国の基礎をつくった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 『世界歴史㉓』 『14歳から考... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。