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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑲-20&動物の理性

2025-03-29 15:56:20 | ポカと妙手etc
 ⑲-19の最後のところでいったように,その上図で先手の最善の応手は☗3七玉です。
                     
 これに対しては後手は☖3九龍と王手をします。
 これには先手は玉を逃げることはできませんので合駒をする一手。持っているのは角と金と歩ですからそのいずれかを打たなければならないのですが,角または歩を打ってしまうと☖2八龍が生じますから先手玉は簡単な詰み。なので☖2八龍を許さないように☗3八金と打つほかありません。
 僕は当該記事ではこれも先手玉が詰みという意味のことを書いていますがこれは誤り。この局面は先手玉は詰みません。ただし,詰まないのなら先手の勝ちのようですがそうではありません。後手は☖2九龍と桂馬を取ります。
                     
 先手は合駒に金を使ってしまったのでこの図は後手玉が詰まなくなっているのです。しかし受けがあるかといえばそれもありません。つまりこの図は後手の勝ちです。
 ⑲-17から☖7八銀の変化を調べてきましたが、いずれも後手の勝ちという結論でした。なので☖7八銀なら後手の勝ちにみえるのですが,まだひとつだけ取り上げていない変化があり,その変化なら先手の勝ちなのです。

 人間は理性ratioを行使できるけれど,人間以外の動物が理性を行使することができないのがなぜなのかは,少なくとも『エチカ』の論理体系の中では説明することができないと僕は考えています。すでに示したように理性を行使することは能動的であるということで,スピノザの哲学では精神の能動actio Mentisは身体corpusの能動を意味し,また精神の受動passioは身体の受動を意味するので,理性を行使することができないということは能動的であることはできないということと同じ意味ですので,動物が理性を行使することができないということと動物が能動的であることができないということは同じ意味です。
 スピノザの哲学では能動がいくつかのことを同時に意味します。そのうちのひとつはXが十全な原因causa adaequataとなってAを発生させるとき,Xの能動といわれるわけですが,なぜ人間以外の動物が十全な原因となることができないのかを論理的に示すことはできないだろうと僕は考えます。第一部公理四により,Xの観念ideaを有する限りで神DeusのうちにAの十全な観念idea adaequataがあれば,この条件は満たされるのですが,Xが人間以外の動物であると規定されると,この条件が神のうちで満たされ得ないということを示す根拠がないと考えるからです。
 同様に,XがAを十全に認識するcognoscereなら,これはXの能動とされます。これは精神の機能的側面の一部を表すといえますが,人間はある事物を十全に認識することができるけれども動物にはそれをすることができないということを示すことが,『エチカ』の論理体系の中では不可能であると僕には思えます。それどころか,第二部定理三八とか第二部定理三九が,人間にだけ適用されるわけではなく,一般的に適用できる定理Propositioであるとみる限り,むしろ動物の精神の中にもいくつかの共通概念notiones communesがあるということは必然的にnecessario帰結してしまうように僕には思えます。そしてこれらの定理が人間にだけ適用することができて,人間以外の動物には適用することができないということを示すことができるような根拠は,『エチカ』の中には見出せないと僕は考えます。しかるに共通概念は理性的認識の基礎概念なので,それさえあれば理性を行使することができるといわなければなりません。

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