スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

長良川鵜飼カップ&無限の部分

2020-09-13 19:10:02 | 競輪
 岐阜記念の決勝。並びは鈴木‐和田圭の東日本,郡司‐和田健太郎の南関東,松浦‐荒井の西国で浅井は単騎。
 荒井がスタートを取って松浦の前受け。3番手に郡司,5番手に浅井,6番手に鈴木の周回に。残り3周のバックから鈴木が上昇。コーナーで松浦に並び掛け,ホームで松浦を叩いて前に。和田圭の後ろにスイッチしていた郡司がコーナーで鈴木の前に。鈴木は引かず,バックで和田健太郎の内で粘る形に。松浦はこの競りからかなり車間を開けました。打鐘が入っても郡司はスローペース。後方から松浦が発進し,ホームからかまし先行に。郡司は飛びつく形で3番手に入り,バックからそのまま発進。後ろの競りの決着がなかなかつかなかったため,単騎での捲りになりましたが,バックのうちに捲り切ってしまいあとは独走で優勝。逃げた松浦が4車身差の2着に粘り,競りに決着をつけて自力捲りのような形で荒井の外を伸びた和田健太郎が半車輪差で3着。和田を追った浅井がさらに外から半車身差の4着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は6月の取手記念以来の優勝で記念競輪9勝目。岐阜記念は初優勝。このレースは郡司の先行になるかと思っていたのですが,うまく松浦の先行を誘って3番手に飛びつく形に。そこから踏み出したときのスピードが違い過ぎましたので,その時点で優勝を確信できるような内容のレースになりました。松浦との間で脚力の差はそれほどないのですが,現在の調子には差があったということでしょう。それでもかまして2着に残った松浦もやはりさすがです。

 実際のところをいえば,無限infinitumであるものが有限なfinitumものによって構成されるというのは,不条理であると僕は考えています。これは無限なものがある部分によって構成されるというのと同じであると考えるからです。スピノザは第一部定理一三系で,物体的実体substantia corporeaは分割されないといっています。そして,物体的実体が分割され得ると主張する人びとは,物体的実体が可分的で部分からなると思っているからだという批判を,第一部定理一五備考で行っています。実体というのは無限ですから,これは無限であるものは部分に分割することができないといっているのと同じです。ところが無限であるものが有限であるものによって構成されるというのは,無限であるものが有限であるものによって部分に分割することができるといっていることになるので,これは不条理であると僕は考えるのです。
                                   
 一方でスピノザは,第二部定理一一系において,人間の精神mens humanaは神Deusの無限知性intellectus infinitusの一部であるといっています。これはある人間の精神が,無限知性の一部を構成するという意味に解釈することができます。つまりスピノザは,物体的実体については,それが部分に分割することができないといっているのですが,無限知性に関してはそれが部分に分割することができるようないい回しを許容しているのです。これは矛盾ではないかと問うことは可能でしょう。ですが必ずしも矛盾であると考える必要はありません。というのは,物体的実体というのは実体ですが,無限知性というのは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態であるからです。つまり,実体についてはそれが部分に分割することができるということはないけれども,無限様態modus infinitusについては,それを部分に分割することができるという考え方をしてもよいという解釈は可能だからです。
 ですから,あるものが無限であれば,それは部分から構成され得ないとか,それを部分に分割し得ないというわけではないという解釈をここでは採用します。実際に,実体というのはそれ自体の本性essentiaによって無限であるのに対し,無限様態というのはそうではなく,その原因causaによって無限であるという相違があるのですから,可分性についても相違があってもいいでしょう。
コメント
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