川崎競輪場で開催された昨日の第36回全日本選抜競輪の決勝。並びは平原‐諸橋の関東,深谷-郡司-和田の南関東,清水-松浦-園田の西国で守沢は単騎。
平原がスタートを取って前受け。3番手に清水,6番手に深谷,最後尾に守沢という周回で,守沢はずっと南関東を追走するレースになりました。残り2周のホームに入ると深谷が踏み込み,一気に平原を叩きました。平原が5番手に入り,7番手に清水という一列棒状になってバックから打鐘。ホームに入って清水が発進。バックで清水が追いついてきたところで平原が発進。さらに平原が追い上げてきたところで郡司が番手から発進。郡司と平原は最終コーナーで併走。郡司自身が平原を止めに行ったこともあり,相互接触をして平原の自転車の前輪が故障。平原を振り切る形になった郡司が優勝。マークの和田が4分の3車身差の2着に続いて南関東のワンツー。このラインを追走した守沢が4分の3車身差の3着に続き,事実上のラインでの上位独占となりました。
優勝した神奈川の郡司浩平選手は11月の競輪祭以来の優勝でビッグは4勝目。GⅠは2勝目。ここは郡司の地元ということもあり,深谷が早めに駆けて郡司の番手捲りという展開が濃厚。そうなると平原も清水も苦しく,郡司の優勝の確率がかなり高そうだとみていて,実際にそのようなレースになりました。平原はよく追い上げましたが,守沢が南関東を追走したので余計に不利になりました。深谷が叩きにきたときに,強引にでも4番手を取る競走をした方がよかったのかもしれません。西国勢はこういった展開が予測できただけに,この日は松浦が前で走った方がラインにとってはよい戦いができたのではないでしょうか。
柏葉は第二部定理八の神Deusの無限な観念ideaの解釈を論文の論点の中心に据えています。そこで,一旦は柏葉の論文から離れ,神の観念idea Deiについて,ここで独自の考察をします。

前回の『〈内在の哲学〉へ』の考察の中で,著者である近藤和敬が,思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態について,それを諸観念の総体といっていることに対して,それは誤りであるという自説を僕は展開しました。そのときもいったように,僕は思惟の属性の間接無限様態が何であるかということについては,明確な考えを持ち合わせているわけではありません。ただ,スピノザが,書簡六十四の中で,延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態と間接無限様態,思惟の属性の直接無限様態については明言しているのに対し,思惟の属性の間接無限様態については明示していないのにははっきりとした理由があるということについて,河合徳治が『スピノザ哲学論攷』の中で説明しているということを紹介し,この説明には合理性があるということも指摘しました。同時にそこで河合は,思惟の属性の間接無限様態について,人間が十全に認識するcognoscereことができないものとしての神の観念であるということを示唆しているということも紹介しました。そのときに僕は,思惟の属性の間接無限様態が何であるのかということとの関係性を考えなくても,神の観念というのはスピノザの哲学の中で,多様な解釈ができるのではないかということを指摘し,このことについては別の機会に考察するといいました。ここで柏葉が神の無限な観念の解釈について問題にしていますから,この機会にこのことを,柏葉の論文よりも幅広い形で考察しておきたいのです。もちろん柏葉の論文とは直接的には関係しないとしても,それを考察するために有益ではあるでしょう。
第一部公理六が公理Axiomaとして成立するためには,ある前提条件が必要とされます。それは観念には必ず観念されたものideatum,あるいは同じことですが観念対象ideatumがあるということです。もしこれが前提とならなければ,観念されたものと一致するか一致しないかによって,真の観念idea veraであるかそうでないか,いい換えれば真の観念であるか誤った観念idea falsaであるかということは決定し得ないからです、
平原がスタートを取って前受け。3番手に清水,6番手に深谷,最後尾に守沢という周回で,守沢はずっと南関東を追走するレースになりました。残り2周のホームに入ると深谷が踏み込み,一気に平原を叩きました。平原が5番手に入り,7番手に清水という一列棒状になってバックから打鐘。ホームに入って清水が発進。バックで清水が追いついてきたところで平原が発進。さらに平原が追い上げてきたところで郡司が番手から発進。郡司と平原は最終コーナーで併走。郡司自身が平原を止めに行ったこともあり,相互接触をして平原の自転車の前輪が故障。平原を振り切る形になった郡司が優勝。マークの和田が4分の3車身差の2着に続いて南関東のワンツー。このラインを追走した守沢が4分の3車身差の3着に続き,事実上のラインでの上位独占となりました。
優勝した神奈川の郡司浩平選手は11月の競輪祭以来の優勝でビッグは4勝目。GⅠは2勝目。ここは郡司の地元ということもあり,深谷が早めに駆けて郡司の番手捲りという展開が濃厚。そうなると平原も清水も苦しく,郡司の優勝の確率がかなり高そうだとみていて,実際にそのようなレースになりました。平原はよく追い上げましたが,守沢が南関東を追走したので余計に不利になりました。深谷が叩きにきたときに,強引にでも4番手を取る競走をした方がよかったのかもしれません。西国勢はこういった展開が予測できただけに,この日は松浦が前で走った方がラインにとってはよい戦いができたのではないでしょうか。
柏葉は第二部定理八の神Deusの無限な観念ideaの解釈を論文の論点の中心に据えています。そこで,一旦は柏葉の論文から離れ,神の観念idea Deiについて,ここで独自の考察をします。

前回の『〈内在の哲学〉へ』の考察の中で,著者である近藤和敬が,思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態について,それを諸観念の総体といっていることに対して,それは誤りであるという自説を僕は展開しました。そのときもいったように,僕は思惟の属性の間接無限様態が何であるかということについては,明確な考えを持ち合わせているわけではありません。ただ,スピノザが,書簡六十四の中で,延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態と間接無限様態,思惟の属性の直接無限様態については明言しているのに対し,思惟の属性の間接無限様態については明示していないのにははっきりとした理由があるということについて,河合徳治が『スピノザ哲学論攷』の中で説明しているということを紹介し,この説明には合理性があるということも指摘しました。同時にそこで河合は,思惟の属性の間接無限様態について,人間が十全に認識するcognoscereことができないものとしての神の観念であるということを示唆しているということも紹介しました。そのときに僕は,思惟の属性の間接無限様態が何であるのかということとの関係性を考えなくても,神の観念というのはスピノザの哲学の中で,多様な解釈ができるのではないかということを指摘し,このことについては別の機会に考察するといいました。ここで柏葉が神の無限な観念の解釈について問題にしていますから,この機会にこのことを,柏葉の論文よりも幅広い形で考察しておきたいのです。もちろん柏葉の論文とは直接的には関係しないとしても,それを考察するために有益ではあるでしょう。
第一部公理六が公理Axiomaとして成立するためには,ある前提条件が必要とされます。それは観念には必ず観念されたものideatum,あるいは同じことですが観念対象ideatumがあるということです。もしこれが前提とならなければ,観念されたものと一致するか一致しないかによって,真の観念idea veraであるかそうでないか,いい換えれば真の観念であるか誤った観念idea falsaであるかということは決定し得ないからです、