スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ジュニアヘビー級&第三種の認識の場合

2023-01-21 19:02:46 | NOAH
 天龍の雑感⑭の中で,小川良成の名前を出しました。小川は全日本プロレスとNOAHの重要な選手のひとりなので詳しく紹介したいのですが,その事前の準備として,小川が主に活躍したジュニアヘビー級の何たるかということを説明します。
 日本のプロレス界でジュニアヘビー級というのがカテゴリーとしてはっきりと確立したのは,初代のタイガーマスクがデビューしてからであると僕は理解しています。僕のプロレスキャリアの開始時点ではタイガーマスクはデビューしていましたが,その直前のことではあるので,僕のプロレスキャリアが始まった頃に,ジュニアヘビー級というカテゴリーが日本プロレス界の中で確立したといっていいでしょう。
 タイガーマスクは新日本プロレスでデビューしました。基本的に新日本プロレスはこのときに確立したジュニアヘビー級というカテゴリーを現在まで堅持しています。いい換えればジュニアヘビー級というカテゴリーは,カテゴリーとして消失することなく現在まで継続しています。
 タイガーマスクがデビューした時期に全日本プロレスにもジュニアヘビー級というカテゴリーが確立していたかというと,そうではなかったと僕は考えています。おそらく全日本プロレスと日本テレビは新日本プロレスのタイガーマスクの活躍をみて,全日本プロレスでもジュニアヘビー級というカテゴリーを確立させようとしました。そのために白羽の矢を立てたのが大仁田厚だったのです。
 大仁田が凱旋帰国してジュニアヘビー級のチャンピオンとして試合をしていた時期は,確かに全日本プロレスにもジュニアヘビー級もカテゴリーとして確立したと僕は思います。しかし全日本プロレスの場合,このカテゴリーは長く続きませんでした。大仁田は膝の怪我で早くに引退してしまい,その後にジュニアヘビー級を牽引することになったのはマイティ・井上ですが,井上が王者として君臨していた時期には僕はすでにジュニアヘビー級はカテゴリーとしては消滅していたと思っています。ただ全日本プロレスにおけるジャンルあるいは部門のひとつとしてジュニアヘビー級は残ったのであり,カテゴリーではなく部門という形のジュニアヘビー級は,NOAHの旗揚げ後も続き,基本的に現在も同じ状況です。
 一口にジュニアヘビー級といっても,新日本と全日本およびNOAHでは違った意味で解するべきだというのが僕の見解です。

 共通概念notiones communesというのは,第二部定理三八第二部定理三九の様式で現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに生じます。そこで,現実的にAという人間が存在して,Aが外部の物体corpusであるXと関係することによって,Aの精神のうちにある共通概念が発生すると仮定しましょう。このとき,この共通概念は,Xの観念ideaが存在する限りで存在することをやめません。その共通概念を構成する要素は,共通概念を認識するcognoscere人間の身体humanum corpusと,Xに共通する要素で,この要素はXが存在する限りでは存在します。したがって共通概念はXの観念が存在する限りでは存在することになるでしょう。このことは,Xという全体に含まれているある一要素が,Xが存在し続けているのに存在しなくなるというのが不条理であることから明白でしょう。よって,第二部定理八系のいい方に倣えば,その共通概念はDeusの無限な観念が存在する限りで存在するといわなければなりません。しかるに神の無限な観念は永遠aeterunusから永遠にわたって存在する観念ですから,共通概念も永遠から永遠にわたって存在します。つまりその存在existentiaをやめるということはありません。第二部定理四四系二が理性Rationisについていっているのは,こうした永遠の相aeternitatis specieの下に理性は共通概念を基礎として事物を認識していくということで,よってそうした認識cognitioもまた,神の無限な観念が存在する限りでは存在します。つまり存在をやめるということはありません。確かに第二部定理三七でいわれている通り,共通概念は個物res singularisの十全な観念idea adaequataではないのですが,それが永遠であるということは,第二部定理八系を援用しても論証することができるのです。
                                    
 現実的に存在する人間が第三種の認識cognitio tertii generisで何らかのものを認識するという場合は,第五部定理二九により,現実的に存在するある人間が,自分の身体の本性essentiaを永遠の相の下で概念することによって事物を認識していることになります。なおかつそれは個物の認識であり,かつ現実的に存在する個物の認識です。再び第二部定理八系のいい方に倣えば,神の属性attributumの中に包容されている限りでの現実的に存在する個物の認識です。よってこの観念は永遠から永遠にわたって存在し,存在をやめることはありません。
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