スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

悪の確知&目的論

2023-08-27 20:13:11 | 哲学
 第四部定理六六で示した例から,何がいえるのかをみていきます。
                                   
 ある人間が現実的に存在していて,その人間が100円をもらうことも喜びlaetitiaであり1000円をもらうことも喜びです。つまり第四部定理八により,それらはいずれも善bonumの認識cognitioです。もちろん,100円をもらうことよりも1000円をもらうことの方がより大きな喜びですから,100円をもらうことは小なる善で1000円をもらうことは大なる善になりますが,善の認識であることに違いはありません。善の確知は十全な認識であり得るのですから,これらはそれ自体でみれば,どちらもその人間にとっての十全な認識であり得ることになります。
 しかし,もしも100円をもらうことが1000円をもらうことを阻害するのであれば,小なる善が大なる善を妨害していることになるでしょう。よってこの場合は,第四部序言および第四部定義二により,100円をもらうという小なる善はmalumであるということになります。ところが,100円をもらうことは,それ自体でみれば善ではあるので,十全な認識であり得るのでした。したがって,それがより大なる善を妨害する限りでの小なる善は,悪であると認識されるのですが,十全な認識であり得るということになるのです。つまりこの場合は,悪の確知もまた善の確知と同様に,十全な認識であり得るということになります。
 これは不条理ではありません。100円をもらうことは,それ自体では善であって,1000円をもらうことを妨害するとみられる限りでは悪といわれているからです。いい換えればこれらふたつのことは両立し得ることになります。したがって,第四部定理六四でいわれているように,悪の認識というのは,それ自体でみれば混乱した認識ではあるのですが,大なる善を妨害する小なる善が悪といわれる場合には,悪の認識もまた十全な認識であり得るのです。よって悪の確知は,それ自体では十全な認識ではあり得ないのですが,第四部序言や第四部定義二に従う限り,十全な認識であり得ることになるのです。

 無限に多くのinfinita面積が等しい矩形を存在させるという目的finisのために円が存在するということはあり得ません。したがって,ユークリッド原論第3巻命題35が,何らかの目的論を示唆しているということはあり得ません。ですから,河井が指摘しているような仕方でカントImmanuel Kantがこの命題を援用しているのであれば,それは適切性を欠いた援用であるといえるのではないかと僕は考えます。
 このことは,おそらくこの命題に限定されたようなことではありません。ユークリッド原論そのもの,つまりその全体が,何らかの因果律を示しているというようには僕は思いませんが,目的論観点から記述されているということはあり得ないと思います。ですから,ユークリッド原論にあるどの命題を援用する場合であっても,目的論的観点からそれを援用するのであれば,そのこと自体が適切性を欠くことだと僕は考えます。
 スピノザの哲学は,目的論に関してはその一切を排除したような思想です。これは第一部付録から明白であるといわなければなりません。ですからスピノザの立場からユークリッド原論の諸命題を援用することは,そのことだけで適切性を欠いてしまうということはありません。第一部公理三から分かるように,スピノザは因果律を重視します。というか因果律だけを重視して,方法論としては原因causaから結果effectusへと辿る演繹法だけを肯定します。一般に公理系で書かれているものは,方法としては演繹法を採用しているといえるのであって,この観点からはスピノザの哲学と相性がいいといえます。これは『エチカ』が公理系で記述されているということからも明らかでしょう。ただ,だからユークリッド原論が因果律について何かを言及しようとしているとまではいえませんから,スピノザがユークリッド原論の諸命題を援用するとき,それがすべての場合で適切であるということはできないでしょう。ただ,そのことで適切性を欠くという事態に陥ることはないというようにはいえるでしょう。
 この部分に関する探究はここまでとします。巻頭言の中ではもうひとつ,畠中の訳出について言及されていますので,次にその考察をします。これは第二部定理三二の訳です。
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