スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

田上明&コミュニティセンター

2012-07-27 18:25:05 | NOAH
 NOAHの旗揚げの直前,三沢は全日本プロレスの社長であったわけですが,これは馬場の死に伴ったもの。それ以前は選手会長を務めていました。仲田龍は『NOAHを創った男』の中で,三沢を中間管理職として位置付けていましたが,これはその選手会長時代のことといえます。
                         
 社長就任に伴い,三沢は当然ながら選手会長は退きました。代わってその地位に就いたのは田上明でした。僕の三沢への評価の理由というのは,ほとんどのレスラーが三沢を慕ってNOAHの旗揚げに参加したという点にあるのですが,このとき,選手会長として田上が果たした役割というのも,少なくないものがあったのではないかと思います。
 NOAHが設立されたのは2000年で,選手の退団はその年の6月。全員がその直前まで試合に出場していましたし,退団後も,いくつかの興行には出場しています。しかしこの年の4月以降,これは全日本に残った川田と渕を含め,全選手が全日本プロレスと契約を更改していませんでした。つまりおよそ2ヶ月ほどは,フリーの立場で全日本に参戦していたということになります。
 全選手が一致して契約を更新しなかったのは,もちろん個々のレスラーが三沢を支持していたからでしょう。しかし全選手が一致してこうした行動をとったということには,選手会長としての田上の役割も,少なくはなかったのではないかと思うのです。
 三沢の殉死の後,NOAHの社長には田上が就任しました。これは三沢が生前から,田上に次期社長の就任を打診していたからだときいています。もちろんそれが本当であるかどうか,僕は知る由もありません。ただ,三沢はプロレスラーとしては,川田や田上よりも小橋の方を高く評価していました。とくに田上に対しては,はっきりと練習不足であるという主旨のことをいっています。それなのに小橋ではなく田上の方が社長としては相応しいと本当に考えていたのだとしたら,この当時の選手会長としての田上の手腕を高く評価していたからではないのだろうかと思うのです。

 翌週の金曜日,6月15日の午前中は,I歯科へと歯科検診に赴きました。この日も内容はいつもと同じで,とくに何事もなく終了。ただ,どうしたわけかこの日は今までよりも処置点というのが100点ほど高くなっていました。なので実際には僕には気付くことがなかった何らかの処置が施されていたのかもしれません。ただ,医学管理という点数の方が逆に60点ほど低くなっていましたので,内容は同じでも点数の処理の仕方が変更になったとも考えられます。いずれにしても合計では40点ほど高くなりましたので,治療費も今までより高くなっています。僕の場合は国民健康保険で3割負担ですから,40点高くなれば,120円高くなるということになります。
 その翌日,16日の土曜日が,この月の妹のガイドヘルパーの利用日。この日は本牧にある中学校へ。といってもこれは中学校で何かの行事があったというわけではありません。現在,横浜市立の小学校や中学校のいくつかは,コミュニティセンターとしても利用されていて,とくに休日などには何らかの催しや教室などが開催されることがあります。この日はその利用。実は4月のガイドヘルパーの利用時もこのコミュニティセンターで,そのときはプリザーブドフラワーを作ってきました。おそらくは体験教室のようなもので,それにガイドヘルパーの方が申し込んだのだろうと思います。この日もそれと似たようなもので,こけ玉という,釣忍の下の部分のものを作ってきました。こうした教室のようなものはよく外出予定の中に入っていますので,おそらく担当しているガイドヘルパーの方に,こうした催しの連絡が入っているのだろうと思います。プリザーブドフラワーにしろ釣忍にしろ,それを作って妹が楽しいのかどうかは分かりませんが,ガイドヘルパーの方がそれぞれに申し込んだのは意図があったようで,前者は少し早いけれども母の日のプレゼントで,後者は父の日のプレゼントということを意味していたようです。はもうすでに死んでいますからこの日は単に釣忍を作って持ち帰ってきただけですが,4月のプリザーブドフラワーのときは,への感謝のメッセージが添えられていました。
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