スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

徳とコナトゥス&方法との関係

2022-07-16 19:20:51 | 哲学
 フロムErich Seligmann Frommは徳virtusという規範の適用が,あらゆる事物に可能であると考えていて,その根拠として,馬にとっては,自分が人間に変えられたということは,自分が昆虫に変えられたということと同じように破壊的なことであるという主旨のスピノザのことばを援用しています。スピノザがその文脈で何をいわんとしたかは別に,この言明自体がスピノザの哲学の全体の中で何を意味するのかということの僕の見解opinioを示します。
                                        
 ある事物の本性essentiaなり形相formaなりが,ほかの事物の本性なり形相なりに変じるということはありません。これはその事物の能動actioであろうと受動passioであろうと同様です。他面からいえば,現実的に存在するある事物の本性や形相が,別の本性や形相に変化するということは,その事物が現実的に存在することを停止するというのと同じです。たとえば生命体と死体は別の物体corpus,本性も形相も異なる物体であるとみることは可能で,その場合は生命体は現実的に存在することを停止して死体になったといえるでしょう。同様に木が燃えて炭になるというのは,木は現実的に存在することを停止して炭になったということです。
 こうした本性および形相の変化は,ある事物の本性によって説明することはできません。このことは第三部定理四から明らかですが,第三部定理六からなお明らかであるといえるでしょう。したがって,現実的に馬が存在するなら,その馬は馬としての有esseに固執するperseverareのであって,人間としての有や昆虫としての有に固執することはありません。なので馬が人間に変えられるということは,馬が昆虫に変えられるということと同じように,馬にとっては破壊的なことなのです。
 現実的に存在する馬が馬の有に固執するのは,第三部定理七により,その馬の現実的本性actualis essentiaです。ですから,馬がほかの本性や形相に変えられるということは,馬の徳に反するというわけではなく,馬の現実的本性に反するのです。あるいは同じことですが,馬のコナトゥスconatusに反するのです。
 徳とコナトゥスはその一部が重なるということを僕は認めます。しかし徳はコナトゥスの一部なのであって,コナトゥスは徳よりも広くわたります。その徳より広くわたっている部分でも,馬の本性が人間の本性や昆虫の本性に変えられることは,馬にとって破壊的なことなのです。

 政治的な既得権を保護しようとする人が一定の数に達すると,民主主義が停滞するということは,前に説明した,スピノザが政治体制一般に守られていなければならない方法とも関係しています。もしも任期なしに延々と政治権力の行使を続けることができるとすれば,その人はそれを行使すること自体を既得権とみなし,自身が政治的権力を行使すること自体を保護しようとするからです。このような権力者というのは現代でも存在するのであって,たとえばロシアのプーチンなどはその代表格であるといっていいでしょう。
 一方,政治権力を行使する立場を離れた人間が,再任されてはならないという原則もこのこととある程度の関係を有します。かつて政治権力を行使する立場にあった人間が,後に同じ立場に立つと,その人間はかつて自分が行使していたのと同じような仕方で政治的権力を行使しようとするからです。このことはおそらく第三部定理三六から,それがどのような人間であったとしても一般的にいうことができると思います。かつて政治的権力を行使したことを想起する人は,また自身がその立場に立つ場合には,それと同じ条件の下で政治的権力を入手しようとするであろうからです。とりわけ政治的権力を行使するということが享楽であった人間,この享楽というのは感情affectusとしていえば愛amorというべきで,政治的権力を自身が行使することに愛を感じていた,あるいは自身が政治的な権力者であるということを愛していた場合には,なおのことこの定理Propositioが成立することになります。一般的に,自身が政治的権力者の立場にあることを愛したり,自身がそうした権力を行使するということを愛することは,国民のすべてを愛するということとは両立し難いですから,その場合は国民の間の分断が生じがちにもなります。ただしこのこと自体は民主主義の停滞とは直接的に関係するわけではありません。よってそうしたことに伴う好ましくない事象というのはこのほかにも生じることになるのですが,それに関してここでは子細に検討することはしません。
 ここまでのことから理解できるように,民主主義体制は,政治的体制の最終形態というわけではないのです。
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お~いお茶杯王位戦&民主主義の停滞

2022-07-15 19:08:27 | 将棋
 一昨日と昨日,定山渓温泉で指された第63期王位戦七番勝負第二局。
 藤井聡太王位の先手で角換わり腰掛銀。後手の豊島将之九段にとっても研究の範囲内であったようで,スピーディーに指し手が進みました。
                                        
 後手が桂馬を取りにいった局面。先手は☗7五歩と突きました。後手は☖同歩。
 先手の狙いは☗2三歩成で一歩を入手して☗7四歩と打つことだと後手は認識していたようです。☖7五同歩はすぐに指されましたから,後手には用意があったのでしょう。
 ところが先手は☗1五香と,こちらの歩を取りました。これが後手の想定の範囲外だったようです。☖同香は当然の一手ですが,昼食休憩も含めると4時間近く考えました。
 その局面自体はそれほど差が開いていないようなのですが,後手にとっては均衡を保つのが難しい局面にはなっていたようです。研究合戦での勝利ともいえますが,相手が均衡を保つのが困難な局面へ導いた先手の戦略的な勝利だったという気もします。
 藤井王位が勝って1勝1敗。第三局は20日と21日に指される予定です。

 『国家論Tractatus Politicus』の当該部分でスピノザは,多くの貴族制の国家Imperiumは,始まりは民主制の国家であったといっています。このことから理解できるのは,民主制の国家は容易に貴族制の国家へとその体制が変化するということです。スピノザは同じ部分でなぜそのようなことになるのかの自説を展開していますが,僕の見解opinioではそこでスピノザが述べているのは,そのような変化が生じる一例であって,民主制の国家が貴族制の国家へと変化する理由を全般的に説明したものではありません。もしも全般的に説明するとすれば,政治的な既得権といい得るような権利juraや権益を保護するような市民Civesが多数を占めるようになると,民主制の国家は容易に貴族制の国家へと変容してしまうのです。
 たとえば資本主義という経済制度の下で,既得の権利や権益を保護しようという動きが大勢になってくると,資本主義経済は停滞します。このことはとくに説明するまでもないでしょう。それと同じように,民主主義の国家において,既得の権利や権益が保護されるにしたがって,民主主義という制度自体は停滞するのです。これは僕の見解であって,スピノザがそのように主張しているというわけではありません。ただ,スピノザが示している主張というのは,大きくみればそういうことの一例であることは間違いないので,おそらくスピノザもこのような考え方を原則的には否定しないであろうと思います。
 現在のアメリカという民主主義国家において,一定の数の白人が既得の政治的権利を保護しようとしているために,アメリカの民主主義は停滞しつつあるという言明があったとしましょう。この言明は一面的な見方にすぎないということは間違いないだろうと僕は思います。しかし一方で,言明自体がひどくアメリカの現状を歪曲したことをいっているかといえば,いい換えるなら,この言明がアメリカの現状についてひどく間違ったことをいっているかといえば,必ずしもそういうわけではないとも僕は考えます。政治的な既得権を主張する市民の数が一定の数まで達すると,民主主義国家は容易に貴族制国家へとその政治体制を変容させてしまうということは,具体的にはこのような意味です。
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農林水産大臣賞典ジャパンダートダービー&体制の変化

2022-07-14 19:26:34 | 地方競馬
 昨晩の第24回ジャパンダートダービー
 セキフウは発馬後の加速が鈍く1馬身の不利。積極的に逃げようという馬がなく,リコーヴィクターが流れで逃げることになりました。向正面の入口でリードは2馬身くらい。2番手にブリッツファングで3番手にコマンドライン。4番手のペイシャエス,バウチェイサー,ノットゥルノまでは一団。2馬身差でトーセンエルドラドとクライオジェニックとガルボマンボ。10番手にセキフウとコスモファルネーゼ。3馬身差でキャッスルブレイヴで最後尾にハビという隊列。前半の1000mは61秒1のハイペース。
 逃げたリコーヴィクターは3コーナー手前から騎手の手が動き出しました。コーナーを回るとほどなくブリッツファングが先頭に。マークするように外からノットゥルノが追い上げてきました。直線に入るとブリッツファングとノットゥルノの競り合いに,内を回って直線でノットゥルノの外に出てきたペイシャエスと,3コーナーから大外を捲り上げてきたハビが接近してきて優勝争いは4頭に。ブリッツファングを競り落として先頭に立っていたノットゥルノが差してきた2頭の追い上げを凌いで優勝。その外のペイシャエスが4分の3馬身差で2着。早め先頭のブリッツファングが半馬身差の3着で大外から追い込んだハビが半馬身差で4着。
 優勝したノットゥルノは重賞初制覇での大レース優勝。デビューから2戦は芝を走って勝てず,ダートを使うと連勝。その後も2着,2着とダートでは連対を外していませんでした。とはいえ前走はブリッツファングに8馬身も負けていましたので,逆転は難しいのではないかとみていました。このレースはブリッツファングが前半から行きたがった上に早めに動き過ぎたという面はありますが,それだけで逆転できたとは考えにくく,距離が延びたこと,コースが変わったこと,不良馬場になったことなど,ほかにもいくつかの要因があったものと思います。4頭は接戦でしたから,絶対的な能力差があるというわけではないでしょう。父はハーツクライ。Notturnoはイタリア語で夜想曲。
                                        
 騎乗した武豊騎手は日本ダービー以来の大レース制覇。第4回,5回,7回以来となる17年ぶりのジャパンダートダービー3勝目。管理している音無秀孝調教師はスプリンターズステークス以来の大レース20勝目。第15回,21回以来となる3年ぶりのジャパンダートダービー3勝目。

 スピノザの政治倫理に適う政治体制は,政治体制そのものに還元することができないのには,もうひとつ別の理由もあります。これは単純にいえば,ある政治体制は永続するわけではないという点です。だから,政治体制がどのようなものであっても,それぞれに見合うような倫理が必要になるのです。
 君主制,貴族制,民主制を比較すれば,民主制が最も優れた制度であるということ自体はスピノザは認めます。しかしこれらの政治体制は,あくまでひとつの政治体制であるという意味においては,何か価値の上で差があるというわけではありません。むしろ国家Imperiumの統治のあり方を示しているだけです。そしてそれらは,統治されている国家のあり方を示すのですから,どのような制度であったとしても,いわゆる自然状態status naturalisとは対義語的関係にあるような状態を意味します。つまりそれは自然状態ではない,『スピノザ〈触発の思考〉』で用いられているいい方に倣えば,共同社会状態status civilisという意味で,自然状態に対して等価なのです。ですから,民主制の国家は民主主義国家ともいわれますが,その場合の民主主義ということに,何か特別の意味があるのではないのです。たとえば権利jusの平等,とりわけ参政権の平等というのは,民主主義国家の根幹であるといえるのですが,民主主義というのはそうした権利を求める運動を意味しているわけではなく,ある国家の統治形態のあり方しか意味しません。ですからスピノザにとっての民主主義は,理念的な目標のようなものでもありません。現に存在する,あるいは存在すると考えることができる政治体制のことを意味するのです。
 したがって,君主制,貴族制,民主制という各々の段階があって,人類の歴史が段階的に発展していくという見方をスピノザはしているわけではありません。現実には逆方向の変化もあるとスピノザは考えています。『国家論Tractatus Politicus』の第八章第一二節の冒頭では,民主制が貴族制に変わり,貴族制が君主制に至る理由が説明されていますが,その理由を説明するということは,実際にそういう変化が生じるということをスピノザが認めているからだといえます。民主制という最終段階があるのではありません。
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天龍の雑感⑬&方法

2022-07-13 19:52:06 | NOAH
 でいったように,天龍自身は自分がジャンボ・鶴田と戦うようになった要因のひとつとして,輪島大士の存在があったとみています。ただ,鶴田はそれを断ることもできた,つまり鶴田は外国人選手だけを相手にすることもできた筈なので,自分を相手に戦ってくれたことについては天龍は感謝しているといっています。全日本プロレスのオーナーは馬場であって,馬場が天龍と戦うように命じたときに,鶴田が本当にそれを断ることができたのかどうかは僕には疑問です。ただ,鶴田と天龍が戦うようになった直接の契機は,長州力らが新日本プロレスに戻ったことにあり,それ以前のジャパンプロレスとの対抗戦時代は,確かに鶴田もジャパンプロレス勢と戦ってはいたものの,前面に出ていたのは明らかに天龍の方でしたから,天龍がそのように感じることは不自然ではないようにも思います。
 鶴田と天龍は人生観や生き様が相反していたから,リングの中での戦いもスパークしたと天龍はいっています。たとえばひとつの趣味でも一緒であったら,そこまで激しい戦いはできなかっただろうと天龍はいっています。このこと自体は実際に戦った鶴田と天龍にしか分からない面があるでしょうが,ファンもまた,天龍と鶴田が異なったタイプのプロレスラーであるということは感じていましたから,それもふたりの激闘がスパークした要因になっていたとは思います。他面からいえば,それぞれの個性がどういったところにあるのかということを,天龍も鶴田もファンに感じさせていたともいえるわけで,その意味ではふたりともプロだったといえるかもしれません。
 1989年6月5日の日本武道館大会で,天龍は鶴田を破って三冠王者になりました。天龍はこの試合に勝るものはないといっています。ただこれは,鶴田戦の中でのベストバウトだったという意味なのか,それとも自分のプロレス人生に中でのベストバウトだったという意味なのかは,文脈の上では不明です。僕はこの試合は会場で観戦していました。天龍は今観たとしてもフレッシュな試合だといっていますが,それは実感としてよく分かります。

 スピノザの政治的倫理を達成するためには,土台というべき原理がふたつあって,その原理が充足されていなければならない確たる理由というのもあります。ここまで理解することができれば,僕が事前にっておいたこと,つまり,スピノザの政治的倫理をいかにして満たすということが,政治体制に還元することはできないということがなぜなのかということも理解できるのではないかと思います。
                                        
 原則的に,政治に参加する人間の数が多ければ多いほど,その国家Imperiumおよび市民Civesは敬虔pietasになりやすいのです。したがって,君主制よりは貴族制,貴族制よりは民主制が,スピノザがいう政治的倫理を満たすことができます。しかしこれはあくまでも原則なのであって,単に政治に参加する人間の数が多ければいいというものではありません。それと同時に,政治権力を行使する人間の数ということが重要なのであって,かつそれは,ある瞬間的に考慮すればいいというものではなく,長期的な視点から考慮しなければなりません。それを満たすのが,方法論としてのふたつの土台なのです。したがって,政治倫理を満たすためには,実はどういう政治体制を構築するべきであるかということを考えるよりも,ある政治的体制が構築されるときに,どのような方法論が導入されているのかということに着目する必要があるのです。
 この方法論自体は,土台は規定されているものの,政治体制の相違によって相違し得るものです。当然ながら君主制に導入されるべき方法と貴族制に導入されるべき方法には相違があり,また民主制に導入されるべき方法はそれらとはまた異なるからです。したがって,現実的に存在するある国家と別の国家を比較するとき,一方は導入されるべき方法が導入されていて,他方にはそうした措置がとられていないのなら,導入されている国家の方が政治倫理を満たす国家ということができますが,そうでないのなら,比較すること自体が困難です。たとえ民主制であっても同一の人間が継続して政治的権力を行使する国家より,君主制であっても,国家権力を行使する人間が入れ替わりやすい国家の方が,政治的倫理を満たす場合があるということになるからです。
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坑夫&土台の理由

2022-07-12 19:16:33 | 歌・小説
 『彼岸過迄』までの事情を説明したときにいったように,『虞美人草』の次に漱石が朝日新聞に掲載した連載小説は『坑夫』です。
                                        
 実はこの掲載にもある事情がありました。『虞美人草』の後は,二葉亭四迷の小説が掲載されました。その次に島崎藤村が小説を連載する予定だったのですが,執筆がはかどらなかったために,その間の穴埋めが必要になりました。そのために掲載されたのが『坑夫』です。こうした事情が影響したかどうかは不明ですが,この小説は漱石の小説としては異色作といえます。
 『坑夫』は1908年の元日から掲載が開始されました。その前年の11月に,漱石は荒井という青年の訪問を受け,自分の身の上話を聞き,それを小説にしてほしいと依頼されました。どうも荒井は金が必要だったようで,小説の素材を漱石に与えることで報酬を得ようとしたようです。しかし漱石はそうした個人の事情を小説にはしたくないと考え,もしそれを小説にするのであれば,荒井自身が書くのがよいだろうといって断りました。ところが漱石は急に小説を連載しなければならなくなったため,この荒井の身の上話を題材として『坑夫』を書きました。
 小説の内容は,家出をした青年が坑夫になる決心をして,銅山で働くという話です。銅山の中が小説の舞台で,そこで一緒に働く人びととの交流が中心となっています。ただし,何かそこに明確なストーリーがあるというよりは,銅山での仕事および坑夫の生活というのがどういったものであるかということを伝える,ルポルタージュ的な要素が大きくなっています。
 小説の最後で主人公は東京に帰ります。そして漱石は,これが自分の坑夫についての経験のすべてで,そのすべてが事実であるとした上で,その証拠に小説になっていないといって『坑夫』を終えます。つまり漱石自身にとっても,『坑夫』は異色の小説であったのです。そもそも島崎藤村の遅筆がなければ,書かれることがなかった小説だったといえるかもしれません。

 スピノザが示しているふたつの土台は,なぜそれが土台とならなければならないのかという観点から説明ができると僕は考えています。
 まず,政治的権力を行使する者には任期が必要であるというのは,同じ人間が長期にわたって権力を行使することを防止するためです。現在でも俗に権力は腐敗するといわれたりしますが,基本的にスピノザもそのように考えていると解してよいでしょう。すなわち権力を行使する期間が長きにわたってくるほど,その人間は敬虔pietasであることが困難になってくるとスピノザは考えているのです。他面からいえば,権力を行使する人間は,自身の現実的本性actualis essentiaに応じて権力を行使することになるのですが,権力を行使し始めるときと,それを長きにわたって行使したときでは,その人間の現実的本性が変容するというようにスピノザは考えているということです。与えられた現実的本性が変化するということは,第三部諸感情の定義一により,その人間の欲望cupiditasが変化するという意味です。つまり政治的権力を行使することへ向かう欲望のあり方が変化するということであり,このときこの変化は,敬虔であることへ向かう欲望からそれとは別の方向への欲望に変化する,少なくともそういう変化が起こりやすいというようにスピノザは考えているのです。
 もうひとつ,権力を行使する役職を退いた人間は,再任されてはならないということの理由は,おそらくそうしたことがしばしば生じると,政治が反動的になりやすいとスピノザは考えているからだと思われます。これはスピノザが生きていた時代に大いに関係しているのだろうと推測されます。スピノザが生きていたオランダは,王党派議会派が政治権力を巡って争っていたわけですが,スピノザは議会派の方を支持していて,それは議会派が進歩的であるのに対して王党派は反動的であったからです。もっといえば王党派が目指す政治は,懐疑論的国家に近いものがあると,スピノザには見えていたのかもしれません。ですから政治が反動的な方向に向かうことは避けるべきだとスピノザは考えていて,それが権力者の再任は避けなければならないということの理由になっているのだと思います。
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不死鳥杯&方法の土台

2022-07-11 19:20:24 | 競輪
 昨日の福井記念の決勝。並びは坂本‐菅田‐佐々木の北日本,松井‐鈴木の南関東,古性‐南の大阪で,森田と松岡は単騎。
 かなり長めの牽制があり,意を決して古性がスタートを取って前受け。3番手に松井,5番手に松岡,6番手に森田,7番手に坂本で周回。残り2周のホームの手前から坂本が上昇開始。森田がこのラインに続きました。ホームの出口で北日本ラインが古性を叩いて前に。バックで森田が連結を外して下げ,4番手に古性,6番手に森田,7番手に松井,最後尾に松岡という一列棒状になって打鐘。ホームから最初に動いたのは単騎の森田。その動きに乗るように松井も発進すると,そのふたりが来る前にバックから古性も発進。さらに坂本との車間を開けていた菅田も番手捲りを敢行。もっとも前に接近できたのは古性でしたが,佐々木の牽制もあり,菅田の横までは追いつけず。展開有利に運んだ菅田が優勝。古性が半車輪差で2着。菅田マークの佐々木,古性の後ろから伸びた南,直線の手前で南と松井の間を突いた松岡の3人で接戦の3着争い。一番外の松岡が4分の3車身差で3着。南が8分の1車輪差の4着で佐々木が4分の1車輪差で5着。
 優勝した菅田壱道選手は2月の西武園のFⅠ以来の優勝。GⅢは一昨年3月の久留米での国際自転車トラック競技支援競輪以来となる4勝目。記念競輪は2018年1月の大宮記念以来となる3勝目。この開催は3日目の開催中に大雨があり,準決勝を争うことができなかったため,抽せんで決勝進出者が決まりました。このために優勝候補だった脇本と松浦が抽せんに漏れて決勝進出を逃しました。脚力では上位の古性と松井はいましたが,菅田の場合は坂本も抽せんで決勝に進出してきたため絶好の番手戦に。幸運があっての優勝という気がします。

 スピノザは懐疑主義的な国家Imperiumは倫理的な側面から政治体制とは無関係に否定します。一方で,独断論的国家については,非現実性という観点から否定するのでした。ではどのような政治体制がスピノザの政治倫理に適合するのかといえば,それは前もっていっておいたように,実は政治体制に還元することができるわけではなくて,方法論を導入することによって解決策が示されるのです。つまりある国家が存在し,その国家がどういう政治体制であるのかということとは無関係に,実質的に政治権力をふるう人間の数が多くなるような方法が制度化されているような国家が,スピノザの政治倫理に最も適合する国家である,あるいは同じことですが国家および国民が最も敬虔pietasであるという国家になるのです。そしてこのとき,政治権力を行使する人間の数というのは,ある決まったときのことをいうのではありません。その国家が継続していくということを前提に,継続していけばいくほど自動的に政治権力を行使する人間の数が増えていくという制度が必要なのです。要するに人間の数というのは,ある決まったときの人間の数ではなく,長期的視点に立った上での人間の数を意味するのです。ですから,原則的にいえば,君主制よりは貴族制,貴族制よりは民主制が,スピノザの政治倫理に適合する政治体制を有する国家であることになるのですが,現実的に存在する国家を比較した場合には,ある民主制の国家よりも,別の君主制の国家の方が倫理的に優るという可能性があるのです。
                                        
 よって,長期的視点でみたときに,権力をふるう人間の数がなるべく多くなるルールを採用することが,倫理的には最も重要であることになります。そしてそのルールの土台となるのは,僕が君主Aが統治する国家と君主Bが統治する国家を比較したときの観点になります。つまりこの倫理を満たすための重要な要件はふたつあるのであって,ひとつは政治権力を行使するという意味での権力者には,任期が必要であるということです。そしてもうひとつは,この意味における権力者の職責を任期によって果たした者は,再び権力を行使する地位には就くことができないようにするということです。
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ジュライカップ&方法論の導入

2022-07-10 19:07:08 | 海外競馬
 日本時間で今日の未明にイギリスのニューマーケット競馬場で行われたジュライカップGⅠ芝6ハロン。
 キングエルメスは少し出負けしましたが,すぐに5番手付近まで位置取りをあげました。そのまま進んでいきましたが,徐々に位置は下がり,とくに坂の上りに入ってからはレースそのものから脱落。勝ち馬からおよそ7馬身半くらいの差で11着でした。
 レースぶりそのものはちぐはぐな印象でしたが,ヨーロッパのレースは総じて日本のレースよりも発馬直後のラップは上がらず,このレースもそうなりましたのでその影響があったものでしょう。全体的にみると,このコースでこのメンバーを相手にすると実力そのものが足りなかったという印象です。ただ,レースに参加できなかったというわけではありませんでしたから,条件が変わればもう少しやれる可能性はあるでしょう。

 君主に進言する人間の数が10人であるより20人である方がよいのが原則であるのは,その他の条件をまったく考慮に入れていないからです。いい換えれば,その他の条件がすべて一致するのであれば,君主に進言する人間の数が,多ければ多いほどよいことになるでしょう。しかしその他の条件がすべて一致するとは限りません。そこに方法論が入り込む余地があるのです。
                                        
 君主Aが統治する国家Imperiumは,Aに進言する人間の数が10人で,君主Bが統治する国家は,Bに進言する人間の数が20人であるとします。しかし,君主Aの国家では,進言する人間に任期があって,1年ごとにひとりずつが入れ替わり,さらにその任期を終えたら再任されないというルールを採用しているとします。一方,君主Bの国家では任期がなく,終身雇用で,その役職に就いている者が死んだときに入れ替わりが生じるというルールになっています。このふたつの国家を比較すると,ある決まったときだけをみれば,君主Bが統治する国家の方が進言する人間の数が多いのですが,長期的な観点からみれば,君主Aが統治する国家の方が進言する人間の数はトータルで多くなります。このルールの下に国家が継続していくとすると,君主Aが統治する国家では10年が経過すれば進言する人間はすべて入れ替わりますが,君主Bが統治する国家では,10年で10人が入れ替わることは考えにくいでしょう。したがってそれぞれの国家でこのルールが採用されているなら,国家が継続していけばいくほど,君主Aが統治する国家の方が,進言する人間の数は多くなるのです。ですからこの場合は,君主Aが統治する国家の方が,君主Bが統治する国家より,スピノザが示す政治倫理に適した国家体制であるということになるのです。
 ここではふたつの君主制国家を比較しました。しかしこのことは,これらふたつの国家が共に君主制であるという理由によって成立しているわけではありません。仮に貴族制であれ民主制であれ,実質的に政治権力を行使する人間が入れ替わりにくくなっているような場合は,君主Aが統治する君主制の国家よりスピノザの政治倫理にそぐわない場合もあり得るのです。
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大成建設杯清麗戦&差異の発生

2022-07-09 19:16:41 | 将棋
 四ツ谷で指された昨日の第4期清麗戦五番勝負第一局。対戦成績は加藤桃子清麗が10勝,里見香奈女流四冠が29勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
 大成建設の副社長による振駒で加藤清麗の先手。里見四冠のノーマル四間飛車に,先手があまりない形の急戦を仕掛ける将棋になりました。
                                        
 ☗6三香☖7一金と進んだ局面。
 ここで先手は長考して☗6二角と打ちました。ただこれは後手も読んでいたようで,☖同飛と取って☗7一龍☖同玉☗6二香成☖同王☗4二歩成に☖6三銀。
                                        
 第2図となって後手玉は寄りません。後手からは確実な攻めが残っているので,この局面は後手が勝勢です。
 第1図で☗9一角と打つと☖同玉☗7一龍☖8二銀で後手が凌げるようです。ただ☗6二香成☖同飛としてから☗9一角なら,☗7一龍のときに☖8二銀と打つわけにはいきません。先手がこの順を逃したので後手が勝ちになったという将棋でした。
 里見四冠が先勝。第二局は22日に指される予定です。

 同じようにひとりの君主がすべての政治的権力を行使する国家Imperiumであったとしても,差異が生じるメカニズムは以下のようなものです。
 君主Aと君主Bがいて,各々がそれぞれの国家において,政治的権力を独占的に行使すると仮定します。このとき,AとBが理性ratioに従う限りでは,第四部定理三五により,両者の現実的本性actualis essentiaは一致します。したがってこの限りでは差異は生じません。しかし与えられた現実的本性,いい換えれば働きを受けるpati限りでの現実的本性は,AとBの間で一致しません。これは第四部定理三二から明白です。ですからこの与えられた現実的本性は,Aの方がBよりも敬虔pietasである場合が生じ得ます。この種の与えられた現実的本性は,第三部諸感情の定義一により,その人間の欲望cupiditasにほかなりません。なので,Aの与えられた現実的本性がBの与えられた現実的本性より敬虔であるなら,独占的に付与されている政治的権力を行使するときに,Aの方がBより敬虔に行使することになります。したがって君主Aが統治する国家は,君主Bが統治する国家よりも敬虔な国家ということになるでしょう。いい換えれば,Aが君臨する国家の方が,Bが君臨する国家よりも,国民にとってより理想に近い国家ということになるのです。現実的にひとりの人間が政治的権力を独占するなどということはあり得ないので,これをいうのは現実的には無意味ですが,このようにして差異が生じてくるという点が重要なのです。スピノザが倫理的に適合するような国家として示すのは,政治体制そのものにあるのではなく,この差異と,その差異を生じさせる方法論にあるからです。
 次に,幾人かが君主に対して進言することによって政治的権力が行使される国家を考えます。これは現実的に存在し得ますから,現実的に考えること自体が無意味になるわけではありません。
 このとき,進言する人間の数が,君主Aの国家では10人で,君主Bの国家では20人であるとします。政治的権力を行使する人間の数は,多ければ多いほどよいというのがスピノザの政治的倫理の基本なので,この場合は君主Bの国家の方がよりよいことになります。ただしこれは原則にすぎません。
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規範の適用&君主

2022-07-08 19:29:16 | 哲学
 『人間における自由Man for Himself』でフロムErich Seligmann Frommがそうしているように,第四部定理二四に依拠することによって,スピノザが示しているvirtusの概念notioが,一般的な規範を人間に対して適用したものであるというのには無理があります。しかしそこでフロムがいっている一般的な規範の原理というのは,確かに一般的な原理を人間に対して適用したものであるということができます。なので僕はこの部分では,フロムがスピノザの哲学に関して,ひどく誤ったことをいっているとは考えません。
                                 
 このことは,第四部定義八でスピノザが徳を定義するとき,それは人間に特有の徳の定義Definitioであるということと関係していました。また僕自身は,徳という概念そのものが人間に特有の概念なのであって,スピノザは人間以外のものについては徳という概念をもっていなかったというように解しています。しかしフロムはこの点では僕の見解opinioと相違があります。つまりこの定義が,あらゆる事物に適用されると考えているのです。そしてその場合は,第四部定理二四を援用することによって,スピノザがいう徳が,一般的な規範を人間に適用したものであるということが帰結するでしょう。このときにフロムは,馬にとっては,自分が人間に変えられたということは,自分が昆虫に変えられたということと同じように破壊的なことであるという主旨のスピノザのことばを援用しています。
 しかし僕の考えでいえば,このことを徳と関連させるのには無理があります。というのは,第四部定義八を仮にすべての事物に適用するとしても,それはある事物が能動的である限りにおいてそれがその事物の徳であるということにならなければならない筈であって,ある事物の本性essentiaが,あるいは同じことですがある事物の形相formaが,ほかの事物の本性なり形相なりに変化するということとは無関係であるからです。上述のことは,もし馬が能動的に人間に変じたり昆虫に変じたりすることはないということだけが成立しなければいえない筈ですが,能動的であろうと受動的であろうと,そのような変化は生じ得ないからです。つまりスピノザはそこで馬の徳について何かをいおうとしているのではないと解さなければなりません。

 説明を分かりやすくするために,ここでは『国家論Tractatus Politicus』に示されている3種類の政治体制のうち,君主制を例に挙げることにします。
 君主制における君主というのは,世襲であるとここでは理解してください。日本でいえば天皇制を考えれば分かりやすいでしょうし,現時点で現実的に存在する国家Imperiumでいえば,北朝鮮を考えるのが分かりやすいと思います。ただしこれは君主が何を意味するかの説明であって,君主制が何を意味するのかということではありません。この例でいえば,日本における天皇は,法律の上では国家元首であって,それを君主とみなすことは可能です。ところが天皇は,現実的に政治的権力を行使するという力を与えられているわけではありません。それどころか天皇,これは天皇に限らず天皇家,あるいは皇室といってもよいですが,皇室の人びとは政治に参加する権利jusを剥奪されているといわなければなりません。僕は現在の日本は,スピノザの分類で民主制に該当していると考えますが,政治に参加する権利を,生まれながらにしての属性によって制限されている皇室からみれば,共和制という結論があったとしてもおかしくはないだろうと思います。これに対して北朝鮮は,国家の正式名称は朝鮮民主主義人民共和国と名乗っていますが,これは文字通りに名乗っているだけで,民主制でないのはもちろん共和制でもなく,君主制であるとみなさなければならないでしょう。
 君主制を単に説明したときに前もっていっておいたように,あるひとりの君主が政治的権力のすべてを独占して行使するということは現実的ではありません。ですので現実的な政治体制について考える場合には,この例は無視してよいのですが,ここでは説明のためにまずこの例から考察します。この場合,その国家あるいは国民が敬虔pietasであることができるか否かは,その君主の受動passioが敬虔であり得るか否かということだけで決定されます。ただし,その君主の受動がすべて敬虔であるということは考えられませんので,この国家が敬虔であることはできません。なのでこういう国家はスピノザの倫理からは絶対的に排除されることになります。ただし,程度の差は発生し得ます。
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農林水産大臣賞典スパーキングレディカップ&政治的権力

2022-07-07 19:17:58 | 地方競馬
 ホクトベガメモリアルの昨晩の第26回スパーキングレディーカップ。矢野騎手が騎手控室に持ち込みを禁じられている外部との連絡が可能になる通信機器を持ち込んだため騎乗停止処分を課せられ,サルサディオーネは森泰斗騎手に変更。
 アールロッソはジャンプするような発馬となり,1馬身の不利。サルサディオーネが逃げてショウナンナデシコが2番手でマーク。3番手にグランパラディーゾとキムケンドリーム。5番手のレーヌブランシュまでは一団。5馬身差でアールロッソとレディバグ。8番手にハピネスマインド。3馬身差でグレートコマンダーで最後尾にクレールアドレ。前半の800mは49秒4のミドルペース。
 前を占めた5頭のうち,キムケンドリームは向正面で早々に後退。3コーナーを回るとサルサディオーネにショウナンナデシコが並び掛けていき,3番手はグランパラディーゾとレーヌブランシュ。5番手にアールロッソとレディバグという隊列に。直線に入るとショウナンナデシコがサルサディオーネの前に。サルサディオーネもいつものように粘りをみせましたが,直線の半ばで力尽きました。外から3番手に上がっていたレディバグがそこからフィニッシュにかけてショウナンナデシコに詰め寄ったものの届かず,優勝はショウナンナデシコ。レディバグがクビ差で2着。サルサディオーネが2馬身半差で3着。
 優勝したショウナンナデシコはここがかしわ記念以来のレース。これで重賞4連勝となる4勝目。牡馬相手に大レースを勝ったくらいですから力量は断然。不安は斤量で,最後に詰め寄られたあたり,影響はあったかもしれません。逆にいえば斤量差があってのものですから,2着馬との能力差は着差以上にあるとみなければならないでしょう。4連勝がいずれも左回りでのものですから,あえて課題を探せば,右回りになります。ただ牡馬相手のオープンは勝っていますから,特別に苦にするということはない筈です。父はオルフェーヴル。母の父はダイワメジャー。従兄に2017年のシンザン記念を勝っている現役のキョウヘイ
                                        
 騎乗した吉田隼人騎手は第22回以来4年ぶりのスパーキングレディーカップ2勝目。管理している須貝尚介調教師はスパーキングレディーカップ初勝利。

 君主制より貴族制,貴族制より民主制が,政治に参加することができる人間の数は多くなります。ですから『国家論Tractatus Politicus』に示されている制度の中では,民主制が最も優れた制度であることになります。いい換えれば,スピノザの哲学の倫理的側面から,最も倫理的に正しい制度であるということになります。しかしそれは,民主制が完全な制度である,つまり,政治体制が民主制でありさえすれば,その国家Civitasの市民Civesが必ず敬虔pietasであることができるということを意味するわけではありません。もっというと,民主制でありさえすれば,その国家および国民が,敬虔であることができる可能性が,ほかの制度より高くなるというわけでもないのです。これはスピノザが,人間の数というのを,単に政治に参加することができる人間の数ということだけで意味しようとしているわけではないということと関連します。
 もちろん政治に参加することができる人間の数が多いということは重要なことです。とりわけ,君主制や貴族制と比べたときに,生まれながらの何らかの属性によっては政治に参加する権利jusが制限されないということは重要です。ですがそれは,単に政治に参加するということだけを意味するのであって,政治的権力を行使するということとは異なります。これはごく単純にいって,国会議員を選択する選挙に一票を投じることと,国会議員に選出されるということとは異なるというような意味に理解してください。したがって,単に政治に参加する人数だけを比較すればよいというものではなく,政治権力を行使する人間の数の方も比較しなければならないのです。なお,このときに政治権力といわれているのは,三権分立といわれるときの三権のすべてを含むと理解してください。もしかしたら僕たちは三権のうちの行政府だけが政治的権力を行使するという理解をしているかもしれませんが,立法も司法もここでは政治的な権力に含まれます。他面からいえば,ここでいう政治的権力は,僕たちが理解する政治的権力よりも広い意味であると理解してください。
 ではそうした政治的権力を実質的に行使する人数というのが何を意味するのかということを具体的に考察します。
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ラブリーデイ&3つの制度

2022-07-06 19:34:01 | 名馬
 6月28日の優駿スプリントを勝ったプライルードの父はラブリーデイです。父がキングカメハメハで母の父がダンスインザダークレディチャッターシャダイチャッターの分枝で6つ下の全弟が一昨年の中日新聞杯と5月の目黒記念を勝っている現役のボッケリーニ
 2歳の8月にデビューすると新馬とオープンを連勝。京王杯2歳ステークスで2着になって朝日杯フューチュリティステークスに向かい7着。
 3歳初戦はアーリントンカップでコパノリチャードの5着。毎日杯がキズナの11着。皐月賞は15着でダービーはキズナの7着でした。
 夏の小倉記念に出走して2着。休養を挟み11月の金鯱賞も2着。有馬記念オルフェーヴルの12着。
 4歳初戦の中日新聞杯は3着。4月のオープンで2歳以来の3勝目。目黒記念が5着,七夕賞は6着でした。
 休養してアルゼンチン共和国杯に出走して5着。金鯱賞は4着でした。
 5歳初戦の中山金杯で重賞初勝利をあげると京都記念も連勝。阪神大賞典はゴールドシップの6着,天皇賞(春)もゴールドシップの8着と敗れましたが,鳴尾記念で重賞3勝目。そして宝塚記念で大レース初制覇を達成しました。
 復帰戦の京都大賞典も優勝。さらに天皇賞(秋)を制して大レース2勝目。ジャパンカップは3着。有馬記念は5着でした。この年のJRA賞の最優秀4歳以上牡馬を受賞。
 6歳となり,復帰戦の大阪杯は4着。クイーンエリザベスⅡ世カップに遠征して4着。宝塚記念も4着。
 秋は京都大賞典で復帰して3着。天皇賞(秋)モーリスの9着。遠征した香港カップもモーリスの4着で,競走生活から退きました。
 5歳のときに活躍が偏っていますが,相手関係もあったと思います。晩成だったのは確かですが,図抜けた力量があったわけではなく,一定の力量を安定して発揮したタイプです。競走生活からはダートのスプリンターが輩出したのは意外ですが,キングカメハメハはコースや距離を問わずに活躍馬を出しましたから,その傾向を受け継いでいるのかもしれません。基本的に母系は平坦コースを得意としますので,そういう特徴が出てくる可能性もあるでしょう。

 『国家論Tractatus Politicus』で具体的に検討されている政治体制は,君主制と貴族性と民主制の3つです。このうち,民主制がどういう制度であるのかということは説明する必要はないでしょう。スピノザが考えている民主制は,たとえば今の日本で与えられている民主制とは異なりますが,その点はここでは考慮に入れません。これは『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』について探求したときに,『国家論』におけるスピノザの主張には,スピノザの哲学とは相容れないものが含まれていて,それは『国家論』の欠陥のひとつであるという主旨の僕の見解opinioを述べたことと関連しています。それをここで繰り返すのは煩雑になるので,この民主制は,ある国家Civitasの市民Civesのすべてが政治に参加する権利jusを有する政治体制と理解します。
                                        
 次に,君主制は,文字通りに解するならひとりの君主が政治的な権限のすべてを発揮する政治体制で,これは独裁制の別名です。ただ,現実的なことをいうと,ひとりの人間がすべての政治的権限を発揮するということは不可能ですので,限られた何人かの人間が,君主に進言するような形で政治的権力のすべてが発揮されるような国家Imperiumのことも,ここでは君主制といいます。実際にスピノザは,そういう体制のことを含めて君主制といっています。
 最後に貴族制は,ある国家の中に身分制度があって,ある特定の身分の人間,あるいはある特定の階級に属する人間だけが政治に参加することができる政治体制のことを意味します。この場合は身分というのは一例であって,生まれながらにして与えられる何らかの属性によって参政権が与えられる国家も貴族性といわれなければなりません。なので,たとえば性別によって参政権が区別されるような政治体制があるなら,それは民主制よりも貴族性に近似していると僕は考えます。
 この3つの制度のうち,政治に参加する人数が最も多くなるのは民主制であることはいうまでもありません。そして次が貴族制で,最も少ないのが君主制です。そしてスピノザは,政治に参加する人間が多ければ多いほどよい制度と考えているわけですから,基本的に民主性が最も好ましい制度であるということになります。これは間違いではありません。
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ヒューリック杯棋聖戦&人間の数

2022-07-05 19:03:14 | 将棋
 木更津市で指された昨日の第93期棋聖戦五番勝負第三局。
 藤井聡太棋聖の先手で角換わり相腰掛銀。互いの研究範囲の進行となり,短時間でかなり緊迫した局面となりました。
                                        
 この局面で後手の永瀬拓矢王座の手が止まり,長考に沈みました。この手は研究の範囲外であったのでしょう。☖3三桂と逃げたのですが,これはあまり良い対応ではなく,これ以降は挽回するのが困難な差がついてしまったようです。
 第1図で☖7四金と取ったり☖8五桂と跳ねたりすると,大決戦になる可能性があり,その場合は後戻りができなくなりかねません。先手は研究で第1図に進めているので,そうなっても大丈夫という裏付けはあったのでしょう。なので研究範囲外の後手としては,よほど成算がない限りそうした手順には進めにくくなります。そのために実戦はバランスを崩すことになってしまったのでしょう。
 先手がどういう意図で第1図に進めたのかは分かりません。ただ,ある局面で有力な手がいくつかあるとき,どれが自分にとって最も良いかということだけではなく,相手の研究範囲から外れていそうな手はどれかという観点から指し手を決定することも,現在のトップクラスの将棋においては,勝つためには重要なことなのかもしれません。
 藤井棋聖が勝って2勝1敗。第四局は17日に指される予定です。

 これでスピノザが示す倫理的な規準に適合する国家Imperiumというのがいかなるものであるのかということは理解できるでしょう。それは,国家の支配体制が,市民Civesを敬虔pietasにさせるようなものであるということです。ただし,現実的に存在する人間は,能動的でありさえすれば,いい換えれば理性ratioに従っている限りでは敬虔であることができるのですから,市民を敬虔にさせる支配体制というのは,市民を受動passioによって敬虔にさせるということだけを意味するのではありません。すでに示したように,理性が何かほかのものに従属しなければならないような支配体制を有する国家は,懐疑主義的な国家といわれるべきであり,これは支配体制がどうあるのかということとは無関係に,スピノザの倫理的規準に適合しないのです。
 では支配体制がどのようなものであれば,市民が敬虔になりやすいのかとスピノザが考えているのかといえば,ごく単純にいえば,政治に参加する人間の数が多いほど,市民は敬虔になりやすいということであると僕は解釈しています。このことはそんなに難しく考えなくて構いません。政治的なことに対して関与する人間が多くなれば,政治的な事柄に対して能動的に対処する人間の数もそれだけ多くなると考えられます。つまり単純に割合だけでいっても,能動的に政治に関与する人間の数は増加するでしょう。そしてその一定の割合の人間はすべて,第四部定理三七により,自身が希求している善bonumをほかの人,つまりほかの市民に対しても求めることになるでしょう。よってそうした人は,ほかの市民が能動的に行動するようにするか,あるいは受動であっても能動的であるかのように行動するように導くでしょう。いい換えればほかの市民が敬虔であるように政治に関与することになるでしょう。なので,政治的な事柄に関与する人間の数が多いほど,その国家は敬虔な国家になりやすい,いい換えれば市民が敬虔でありやすいということになるのです。ただし,前もっていっておくと,この人間の数というのは,上述したような,単純に政治に関与する人間の数ということだけを意味するのではありません。ここにはこの意味とは別の意味も含まれています。
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カーンの雑感⑩&否定の条件

2022-07-04 19:18:55 | NOAH
 カーンの雑感⑨から分かるように,カーンはジャンボ・鶴田に対しては批判的です。カーンがこの話をしたとき,すでに鶴田は死んでいました。それでもこのような発言をしたのですから,よほど鶴田のプロレスをカーンは嫌っていたのでしょう。鶴田は馬場が敷いたレールの上を歩いただけのレスラーだというのが,カーンの鶴田に対する総評です。鶴田のプロレスではアメリカでは通用しなかったであろうとカーンは話しています。ただ鶴田はAWAのチャンピオンとしてアメリカをサーキットしていますから,適応しようと思えばできたのではないかと僕は思います。
 そしてカーンがもうひとり,嫌っていたのが長州力です。カーンはで明かされているように,永源遥に脅迫されたという理由があったとはいえ,長州とともに全日本プロレスで仕事をするようになりました。しかし途中で長州を裏切り,敵対するようになりました。このストーリー自体はカーン自身のアイデアだったといいます。そしてそれはカーンの長州に対する感情面が大きく左右していました。長州はアメリカでは飯を食うこと,つまりプロレスラーとして稼ぐことができず,カーンの家に転がり込んでカーテンにくるまって寝ていたような時期があったそうで,それなのにジャパンプロレスで長州の下で仕事をするのは嫌だったそうです。
 ただしカーンはこの件について,長州の了解は得ていたそうです。長州とカーンで抗争をして,外国人選手に頼らずに観客を呼ぼうという名目で,カーンが裏切ることを長州に伝えると,長州は快諾。それでカーンはカルガリーハリケーンズと結託して,長州とも戦うようになりました。このときカーンは人種差別主義者のギミックを使いましたが,これは馬場に何か考えろと言われてやったことだそうです。
 この一件が,外国人選手を不要にしようという動機から始まっているのには理由がありました。それはギャラの問題です。

 理性ratioすなわち精神の能動actio Mentisが,何であれ外部の目的finisに対して従属しなければならない国家Imperiumの支配体制は,スピノザの哲学によって否定されます。したがってこれは,その国家の政治体制がどうであるのかということとは関係ありません。一例として挙げたアフガニスタンのタリバンによる政権についていえば,それはイスラム原理主義に対して理性が従属しなければならないがゆえにスピノザは否定するのであって,タリバンが軍事的な力によって政権を奪取したがゆえに否定されるのではないのです。いい換えれば,たとえタリバンが民主的な選挙によって政権を獲得するのであるとしても,理性がイスラム原理主義に従属しなければならないのであれば,同様にスピノザはそれを否定します。要するに政権の獲得の仕方がどうあるのかということや,政権の体制がどのようなものであるのかということは,懐疑主義的国家をスピノザが否定するnegareこととは無関係です。そしてそれは逆にいえば,たとえ軍事的クーデターによって成立した政権であっても,懐疑主義的国家ではないのであれば,スピノザはその政治体制を肯定するaffirmare場合もあり得るということを意味します。ただこれは,『国家論Tractatus Politicus』での主張を具体的にどのように解するべきかということの検討の中で詳しく明らかにします。
                                        
 『エチカ』の倫理は能動的であることにあるのですが,現実的に存在する人間に対して全面的な能動を要求するのは非現実的だという観点からこの考察は開始されています。そこで,たとえ受動的であったとしても,能動的であるかのように振る舞うこと,それが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では敬虔pietasといわれているのですが,その敬虔さが,現実的な倫理的な規準として要求されるようになるということが,僕の見解opinioです。そして個人に求められるこの規準が,そのまま国家にも求められることになると僕は解します。これによって倫理学と政治学との間にあるようにみえる乖離は解消されるからです。したがって,スピノザの倫理的な規準に現実的な意味で合格する国家は,敬虔である国家ということになるでしょう。そして国家が敬虔であるとは,その国家で生きる市民Civesが,敬虔であるという意味になります。
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阿波おどり杯争覇戦&懐疑論的国家

2022-07-03 19:19:58 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは高久保‐志智の近畿中部,松浦‐室井の中四国,太田‐阿竹‐小倉の徳島で真杉と山田は単騎。
 小倉と松浦がスタートを取りにいき,小倉が誘導の後ろを確保して太田の前受け。4番手に真杉,5番手に松浦,7番手に山田,8番手に高久保で周回。残り3周のバックの出口から松浦が上昇を開始。山田,さらに高久保もこの動きに乗りました。ホームで松浦が太田を叩きましたが,太田は後ろまでは引きませんでした。バックでは山田までの3人が前に出て打鐘。4番手が外の高久保と内の太田で併走に。松浦はペースを上げなかったので外の併走を嫌った高久保が発進。このラインに続いたのが真杉で,この3人で松浦を叩いて高久保の先行に。バックから太田,松浦と動いていきましたが,一足先に3番手を回っていた真杉が単騎で発進。前のふたりを捲り切りました。真杉と高久保の差はやや開きましたが高久保マークの志智が真杉にスイッチ。直線は粘る真杉と差し切りを狙う志智のふたりの接戦となってフィニッシュ。写真判定となりましたが優勝は真杉。志智がタイヤ差で2着。直線で志智の外から追い込んだ松浦が半車身差の3着。
 優勝した栃木の真杉匠選手は3月の名古屋記念以来の優勝で記念競輪2勝目。このレースは地元ラインが結束せずにふたつのラインに別れました。これは松浦が先行して太田が捲るという作戦なのではないかと予測したのですが.思いのほか松浦と太田が互いに互いを牽制するようなレースとなりました。つまりあくまでも別々のラインとして競い合うということだったのでしょう。そういうレースになりましたので,単騎ながら先行ラインの3番手を取った真杉にとって有利な展開に。高久保ラインが松浦を叩いたときに,3番手の真杉と松浦の間で車間がやや開いてしまったのが結果論ではありますが松浦にとっては誤算。松浦が追い付いてくる前に単騎で捲っていた真杉の思い切りの良さが優勝を引き寄せたといえそうです。

 『国家論Tractatus Politicus』におけるスピノザの主張の検討に入る前に,いっておきたいことがあります。
                                        
 ガリレオGalileo Galileiは,宗教裁判の影響で,表面上のこととはいえ,自説を撤回せざるを得ませんでした。またブルーノGiordano Brunoはそれを拒否したので,火炙りの刑に処されました。これは国家Imperiumが,理性ratioが聖書に従属するべきであるという体制であったがゆえの出来事です。理性が聖書に従属するべきであるという主張は,懐疑論者scepticiとしてスピノザは否定します。したがってこうした国家は懐疑論的な国家であることになって,スピノザの哲学あるいは倫理的観点から否定されるのです。これは国家の体制がどのようなものであるかということと関係ありません。要するに懐疑論的な国家というのは,その政治体制がどうあるのかということとは無関係に否定されます。いい換えればそれは,『国家論』の言説を検討する以前の結論なのです。
 独断論的な国家というのもスピノザの哲学からは否定されるのですが,それは倫理的な観点から否定されるわけではなく,現実性という観点から否定されるのでした。これに対して懐疑論的国家は,現実性という観点から否定されるのではなく,倫理的観点から否定されるのです。現実性という観点からいえば,懐疑論的国家というのは現実的に存在したのだし,現在でも存在します。そしてこれからも存在することになるでしょう。
 そして,理性が聖書に従属するべきであるというのが懐疑論的国家であるのですが,これは聖書だけに適用されるわけではありません。理性が何かに従属するべきであると主張するなら,それはすべからく懐疑論者といわれるべきであり,そうしたことを国民に要求する国家は懐疑論的国家であることになります。ですから上述の例のような,宗教裁判を行った時代のイタリアのような国家だけが懐疑論的国家に該当するわけではありません。たとえばスピノザの父は,ユダヤ人に対する迫害から逃れるためにオランダに移住したのですが,特定の人種を迫害するような国家もまた懐疑論的国家といわれなければなりません。現代でいえば,タリバンが支配するアフガニスタンなどは懐疑論的国家です。こうした国家は否定されるのです。
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ドストエフスキー カラマーゾフの預言&僕の解釈

2022-07-02 19:21:01 | 歌・小説
 『ドストエフスキー カラマーゾフの預言」という,2016年に発売された本を,数ヶ月ほど前に読み終えました。
                                        
 亀山郁夫は2015年11月に,『新カラマーゾフの兄弟』という小説を発売しました。僕はこの小説に関しては読んでいませんので,何かいうことはできません。『ドストエフスキー カラマーゾフの預言』では,その小説に関連する事柄に多くの紙幅が割かれています。亀山へのインタビューであったり,亀山の対談であったり,あるいは純粋に評論家の評論であったります。僕は小説の方を読んでいない関係で,そうしたもののうち,『新カラマーゾフの兄弟』に関連することについては言及することを避けます。ただ,それらの部分は,『新カラマーゾフの兄弟』を読んでいなければ理解することができないのかといえば,そういうわけではありません。当然ながらこの書籍はこの書籍で独立した書籍ですから,たとえ読んでいなかったとしても,理解することができるように書かれているからです。
 それ以外に,『新カラマーゾフの兄弟』とは無関係な,ドストエフスキーの小説にだけ関係するような対談や評論も含まれています。また,『新カラマーゾフの兄弟』というのは,『カラマーゾフの兄弟』を読んでいなくても理解することができる小説になっているようで,そのためにそれが『カラマーゾフの兄弟』とどういった関係性を有しているのかということを説明するために,『カラマーゾフの兄弟』だけに関係したような言説も含まれています。そうした部分の中には,僕の関心を惹き,なおかつそれについて僕が何かをいうことができる事柄があります。なのでそうした部分については,これから何回かに分けて,僕自身から書いていくことにします。
 全体的にいうとかなり難解な内容が多く含まれています。僕自身も十分に内容を理解していると自信をもっていうことはできません。そう簡単に読むことができるような本ではないといっておきましょう。

 スピノザが,理性ratioが聖書に従属するべきだと主張する人びとを懐疑論者scepticiと批判し,聖書が理性に従属するべきだと主張する人びとを独断論者dogmaticiと批判したのは,あくまでも個人の倫理に照合させたものです。ですがこれはそのまま政治体制に適用が可能です。つまりスピノザは,懐疑論的な政治体制は否定し,それと同時に独断論的な政治体制も否定するのです。このうち,独断論的な政治体制を否定するのは,ネグリAntonio Negriが主張する政治体制を否定するということです。そしてここには,倫理的に正しくはあるけれど非現実的であるという意味も含まれているのであり,このことは個人的な倫理にも適用できると僕は考えます。要するに,能動actioが倫理的に正しく,受動passioは倫理に反するのですが,能動だけを現実的に存在する人間に要求することは,非現実的なのです。なのでこの点は倫理学と政治学との間に乖離はみられません。一方,懐疑論者が否定されるのは,受動を推奨しているのと同じであり,これは倫理的に正しくないからです。これは,倫理学であろうと政治学であろうと変わるところはありません。ですからこの面でもスピノザの倫理学と政治学との間に,乖離が存在していないということができるでしょう。
 このような解釈の下に,僕は今はスピノザの倫理学と政治学,あるいは『エチカ』と『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』および『国家論Tractatus Politicus』の間に,著しい乖離があるわけではないという解釈を採用しています。そこでこの解釈の下に,そこからどのような政治体制が,倫理的な面から,つまり『エチカ』を礎としたときに,適切な政治体制といえるのかということを考察していきます。ネグリが目指しているような政治体制が非現実的で独断論的であるというなら,独断論に陥らず,しかし懐疑論的でもない,そして現実的な政治体制というものが,そこから導かれるのでなければならないでしょう。
 こうしたことが検討されているのは『国家論』であると僕は考えます。ただスピノザが示しているのは,実は倫理に見合うような政治体制というのは,政治体制そのものに還元することができないということだと僕は解しています。これは方法論的に解決されなければならないのです。
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