スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

対抗戦時代&個物の消滅

2011-08-09 18:36:39 | NOAH
 長州力を筆頭とするジャパンプロレス勢が全日本プロレスのマットに上がるようになってから,全日本プロレスの試合は全日本勢とジャパンプロレス勢の対抗戦という色合いが濃くなりました。本格的な参戦は1985年の正月からで,これが1987年のピンチで終了しますから,およそ2年間のことであったわけです。
 僕はプロレスキャリアの初めの頃から,どちらかといえば新日本プロレスよりも全日本プロレスの方が好きでした。それ自体はこの間もとくに変わることはありませんでした。たとえばこの間に長州はPWFの王者になっていますが,これは横浜文化体育館での試合で,この試合はライブで観戦しています。
 ただし,一方で,僕の心が最も全日本プロレスから離れていた時期があったとすれば,それもまたこの対抗戦時代であったことは間違いありません。僕は1987年のピンチの後,天龍が原と組んで鶴田に牙を剥いた時代には,それ以前と同様か,あるいはそれ以前にもまして全日本マットの戦い模様に関心をもつようになりましたから,必ずしもそれまでとは異なった日本人対決に興味を抱けなかったというわけではないのです。しかしなぜかこの全日本とジャパンの対抗戦時代だけは,心が少しだけ離れてしまいました。
 それにはそれだけの理由があったのだろうと思います。ただ,だからといって,この対抗戦時代というものが,全日本プロレスにとっていっかな無駄なことであったと考えているわけではありません。たとえば石川とか大熊とかは,明らかにこの対抗戦時代があったからこそ,一時的にではあれ輝きを放つことができたと思っているからです。ジャパンプロレスとの対抗がなければ,少なくともこの2選手は華がある舞台に立つことはなく,燻っていたのではないでしょうか。そういう意味ではこの対抗戦は全日本の中堅どころを活性化させたという明らかな効果があったと思います。

 現実的に存在するすべての個物に受動が発生するということは,別に第四部定理三に訴えて考えなくとも,次のことから単に明らかになっているともいえます。そしておそらくこの示し方の方が,理解の上では容易なのではないかと思います。
 まず,個物は現実的に存在するならば,あるときに存在することを始め,一定の時間のうちはその存在を持続し,いずれはその現実的存在は消滅します。第二部定義七において,個物は有限で定まった存在であるといわれていますが,有限で定まった存在であるということは,一定の持続のうちに現実的に存在するものであるということを,少なくとも意味として含んでいますから,これは絶対です。
 したがって,現に現実的に存在している個物は,いずれは存在することをやめることになるでしょう。つまり今は現実的に存在していても,いずれは消滅することになります。これはたとえば現在は生きている人間がいずれは死ぬであろうというような意味ですから,とくに説明するまでもなく当然のことだといえます。それではそうした個物の消滅というのが,消滅するその個物に対してどのように与えられるのかといえば,これは第三部定理四により,現実的に存在しているその個物にとって外部の原因によって与えられます。いい換えれば,どんな個物も,それが消滅する原因は,その個物の本性のうちにあるのではなく,その個物にとっての外部にあるわけです。よって,現実的に存在するどんな個物も,それ自身が十全な原因となってその存在を消滅するということはありません。むしろ部分的原因として消滅するのです。いい換えれば,現実的に存在するどんな個物も,能動的に存在の持続を停止することはなく,受動的にでなくては現実的存在の持続を停止しないということになります。
 このことから分かるように,現実的に存在する個物に受動は発生しないと主張することは,現実的に存在するどんな個物もその存在を停止しないと主張することにほかなりません。これは第二部定義五からも明らかなことだといえると思います。しかるにこの主張は,現に生きている人間は死なないであろうと主張していることと同じですから,それ自体で不条理であるといえます。したがって,現実的に存在するどんな個物にも,必ず受動は発生するということになります。
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