新潟市で指された昨日の第4期清麗戦五番勝負第二局。
里見香奈女流四冠の先手で5筋位取り中飛車。加藤桃子清麗の居飛車穴熊に対して先手が急戦を仕掛ける将棋から一進一退の攻防。ところが後手に大きなミスが出て急に決着しました。
第1図から☖2三銀と引きましたがこれが大ポカ。☗2二銀☖1二王☗2四角成☖同銀☗同香で後手玉は必至です。
第2図から☖7九角☗6八銀と銀を使わせることはできるのですが,後手の飛車が1筋に効いているため,打ち歩詰めはなく,むしろその飛車を取ることができるのでやはり必至は解除されていません。☗6八銀の局面で15分考えて,後手の投了となっています。
戻って第1図では☗2二銀を打たせないような受けが必要で,そう受けておけばまだ将棋は続いていましたし,どちらが勝つかは分からなかったでしょう。☖2三銀は後手が持ち時間をかなり残していた中でノータイムで指されていますから,うっかりがあったとはいえ軽率だったといわれて仕方がないようにも思います。
里見四冠が連勝。第三局は来月3日に指される予定です。
第4章に関連する考察はここまでにして,次の考察に移ります。
『スピノザ〈触発の思考〉』の第5章は,イギリス人政治哲学者であり政治思想史家であるバーリンIsaiah Berlinに関連する論考が中心になっています。バーリンは自由libertasの概念notioを積極的自由と消極的自由に二分化し,消極的自由の価値を擁護したと浅野はいっています。僕はバーリンの思想はよく分かりませんので,この浅野の判断自体の是非も不明です。ですからそれに関連した考察はしません。この章の第3節が,スピノザの哲学における自由論の考察に充てられていて,この部分だけを考察します。というか,僕はそこで浅野がいっていることに異議があるわけではありません。むしろこの部分は,スピノザの哲学における自由論の探求としてきわめて優れていると思いますので,その部分をここでも要約するような形で紹介しておきたいのです。僕はこれまで,スピノザの哲学における意志voluntasという概念については詳しく探求したことがありましたが,自由についてはそれをしたことがなかったからです。
スピノザの哲学において自由を考えるとき,まず最初に考えておかなければならないのは第一部定義七です。これが自由の定義Definitioであるからです。
この定義で自由であるものと自由でないものとを分かつのは,それ自身によって決定されるか,それともほかのものによって決定されるかということです。そして前者は自由といわれ,後者は強制されるといわれるのです。これでみれば,強制coactusが自由の対概念であることになり,そのこと自体は間違っているわけではありません。ただしそのとき,自由の剥奪が強制である,あるいは同じことですが,何ものかに対してあることを強制するということは,その何ものかから自由を剥奪するということである,というように解すると,それ自体は誤りerrorではないにしても,スピノザが定義しようとしている自由の何たるかについて誤解をしてしまう危険があります。これはそもそもスピノザが,自由という概念と意志という概念とを結びつけて考えていないということに関係します。つまり自由の剥奪というのは,自由な意志の剥奪ということを意味しているわけではないのです。
里見香奈女流四冠の先手で5筋位取り中飛車。加藤桃子清麗の居飛車穴熊に対して先手が急戦を仕掛ける将棋から一進一退の攻防。ところが後手に大きなミスが出て急に決着しました。
第1図から☖2三銀と引きましたがこれが大ポカ。☗2二銀☖1二王☗2四角成☖同銀☗同香で後手玉は必至です。
第2図から☖7九角☗6八銀と銀を使わせることはできるのですが,後手の飛車が1筋に効いているため,打ち歩詰めはなく,むしろその飛車を取ることができるのでやはり必至は解除されていません。☗6八銀の局面で15分考えて,後手の投了となっています。
戻って第1図では☗2二銀を打たせないような受けが必要で,そう受けておけばまだ将棋は続いていましたし,どちらが勝つかは分からなかったでしょう。☖2三銀は後手が持ち時間をかなり残していた中でノータイムで指されていますから,うっかりがあったとはいえ軽率だったといわれて仕方がないようにも思います。
里見四冠が連勝。第三局は来月3日に指される予定です。
第4章に関連する考察はここまでにして,次の考察に移ります。
『スピノザ〈触発の思考〉』の第5章は,イギリス人政治哲学者であり政治思想史家であるバーリンIsaiah Berlinに関連する論考が中心になっています。バーリンは自由libertasの概念notioを積極的自由と消極的自由に二分化し,消極的自由の価値を擁護したと浅野はいっています。僕はバーリンの思想はよく分かりませんので,この浅野の判断自体の是非も不明です。ですからそれに関連した考察はしません。この章の第3節が,スピノザの哲学における自由論の考察に充てられていて,この部分だけを考察します。というか,僕はそこで浅野がいっていることに異議があるわけではありません。むしろこの部分は,スピノザの哲学における自由論の探求としてきわめて優れていると思いますので,その部分をここでも要約するような形で紹介しておきたいのです。僕はこれまで,スピノザの哲学における意志voluntasという概念については詳しく探求したことがありましたが,自由についてはそれをしたことがなかったからです。
スピノザの哲学において自由を考えるとき,まず最初に考えておかなければならないのは第一部定義七です。これが自由の定義Definitioであるからです。
この定義で自由であるものと自由でないものとを分かつのは,それ自身によって決定されるか,それともほかのものによって決定されるかということです。そして前者は自由といわれ,後者は強制されるといわれるのです。これでみれば,強制coactusが自由の対概念であることになり,そのこと自体は間違っているわけではありません。ただしそのとき,自由の剥奪が強制である,あるいは同じことですが,何ものかに対してあることを強制するということは,その何ものかから自由を剥奪するということである,というように解すると,それ自体は誤りerrorではないにしても,スピノザが定義しようとしている自由の何たるかについて誤解をしてしまう危険があります。これはそもそもスピノザが,自由という概念と意志という概念とを結びつけて考えていないということに関係します。つまり自由の剥奪というのは,自由な意志の剥奪ということを意味しているわけではないのです。