スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

お~いお茶杯王位戦&独断論

2022-07-01 19:23:57 | 将棋
 6月28日と29日に犬山市で指された第63期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太王位が13勝,豊島将之九段が10勝。
 振駒で豊島九段が先手となって角換わり相腰掛銀。先手の研究手順に進み,後手の藤井王位が途中で正確な対応を欠くという将棋になりました。
                                        
 第1図では☖2五同歩と取った方が,後手としては均衡を保ちやすかったようです。実戦は☖1八香成としましたが,☗3三桂成☖同銀☗2六龍となった局面は,それと比べると均衡を保つのが難しくなっていました。
 豊島九段が先勝。第二局は13日と14日に指される予定です。

 スピノザが生きていた時代には,理性ratioが聖書に従属するべきか,聖書が理性に従属するべきかという観点からの論争がありました。しかしスピノザはそのどちらにも与しません。なぜなら,理性は精神の能動actio Mentisで真理veritasを追及するものであるのに対し,聖書はその教えに服従することを求めるものであって,目指しているところが異なるからです。ですから,聖書が理性に従属しなければならないというものではありませんし,逆に理性が聖書に従属しなければならないというものでもありません。むしろ聖書の教えと理性は両立するのです。ですからスピノザは,理性は聖書に従属するべきであると主張する人びとのことを懐疑論者scepticiといって非難するだけでなく,聖書が理性に従属するべきであると主張する人びとのことをも独断論者dogmaticiといって非難するのです。
 ここには重大な意味が含まれています。理性は精神の能動であって,スピノザの倫理的規準に適合するものです。これに対して聖書の教えに従うことは受動passioなのですから,倫理的規準に適合するわけではありません。にもかかわらず,聖書の教えと理性は両立するので,聖書の教えが理性に従属しなくてもよいとスピノザはいっているのです。要するに,能動と受動の差異だけで倫理的規準を判断するべきなのではないということになるでしょう。この場合の倫理的規準というのは敬虔pietasであるか敬虔でないかという点にあるのであって,理性も聖書の教えも共に人を敬虔にさせる,理性は能動によって,聖書の教えは受動によって人を敬虔にさせるから,倫理的規準に適合するとみるべきなのです。
 おそらくこれがそのまま政治理論にも適用させることができるのです。ですから,能動的な愛amorだけによって政治体制を構築しかつその政治体制を継続させることは,倫理的規準には適合します。ただそれは非現実的です。そしてそれは,愛という能動的な感情affectusが,その他のあらゆる感情よりも強い力potentiaであることを要求するからです。このときそれは,聖書が理性に従属するべきであるという考え方に近似するのです。つまり,ネグリAntonio Negriが打ち立てているような政治的実践の理論は,単に非現実的であるのではなく,独断論的なのです。
コメント
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