スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ふるさとカップ&選択の規準

2022-07-31 19:37:34 | 競輪
 弥彦記念の決勝。並びは飯野‐小松崎‐成田の福島,吉田‐平原‐諸橋‐横山の関東,三谷‐荒井の西日本。
 諸橋がスタートを取って吉田の前受け。5番手に三谷,7番手に飯野で周回。残り2周のホームの入口からまず三谷が上昇。ホームで吉田を叩きました。このラインに続いた飯野はコーナーで三谷の外をそのまま上昇し,バックの入口では三谷を叩きました。引いた吉田がすぐさま巻き返していき,打鐘で飯野を叩いて先行。飯野は3番手の諸橋のところに飛びつこうとしましたが,ここは諸橋がホームで守りました。飯野が不発になったので小松崎が自力で発進。引き付けた平原がバックから発進。小松崎は勢いはよかったのですが,平原自身の牽制によって失速。番手の成田が平原にスイッチ。直線は平原と成田,さらに後方からの捲り追い込みとなった三谷と三谷マークの荒井の4人での優勝争い。一番内の平原が成田との競り合いを制して優勝。成田が4分の1車輪差で2着。大外の荒井が4分の1車輪差の3着で三谷が4分の1車輪差で4着。
                                        
 優勝した埼玉の平原康多選手は4月の武雄記念以来の優勝で記念競輪31勝目。弥彦記念は一昨年以来の2勝目。昨年は弥彦記念は開催されていませんので,連覇になります。昨年の記念競輪が開催されていないのは寛仁親王牌が開催されたからですが,それも優勝しています。このレースは選手の格を考えると飯野の先行が有力でしたが,並びからすると吉田の先行もあり得るところで,吉田がどういうレースをするのかも注目でした。結果的に吉田が後ろを引き出すような早めの先行になったので,平原に有利な展開に。この展開なら平原と諸橋で優勝争いになりそうなところでしたが,バラバラのラインでの決着になったのは,小松崎が頑張ったからだということになるでしょう。

 現実的に存在する人間は飢えと渇きと等距離にある食料だけを表象するimaginariなら,いずれかの食料を選択して餓死を免れます。なぜならそれがその人間の現実的本性actualis essentiaであるからです。つまりスピノザの哲学にあっては,等距離にある食料のうちいずれかを選択するのは,その人間の自由意志voluntas liberaによるのではなく,その人間の現実的本性あるいは同じことですがその人間のコナトゥスconatusによるのです。つまりここでは選択の規準が,自由意志から現実的本性へと移されていることになります。そしてこのことがスピノザの哲学では一般的に成立します。すなわち人間が何かを選択する場合には,その人間は自由意志によってそれを選択しているのではなく,現実的本性によって選択しているのです。
 人間の現実的本性は,その人間が能動的である場合は第四部定義八によって徳virtutemといわれ,その人間が受動的であるときは第三部諸感情の定義一によって欲望cupiditasといわれます。よって人間が何かを選択するのがコナトゥスあるいは現実的本性によるというのは,人間は自由意志によって何かを選択するというわけではなく,その人間が能動的である限りにおいては徳によって選択し,受動的である限りにおいては欲望によって選択しているといっているのと同じです。このとき,徳によって選択する人を賢者といい,欲望によって選択する人を愚者ということには,一定の理があります。というのもスピノザの哲学の倫理の規準は,能動actioと受動passioの差異にあるからです。ただしこれをいうなら注意しておかなければならないことがあります。この場合には賢者といわれる人間と愚者といわれる人間が別個に存在すると解してはなりません。むしろ同じ人間があるときには賢者として選択し,また別のときには愚者として選択すると解さなければならないのです。第四部定理四系によって,常に賢者であることができる人間は現実的には存在しないからです。よってこの場合にも,賢者と愚者,すなわち徳と欲望だけですべてを判断するのはあまりよろしくないと僕は考えます。徳による選択と同じ選択を欲望によってする限りでは,その人間は敬虔pietasであるといわれるべきであり,そちらを重視するべきでしょう。
コメント
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