スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑱-2&最終形態

2022-07-17 19:22:32 | ポカと妙手etc
 ⑱-1の第2図は,先手が☗8四飛と後手の飛車を取ることができる局面になっています。さらに,その飛車を取った手が後手の馬に当たることになります。第1図ですぐにそう指すかどうかとは関係なく,もしも先手が☗8四飛と指したときは,後手は必ず☖7八馬と金を取ることになります。したがって,☗8四飛と指せば当然ながら後手が指す番になりますが,後手の指し手は決まっているので,選択肢があるのは先手の方です。要するに先手が☗8四飛と指したときの実質的な手番は先手にあるということです。
 そこで,⑱-2の第1図ですぐに先手が☗8四飛と飛車を取ったと仮定しましょう。当然ながら後手は☖7八馬と指します。
                                        
 この局面で先手玉は詰めろにはなっていません。もしも第1図が後手の手番なら☖3八金と打つ手が最も厳しく,先手玉はほぼ受けることができなくなります。
 よって第1図で先手が勝つための条件は,後手玉に対して王手か詰めろを連続で指し,そのまま後手玉を受けなしに追い込むか,それが無理であるなら一旦は受けに回るかのどちらかです。この将棋は実際には第1図には進まなかったのですが,第1図でこの条件の下に先手が勝ちになる順があるのかどうかを考えておかなければならないのです。

 民主主義という政治形態は,政治体制の最終形態ではありません。そしてスピノザがいう方法論が導入されていないなら,政治体制の最高形態でもないのです。その場合は民主主義という政治体制は,容易に貴族制という政治体制へと変容してしまうでしょう。もちろんそのように変容した貴族制が,民主制よりもよい政治体制であるということではありません。この変容の過程で方法論が導入されるということは考えにくいので,民主制の方がよい政治体制であるといわなければなりません。しかしこの事実から,民主制が最終的な政治体制の形態でないということは明白だといえるでしょう。それどころか『国家論Tractatus Politicus』の第六章第四節では,民主主義体制の国家Civitasほど長続きしなかった国家はないし,民主主義体制の国家ほど,反乱の多い国家もないという主旨のことがいわれているのです。
 上述のことがいわれている文脈の全体はしかし,民主主義の政治体制を擁護するようなものになっています。というのはこの文脈では,平和paxということが何を意味するのかということが中心になっているからです。これは『スピノザ〈触発の思考〉』でも触れられている観点ですので,スピノザの政治論のこの箇所における最後の考察として,その点を探求することにします。
 人類の歴史は,君主制の国家の方が,平和と和合のためには有益であると教えているようだとスピノザはいいます。しかしそれはスピノザからすれば,平和とか和合といった事柄を,どのような概念notioとして認識するcognoscereべきなのかということの誤りerrorによって生じてくる発想です。ある国家の中で著しい変化が生じないとか,反乱が生じないといったことは,スピノザによれば平和を意味するのではありません。むしろそれが平和であるとすれば,平和ほど人間にとって惨めなものはないのです。なぜならこの平和は,国民の隷属servitusと君主の野蛮さによって達成される平和にすぎないからです。いい換えれば,平和とは,戦争の欠如を意味するのではありません。もっと積極的な何かを意味するのです。
 なお,スピノザのこの部分の主張は,訳者である畠中尚志によれば,ホッブズThomas Hobbesの平和観に対する駁論とのことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする