25日に指された第70期王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は豊島将之九段が1勝,大橋貴洸六段が0勝。
振駒で豊島九段の先手。早々に角道を止めて左美濃風に組んだ後手の大橋六段が,4三の金を前線に繰り出していくという力戦の相居飛車。その金が先手の角と交換になりましたから,後手の作戦としてはまずまずだったのではないかと思います。
この局面で先手には☗2三歩と打つ狙いがあります。それを☖同銀と取るのは☗6二金☖同玉☗4一飛成で後手陣は崩壊。なので☖3三角と逃げることになりますが,☗4三金と打たれてやはり後手が厳しくなります。なので後手はそれを受ける必要があります。
実戦は☖4二歩と打ちましたが,これは感想戦で後手がよくなかったと悔いていました。対局中は☖5二金も考えていたようです。
AIは☖1二角と打つ手も指摘していました。これは後手の飛車が動くと先手の飛車に当たるという手ではありますが,第1図でそう打ったとして次に後手が☖3七飛成としても,☗同桂で4五の飛車にひもがつきます。なので先手はすぐに受ける必要はありません。よって後手としても☖1二角は打ちにくいというか浮かびにくい手のように思います。
豊島九段が勝って挑戦権を獲得。第62期以来となる2度目の五番勝負出場。第一局は来月の31日に指される予定です。
飢えと渇き,等距離にある同一の食料だけを表象するimaginari人間が,自由意志voluntas liberaがないがゆえに餓死するのであれば,そういう人間を驢馬というべきか人間というべきか知らないとスピノザがいうのは,この点に関しては人間であろうと驢馬であろうと同一であるという意味です。他面からいえば,もしそのようにいうことで,人間には自由意志がないということを肯定してもらえるのであれば,それで構わないとスピノザはいっていると解するのがよいと思います。
この文脈の中でスピノザは,自殺するような人間やひとりでは何もできないような子ども,愚者や狂人などを何というべきか,つまり人間といっていいのかどうか知らないように,自由意志がない人間を人間といっていいのかどうか知らないように,こうした人間を驢馬というべきか人間であるというべきか知らないという主旨のことをいっています。これはこの部分だけをみると,たとえば賢者といわれるような人間を愚者などから切り離しているようにみえるかもしれません。いい換えれば,自由意志があるのが賢者であって,それ以外の人間には自由意志はないというようにいっているようにみえるかもしれません。またスピノザは,そのように誤読されることを予想してそのように記述したかもしれません。ですがそれは文字通りに誤読なのであって,賢者であろうと愚者であろうと,自由意志はないということでは同じですし,それはたとえ驢馬であろうと同じなのです。
しかしスピノザの哲学からすると,飢えと渇きと等距離にある同一の食料だけを表象する人間は,自由意志をもたないがゆえに餓死するということはありません。それはもちろんその人間が賢者であろうと愚者であろうと同様です。なぜなら,第三部定理七によれば,各々のものが自己の有esse perseverareに固執するconaturことはそのものの現実的本性actualem essentiamであるからです。つまり,飢えと渇きを表象しているのにそれを癒そうとしないことは,その人間の現実的本性に反することだからです。なのでそうした人間が,等距離にある同一の食料を表象したなら,その人間の現実的本性によって,いずれかの食料を選択し,飢えと渇きを癒す,餓死を免れることになるのです。
振駒で豊島九段の先手。早々に角道を止めて左美濃風に組んだ後手の大橋六段が,4三の金を前線に繰り出していくという力戦の相居飛車。その金が先手の角と交換になりましたから,後手の作戦としてはまずまずだったのではないかと思います。
この局面で先手には☗2三歩と打つ狙いがあります。それを☖同銀と取るのは☗6二金☖同玉☗4一飛成で後手陣は崩壊。なので☖3三角と逃げることになりますが,☗4三金と打たれてやはり後手が厳しくなります。なので後手はそれを受ける必要があります。
実戦は☖4二歩と打ちましたが,これは感想戦で後手がよくなかったと悔いていました。対局中は☖5二金も考えていたようです。
AIは☖1二角と打つ手も指摘していました。これは後手の飛車が動くと先手の飛車に当たるという手ではありますが,第1図でそう打ったとして次に後手が☖3七飛成としても,☗同桂で4五の飛車にひもがつきます。なので先手はすぐに受ける必要はありません。よって後手としても☖1二角は打ちにくいというか浮かびにくい手のように思います。
豊島九段が勝って挑戦権を獲得。第62期以来となる2度目の五番勝負出場。第一局は来月の31日に指される予定です。
飢えと渇き,等距離にある同一の食料だけを表象するimaginari人間が,自由意志voluntas liberaがないがゆえに餓死するのであれば,そういう人間を驢馬というべきか人間というべきか知らないとスピノザがいうのは,この点に関しては人間であろうと驢馬であろうと同一であるという意味です。他面からいえば,もしそのようにいうことで,人間には自由意志がないということを肯定してもらえるのであれば,それで構わないとスピノザはいっていると解するのがよいと思います。
この文脈の中でスピノザは,自殺するような人間やひとりでは何もできないような子ども,愚者や狂人などを何というべきか,つまり人間といっていいのかどうか知らないように,自由意志がない人間を人間といっていいのかどうか知らないように,こうした人間を驢馬というべきか人間であるというべきか知らないという主旨のことをいっています。これはこの部分だけをみると,たとえば賢者といわれるような人間を愚者などから切り離しているようにみえるかもしれません。いい換えれば,自由意志があるのが賢者であって,それ以外の人間には自由意志はないというようにいっているようにみえるかもしれません。またスピノザは,そのように誤読されることを予想してそのように記述したかもしれません。ですがそれは文字通りに誤読なのであって,賢者であろうと愚者であろうと,自由意志はないということでは同じですし,それはたとえ驢馬であろうと同じなのです。
しかしスピノザの哲学からすると,飢えと渇きと等距離にある同一の食料だけを表象する人間は,自由意志をもたないがゆえに餓死するということはありません。それはもちろんその人間が賢者であろうと愚者であろうと同様です。なぜなら,第三部定理七によれば,各々のものが自己の有esse perseverareに固執するconaturことはそのものの現実的本性actualem essentiamであるからです。つまり,飢えと渇きを表象しているのにそれを癒そうとしないことは,その人間の現実的本性に反することだからです。なのでそうした人間が,等距離にある同一の食料を表象したなら,その人間の現実的本性によって,いずれかの食料を選択し,飢えと渇きを癒す,餓死を免れることになるのです。