カーンの雑感⑨から分かるように,カーンはジャンボ・鶴田に対しては批判的です。カーンがこの話をしたとき,すでに鶴田は死んでいました。それでもこのような発言をしたのですから,よほど鶴田のプロレスをカーンは嫌っていたのでしょう。鶴田は馬場が敷いたレールの上を歩いただけのレスラーだというのが,カーンの鶴田に対する総評です。鶴田のプロレスではアメリカでは通用しなかったであろうとカーンは話しています。ただ鶴田はAWAのチャンピオンとしてアメリカをサーキットしていますから,適応しようと思えばできたのではないかと僕は思います。
そしてカーンがもうひとり,嫌っていたのが長州力です。カーンは⑧で明かされているように,永源遥に脅迫されたという理由があったとはいえ,長州とともに全日本プロレスで仕事をするようになりました。しかし途中で長州を裏切り,敵対するようになりました。このストーリー自体はカーン自身のアイデアだったといいます。そしてそれはカーンの長州に対する感情面が大きく左右していました。長州はアメリカでは飯を食うこと,つまりプロレスラーとして稼ぐことができず,カーンの家に転がり込んでカーテンにくるまって寝ていたような時期があったそうで,それなのにジャパンプロレスで長州の下で仕事をするのは嫌だったそうです。
ただしカーンはこの件について,長州の了解は得ていたそうです。長州とカーンで抗争をして,外国人選手に頼らずに観客を呼ぼうという名目で,カーンが裏切ることを長州に伝えると,長州は快諾。それでカーンはカルガリーハリケーンズと結託して,長州とも戦うようになりました。このときカーンは人種差別主義者のギミックを使いましたが,これは馬場に何か考えろと言われてやったことだそうです。
この一件が,外国人選手を不要にしようという動機から始まっているのには理由がありました。それはギャラの問題です。
理性ratioすなわち精神の能動actio Mentisが,何であれ外部の目的finisに対して従属しなければならない国家Imperiumの支配体制は,スピノザの哲学によって否定されます。したがってこれは,その国家の政治体制がどうであるのかということとは関係ありません。一例として挙げたアフガニスタンのタリバンによる政権についていえば,それはイスラム原理主義に対して理性が従属しなければならないがゆえにスピノザは否定するのであって,タリバンが軍事的な力によって政権を奪取したがゆえに否定されるのではないのです。いい換えれば,たとえタリバンが民主的な選挙によって政権を獲得するのであるとしても,理性がイスラム原理主義に従属しなければならないのであれば,同様にスピノザはそれを否定します。要するに政権の獲得の仕方がどうあるのかということや,政権の体制がどのようなものであるのかということは,懐疑主義的国家をスピノザが否定するnegareこととは無関係です。そしてそれは逆にいえば,たとえ軍事的クーデターによって成立した政権であっても,懐疑主義的国家ではないのであれば,スピノザはその政治体制を肯定するaffirmare場合もあり得るということを意味します。ただこれは,『国家論Tractatus Politicus』での主張を具体的にどのように解するべきかということの検討の中で詳しく明らかにします。
『エチカ』の倫理は能動的であることにあるのですが,現実的に存在する人間に対して全面的な能動を要求するのは非現実的だという観点からこの考察は開始されています。そこで,たとえ受動的であったとしても,能動的であるかのように振る舞うこと,それが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では敬虔pietasといわれているのですが,その敬虔さが,現実的な倫理的な規準として要求されるようになるということが,僕の見解opinioです。そして個人に求められるこの規準が,そのまま国家にも求められることになると僕は解します。これによって倫理学と政治学との間にあるようにみえる乖離は解消されるからです。したがって,スピノザの倫理的な規準に現実的な意味で合格する国家は,敬虔である国家ということになるでしょう。そして国家が敬虔であるとは,その国家で生きる市民Civesが,敬虔であるという意味になります。
そしてカーンがもうひとり,嫌っていたのが長州力です。カーンは⑧で明かされているように,永源遥に脅迫されたという理由があったとはいえ,長州とともに全日本プロレスで仕事をするようになりました。しかし途中で長州を裏切り,敵対するようになりました。このストーリー自体はカーン自身のアイデアだったといいます。そしてそれはカーンの長州に対する感情面が大きく左右していました。長州はアメリカでは飯を食うこと,つまりプロレスラーとして稼ぐことができず,カーンの家に転がり込んでカーテンにくるまって寝ていたような時期があったそうで,それなのにジャパンプロレスで長州の下で仕事をするのは嫌だったそうです。
ただしカーンはこの件について,長州の了解は得ていたそうです。長州とカーンで抗争をして,外国人選手に頼らずに観客を呼ぼうという名目で,カーンが裏切ることを長州に伝えると,長州は快諾。それでカーンはカルガリーハリケーンズと結託して,長州とも戦うようになりました。このときカーンは人種差別主義者のギミックを使いましたが,これは馬場に何か考えろと言われてやったことだそうです。
この一件が,外国人選手を不要にしようという動機から始まっているのには理由がありました。それはギャラの問題です。
理性ratioすなわち精神の能動actio Mentisが,何であれ外部の目的finisに対して従属しなければならない国家Imperiumの支配体制は,スピノザの哲学によって否定されます。したがってこれは,その国家の政治体制がどうであるのかということとは関係ありません。一例として挙げたアフガニスタンのタリバンによる政権についていえば,それはイスラム原理主義に対して理性が従属しなければならないがゆえにスピノザは否定するのであって,タリバンが軍事的な力によって政権を奪取したがゆえに否定されるのではないのです。いい換えれば,たとえタリバンが民主的な選挙によって政権を獲得するのであるとしても,理性がイスラム原理主義に従属しなければならないのであれば,同様にスピノザはそれを否定します。要するに政権の獲得の仕方がどうあるのかということや,政権の体制がどのようなものであるのかということは,懐疑主義的国家をスピノザが否定するnegareこととは無関係です。そしてそれは逆にいえば,たとえ軍事的クーデターによって成立した政権であっても,懐疑主義的国家ではないのであれば,スピノザはその政治体制を肯定するaffirmare場合もあり得るということを意味します。ただこれは,『国家論Tractatus Politicus』での主張を具体的にどのように解するべきかということの検討の中で詳しく明らかにします。
『エチカ』の倫理は能動的であることにあるのですが,現実的に存在する人間に対して全面的な能動を要求するのは非現実的だという観点からこの考察は開始されています。そこで,たとえ受動的であったとしても,能動的であるかのように振る舞うこと,それが『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では敬虔pietasといわれているのですが,その敬虔さが,現実的な倫理的な規準として要求されるようになるということが,僕の見解opinioです。そして個人に求められるこの規準が,そのまま国家にも求められることになると僕は解します。これによって倫理学と政治学との間にあるようにみえる乖離は解消されるからです。したがって,スピノザの倫理的な規準に現実的な意味で合格する国家は,敬虔である国家ということになるでしょう。そして国家が敬虔であるとは,その国家で生きる市民Civesが,敬虔であるという意味になります。
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