木更津市で指された昨日の第93期棋聖戦五番勝負第三局。
藤井聡太棋聖の先手で角換わり相腰掛銀。互いの研究範囲の進行となり,短時間でかなり緊迫した局面となりました。
この局面で後手の永瀬拓矢王座の手が止まり,長考に沈みました。この手は研究の範囲外であったのでしょう。☖3三桂と逃げたのですが,これはあまり良い対応ではなく,これ以降は挽回するのが困難な差がついてしまったようです。
第1図で☖7四金と取ったり☖8五桂と跳ねたりすると,大決戦になる可能性があり,その場合は後戻りができなくなりかねません。先手は研究で第1図に進めているので,そうなっても大丈夫という裏付けはあったのでしょう。なので研究範囲外の後手としては,よほど成算がない限りそうした手順には進めにくくなります。そのために実戦はバランスを崩すことになってしまったのでしょう。
先手がどういう意図で第1図に進めたのかは分かりません。ただ,ある局面で有力な手がいくつかあるとき,どれが自分にとって最も良いかということだけではなく,相手の研究範囲から外れていそうな手はどれかという観点から指し手を決定することも,現在のトップクラスの将棋においては,勝つためには重要なことなのかもしれません。
藤井棋聖が勝って2勝1敗。第四局は17日に指される予定です。
これでスピノザが示す倫理的な規準に適合する国家Imperiumというのがいかなるものであるのかということは理解できるでしょう。それは,国家の支配体制が,市民Civesを敬虔pietasにさせるようなものであるということです。ただし,現実的に存在する人間は,能動的でありさえすれば,いい換えれば理性ratioに従っている限りでは敬虔であることができるのですから,市民を敬虔にさせる支配体制というのは,市民を受動passioによって敬虔にさせるということだけを意味するのではありません。すでに示したように,理性が何かほかのものに従属しなければならないような支配体制を有する国家は,懐疑主義的な国家といわれるべきであり,これは支配体制がどうあるのかということとは無関係に,スピノザの倫理的規準に適合しないのです。
では支配体制がどのようなものであれば,市民が敬虔になりやすいのかとスピノザが考えているのかといえば,ごく単純にいえば,政治に参加する人間の数が多いほど,市民は敬虔になりやすいということであると僕は解釈しています。このことはそんなに難しく考えなくて構いません。政治的なことに対して関与する人間が多くなれば,政治的な事柄に対して能動的に対処する人間の数もそれだけ多くなると考えられます。つまり単純に割合だけでいっても,能動的に政治に関与する人間の数は増加するでしょう。そしてその一定の割合の人間はすべて,第四部定理三七により,自身が希求している善bonumをほかの人,つまりほかの市民に対しても求めることになるでしょう。よってそうした人は,ほかの市民が能動的に行動するようにするか,あるいは受動であっても能動的であるかのように行動するように導くでしょう。いい換えればほかの市民が敬虔であるように政治に関与することになるでしょう。なので,政治的な事柄に関与する人間の数が多いほど,その国家は敬虔な国家になりやすい,いい換えれば市民が敬虔でありやすいということになるのです。ただし,前もっていっておくと,この人間の数というのは,上述したような,単純に政治に関与する人間の数ということだけを意味するのではありません。ここにはこの意味とは別の意味も含まれています。
藤井聡太棋聖の先手で角換わり相腰掛銀。互いの研究範囲の進行となり,短時間でかなり緊迫した局面となりました。
この局面で後手の永瀬拓矢王座の手が止まり,長考に沈みました。この手は研究の範囲外であったのでしょう。☖3三桂と逃げたのですが,これはあまり良い対応ではなく,これ以降は挽回するのが困難な差がついてしまったようです。
第1図で☖7四金と取ったり☖8五桂と跳ねたりすると,大決戦になる可能性があり,その場合は後戻りができなくなりかねません。先手は研究で第1図に進めているので,そうなっても大丈夫という裏付けはあったのでしょう。なので研究範囲外の後手としては,よほど成算がない限りそうした手順には進めにくくなります。そのために実戦はバランスを崩すことになってしまったのでしょう。
先手がどういう意図で第1図に進めたのかは分かりません。ただ,ある局面で有力な手がいくつかあるとき,どれが自分にとって最も良いかということだけではなく,相手の研究範囲から外れていそうな手はどれかという観点から指し手を決定することも,現在のトップクラスの将棋においては,勝つためには重要なことなのかもしれません。
藤井棋聖が勝って2勝1敗。第四局は17日に指される予定です。
これでスピノザが示す倫理的な規準に適合する国家Imperiumというのがいかなるものであるのかということは理解できるでしょう。それは,国家の支配体制が,市民Civesを敬虔pietasにさせるようなものであるということです。ただし,現実的に存在する人間は,能動的でありさえすれば,いい換えれば理性ratioに従っている限りでは敬虔であることができるのですから,市民を敬虔にさせる支配体制というのは,市民を受動passioによって敬虔にさせるということだけを意味するのではありません。すでに示したように,理性が何かほかのものに従属しなければならないような支配体制を有する国家は,懐疑主義的な国家といわれるべきであり,これは支配体制がどうあるのかということとは無関係に,スピノザの倫理的規準に適合しないのです。
では支配体制がどのようなものであれば,市民が敬虔になりやすいのかとスピノザが考えているのかといえば,ごく単純にいえば,政治に参加する人間の数が多いほど,市民は敬虔になりやすいということであると僕は解釈しています。このことはそんなに難しく考えなくて構いません。政治的なことに対して関与する人間が多くなれば,政治的な事柄に対して能動的に対処する人間の数もそれだけ多くなると考えられます。つまり単純に割合だけでいっても,能動的に政治に関与する人間の数は増加するでしょう。そしてその一定の割合の人間はすべて,第四部定理三七により,自身が希求している善bonumをほかの人,つまりほかの市民に対しても求めることになるでしょう。よってそうした人は,ほかの市民が能動的に行動するようにするか,あるいは受動であっても能動的であるかのように行動するように導くでしょう。いい換えればほかの市民が敬虔であるように政治に関与することになるでしょう。なので,政治的な事柄に関与する人間の数が多いほど,その国家は敬虔な国家になりやすい,いい換えれば市民が敬虔でありやすいということになるのです。ただし,前もっていっておくと,この人間の数というのは,上述したような,単純に政治に関与する人間の数ということだけを意味するのではありません。ここにはこの意味とは別の意味も含まれています。
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