スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

徳とコナトゥス&方法との関係

2022-07-16 19:20:51 | 哲学
 フロムErich Seligmann Frommは徳virtusという規範の適用が,あらゆる事物に可能であると考えていて,その根拠として,馬にとっては,自分が人間に変えられたということは,自分が昆虫に変えられたということと同じように破壊的なことであるという主旨のスピノザのことばを援用しています。スピノザがその文脈で何をいわんとしたかは別に,この言明自体がスピノザの哲学の全体の中で何を意味するのかということの僕の見解opinioを示します。
                                        
 ある事物の本性essentiaなり形相formaなりが,ほかの事物の本性なり形相なりに変じるということはありません。これはその事物の能動actioであろうと受動passioであろうと同様です。他面からいえば,現実的に存在するある事物の本性や形相が,別の本性や形相に変化するということは,その事物が現実的に存在することを停止するというのと同じです。たとえば生命体と死体は別の物体corpus,本性も形相も異なる物体であるとみることは可能で,その場合は生命体は現実的に存在することを停止して死体になったといえるでしょう。同様に木が燃えて炭になるというのは,木は現実的に存在することを停止して炭になったということです。
 こうした本性および形相の変化は,ある事物の本性によって説明することはできません。このことは第三部定理四から明らかですが,第三部定理六からなお明らかであるといえるでしょう。したがって,現実的に馬が存在するなら,その馬は馬としての有esseに固執するperseverareのであって,人間としての有や昆虫としての有に固執することはありません。なので馬が人間に変えられるということは,馬が昆虫に変えられるということと同じように,馬にとっては破壊的なことなのです。
 現実的に存在する馬が馬の有に固執するのは,第三部定理七により,その馬の現実的本性actualis essentiaです。ですから,馬がほかの本性や形相に変えられるということは,馬の徳に反するというわけではなく,馬の現実的本性に反するのです。あるいは同じことですが,馬のコナトゥスconatusに反するのです。
 徳とコナトゥスはその一部が重なるということを僕は認めます。しかし徳はコナトゥスの一部なのであって,コナトゥスは徳よりも広くわたります。その徳より広くわたっている部分でも,馬の本性が人間の本性や昆虫の本性に変えられることは,馬にとって破壊的なことなのです。

 政治的な既得権を保護しようとする人が一定の数に達すると,民主主義が停滞するということは,前に説明した,スピノザが政治体制一般に守られていなければならない方法とも関係しています。もしも任期なしに延々と政治権力の行使を続けることができるとすれば,その人はそれを行使すること自体を既得権とみなし,自身が政治的権力を行使すること自体を保護しようとするからです。このような権力者というのは現代でも存在するのであって,たとえばロシアのプーチンなどはその代表格であるといっていいでしょう。
 一方,政治権力を行使する立場を離れた人間が,再任されてはならないという原則もこのこととある程度の関係を有します。かつて政治権力を行使する立場にあった人間が,後に同じ立場に立つと,その人間はかつて自分が行使していたのと同じような仕方で政治的権力を行使しようとするからです。このことはおそらく第三部定理三六から,それがどのような人間であったとしても一般的にいうことができると思います。かつて政治的権力を行使したことを想起する人は,また自身がその立場に立つ場合には,それと同じ条件の下で政治的権力を入手しようとするであろうからです。とりわけ政治的権力を行使するということが享楽であった人間,この享楽というのは感情affectusとしていえば愛amorというべきで,政治的権力を自身が行使することに愛を感じていた,あるいは自身が政治的な権力者であるということを愛していた場合には,なおのことこの定理Propositioが成立することになります。一般的に,自身が政治的権力者の立場にあることを愛したり,自身がそうした権力を行使するということを愛することは,国民のすべてを愛するということとは両立し難いですから,その場合は国民の間の分断が生じがちにもなります。ただしこのこと自体は民主主義の停滞とは直接的に関係するわけではありません。よってそうしたことに伴う好ましくない事象というのはこのほかにも生じることになるのですが,それに関してここでは子細に検討することはしません。
 ここまでのことから理解できるように,民主主義体制は,政治的体制の最終形態というわけではないのです。
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