スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

サマーナイトフェスティバル&精神の一致

2022-07-19 19:16:31 | 競輪
 玉野競輪場で争われた昨晩の第18回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは新田‐佐藤の福島,岩本‐和田の千葉,犬伏‐松浦の四国中国,山田‐荒井の佐賀で森田は単騎。
 新田がスタートを取って前受け。3番手に山田,5番手に犬伏,7番手に森田,8番手に岩本で周回。残り3周のバックの出口から岩本がゆっくりと上昇。ホームの出口で新田を叩きました。バックで外から犬伏が発進。和田の後ろに続いていた山田が岩本の内を掬って,3番手に入って打鐘。荒井の後ろで岩本と新田が併走という隊列になりました。バックの入口から新田が捲っていきましたが,前には届かないまま浮いてしまい不発。3番手の山田も上がっていくことができませんでした。脚を溜める形になったのが岩本で,コーナーで山田の外から捲り発進。番手から出た松浦に迫りましたが,うまく牽制した松浦が残して優勝。岩本が4分の1車輪差で2着。不発になった新田の後ろから岩本にスイッチするようなレースとなった佐藤が4分の3車身差で3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は4月の川崎記念以来の優勝。ビッグは昨年のサマーナイトフェスティバル以来の優勝で6勝目。サマーナイトフェスティバルは連覇で2勝目。このレースは犬伏の先行が有力なので,番手を回る松浦を捲ることができる選手がいるかどうかが優勝争いの最大の焦点。脚力上位の新田が不発に終わったのは,新田がまだ本調子にないということもあるでしょうが,犬伏が頑張ったからだということもできるでしょう。岩本が最後は松浦に迫りましたが,これは犬伏のラインがふたりだったので松浦がぎりぎりまで発進を遅らせたからだと思います。それでも岩本は健闘したといえるのではないでしょうか。

 精神mensの一致は,人間が理性ratioに従う限りでの一致を意味すると解してよいでしょう。ところが,第四部定理四系により,現実的に存在する人間は,程度の差はあるにしても,常に受動passioに隷属している,いい換えれば,精神の能動actio Mentisである理性には従っていません。よって,現実的に存在するすべての人間の間で精神が一致するというのは,現実的に生じる事象であるといえませんし,それを要求するということは,不可能なことを要求していることになるので,要求として無意味です。ネグリAntonio Negriが目指している政治体制は,それが非現実的であるという理由によって,あるいは同じことですが,それが独断論的な国家Imperiumなり政治体制であるがゆえに,スピノザによって否定されるのですが,この論理と同一の論理によって,精神の一致を要求することは,非現実的な独断論的要求として否定されなければならないのです。
                                   
 よって,和合を意味する精神の一致というのは,文字通りの精神の一致,すなわち理性に従うことを意味するのではありません。精神が一致しているような状態にある,精神が一致しているのと同じ状態にあるということを意味します。そしてこの意味での和合に必要なのが,人間が敬虔pietasであるということでした。人間は,理性に従うことによって必然的にnecessario敬虔であることができますが,受動によっても敬虔であることができるとスピノザは主張しているからです。というか,スピノザの哲学では,受動でもそうあることができる状態のことを,敬虔ということになっているからです。ここで検討しているのは『国家論Tractatus Politicus』の第六章第四節ですが,直前の第三節では,国家の組織は,すべての人が自発的であれ強制coactusであれ衝動appetitusであれ,理性の命令に従ったのと同じように生活するようになっていなければならないという主旨のことがいわれていて,これはまさに,国家は人びとが敬虔であるように組織されていなければならないといっているのと同じだと解せます。
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』と『国家論』は,考察の対象が違っていますので,『神学・政治論』とは異なり,『国家論』では敬虔は主題化されていません。ただ,基本的にスピノザは同じ路線で考えていることになります。
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