古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

「いのち」はシステム

2017-07-21 | 読書

 

喫茶店d週刊文春の7月13日号を見ていたら、松井孝典さんが住宅履歴を語る文が載っていた。

「梅原(猛)先生の住いは京都の山の登り口にあって、和辻哲郎が住んだ由緒ある家、さらに上にも旧家があって、このころ“上の家が空いたから買わないか。それで日文研に移ってこい”と電話をもらった。「先生、私、家を建てたばかりで、もう一軒買う余裕なんてないですよ」って苦笑い。

哲学者の梅原先生と天文学の松井先生とはそんなに親しい間柄なの?北区図書館で書棚を見ていて「いま、のちを考える」(梅原猛、河合隼雄、松井孝典著、岩波書店1999年)という本を見つけた。

 「絵本・児童文学研究センター」(小樽市)主催で、1998年4月15日行われたシンポジュウムの記録です。第一部は、3先生の講演の記録、第二部は3先生の対談である。

 まず河合先生。「児童文学の中のいのち」を語ります。

 ミヒャエル・エンデの『モモ』は時間がテーマになっていますが、時間ということも、そのままいのちのことを書いているといってもおかしくはない。女の子が生まれてからお母さんになるまでを描いた童話を引用して話しています。

妊娠に関する女性の実感について、自分のなかにあるが、自分のものではない。何か天から降りてきたいのちを、たまたま自分があずからせてもらっているような感覚。「コウノトリが赤ちゃんをh混んできたという説明の方が、私の卵子が夫の精子と結びついてという科学的事実よりよほどしっくりきた」と書かれている。

ヘレンは妊娠していることが完全にわかってきてお母さんに言おうとする。その時に、お母さんの言うセリフが「すごい。「いったい何回したの、え?」

あなたはクリスがどれだけ好きか、どんなふうになったのかではなしに、貴女は何回やったのかという事実だけが知りたい。事実の周りにある真実と言うものをぜんぶ取り払ってしまう。

次は梅原先生の「日本文化の中のいのち」です。

梅原先生は「視点を変える文学」を言う。

結論を言うと、人間中心主義は古い思想です。まして私小説というのは、古い小説としか言えない。視点を変えなければいけない。人間の社会だけでもいけないかもしれない。人間と他の動植物との関係、むしろ、他の動植物から人間を見る。そういう文学が21世紀の文学です。

最後の松井先生の「地球のいのち」

 生命の特徴を一つだけ挙げるとすると、外界と、ものとかエネルギーのやりとりをして、自分を維持している。それが生命というものの本質。難しい言葉で言うと、外とのやりとりをするというのは、閉鎖系でなく、開放系であるということ。そうした過程を通じて、ある動的な平衡状態が維持されているという意味で、非平衡。平衡と言うのは周りと同じになってしまうということですから、生命とは、外界即ち環境と非平衡な関係にあるものです。これを物理、化学的に考えれば、生命の本質はシステムだということになります。システムというのは、簡単に言えば、いくつか構成要素があって、それぞれの間に相互作用があり、その相互作用の結果としてシステムの状態が決まるというものです。

対談ではこう語っています。

梅原 松井さんと話していて教えられるのだけど、人間の歴史も自然史の一部だという、これはたいへんいい視点だと思います。今まで人類はそう考えてこなかったのです。人間の歴史だけ特別だという。

河合 中村圭子さんが生命誌と言っているでしょう。あれも歴史ではないですか。

松井 あれはあえて「史」ではなく「誌」という漢字を使っていることからもわかるように、歴史というより、あらゆるものの関係性を全部含めて考えるということではないですか。彼女が歴史をどう考えているかしらないけれど、生物だけではなくて、地球も人類も宇宙も、それとの関係の中で声明をみていきたいという願望があるのではないか。そのことが史ではなくて誌で、生命誌という考え方になる。