古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

仏教を考える

2016-12-15 | 読書
 『ブツダと法然』なる本が新潮社から出た。筆者は、平岡聡氏、1960年生まれ、京都文教大学学長です。読んでみて、仏教を改めて考えさせられました。
ブツダと法然には共通点がある。それは、<パラダイム・シフト>を行った人であることだと筆者は言う。パラダイムとは、その当時の支配的価値観のこと。それが新たな価値観にとってかわられることが、パラダイム・シフトである。
ブツダのパラダイムシフトを考えてみよう。神に近い存在として仏があるが、仏とは「悟りを開いた人」、だから、神ではなく、基本的に人である。
つまり仏教は、人間の幸不幸を司るのは人間の心と、心に重きを置く。といっても体を蔑にしているわけではない。心の変革は身体を使った修行が必要だとする。また仏教の特徴として、その教えの対象は人間だけに留まらない。動物なども含め、生きとし生けるものすべてに拡大している。このような宗教の存在は、世界の宗教史上、まれである。
一方、法然の「念仏だけで救われる」という教え(<専修>という考え方、パラダイムシフト)は、その後の鎌倉仏教の祖師たちにも大きな影響を与えた。親鸞の信心、道元の只管打座、日蓮の題目などがそうである。
 法然はまさに日本精神史の流れを大きく変えた宗教家だが、鎌倉仏教の祖師で名前が挙がるのは、たいてい親鸞、道元、日蓮の3人が主であり、日本の精神史、宗教史の中で、法然は正しく評価されているとは思えない。
 そこで、本書では比較という手法で、ブツダとの比較で法然の特徴を浮き彫りにして行く。
 2500年前のインドにブツダが、そして900年前の日本に法然が登場し、自らの思想的宗教的立場を表明したことで、従来の宗教の価値観、常識は完全にパラダイムシフトした。
 両者の共通点、誕生日はブツダが4月8日、法然が4月7日。入滅もブツダが2月15日、法然が1月25日、享年はともに80歳。
 ブツダは、神の存在を認めず、冷徹なまでに自己の心の内面と向かい合うことで、苦の根源である無明を発見し、修行によって執着を離れることが一切の苦から解放されるという、あくまで「人間存在」に立脚した仏教と言う宗教を確立した。
 一方、法然は、すべての人間が実践できる行は念仏しかないと見極め、その他の行はすべてなげうち、念仏往生という新境地を開拓した。
 ここでブツダと法然の出家の動機、あるいは求道目的について確認しておこう。結論を急ぐと、二人の出家や求道はあくまで個人的なことが主であり、万人の解脱や凡夫の救済という「利他行」を意図したわけではなかった。その利他行は結果としてそうなったのであり、彼らの当初の目的ではなかった。
 ブツダは悟りを得るまで6年の苦行に身を投じた。法然に至っては、25年引きこもり求道した。
 法然が紡ぎだした「念仏を称えるだけで誰でも極楽往生できる」という専修念仏、あるいは念仏往生の教えは易行道そのものだが、その易行堂を生み出すに至った法然の努力は、ブツダの6年間の苦行に匹敵する難行苦行だった。二人のパラダイムシフトは、この難行苦行の結果が生み出したものだ。