古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

ナマコ博士の「時間論」

2016-09-21 | 読書
ナマコ博士の人生論を以前に紹介したことがあります。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/201604165
そのナマコ博士の新刊がでました。『人間にとって寿命とは何か』(角川新書)です。
その中で「動的平衡論」を語っていました。
福岡ハカセの得意の論をナマコ博士が論じた次第です。
最初に、ナマコハカセ得意の動物の時間論。
 動物の時間は消費エネルギーに比例すると述べています。
近年人間の寿命が延びているのは、エネルギーを使っているからです。
こうして得られた寿命をどう活用するか、それを考える時、そもそも「私」とは何かを考える必要があるという・
福岡ハカセの「生物と無生物の間」では、「動的平衡論」を紹介しました。身体の中の細胞の原子が時々刻々入れ替わっているという話です。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20160418
「私」の身体は、時々刻々といれかわっています。すると、「私」とは何か?ということになりますね。この問題をナマコ博士も論じているのです。
身体の分子がいれかわっているなら、つまり、外界の原子が体の中に流れ込んで、私となるのなら、私と私の存在する外部環境との境界は曖昧です。
曖昧さを避けるために西洋では二つの方法を考えました。
一つは「われ思うゆえにわれあり」。脳だけが我である。だから、脳以外は入れ替えてもかまわない。臓器移植をしても長生きしようという話になる。
もう一つは、利己的遺伝子説。変わることなく、同じものが続いていくのは、遺伝子です。遺伝子が「私」だとみるのです。
一方。ナマコ博士は、「私」を厳密に存在するものと考えずに、「私」とは関係性の中に存在すると考える立場です。以下、「動物にとって時間とはそもそもどのようなものか」という視点から環境問題を論じます。

ナマコ博士の得意は「時間論」。この本でも時間とエネルギー消費について論じています。
http://blog.goo.ne.jp/snozue/d/20160416
結論は、ナマコ博士の人生論と同じく、得意の時間論から。『人間の時間と動物の時間は違う。動物は生殖年齢が終わると寿命が終わるが、人間は生殖年齢が終わった後長い寿命が残されている。この残された寿命において、時間の奴隷状態から解放される。50歳以降、身体は保証期間切れだが、遺伝子そのものも保守時間切れになっているのだから、遺伝子のいうことを聞いている必要はない。遺伝子の奴隷から解放される。おまけの人生です。
 現役時代の役割は自分の子孫を増やすこと。それを可能にする収入を得るために、自分の仕事や会社のことしか考えません。そういう制約から自由になり、社会全体や将来のことをより広く考えられるのがおまけ世代です。
具体的にいうと、おまけの部分は「広い意味での生殖活動」に従事すればよい。生物にとって生殖活動がもっとも重要で、生殖かつっ同ができなくなったからのおまけだが、そこを逆手にとり、お9まけの時間は、自分の子だけでなく、すべての次世代のために働くのです。』
この結論は、納得ですが、結論に至る過程で、「私は喚起性の中にそんざいする」という主張は福岡ハカセの「私の身体が時々刻々入れ替わっている」という論と共通していて興味深い。次の筆圧と学習度と時間の指摘も感服しました。
『レポートや答案を読んでいて、筆圧の高い字を書く学生のものは出来が良いという印象を私は持っています。字の上手下手でなく、筆圧が大切。「私はきちんと理解している。わつぃは断固こう思う」という意思と自信が筆圧に現れていると感じさせられます。
 筆圧が高い字を書くということは、一字一字書くために時間がかかっていることを意味する。』