古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

秀吉の枷

2015-05-25 | 読書
 最近は小説を読んでいない。久しぶりに面白い小説を読んでみたいと、図書館の棚をみていたら、加藤廣著「秀吉の枷(上)」を見つけました。
WIKIで著者を調べたら
『東京大学法学部卒。山一證券に勤務し、経済研究所顧問を経て、2005年に作家としてデビュー。75歳での高齢デビューが話題となった。
作家デビュー以前からビジネス書を著していたが、小説『信長の棺』は日本経済新聞に連載され、当時の小泉純一郎総理が愛読書として挙げたことからベストセラーとなった。大阪経済大学客員教授。』
本能寺の変で死んだ織田信長、遺体が見つからなかった。この一つの事実から作者は想像の羽を広げる。
天正7年、信長は秀吉を呼んである密命を与える。密命とは、本能寺から東の南蛮寺まで秘密の地下道を掘削せよというのだ。本能寺を京の宿舎としたい信長は、万一の事態に備え避難ルートを造ろうと考えたのである。
 さて、この年、秀吉の軍師竹中半兵衛が死ぬ。死に臨んで、秀吉に遺言する。
「殿はあの『覇王』より大きな器の持ち主です。殿はあの『覇王』を早急にお捨てになるか、踏み台として利用されたい」と言うのだ。
 天正10年、本能寺の変、秀吉は諜報を駆使して光秀の謀反を察知する。秀吉は直ちに南蛮寺の地下道の出口をふさぐ工作隊を派遣する。といったストーリーです。
 下巻は、秀吉・家康の対決。本能寺の工作を家康配下の伊賀者に捕まれていたらしい。ことが明らかになることを恐れた秀吉は戦機での判断を誤る小牧長久手の戦いから始まりますが、中心は、もう一つのミステルー、秀頼は秀吉の子だったかを巡ってストーリー展開する。
 天正15年、秀吉は九州遠征であったが、彼の念頭にあったのは、戦の状況でなく、世継ぎにめぐまれるかどうかだけだった。世継ぎを諦めた秀吉の打った手は、皇室からの養子だった。ところが、それを決めた直後、淀の方が心変わりして子を産もうとする。鶴松の誕生で、一旦まとまった皇室との話を白紙に戻すが、その後、鶴松の病死。
 秀吉の小田原攻め(天正18年)の真の目的は、北条攻めではなく、家康の箱根以東への追放であった。しかし北条が降った後、秀吉は江戸、宇都宮、白川と北関東から東北の入り口まで視察して、自分の失敗に気付いた。見渡す限りの関東平野に驚嘆し、今は荒蕪の地だが、開墾が進めば一大宝庫になる。考えが浅かったと悔いる。
 天正19年。1月弟秀長が死ぬ。
宣教師から秀吉への献上品の中に地球儀があった。地球儀を回して明の大陸の右に日本を見出し驚嘆する。日本64州は「犬のふぐり」ほどのおおきさではないか。これが、後の朝鮮戦役のきっかけとなる。利休との確執があった後、8月鶴松が病死。翌日「明を攻める」の宣言。それから殺生関白秀次の事件に入る。
「身内の秀次さまを排してまで不倫の明々白々な子、」拾い君を跡継ぎに選ばれたか。
太閤は秀次の乱行は、痘瘡(性病)で頭が犯されたと誤解した。真実は鉛を盛られた中毒で、それは淀の方の陰謀であった。
醍醐の花見で、最後を飾ったが、その後狂い死同様に世を去る。
秀吉の生涯にわたって、信長を殺した秀吉の工作が、彼にとって心理的な枷になったことを物語る小説です。枷とは「あしかせ」の「かせ」で、物理的あるいは心理的に心身の動きを妨げるものの意味です。
たしかに面白い小説でした。小泉元首相が愛読した作家だというのも、うなずける話ですね。