古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

アベノミクスへの危惧

2013-06-09 | 経済と世相
哲学者の内山節さんが5月26日中日朝刊に面白い寄稿をしていました.
【上野村では東日本大震災の直後からペレット工場が動き出している。
 ペレットは間伐材などを細かいチップにしてから固めて玉状にしたもので、燃料にする。
 村の温泉の過熱用燃料として使い始め、本年度中には一般家庭も含めて、暖房もペレットで賄う体制をつくるのが目標になっている。
 たとえば暖房に灯油を使った場合、灯油代は村の外に出てゆく。ところがそれをペレットでまかなえれば、ペレット代は森林所有者や、伐採、搬出をした村の森林労働にたずさわる人々、ペレット工場で働く人たちに分配されてゆく。村の外へ出ていくお金を、村の中で循環するお金に換えられるのである。
 村人の払ったお金が別の村人家計を潤し、その人がまた村にできたものを買う。そういうことができれば、お金は村の中で循環するものになり、個人の所有物でありながら、地域を支える村の共有財産のようなものになれるかもしれない。・・
 もちろんこんなお金のあり方を、完全なかたちですぐに作り出すことはできないけれど、それに向かって一歩ずつ前進してみようということでもある。昔はお金は「天下の回りもの」だった。ところがいまでは完全な個人の所有物になっている。だがそれによって人々が幸せになったのかといえば、そうともいえない。
 これだけのお金で、これからもやっていけるのだろうかなどと考えだしたら、ほとんどの人たちは不安を感じるしかないだろう。仮にかなりのお金があったとしても、大きなインフレが起きたらどうなるのかという不安に、答えられる人も少ないだろう。
 こんな陥穽におちいるよりは、お金の循環を通して地域が生まれ、支えあうかたちを模索した方がいい。お金は自分のものでもあるけれど、「天下の回りもの」として地域の共有財産のような性格を持つ仕組みはつくれないだろうか。
 安倍政権が行おうとすることは・・・そこから見えてくるものは、退廃的な金融バブルと、孤立した不安な個人が同居する社会でしかない。』

 なぜ、おもしろいと感じたか。
現下の世界経済の問題点は、「お金が天下の回りもの」になりきれていないこと。
「景気」というものについて、私は単純に考えています。世の中に「お金」がよく循環していれば「景気が良い」、循環していなければ「景気が悪い」。平成の20年にわたる不況は、カネの流れるルートが閉塞状況になってしまったこと。
 どうしてそうなったか?輸出で稼いだお金は、従来は国内で賃金の引き上げや設備投資に回された。しかしグローバル化経済の今日、企業は国内より海外に投資する。賃金を引き上げるのではなく、内部留保に回す。
 世の中不景気だと、日銀も政府も、金融を緩めて、お金を回そうとする。しかし、日銀が流したお金が、世の中(国内)に回っていかない。局部に滞って、世界的に投機資金だけが増えていく(これがいわゆる金融バブル)。内山さんの主張は、「お金を天下の回りものする」ことこそが、今日の経済改革の主眼であることを説いている。これが面白い。
 さて、アベノミクスである。
 まず、今日、「為替」が完全に「国際金融商品」になっている事実に着目しよう。その結果は、為替が、各国の輸出力や物価で決まるというよりも、各国通貨当局が発行するお金の増加量が、相対的に低ければ、その国の通貨が高くなり、相対的に高ければ通貨は安くなる。
 「円を安くする」が目的なら、アベノミクスは完全に成功である。
 しかし、「円を安くした後に何が来るのだろうか?」
 円を安くして、輸出企業を助けても、輸出企業が稼いだ金は国内を循環していかないのだ。
 アベノミクスは、企業を豊かにすれば国民がゆたかになるという前提である。
しかし、その前提が成立しなくなっているのだ。