『作家の使命 私の戦後』、副題が「山崎豊子自作を語る」(文春文庫、1月1日刊行)を読みました。山崎豊子が井上靖に見出されたこと、この書で知りました。
【もともと、私が毎日新聞大阪本社に入ったのは、正直言って、戦争中の徴用逃れであり、作家になろうとは考えていなかった。その私が、小説というものを書いてみようと思ったきっかけは、当時。学芸部の副部長であった井上靖氏との出会いである。】
【井上氏が毎日新聞を退社されることになった時、「君も小説書いてみては――人間は自分の生い立ちと家のことを書けば、誰だって一生に一度はかけるものだよ」とおっしゃった。】・・・後(昭和33年)『花のれん』で直木賞を受賞した。【井上さんが速達で、つぎのような言葉を原稿用紙にかいて贈ってくれた。
直木賞 おめでとう
橋は焼かれた】
この本は、主として執筆に際して行った彼女の取材活動についてのエッセイです。以下、その中の一話。
【私のことを取材魔とか、取材の鬼とかおっしゃる人が多いが、取材をして小説を書くのではなく、取材に出かけるときには、既に構想が出来上がっている。
小説の構想、人物設定、ストーリーに絞って取材するから、取材対象を選択し、探りあてるのに、予想外の時間がかかってしまうわけである。ところが、『女の勲章』は取材しないで書いた唯一の作品である。
『女の勲章』の構想を考え、唱和35年2月から、毎日新聞朝刊に連載の予定で構想を立てていたが、書き始める直前、病気に倒れた。執筆辞退を申し入れたが、小説の中でパリが登場するのは、年末の終章の部分だから、その頃、行くことにすればいいではないかと説得されて、パリの取材をあとに廻した上体で、執筆を開始したのだった。
だが、病気は一向回復せず、パリ取材は不可能ということがはっきりした時点で、当時、日本には二枚しかないと聞かされている畳二畳大のパリの立体地図を入手した。書斎の壁一杯に貼り、地図の中の街通りを歩き、目指す地点にくるとカラースライドを映し、参考資料の頁を丹念に繰った。ある時はルーブル美術館であり、ある時はサン・ジェルマン・デ・プレの街角であったりしたが、この地図とカラースライドと資料読みに、一日平均5,6時間原稿執筆が4,5時間という作業が続いた。
毎朝地図に向かうと、ボンジュール・ムッシュと呼びかけ、その日、執筆するストーリーに沿って、女主人公の式子を地図の中の大通りや、セーヌ河沿いを歩かせたり、或いは、マキシム・ド・パリで食事させたりしていると、まるで私自身がパリの街を歩いているような錯覚を感じた。・・・】
【単行本発刊後、健康を回復したのを機会に、ようやくパリへ出かけることになり、もし描写が間違っていたら、二版で加筆訂正させて頂く約束で出発した。
パリへ付いたその日から、『女の勲章』の初版本を抱え、小説の筋を追って、パリの街を歩いた。初めて訪れた街であるのに、以前に一度、来たことがあるように、私の頭にはパリの地図が克明に刻まれていた。一人で地下鉄の切符を買って、ミュゼアムやオートクチュールの店へ行き、疲れると、カフェで休み、タクシーで主人公の行ったモンマルトルの丘へも上った。ホテルも主人公の泊まったことにしたホテルを選んだが、マキシムやツールダルジャンのような高級レストランへは到底一人では行けなかったから、毎日新聞のパリ市局長ご夫妻に連れて行って頂き、そこでメニューを聞き、料理を注文してみて、それも間違っていなかったと解ると、調べて書いたパリと実際に来て観たパリとが、まるで青写真を引いたように狂いがなかったことに、喜びと満足を覚えた。】
私が放送大学院に学んだ一番の目的は、「経済学の論文はどのようにして書かれるのか?」。司馬遼太郎は、「坂の上の雲」第1巻あとがきで「小説という表現形式の頼もしさは、マヨネーズを作るほどの厳密さもない」と記したが、経済学の論文を書くにも、「マヨネーズを作るほどの厳密さもない」のだろうか?
その意味で、小説執筆の楽屋裏を語るようなこの本は、参考になりました。
小説は、構想→取材→作品。
論文は、仮説→調査→論文ではないか。
井上靖さんは小説について、「誰だって一生に一度はかけるものだよ」と言われたそうだ。同様に経済学論文も、誰だって一生に一度はかけるものではないのか。
【もともと、私が毎日新聞大阪本社に入ったのは、正直言って、戦争中の徴用逃れであり、作家になろうとは考えていなかった。その私が、小説というものを書いてみようと思ったきっかけは、当時。学芸部の副部長であった井上靖氏との出会いである。】
【井上氏が毎日新聞を退社されることになった時、「君も小説書いてみては――人間は自分の生い立ちと家のことを書けば、誰だって一生に一度はかけるものだよ」とおっしゃった。】・・・後(昭和33年)『花のれん』で直木賞を受賞した。【井上さんが速達で、つぎのような言葉を原稿用紙にかいて贈ってくれた。
直木賞 おめでとう
橋は焼かれた】
この本は、主として執筆に際して行った彼女の取材活動についてのエッセイです。以下、その中の一話。
【私のことを取材魔とか、取材の鬼とかおっしゃる人が多いが、取材をして小説を書くのではなく、取材に出かけるときには、既に構想が出来上がっている。
小説の構想、人物設定、ストーリーに絞って取材するから、取材対象を選択し、探りあてるのに、予想外の時間がかかってしまうわけである。ところが、『女の勲章』は取材しないで書いた唯一の作品である。
『女の勲章』の構想を考え、唱和35年2月から、毎日新聞朝刊に連載の予定で構想を立てていたが、書き始める直前、病気に倒れた。執筆辞退を申し入れたが、小説の中でパリが登場するのは、年末の終章の部分だから、その頃、行くことにすればいいではないかと説得されて、パリの取材をあとに廻した上体で、執筆を開始したのだった。
だが、病気は一向回復せず、パリ取材は不可能ということがはっきりした時点で、当時、日本には二枚しかないと聞かされている畳二畳大のパリの立体地図を入手した。書斎の壁一杯に貼り、地図の中の街通りを歩き、目指す地点にくるとカラースライドを映し、参考資料の頁を丹念に繰った。ある時はルーブル美術館であり、ある時はサン・ジェルマン・デ・プレの街角であったりしたが、この地図とカラースライドと資料読みに、一日平均5,6時間原稿執筆が4,5時間という作業が続いた。
毎朝地図に向かうと、ボンジュール・ムッシュと呼びかけ、その日、執筆するストーリーに沿って、女主人公の式子を地図の中の大通りや、セーヌ河沿いを歩かせたり、或いは、マキシム・ド・パリで食事させたりしていると、まるで私自身がパリの街を歩いているような錯覚を感じた。・・・】
【単行本発刊後、健康を回復したのを機会に、ようやくパリへ出かけることになり、もし描写が間違っていたら、二版で加筆訂正させて頂く約束で出発した。
パリへ付いたその日から、『女の勲章』の初版本を抱え、小説の筋を追って、パリの街を歩いた。初めて訪れた街であるのに、以前に一度、来たことがあるように、私の頭にはパリの地図が克明に刻まれていた。一人で地下鉄の切符を買って、ミュゼアムやオートクチュールの店へ行き、疲れると、カフェで休み、タクシーで主人公の行ったモンマルトルの丘へも上った。ホテルも主人公の泊まったことにしたホテルを選んだが、マキシムやツールダルジャンのような高級レストランへは到底一人では行けなかったから、毎日新聞のパリ市局長ご夫妻に連れて行って頂き、そこでメニューを聞き、料理を注文してみて、それも間違っていなかったと解ると、調べて書いたパリと実際に来て観たパリとが、まるで青写真を引いたように狂いがなかったことに、喜びと満足を覚えた。】
私が放送大学院に学んだ一番の目的は、「経済学の論文はどのようにして書かれるのか?」。司馬遼太郎は、「坂の上の雲」第1巻あとがきで「小説という表現形式の頼もしさは、マヨネーズを作るほどの厳密さもない」と記したが、経済学の論文を書くにも、「マヨネーズを作るほどの厳密さもない」のだろうか?
その意味で、小説執筆の楽屋裏を語るようなこの本は、参考になりました。
小説は、構想→取材→作品。
論文は、仮説→調査→論文ではないか。
井上靖さんは小説について、「誰だって一生に一度はかけるものだよ」と言われたそうだ。同様に経済学論文も、誰だって一生に一度はかけるものではないのか。