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古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

港区役所から白鳥庭園・熱田神宮

2014-04-28 | 旅行


25日は住宅シニアクラブのウオーキング、初夏のような温かい日になりました。
9時半出発、14名のメンバーが地下鉄で、港区役所駅の1番出口にエレベータで出ました・区役所の隣が港防災センターです。玄関に伊勢湾台風の記念碑があります、「台座の2m下まで水がきました」との説明がありました。
 「伊勢湾台風の記録フィルムをご覧ください」と、3Fに案内された。
 
伊勢湾台風は、死者行方不明合わせて5000人を超す。関東大震災とか、先年の東日本大震災、神戸の震災など大きな被害をもたらした災害はあるが、台風だけの被害でこれだけ大きな災害をもたらしたのは、伊勢湾台風が最大ではなかろうか。
 上映時間32分。被災者の仮設住宅での生活などを見て、フクシマの被災者はもっと厳しいなど思う。
 3D画像をホームページで宣伝していたので、予約の際に申し込んだのだが、「3Dは子供用ですから年配の方には記録映画がおすすめです」と言われて30分の映画鑑賞になった。
 10時45分センターを出て、裏手の津金文左衛門さんの顕彰碑を見る。江戸時代、熱田新田を開拓した功労者で、磁器製造も支援したので、傍らに「尾張磁器発祥の地」の碑も建っていた。
 北へ歩くと、弘禅寺というお寺があった。昭和7年、名古屋港で漂流中の観音様を浚渫船の船員が発見し、昭和39年からこの寺に安置されている「流れ観音の寺」です。
 更に北へ行くと新幹線が見えてきた。ガード下近くに公園がある。南郊公園といい、昔は川だったそうだが、埋め立てられて公園になった。だから、川のように細長い地形の公園です。ここで11時45分。時分時だから昼食にする。
 12時20分、腰をあげて歩きを再開。公園の北の端に愛知機械熱田工場がある。ここから西へ向かうと、都心の伏見通りから南下する大通り。信号を渡って北へ歩くと「名古屋一番郵便局」という郵便局がある。一番という地名です。新田開拓で一番とか二番とかの地名が付けられた。
 郵便局の北の信号を渡ると、「身代わり地蔵尊」という地蔵様が建っている。
 新田開拓の際、作業の無事を祈って観音様を祀ったが、近年は、一号線が近くを走ることから、交通安全を祈って、平成一九年には新しい身代わり地蔵尊が寄進された(写真)。



 地蔵様の北は白鳥橋。橋を渡ると、西側に白鳥庭園。平成元年(2089)の名古屋デザイン博の「日本庭園パヴィリオン」が整備され、平成3年公開された庭園です。

 大きな池を中心に配置した「池泉回遊式」の日本庭園で、都市公園内の庭園としては、東海地方随一の規模を誇る。世界デザイン博覧会のパビリオンとして設置したため東海三県を中心とした中部地方の地形をモチーフにしている。公園の南側にある築山を御嶽山に、そこから各池に注ぐ川を木曽川に、中央・周辺の池を伊勢湾に見立てており、自然の雄大さを演出している。 園内のメイン施設の清羽亭は本格的数寄屋建築の茶室である。汐入(しおいり)亭で、庭を眺めながら、銘々がオーダーした抹茶やコーヒー、わらび餅などを楽しむ。清羽亭は第3水曜に来ると一般公開しているので抹茶など楽しめるとか。


 2時前、庭園を辞し、白鳥橋を渡って北へ旗屋町まで歩くと、地下鉄の神宮西駅がある。
 熱田神宮が駅の北東に広がる。
 ここまで来たから「熱田様」にお参りしてから帰ろう、と本殿にお参り。
その後、「目の神様」にもお参りしたいというので、奥の「清水さま」にお参りする。その昔、平景清なる武将が目を洗ったという故事から、「目の神様」となる。奥の入り口には、「目の神様」ならぬ「根の神様」ともいうべき神木がありました。


http://guide.travel.co.jp/article/1120/

目標の石に3回水をかけると願いがかなうそうだ。美肌にも効果があるとかで、女性に人気があるみたい。
 お参りを済ませ地下鉄で帰宅すると、3時半でした。「いい時間だ」とみなさん。今日のウオーキングを楽しまれたようで、企画者としてはうれしい1日でした。



卯月曇りのウオーキング

2014-04-21 | 旅行
“卯月曇り”の20日、地下鉄ウオーキングに出掛けました。9時、スタートのなごやドーム駅①出口から、砂田橋方向に歩き始めました。名大医学部保健学科の建物を右に見て砂田橋から北へ。宮前橋で矢田川を越え、守山区です。瀬戸線の踏切を越えて次の信号を東へ守山東を北に向かうと“すいどうみち緑道”に入ります。
犬山で取水した木曽川の水は、庄内川底をくぐる、守山区・矢田川を潜り鍋谷上野浄水場に送られますが、送水管上が緑道に整備されています。

途中東に折れて、守山瓢箪山古墳を見学。全長63m、後円部径36m、5世紀末~6世紀に造られたものとみられます。古墳から西、守山小学校の北、守山郵便局の角を来たに向かうと生玉(なるたま)稲荷神社です。


天正の初期、織田氏の一族小幡城主であった織田源三郎赤千代(信長の甥)は、この社を城内守護神として奉祀。天正12年(1584)4月、徳川家康が小牧・長久手の戦いのために、犬山から長久手へ向かう際、その道中にある小幡城主織田源三郎方に一泊しました。その折に、家臣がこの稲荷の霊験著しさを言上し、稲荷山より竹を伐り旗竿を作り献上したところ、家康は大いに喜んだといいます。
更に北へ向かうと白沢町。この辺りで5㎞です。ここに白沢峡谷(城土公園)があります。白沢川は小幡緑地と周辺からの湧水を集めて西へ向かい、城土公園付近から北へ流れて庄内川大橋の西側で庄内川に注ぐ。城土公園の付近は古くから白沢渓谷とも呼ばれており、人工の滝が造られて名古屋市内で唯一の吊り橋も架かる。

公園を出てゆとりーとライン沿いに歩くと龍泉寺に出ます。坂道を上がって参拝。ここまでで、およそ7㎞歩きました。
庄内川、濃尾平野を眼下に見下ろす守山の景勝地にたたずむ龍泉寺は、天台宗に属し松洞山大行院と号します。延暦年間、伝教大師最澄が創建したといわれています。宝暦5年に記された古文書「龍泉寺記」には、「その昔、伝教大師が熱田神宮に参篭中、龍神の御告げを受け、龍の住む多々羅池のほとりでお経を唱えると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現したので、これを本尊として祀った」という内容が記述されているとか。龍泉の名前もこの話に由来する。一方では、弘法大師空海も同じように、熱田神宮参篭中のおり、熱田の八剣のうち三剣をこの龍泉寺に埋納しており、龍泉寺は熱田の奥の院といわれてきました。このため、この寺は伝教・弘法大師の開基ともされています。

 天正12年(1584年)小牧長久手の役のおり、豊臣秀吉が当山に陣し退去するとき、池田勝入の部下により放火焼失、慶長3年(1598年)、秀純大和尚が堂塔を再興しましたが、明治39年に再び放火に遇い、多宝塔、仁王門、鐘楼を除く全てが灰と化しました。ところが、焼跡から、慶長小判百枚が発掘されたので、それを基金とし、多くの御信者の御寄付とをあわせ、本堂が再建され、今日に至っています。また、龍泉寺は、荒子観音、笠寺、甚目寺と並んで尾張四観音の一つです。
龍泉寺を降りて東の小幡緑地(本園)に入ります。
http://aichi-koen.com/obata/
池、小川、雑木林など四季折々の景色を楽しめる面積76.3haの公園です。(文頭写真)
緑地内を周回してから県道に出て南、小幡が原にくると、西側に小幡緑地(西園)があります。守山区役所を経て名鉄小幡駅でゴール。11時45分、11km歩きましたから、時速4㎞のウオーキングでした。
電車で大曽根に回り、いつものプールで1km泳いで、図書館で雑誌など。3時過ぎ帰宅しました。雨が降り始めていました。

花冷えのウオーキング

2014-04-06 | 旅行
「花冷え」の5日、地下鉄の「駅ちかウオーキングに出掛けました。
「マー君が先頭打者ホームランを打たれたあと、3番、4番を三振に打ち取ったのを見た後、家を出てスタートの名古屋港駅に9時40分着きました。
 受付で地図を貰い、1番出口を出て左に歩き始める。最初は築地神社です。「昭和13年(1938年)1月23日、熱田大宮の分霊(素戔嗚尊)を祀り、創祀される」とあります。この辺りは埋め立て地ですから、昔からの神社はなく、昭和の創建ですが、日本人って宗教心が篤いのですね。

 港区役所の近くに「津金文左衛門頌徳碑」があった。19世紀熱田新田を開拓した功労者で、尾張磁器製法の確立も援助したので、傍に「尾張磁器発祥の地」の碑もある。
 名古屋市港防災センターがある。地震の震度を体感できる装置があり、伊勢湾台風の3D映像が見られる。このあたりは伊勢湾台風では海になってしまったのだろう。
 尚、北へ歩くと弘善寺がある。「流れ観音のお寺」として有名。この流れ観音は、昭和7年に名古屋港で漂流中を当時の名古屋港務所しゅんせつ船「玄番丸」の船員が発見し昭和39年から当寺に安置されたそうです。
7番町まで来て、セブンイレブンに立ち寄り100円珈琲を頂き100円お握り3個調達。
「伝馬町まで歩くんですか」と店員。ここからまだ5㎞はあるから、感心したように言う。
この辺で4㎞以上歩いているが、どこまでも平坦な土地が広がる。海を埋め立てたところだから当然だが・・

 一番町に来る。「一番割観音」がある。
 江戸時代初期、熱田から西側に新田が開拓され、作業の無事を祈って観音堂を祀った。第一番札所石碑と、平成19年に新しく寄進された身代わり地蔵尊があった。

「初代尾張藩主徳川義直の命により1647年から開拓された熱田新田は尾張藩が実施した最大規模の新田開発で、現在の熱田区、中川区、港区にまたがる約4平方キロメートルが埋め立てられました。この新田を33に分け「番割」と呼び、それぞれに西国三十三ヵ所にちなんで観音堂がまつられました。現在はまとめてまつられている観音堂もありますが、熱田区内には一番から九番までの番割観音が現存しています。」

 東へ歩くと白鳥橋西へでた。プロムナードは桜が満開。

熱田記念橋を渡ると熱田神宮公園。公園の外側を歩いて旗谷町まで来ると、熱田神宮がすぐそこ。


西門から入り、ご神木を左にみて、お参りを済ませ、東門から出て右へ歩くとゴールの伝馬町駅があった。12時10分、9.1kmを歩き終えました。


龍興寺

2014-03-30 | 旅行
龍興寺は、曹洞宗のお寺。
http://www.aruku88.net/tera/109shouwaku/ryukouzi-gokiso/index.html
 天文2年、御器所城主佐久間盛次が創建した寺だが、戦災で焼失。藤山雷太氏の住宅を移築した書院が有名。

12時40分になっていた。住職がみえて「遅かったじゃない」と言う。「遅れてしまいすみません」と謝る。先日22日、下見に来たが、門が閉まっていたので、「28日12時頃伺いますので、見学をさせてください」とハガキで手紙しておいたのだ。
 住職の案内で、お庭を見て回る。

犬山にある「如庵」を模した茶室もあった。


なんでも「如庵」は紆余曲折があって現在は犬山の名鉄ホテルにあるが、かつての持ち主が「如庵」をしのんで作ったコピーが、また紆余曲折があって、ここに移築されているとのこと。
 八角堂もある。



お庭を拝観した後、お礼を述べて帰ろうとしたら、「観音様にお会いしていきなさい」と住職が言ってくれたので、本堂に上がる。
 百済観音に似た観音さまだ。
「お写真を撮っていいですか?」と聞いたが、それはダメでした。
 ご丁寧な案内に感謝し、再度、庭に出た。
 庭には風格のある松と鮮やかな赤い花があった。

お寺を出て、通りを渡ると西洋のお城風の建物が目に付いた。「これ、何だろう?」
玄関から出てきた男性にきいたら、「結婚式場です」

西の信号を右折すると、鶴舞公園でした。桜が咲いている。
公園のベンチで弁当を広げ、遅い昼食でした。2時過ぎまでおしゃべりを楽しみ、以後自由解散にしました。私は3時帰宅でした。

シニアクラブのウオーキング

2014-03-29 | 旅行
28日はわが住宅のシニアクラブのウオーキング。山崎川の桜を見にいきました。  
咲いているかな?案じつつ、地下鉄の瑞穂運動場西口2番出口を出て瑞穂公園まで歩いてくると、咲いていました!心がけがよかったのか、4分咲きぐらいですが、河畔の桜が花開いていました。
今日は暖かく風もない。川沿いに北へ。およそ2㎞弱、萩山橋、鼎橋、石川大橋、向田橋(むかいだばし)と歩いてくると、右に「東山荘」の標識が見えます。右に折れて入り口に回ります。
門の前で、今日ここで結婚式を挙げたらしいカップルが記念撮影をしていました。
 ここは、平成25年6月に国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。
大正元年(1912)年から10年ほどかけて建築されたものですが、綿布商、伊東信一さんから昭和11(1936)年に名古屋市に遺贈されました。昭和42(1967)年に修復工事が行われ、翌年から寄贈者の伊東さんの遺志を生かして一般開放され、今に至ります。
「東山荘」の名は、伊東山荘に由来します。4千坪ちかい広大な日本庭園、庭園の中の母屋は雁行形に連なり、空間構成から細部の意匠まで凝りに凝っています。
 東屋で小休憩後、記念撮影をしました。





 
見学の後、向田橋に戻り、橋を渡り道なり西へ歩くと、汐路小学校の横を通り瑞穂通りに出る。
 名古屋市博物館に立ち寄る。今、300枚余の浮世絵を集めて「大浮世絵展」をやっていたが、ここはパスして、3Fの市民の作品展を見た。見終えて外に出る。12時で昼食時だが庭の東屋は昼食をとる人で満席。食事は後回しにして地下鉄で桜山から御器所、荒畑駅に回る。4番出口を出て、龍興寺に行く。(続く)


23日の駅ちかウオーキング

2014-03-24 | 旅行

 3月23日は駅ちかウオーキング。名城公園駅からなごやドーム前駅まで、いつも使っている駅の間で、いわば地元のウオーキングでした。
 9時15分家を出て、名城公園駅1番出口でウオーキングマップを受け取り、9:25東へ歩き始めました。
 久国寺に来ました。境内の一角には、岡本太郎が1965年(昭和40年)に製作した梵鐘「歓喜の鐘」が設置されている。これは当時、住職が知人から岡本太郎を紹介してもらい製作を依頼したものである[3]。なお、この梵鐘には小型の試作品が5体製作されており、うち1体は岡本太郎記念館に設置されている。また、親交のあった石原慎太郎にも1体贈られている由。
すぐ西に普光寺があります。曹洞宗の寺院で天正5年の創建とか。道元禅師が中国天童寺で老師の教えを受ける石像がありました。

 ここには北区の大仏が微笑んでいます。

その後、尼ケ坂駅(名鉄瀬戸線)駅の北に出る。 市立工芸高校の南を歩いて徳川園の手前に片山八幡宮がありました。今日は、瑞竜神輿が特別公開されていました。


徳川園に来ました。今日は入場料2割引きで、80円を払って園内に入りました。
園内を散策、大曾根の滝の前で一服。



ここまで3km、徳川園を出て、桜丘中学の西側の道を大曽根に向かう。ここの白木蓮の並木が美しい。

OZモール(大曽根商店街)を抜けて大曽根4丁目から北へ。山田4丁目に造り酒屋「金虎(きんとら)酒造」がある。
 ここで試飲会。吟醸酒「本丸御殿」を味わいました。http://www.kurastyle.com/products/detail.php?product_id=421
 金虎酒造を出て東の白山神社にお参りし、後は南に1㎞足らずでなごやドーム前駅のゴール、11時40分でした。約7km歩きました。
 イオンでお握りを買い、プールのロビーで腹ごしらえ、プールで1000m泳いで引き上げました。

街中の寺社めぐり

2013-12-17 | 旅行


12月13日、今年最後の住宅シニアクラブのウオーキングでした。
とても寒い日になりましたが、総勢11名がそろいました。9時半、出発。今日は13日の金曜日でしたが、仏教や神道には関係ないと、街中の寺社めぐりです。
地下鉄の東別院駅の4番出口を出ると東別院の交差点。目の前に名古屋テレビの社屋が見えます。その北隣が、下茶屋公園です(上写真)。東別院の回遊式庭園で、池の周りに、枝ぶりの見事な樹木が多い。庭園を通り抜けると、東別院。この辺りは、かつて織田信秀(信長の父)の居城、古渡城であったが、尾張藩主二代光友公がその敷地1万坪を寄進して真宗大谷派名古屋別院となった。
別院を出て西北に行くと、栄国寺という寺があった。ここで1664年キリシタン200余名が処刑され、光友公はその菩提を弔って、この寺、浄土宗の寺だが、創建した。

切支丹塚、それに、ここには朝鮮通信使が訪れたらしく記念碑がある。
直ぐ西側に妙善寺という寺がある。七面女神像が有名です。尾張藩第二代、徳川光友公の腫物平癒のため、尾張茶屋家二代目、茶屋長以が自ら七面女神像を刻し祈祷、平癒の後、光友公はこの話を聞いて長以の至誠を感じ、神像を城中に迎え拝しました。その後元禄六年(1693年)に松原の控屋敷を挙げて寺地として七面宮を建立、元禄九年(1696年)にお堂は落成して女神像は遷宮されたという。
妙善寺の西北、通りから少し入り込んで日置神社があります。

桶狭間合戦の直前、信長はここで“敦盛―― 人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、” 死のうは一定(いちじょう)・・・と舞ったと伝えられます。
通りに戻り北へ歩くと、大須の門前町。立派な仏壇屋が並びます。
大須の交差点に行くと、左手に七寺(ななつでら)が見えます。

延暦6年(787)、紀是広によって七堂伽藍が建立された故事にちなむ名。
天平七年、僧行基により開創。清洲越しで大須へ移り、尾張徳川藩の祈願所として栄える。太平洋戦争の空襲で焼失、現在に至るとか。
更に西へ、堀川の東通りにぶつかり南へ転ずる。
松重閘門がある。

名古屋市有形文化財。中川運河と堀川を結ぶ水路の水位調節を目的に設計されたが、現在は使われていない。
松重橋東から東へ、松原小学校から南。みちなりに南へ。闇之森八幡社という面白い名の神社があった。
かつて神域には大木が鬱蒼と茂り、それは月の光も射さぬと句に詠まれるほどで、いつしか闇の森と呼ばれるようになった。
 紳馬の像がある。創建は長寛年間。源為朝が石清水八幡宮を勧請したと伝えられるが、千種区の城山八幡もそうだが、八幡社と称せられる所にはなぜか馬の像がある。
 来年は午年だから、記念写真を撮ろうと、うまの前でシャッターを押す。

 お昼時だ。近くの公園で昼食をとる予定だったが、寒い!金山まで歩いて駅構内のベンチで食べようと、20分ほど歩いてゴールの金山駅。5㎞ほど歩いたことになる。
お日様が射してきたので、お弁当を広げる。食べ終わって、駅校内のドーナッツ&珈琲の店に入り、おしゃべりして今年最後のウオーキングを終えました。
 寒かったが、名古屋市内には、こんな神社仏閣が密集しているところがあると、認識させられました。


同級会二日目

2013-12-03 | 旅行
 二日目、7時前に起きたが、食事は8時ということなので、同室の4人、昨日の続きで話続ける。東京から来たD君、豊橋のN君、奈良のM君と小生。
 N君がインドやブラジルの話。
「トータルで何年外国勤務だったの?」
「6年」と言う。スズキのラインで検査を担当していたのだ。高校を卒業した昭和30年は、卒業した時はろくな仕事場はなかったが、数年して自動車各社が大増産して雇用を拡大。同級生の多くが自動車産業で食べていくことになる。いわば日本経済高度成長の尖兵になった。
 M君「運というものがある。我々が年金せだいになって十数年。物価がほとんどあがらなかったことも運がよかった」
 小生「人生は結局運なんだ」と同調した。
 食事後の9時解散、宿舎(写真)を出て、神奈川県に向かうT君の車で東栄駅まで送ってもらう。江南市のS君も同行。S君、駅に着くと「切符をかわなくちゃ」
「無人駅だから買えないよ。電車内で買うの」と小生が言うと、「えっ、いつから無人になったの?」、「もう無人になって何年も経つよ」
 バスも無くなってしまったく過疎の村になった!
上り電車の9時40分まで30分余、「珈琲でも飲もう」と喫茶室に入る。駅員がいなくなったので、駅員室は喫茶店になっている。
メニューを見ると、珈琲200円。安いなぁ、と「コーヒー」を頼むと、「モーニングつけますか」と言う。

 「ウンつけて」と言ったら、サンドイッチ2個と、ヨーグルトが出てきた。レシートを見たらモーニング代の150円がついて350円。「そりゃそうだ。200円でここまでサービスできない」。名古屋ではモーニングは無料となっているが、ここは名古屋ではない。
 喫茶室には薪を燃すストーブがあり、薬缶から湯気が上って、ここは暖かい。
「東栄の文化という小冊子が置いてあった。手に取ってみたら、さっきまで一緒だったK君の投稿が載っている。「クロスズメバチ 種類と生態」というレポートだ。
 彼の養蜂家としての活躍が思われる。

 電車は10分余遅れた。今回飯田線に乗って気附いたのは、扉に開閉ボタンが付けられていたこと。1年前に乗った時にはなかったと思うが・・・
 豊橋には6分遅れで11時16分。昼飯を一緒にするには時間がはやすぎるので、ここで名鉄で行くS君と別れることにした(小生はジパング切符でJRの往復だった)。


高校の同級会

2013-12-02 | 旅行
高校の同級会でした。11月28日3時過ぎ、飯田線の東栄駅(写真)に降り立つと、懐かしい顔ぶれが6名。駅前には郷里に住む同級生の数台の車が待っていました。
 今回の同級会は、満77歳の喜寿を祝う(本来は数え年で祝うのですが)同級会です。かつて、70名を数えた同級生、19名が既に世を去り、2名が植物状態などで連絡不能、健常者49名とか。そして今日の出席は33名。3分の2という高出席率は、みな人生をスタートした郷里を再訪する機会を喜んだのだろう。
車で12~13分、今宵の宿、「千代姫荘」という優雅な名の宿だ。
「ここは町営なの?」
「第三セクターです」
広間にはいっぱいの同級生が、久闊を叙して大賑わい。
「夕食の前に母校の跡地を訪ね、温泉に行こう」という。
車に分乗し、母校の跡地に。人口の減少から廃校になってから何年かな。体育館は撤去され、一棟の校舎のみが残されている。役場に転用する予定とか。それより驚いたのは北側に建てられた立派な木造平屋建ての小学校である。11億円余かけて今年の夏完成したようだ。
「国から補助金が出てるの?」
「9億円ぐらいは補助金だ」
公共事業について考えさせられた。公共投資の無駄を言う人は多い。しかし、公共投資がなければ食べていかれない人も多いのだ。
無駄になるとしたら、現地を離れた中央の役人が使い道を決めるからで、その意味で地方分権は必要だが、予算の使い方を決める中央の役人を地方に分散させないと、うまくいかないのでは?
 記念写真を撮影後、温泉に行く。この温泉も、竹下内閣の1億円ふるさと創生資金(ふるさとバラマキといえないこともない)を使って掘削した温泉だ。
 ゆっくりお湯につかってから、宿舎に戻る。
 夕食が始まると、女将が挨拶した。
「みなさんの還暦、此処で同級会をやっていただいたこと、覚えています。今回は喜寿の同級会、ありがとうございます」
「夕食の材料は、すべて地元産で、サトイモはだれだれさん、とろろの山芋はだれだれさん、ヘボ飯(蜂ノ子入りご飯)の蜂ノ子はだれだれさんの提供ですと、地元に住む同級生の名を発表した。」
6時から喧々諤々の懇親会でした。
小生の右隣に京都から来たタミコさんが座る。59年ぶりの再会だが、私の顔を見て「どなたでした?」と言う。
「NOZUEですよ」まぁ、59年も経つから思い出せなくても…
 そのタミコさん、カメラを出してあちこち撮影を始めた。みると、Panasonicのデジカメ一眼レフだ。
「いいカメラをお持ちですね」
「いいかどうか知らないけど、息子が買ってくれたの。
いい息子で、使え使えと、カメラやIpadなんか買ってくれるの」
「京都はどのあたりにおすまいですか?」
「伏見よ。秀吉の花見で有名な醍醐寺の近くです」
「ご主人はお元気ですか」
「おかげさまで、主人と二人だけで暮らしていたのが、息子が家を建てたから一緒に暮らせと言われて、孫を含めて一家7人の暮らしです」
いまどき珍しい親孝行の息子さんらしい。
左隣には奈良から来たM君が座った。
「とくに病気はないの?」と聞くので、
「今年の4月にメニエール病が出たんだけどね。その後発作が5月に1回、6月初めに1回あって、その後はまったく出ていない。治ったのかもしれない。
メニエール病って知ってる?」
「知ってるよ。女房がメニエール病なんだ。あれは、精神的にショックのあった時出る」と断言する。
9時に中締めとして部屋に引き上げ、今度は部屋で話し込む。(つづく)

千種区を散策しまいた

2013-11-24 | 旅行
 千種区を散策する住宅のシニアクラブのウオーキングでした。
22日9:30出発。地下鉄本山駅で下車し、四谷通りを400mほど上がると桃厳寺があります。
桃巌寺の寺号は織田信秀の法名「桃巌道見大禅定門」から取られたとのこと、織田信行(信長の弟)が父信秀の菩提を弔って創建したという。名古屋大仏と称される座高10mの派手な大仏があります。

紅葉が綺麗でした。
 参詣を終えて、本山の交差点に戻り、末森通りを西へ、すぐ城山八幡宮が右てにあります。
 織田信行の創建で、末森城跡地になると、立札があった。
ここでは神社裏手にある、「連理の樹」と称される木が有名です。
 1本の樹の一旦別れた枝が癒着結合し、「縁結び」、「夫婦和合」の象徴として信仰されています。
今日は11月22日(いい夫婦)の日でした。

連理の樹から坂道を下り、交差点を渡り坂道(坂が多い地形です)を上がると、揚輝荘の南園でした。
今年の夏から公開された聴松閣に入ってみました。
http://www.yokiso.jp/



園内の通路を通り、北園へ回り、ここでも、紅葉を鑑賞しました、
た。
北園まで来ると、日泰寺はすぐお隣です。本堂前の広場で、ベンチに腰を下ろしてお弁当を広げました。良いお天気になってよかっ 1時を過ぎたので、腰を上げて、参道を覚王山まで降りて地下鉄に乗り千種駅へ。
4番出口から出て、千種東の高牟(たかむ)神社まで歩きました。
まったく街中のお社です。
http://www.yumemusubi.com/mori/jinja/aichi/takamu.htm

高牟神社の牟は鉾の意味で、往時、尾張物部氏がこの地に武器庫を設けたことに由来するとか。
古くから清水を産し、今も井戸がある。

柄杓で清水を味わってみました。今も近所の人がお茶や珈琲を入れるためこの水を汲みに来るとか。古い井戸、古井に因んで「こい」は「恋」と、縁結びの神様です。
 再び駅に戻り、地下鉄で名城公園駅に帰りました。2時半帰宅。