津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■PC修理、半ば・・・

2024-06-19 06:45:04 | ご挨拶
どうもウイルスにやられた感じがします。毎度のことですがPCに不具合が出るとかならずと言っていいほど、某社のセキュリティー・ソフトの宣伝が入ります。
ようやくここまで復旧させましたが、画面幅を元のサイズにできませんので、御見苦しい感じです。
昨日は、少々疲れ果てて復旧作業も投げ出してしばらく読書をしました。何とか気を取り直してここまで復旧させたのですが、しばらくすると元の木阿弥です。
再度のチャレンジでこの状態ですが、ウイルスソフトを入れていないのでまたやられるかもしれません。
そろそろ買い替えようかと思っているところで、思案のしどころです。
今日も暑くなりそうですが、こんなことを今日も繰り返さなければなりません。うっとうしい限りです。
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■PCトラブル

2024-06-18 06:25:33 | ご挨拶

昨晩突然ブログがこのようにワイド画面になりました。復旧に勤めましたが爺様には難問で元に戻るには
少々時間を要するようです。
熊本は昨日梅雨入りし、昨晩は相当の雨が降ったようで、枯れ川に水の流れが復旧しました。
朝一番に病院に薬を貰いに出かけ、帰ってからPC復旧に勤めます。
少々時間を頂戴いたしますのでご容赦くださいませ。

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■阿蘇家はお金持ち?

2024-06-17 10:39:45 | 歴史

 今朝ほど書いた細川護久候の四女・志津姫は阿蘇家に嫁がれたが離婚されている。経済的理由だとされるが維新期の神社経営は大変なものであっただろう。
離婚後は三角半島の突端に当たる場所に住まいを定められた。現在はどうかは知らないが、私の知人の所有するところであったが一度拝見させていただいたことがある。
30坪ほどの質素な和風建築である。ここで御付の人たちと過ごされたかと思うと、少々感慨深いものを感じた。

 一方では天文十八年(1549)「阿蘇惟豊」が従二位に叙任されるについて天皇に百貫を献上したという記録が残るそうだが、これは最高額であるとされる。(今谷明著:戦国大名と天皇)
例えば伊達植宗なる人物が永正5年(1508)に左京太夫に任官した時は30貫であり、その他朝廷の関係者に20.3貫を要し、太刀の献上に58.2貫そのた諸々で255貫を費やしている。
それからすると、阿蘇家の費えはまだ大きなものであったかもしれない。
これは「銭勘定」のようだから、とてつもない金額ではない。まだ1両などという「金勘定」が成立していない時期だが、たっとえば江戸初期の「1両=銭6,000文」からすると255貫文は42.5両(1両=10万円」とすると425万円ということになる。
これが高いのか安いのかは判らないが、このようなことも朝廷の大切な収入源であったことは間違いなさそうである。

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■二つの論考を読む

2024-06-17 06:01:58 | 論考

 昨日は二つの資料を読んだ。
   1、お姫様たちの西南戦争:史料の解題と紹介
          2007・03・05 「文学部論叢」 三澤 純氏
   2、砂取細川家と顕光院 (講演史料)
          平成29年10月7日 くまもと文学・歴史観 青木勝士氏

 西南戦争開始時、官軍は西郷郡の侵攻に備えて「射界の清掃」を行っている。
官軍はこれを事前に細川家に通達したらしく、北岡(現・北岡自然公園)邸には当時ここに細川護久の側室・縫が生んだ三人の姫がおられたが、すぐさま避難のために立田邸に出発された。そして40日余にわたり戦況を見ながら避難行をされた。
さて、この資料に「射界の清掃」のことが書かれていることは承知していたから、これを読むのが目的であったが、ここで「坪井付近で60軒、安政橋辺にて30軒ばかり」を焼き払った(東京日々新聞記事)と紹介していることを確認、目的を果たした。
 「射界の清掃」は18日に通達され、19日の正午に実行される予定であったが、余りにも急な通達に住民は避難のすべもなくおろおろする中30分延長され、町々に放火、火の海になった。
三人の姫、嘉寿(9歳-22歳没)・宣(7歳-伯爵・松平直亮室)・志津(6歳-男爵・阿蘇惟孝室、後離婚)は、長い避難行が続き、4月27日大風雨の中、北岡邸に帰られ東京から帰熊されていた護久公にお会いになることになる。
(但し御三方の満年齢については、嘉寿姫が明治二年九月十四日生で7歳、宣姫が明治四年三月十五日生で6歳、志津姫が明治五年八月六日生まれで4歳ではないかと、私見を述べておく)

 (1)の論考の中に、細川斎護夫人・顕光院についての消息が書かれていた。
 (2)の史料では、顕光院を実娘・峯姫(松平春嶽夫人)が東京から見舞に熊本に訪れたことが紹介されていたが、これが(1)の資料により「老衰」と「持病ノ癪気・眩暈」で上京の予定をやめたことが記されている。壬申(明治5年)三月(17日)付で、東京府にあてたものである。顕光院と長男嫁・鳳臺院、護久長男・建千代、長女・嘉寿も同行予定であったが、これも取りやめになっている。
(2)の資料を補強する史料である為、(1)資料に該当部分をコピー添付した。

 

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■蔵書が増えて居ります

2024-06-16 06:35:25 | 書籍・読書

 昨日は熊本史談会の6月例会、山都町郷土史伝承会の田上彰先生の「布田保之助翁よもやま話」の講演をお聞きした。
布田保之助翁は、山都町の国指定重要文化財となった「矢部通潤橋」の建設に尽力した矢部郷の惣庄屋である。
大変興味深いお話をお聞きし、布田保之助の人となりを地元ならではのトリックなどを取り混ぜてお話をいただき大変有意義な講演であった。
脳細胞が急激に破壊され続けている私としては、メモを取ったりしたが、中々すべてとはいかず歯がゆい思いであったが、先生の御著を購入して帰宅後拝見したらそのあたりが詳しく説明されていた。
二冊を残して会員諸士が購入されたから、先生のお手元が寂しくなってしまった。

今一冊は当会会員でであり、方牛石仏保存会の会長であるN氏にお願いして購入した、方牛石仏紹介の図鑑である。会員の皆様のご努力が結実した。

                 

 又、会員・中村氏から数冊の書籍を頂戴したりして、また本棚の整理をして場所を確保しなければならない。

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■文士と殿様

2024-06-15 07:57:30 | 書籍・読書

                 

 インターネットで検索してみたら探している古本の情報があった。
「別冊・文藝春秋-187号」なのだが、このような写真が紹介されているものの「在庫なし」とあってがっくり来た。平成元年4月(1989)号である。
なんで取っておかなかったかと今となっては悔やまれるばかりであるが、ここに阿川弘之氏と細川護貞さまの対談「文士と殿様」が掲載されていた。
実は司馬遼太郎氏の「春灯雑記」に、「護貞氏の話ー肥後細川家のことども」という項目があり、護貞さまが勉強された漢学についての話がある。
司馬氏は阿川氏の先の対談「文士と殿様」(p140〜156)を引用されている。これはまさにその一部であろうから、全文を読んでみたいと思っての
ことであった。

 そんな中で、阿川氏は護貞さまにある種の誘導尋問のような話を持ち掛けている。昭和10年以降の戦争へ突き進む状況についてである。
護貞さまは師・狩野君山の話として「宋学(朱子学)がいけない」と答えておられる。
要約すると「朱子学というのは、理気の学(中略)、理論を進めていくと感情というものが全く入ってこない。非常に人を責める。人情が入らず理詰
めで責める。日本が徳川時代に徹底的に朱子学を持ち込んだ結果である。」と君山はいう。

司馬氏はこのことについて感想らしきものは一切ふれていないが、司馬氏が作品として残した時代や人物は、まさに君山の語る處の線上にある。

 熊本史談会の5月例会で「儒学、そしてその変遷」をお聞きして以来、少々の勉強をしている中で、君山のこの指摘をなるほどと思うのである。
少々脱線したが、35年ほど前の文藝春秋が県立図書館に所蔵されている。古本購入はあきらめて、図書館欲で拝読することにしようと思っている。


 

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■天皇家に入った谷家の血

2024-06-14 06:53:52 | ご挨拶

 実は後光明天皇のことを少々調べていた。
後水尾天皇の御子らしく中々面白い天皇で、仏教や和歌を嫌い、源氏物語や伊勢物語などは軟弱だと排し、朱子学に傾倒されるなど
激烈・直情径行的な性格であったとされる。

生母は園家12代当主・基任女、園光子(壬生院)である。
光子の弟・基音の女も又後水尾帝の仕えた国子であり、その子が霊元天皇であり後光明帝の後を継がれた。
そんなこんなことを考えていたら、ここから横道にそれた。細川藩士・谷家へと導かれていった。

 丹波山家藩の谷衛友は細川忠興の盟友ともいうべき人物で、衛友の没後その遺言にある五男・衛長の遺蹟相続の実現のために幕府への
働きかけなどに尽力している。

しかしながら、幕閣の理解を得られず四男・衛政が相続した。そのために細川家は衛長を召し出し、細川幽齋の末弟・好重の末娘・幾久
を娶らせている。

谷衛友の末娘が公家・園基音に嫁ぎ、その娘が後水尾天皇の典侍となった藤原国子(新広義門院)である。
そして国子が為した御子が後の霊元天皇である。

後水尾帝については以前取り上げたことがあるが、徳川秀忠女・和子(東福門院)が入内し、女一宮を生みこれがのちの明生天皇である。
その後異腹の弟宮・後光明天皇が即位され、その跡を霊元天皇が即位されている。

           2500石内分
 谷衛友---+--衛成---衛之
     |
     +--吉長
     |      2000石内分
     +--衛勝---衛清
     | 16000石相続
     +--衛政(大学)・・・・→丹波山家藩主・10,000石
     |                
     +--衛長・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→肥後細川藩・谷家
細川幽齋弟 |  ‖ 
三淵好重ーー●幾久
     |     1500石内分
     +--衛冬(宇兵衛)
     | 後水尾帝典侍
基任ー+ーーー園光子(壬生院)----後光明天皇     |
   | |       

   | +--●  後水尾帝典侍
   |   ‖-------藤原国子(新広義門院)----霊元天皇
   +ーー園基音

   【其の他衛友には、娘(谷某室)、娘(沢瀬某室)、娘(藤江元園室)がある】

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■細川韶邦公

2024-06-13 06:54:36 | ご挨拶

 韶邦公像は大変写実的だが、写真をもとに描かれたと言われている。
最近気づいたことだがウイキペディアで検索してみると、なんとその写真が紹介されていた。
いつの頃からなのか、私が改めて検索するという機会がなかったことを物語っている。

          

 少し実物(右・写真)の方が面長に見える。もう髷を落としておられるから、明治4年8月9日の太政官令による散髪脱刀令以降の写真であろう。
一方ご正室の峯姫様は、一度肥後国入りをされている。恕斎日録に国入りの様子を伺うことができるが、後、韶邦公が家督を護久公に譲られた後、正四位叙任により御礼の為上洛、華族東京居住の命により上京され今戸に新邸を作られて入居された。
韶邦公は明治9年10月23日、峯姫は明治28年3月20日に亡くなられた。

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■積水ハウス・マンション解体に思う

2024-06-12 08:53:54 | 些事奏論

 建築を生業にしていた者として、国立市の景観(富士山が見えなくなる)問題に関して完成間近かな高層マンションを解体するという話には少々驚かせた。

    国立駅に降り立つと大きな通りがあり、その正面に富士山が見えている様だが、このマンションが完成すると、その姿が半分ほど欠けてしまうということらしい。
著名な辛口コメンテーターも驚きの声を上げていたが、建築主や建設業者の意図を押はかることができないでいたが、「景観に著しい影響があると言わざるを得ず、眺望を優先するという判断に至った」というコメントが発表された。
こういう景観に関する裁判は過去にもあり、最高裁までいっても建築基準法にのっとって許可された事案であるから当然の帰結で大方敗訴である。
高層建築ではなくても、住宅地域での日照問題など裁判に持ち込まれた事例は多い。
しかし、法律を超えての勝訴というケースはあり得ないのではないか。
コメンテーターの発言同様、私も大いなる驚きを以てこの事案の経過を見ていたが、訴えていた人々も喜びと共に大いなる驚きを感じておられるのではないか。
少々怖さを感じる。


 昨日はちょうど私たちが今のマンションに引っ越してきてから一年がたつ。
5階の南東角の我が家の位置からは、遠くに阿蘇外輪から矢部ー三角に連なる山脈が見える。
先にも書いたが、150mほどのところに2棟の12~14階建のマンションが建設中で、飯田山の山頂部分が見え無くなりつつある。
時の流れとともに街中の景観は変わっていく。郊外にでも出て雄大な富士山に出会えるような、自然を満喫する生活も必要だろう。


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■町在を読む―2

2024-06-12 06:47:02 | ご挨拶

 今読み下しにチャレンジしている「町在」、大方1/4ほどを読了した。
是には中古町に住みながら細工町の別当を勤める友枝良右衛門が、零落した80名ほどの人形師を助けるために、自らの貯えを融資して援助し、家業の更生に尽力したことが書かれている。
さてその額なのだが「鳥目、拾貫目餘」と書かれている。「鳥目(ちょうもく)」とはその形からきた、いわゆる「穴あき銭=一紋銭」のことである。
詳しく読んでいくと、このことにより町の根取たちが藩に対し「士席浪人格」や「正月の門松」「町獨礼」などにするように推挙している。
問題は「鳥目、拾貫目餘」の解釈である。「鳥目」とは「銭」のことだが、後半の拾貫目とは「銀勘定」を表している。
仮に銭「拾貫」の書き間違いだとすると、当時は「1両=銀60匁=銭6,500文」位だとすると、銀10,000匁/6,500文=1,5両ほどにしかならない。
やはりこれは「銀勘定」と考えられ、銀60匁=1両で計算すると、銀10貫目×1,000/60匁=167両ほどになり、5万/1両くらいと考えても835万円ほどになって納得できる。
ならば頭についている「鳥目」をどう解釈するかである。「銀」としてあれば何の問題でもないのだが、色々調べてみると、我々が通常「お金」と呼ぶ感覚であるらしい。
商売が立ちいかぬ人形師たちの生業が立ちいくように、別当として自らの資金を提供して励まし続ける、良左衛門に対し町の根取達が藩に対し請願をしている事情がよく理解できる。
良左衛門は他にも、大阪へ直接「絵具」の買い付けをして、人形師たちに提供している。
おかげで人形師たちの生業も復活し、それぞれが返済に勤め「備銀」の貯えが900匁に及んだという。

 

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■庶民の暮らしと「銭」

2024-06-11 12:47:19 | 徒然

 随分以前■「旦夕覺書」--月・19をご紹介した。筆者である旦夕(堀内傳右衛門)が、延岡・内藤家への急用を頼まれて一日で着するようにと出発している。
延岡は私の奥方の里だが、今では道路が随分整備されて車で2時間もあれば行くことができる。
当時延岡は「縣(あがた)」藩と称しているが、城下まで120㌔ほどある。日之影あたりから舟で下る算段であろうが、日之影迄90㌔ほどある。
参勤並みの歩きにしても二日がかりの距離になる。

 大雨の中それも雷雨の中、稲光に照らされる中、伝右衛門は高森の岩上(神)御關所にたどり着き馬を借りている。
処があいにく「銀」しか持ち合わせず支払いに難儀している。
たまたま関所に知り合いが居り、銭と換金できたのか無事に用事を済ませている。

 東国は金勘定、西国は銀勘定というが、庶民は銭勘定で生活している。
鼠小僧が一両小判を恵んでくれたとしても、庶民は換金することもできない。これは映画・TVの世界の話である。
もし両替所に持ち込んだりすれば、小判の出所を追1及され下手をすると牢屋に引かれ、小判は取り上げられたろう。
江戸 庶民の生活費というサイトにある通り、一番高給取りの日当が大工で333文(銀5匁)これで家族が一日をくらすのである。
銀50匁=1両とすると、一日1/10両の稼ぎだから、年300日として30両、1両10万とすると年収300万円、これが日雇い町人の最高クラスの稼ぎである。
これとて日常の生活は「銭」の世界であることは間違いない。

 処で無事に用を済ませた傳右衛門は帰熊して報告をすますと、日程に疑義ありとしてお調べを受けたようだ。
縷々説明をしたのであろう、これが認められて、熊本~縣(延岡)城下までの日程が変更されたという。

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■「手をついての挨拶」

2024-06-11 07:58:59 | 史料

    重賢公についての逸話である。

     江戸ゟ御下國の刻岡崎の入口に廣き所茶屋有之候所に松平丹波守様御家来乗物引馬にて下馬仕居
  被申候 拙者参候て其儘御召候へと申歸候得は唯今の者は家老と見へ申候 念を入れていねいにじぎ
    候や先刻丹後(ママ)守殿供の侍共四五人下馬仕候刻何も手を土に付居申候 我は手を付不申候て
    てじぎ仕候 定て乗物にさわると存候て手に土つき可申と存たると思召候 併御意にて手よこれ申は
    不苦候侍の手を土につき居候時は何時も我も手をつき候てじぎ仕候へと被仰聞候 ケ様の事も能々
    心付可被申候 如御意常に手よこれ不申様にと覺悟仕候事能く御覧被成候て右之通に被仰聞候と奉
    存候

 江戸からお下国の際、岡崎の入り口の広い所に茶屋がある場所に、松平丹波守様のご家来が乗り馬から下馬し居られる。
 私参りて挨拶をして帰ると、殿様は「相手は家老であろう、丁寧に辞儀したか」との仰せである。
 丹波守の家来衆は手をついておられたが、自分は殿様のお駕籠に手を触れることもあるので手をつかなかった、と申しあげると
 相手が手をついて居れば、こちらも手をつくのが当然であるとの御意である。私の振る舞いを良くご覧になられておられた。

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■春眠あけの蛙

2024-06-10 09:38:03 | ご挨拶

 日曜日朝の所ジョージの「目がてん」が大好きで欠かさず見ているが、昨日は40年も我が家の庭に池を作ってビオトープにされている方の話があった。
そこに絶滅危惧種のカエルが二種すんでいるという。
一匹は春眠中、一匹は春眠明けの状態だったようだが、私は「カエルの春眠」という言葉を初めて知った。
冬眠明けしたカエルは卵を産むと、再び春眠に入るのだという。

 我がマンションの下を健軍川が流れているが、年の8割方くらいは涸川である。
今の時期は時々雨が降って、流れができるが今日は流れは途切れてぽつぽつと何か所かの溜水ができている。
これが梅雨時や台風シーズンになると濁流渦巻く暴れ川となる。
そんな川に数日前からカエルの鳴き声がし始めた。声からして大型のカエルである。
先の話からすると、卵を産んでオタマジャクシになってという事になるが、やや上流部にある堰上の水たまりで生息しているのだろう。
毎年繰り返される自然の営みだが、この時期が春眠明けという事だろうか。

        手をついて 歌申しあぐる蛙かな  宗鑑

 

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■津川四郎右衛門殿「常々病者」

2024-06-10 07:09:18 | 人物
 管領斯波氏は左兵衛儀近の代、織田信長と不和になり永禄二年感触停止となった。
二男津川辰珍は蒲生氏や蜂須賀氏をへて、忠利代豊前細川家に客分として召し寄せられた(1,000石)。
肥後入国にあたり250石加増、寛永19年には妹(織田信重室)の子・細川家家臣津田三十郎に700石分知している。
万治元年に亡くなっているが、以前から病気がちであったらしい。
「大日本近世史料・細川家史料25」のp264「五三七八」にその消息が見える。寛永十六年六月十日付けの宮木越前以下
6名に宛てた書状である。
   一筆申入候、我等内津川四郎右衛門尉と申者、歳五十六ニ罷成候、常々病者ニ御座候間、
   乗
物ニ乗せ申度候條、被成御赦免可被下候、恐惶謹言
「病者であるから乗り物に乗る事をお赦しいただきたい」というのだが、名門の人成るが故の忠利の配慮が見て取れる。

寛永十六年(1638)56歳とあるから、没年である万治元年(1658)は76歳であることが判る。
一病息災で長生きした。辰珍には男子がなく、兄・近利の孫・辰房を継嗣としている。
 
 斯波義近---+-----近利-----数馬-----辰房
      |                                 ↓
      +---四郎右衛門辰珍===辰房---辰行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津川家
      |
      +------女
織田信長弟      ‖--------津田十三郎長相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津田家
 信秀----信包----信重
        
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■町在を読む

2024-06-09 08:44:50 | 徒然

   

 ある方から「町在を読んでほしいとのご連絡をいただき、その後メール添付の資料が送られてきた。
写真撮影されたものをPDF化されているが、メールでは映像が天地が逆さまになっている。
PDF映像の天地を正すのにどうするのか爺様は知恵が浮かばないから、PC画面でで文章を読むことができない。
どうせ釈文を作らなければならないからと、プリントアウトする。
そしてまずは内容確認のために、全体に目を通す。
ちょうど40枚80頁に及ぶ、中古町に居住していた人形師に関する記述である。
文化中期の頃で、人形職人の渡世が立ちいかなくなっている。そんな折に町別当が自らの貯えを提供して80数人の人形師の生業を援助している。
古文書解読の依頼をされたその方のお宅には、その当時を知ることができる「土人形」の原型「型枠」が多く残されている。
これらの復元と共に、中古町の人形師の歴史を紐解こうとしておられる。
不世出の人形師・松本喜三郎が生まれたのは少し時代が下るが、喜三郎が育った時代は又人形師の生業も持ち直して、多くの人形が作られていたのだろう。その後喜三郎の作品を修復した江嶋栄次郎などの出現は、中古町の主たる産業であった人形製造の豊かな技の蓄積があったからに相違ない。
町別当という役職が単なる町行政のトップというだけではなく、自らの貯えを提供して職人の生業を支えるというそんな奇特な行いがあって、近世古町・新町界隈の繁栄があったことを思い知らされる。
さて今日から爺様はそんな町在史料80頁の解読にチャレンジです。

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