津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■武家が「門」を閉じるという抵抗

2021-02-17 15:57:24 | 徒然

 古い絵図を見るとき、武家の家ごとに名前が書き込まれているが、上下左右の方向にバラバラに書き込まれている。
これはどうやら、門の位置が関係しているらしい。つまり縦書きにしろ、横書きにしろ頭の文字が向いている方向に「門」があったとされる。
扨これが、細川藩に残る絵図も同様かというと、これは何とも言い難い。

熊本城の二の丸には、細川家重臣の屋敷がずらりと並んでいる。西の大手門前正面には代々、沼田家の屋敷があった。
この沼田家に関する興味深い話がある。沼田家は2代・延元代の関ヶ原出陣、3代・延之代天草島原の乱出陣で二度にわたり留守居を仰せつかっている。共に大反発をしている。共に藩主や重臣が何とか納得させようと努力するが、夫々暗礁に乗り上げている。
幽齋夫人の麝香の実家である沼田家だが、だれもが嫌がる留守居を押し付けられた。

後者では延之の抵抗は激しく、大方が帰陣した後も納得出来ない延之の抵抗は激しく、終には「門」を閉ざしたという。家臣らは討手が遣わされることを覚悟したようだ。
そのことは、花畑邸にも知れわたることになり、松井興長が一人沼田邸を訪ねて懇切に説得に努めた。
結果延之は「門」を開かせたという。
武家が門を閉ざすという、主家に対する公然たる抵抗の意思表示の大事を窺わせる逸話である。


沼田家記「御家御代々御出陣之時分御留守居役御断之叓」に、内々の記録として生々しく記されている。

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