■慶長十年(1605)茲年忠隆主息女ヲ生ム、徳媛ト名ク。(永源師壇紀年録) (1605-1663)
男子:西園寺公満(1622-1651)
男子:西園寺公宣(1625-1670)---女(也須姫もしくは安姫)
↑ 鷹司家から聟を迎えた。西園寺実輔(25歳で死去)---致季
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菊陽町文化財西園寺左大臣実晴男随宜之墓 (熊本県菊池郡菊陽町HP)
■寛永十六年(1639)
5155 正月七日西園寺實晴室宛書状 (大日本近世史料・細川家史料25)
忠利が兄・休無(忠隆)の書状に添えて足袋などを送られたことに対して、姪・とく姫に対しての礼状
(細川忠隆)
きうむ殿ゟ人を御下シ被成候ニ付、御文、殊たひ三足うねさし、ひほまて御念入送くたされ、
一入満足申候、先々、此はるの御祝、めてたく申おさめ候、そこもと御ふしのよし、めてた
く候、われ/\もそくさいに罷有候、八代へもとしあけ御みまひ申候、三さい殿も一段御そ
くさいに御さ候まゝ、御心安かるへく候、なをかさねて申承候へく候、かしく
正月七日
おとく殿(西園寺實晴室、細川忠隆女)
御返事
■年月不詳
内膳家二代忠恒(とく弟) 左大臣
長岡友山老より檜垣の老女の繪に西園寺左府讃の歌御書寄付 (堀内傳右衛門の旦夕覺書・花 所載)