津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「旦夕覺書」--風・23

2014-11-11 07:24:15 | 史料

                        一、江戸芝御屋敷より上屋敷に御逗留被成候事御座候て御供衆代々勤申候 御供小屋一所にて大勢代々
                          居候 野々村藤太夫鑓持に惣小屋に居申候 前田彦太夫と申は日向有馬右衛門殿牢人にて不破五郎右
                          衛門姪婿にて候 唯今子供は不破十之允跡二百石取可申候 彦太夫事大口者にて男らしき咄斗申候 右の
                          鑓見候て拙者に向誰か鑓かと申候 藤太夫鑓と申候へは何も皆々鑓をもたせぬに知行自慢か何時も
                          おれか出る時はおれか鑓よと申候故拙者申はいや々々そふいやるなつく々々と見申藤太夫か親は歩
                          の使番にて島原働故にあの並は貮百石百五拾石被下候へ共清高院様に御附被成候故に三百石初ゟ被
                          下候 いか様親の咄を聞たる者各鑓もたせぬに一夜にも逗留するに奇特成事と神以心に思ふ別の事は
                          いかにもおくれ見くるしく然共鑓もやせたる事は必々別人にても譽たか能きと咄々伏居候處に梶原
                          勘助嫡子源太右衛門とて今の弓削新助伯父前々勘助が兄にて親身三百石取如取形能き男にて大酒呑に
                          て候 何と々々皆小屋におしやるかとてはしこのうへ一段目迄上り申故拙者申候あかられと申内に彦
                          太夫ははしこのきわに伏しながらねむりたる風情にてへをひり申候故に梶原は拙者に重て々々と申
                          歸候 跡にて彦太夫もあの様に見ぐるしき男にはへひりかけたが能きぞと申候故いや々々梶原は心には
                          扨々と思ふと見へて上りもせず戻たるとて咄居申候 上田新兵衛殿は親勘助心安く夫故子の源太右衛
                          門も参たると存候 上田殿より呼に参り候て色々の咄の内にいや御相小屋衆にはむさとしたる事のみ
                          と承申候 拙者詰居たる時分成とも少左様の事なき様に心付候様にと被申候故拙者申候は成程私も心
                          付申候へ共皆々若き内にはむさと仕候事のみにて或は御平小姓は御知行取高ぶり申候へばしかり又
                          知行取は親の跡被下自分の働にて取たる顔にて位牌知行にても御中小姓をば何共不存慮外者の何の
                          かと異名を付申候被仰聞候通にて御座候 随分私より若き衆には随分心付申候 扨是は多分梶原源太
                          右が咄御聞被成候て察申と申候へばいかにも/\先日被参候て惣小屋には居候事難成箇様々々と咄
                          被申し候神以其刻はつと存候へども何事なく立被申候 定て心底に立腹にて可有御座候 併箇様の儀は
                          心安き内は互に數の多きを自慢にて私なども若き時分は相小屋多く度々崎座候事に御座候 能く思召
                          被成御覧候へ箇様の咄皆々承候はゞ源太右はへをひり懸られ堪忍仕候と多分沙汰可仕候 其刻は必々
                          脇にて咄不被申様に仕度と存候と申候へば上田殿いかにも々々々々と被申候 其後沙汰不承候 尤拙者
                          彦太夫許其の時居申候 外に梶原ちらと参たる迄にて何の沙汰なく候 此沙汰大に成候時は梶原心な
                          らず彦太夫と打果不申は成間敷候 大鹽・藤崎両人の事熊本へ聞申候にて察可被申候 其後無沙汰候つる
                          事
                           

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■K家文書から・2 「長岡内膳正」のこと

2014-11-11 07:03:45 | 歴史

 K家からの願書が上げられた最初のあて先は「長岡内膳正」である。
内膳という名乗りでかつ長岡姓となると、細川内膳家(忠興長男・忠隆家)を考えがちだが、この家が内膳を名乗るのは四代・忠季からである。

元和元年に内膳正を名乗っているのは、家老・有吉家の四代目・興道である。この人は天正十一年の生まれ、元和四年九月に36歳で亡くなっている。

 「内膳(興道)儀武勇ハ親武蔵守(立吉)ニも不劣なれ共、御意ニ不叶儀有之、内膳跡御立不被成、武蔵跡を平吉(英貴)江被下、諸格式武蔵守通り被仰付候」と綿孝輯録は語る。そして「御意ニ不叶儀」とは「慶長七年之比忠興君より武蔵ニ御内意有之候ハ、お万様を嫡子興道江嫁とらるへきとの事ニ候江共」「興道所存有て御断申上度由」が原因らしい。嫁に取らせると忠興に言わしめた「万」こそ、愛娘のちに烏丸光賢に嫁ぎ、光尚室となる彌々を生む「万」である。
「参考:(忠興元和元年)十月、おまん様・于時十八歳・を御同道ニ而、御上洛被成、十一月十九日烏丸光賢卿江御輿入れあり(以下略)」

 元和二年依台命一国一城ニ定られ候間、小倉・中津の両城を残して諸城を御毀被成候、其時(有吉)内膳興道へ御意ニ、武蔵守以来高田の城へ被差置候処、今度公儀より被仰出之通ニ候条、小倉・中津之外城々御はき被成候間、小倉御城下ニ屋敷住居いたし、諸事先格之通城下ニ准し可申旨被仰付候

               http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/1a5fd242c2c3e56e1f2548e47cfe8802


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