津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

有吉家御家傳略 - 5

2010-01-06 08:45:51 | 歴史
 長岡内膳正興道君之傳
一、天正十一年立行君二御嫡子御出生忠興君より与太郎と名付可然旨御意被成候ニ付
   与太郎様と御附被成候御母君ハ森和泉と申人之御娵ニ而御万様と奉申後ニ緑樹院
   様と奉申候事
一、慶長ニ年興道君 此時者与太郎康政君と奉申候 江弐千石之御擬作にて御側詰被仰蒙候事
一、同五年九月濃州岐阜之城主岐阜中納言秀信卿居城城責之時興道君御十八歳ニ而御
   初陳御家司葛西九兵衛正重を初田井助八・上田六右衛門・中村小八郎・馬場甚四郎・
   吉出甚助騎馬歩卒を相従へて瑞勝寺山より本丸江押懸る此時葛西九兵衛正重簀戸
   口ニ而羽柴越中守忠興内有吉与太郎康政と度々名乗けるが■より寄手の他国衆四五
   人見へ申候程なく城中より矢石を■したるが簀戸口を突て出るを興道君 此時康政君と奉
   申候 
一番ニ鑓を御合被成突懸る敵少引入けるを讀て簀戸口江御馳入被成候ニ付鑓を
   合突合ける処を興道君鑓を御■被成づと御引組被成小坂之上ニ而敵を御組伏被成候
   処一間斗り御ころひ被成候ニ付敵上ニ成候処を興道君下より敵之胸板ニ御自身之御
   甲之向立一ノ谷を以御者●かへし被成候と被成候時御家司葛西九兵衛正重興道君へ
   鑓を渡し九兵衛太刀打して敵を打拂簀戸口之内坂下ニ興道君敵と御組合被成候処御
   ころび落被成候ニ付敵上ニ成りたるを見て九兵衛取たる首をなげ捨上なる敵を一太刀
   打て引除んとしけるを興道君御者●返し被成押伏て首を御取被成候事
一、関ヶ原二手興道君大谷刑部少輔吉隆之幌武者古川太兵衛と互ニ御名乗合被成御馬
   上ニ而鑓を御合被成太兵衛を御馬上より御突落被成御飛下り被成り候得て直ニ首を
   御取被成候事
一、興道君福嶋左衛門太夫正則卿之備之前を御通り被成候時正則被申候ハ何連之手之
   衆と被尋候ニ付羽柴越中守内有吉与太郎康政と御名乗被成候處正則卿被申候ハ有
   吉と候得ハ四郎右衛門子息ニ而候哉手を被負候と見へ候殊ニ高名之験も見へ候若輩
   之躰ニ見事なる殊越中殿へ参會之節噺し可申と被申候事
一、丹波福知山城主小野木縫殿助田邊御籠城之節小野木大将たる故関ヶ原御陳之後忠
   興公御責被成興道君 与太郎康政君 御出陳被成候此時御家士田井助八福知山ニ而討
   死仕候事
一、慶長十三年正月興道君武蔵守様御跡目無御相違諸御格式共ニ武蔵守様節之通被仰
   出此時長岡之御称号并興之字御拝領長岡内膳正興道君と奉申豊前言田之御城主ニ
   而被成御座候
一、同十九年諸大名ニ命して江戸御城内之石垣を被為築忠興公江も此御役を被仰蒙依之
   惣奉行として内膳正興道君御人数を御指揮被成御精勤被成候秀忠公 台徳院様 御普
   請場を御櫓より御覧被成り忠興丁場之奉行ハ誰かと御尋被成候ニ付長岡内膳と申者
   ニ而御座候段被仰上候へハ有吉与太郎事かと被仰候ニ付き与太郎ニ而御座候段被仰
   上候処此方江召せとの御上意ニ付長井大炊頭様より只今登営可仕旨御普請場へ被仰
   下故早速御登城被成候大炊頭様御同道ニ而御前江被召出岐阜関ヶ原二而之様子ども
   被遊御尋候依之忠興公御働之次第被仰上候処其方働之様子申上候様ニとの御意ニ付
   御慎之被成荒増被仰上候へハ若輩手柄者じやと御側衆へも御意被成候左候へ而御普
   請場を御櫓より御覧被成候時大勢ニ而其方居候処不知ゆへ鑓を立置可申との御意ニ付
   奉畏候段仰上御側衆へ被仰候ハ上意ニ而者御座候へ共御城内之儀ハ御大名衆鑓遠
   慮之御格式ニ而御座候得ハ上意とは乍申恐多由を被仰上候へハ其旨達上聞至極所存
   尤なり然らハ為御目験持せ可申との御意ニ而其比御間中ニ千本鑓とて御飾有之候白熊
   茶筌之御鑓之内を被下旨ニ而無遠慮持せ可申すとの上意ニ而御座候ニ付き即日より丁
   場江御立被成候此段忠利公 妙解院様 被聞召殊外御賞美被成候事
一、興道君へ本田佐渡守様長井大炊頭様より猶又御登城可被旨被仰附下候ニ付御登城被
   成候処早速御前江被召出難有上意御座候へ而御両侯より此間之精功秡君羊(群)なり
   折々被為召御機嫌ニ被思召上候依之御秘蔵之御馬東本願寺より被差上候虵栗毛と申
   御馬長ヶ八尺也被為拝領随分秘蔵仕自然之儀も候ハゝ御用相勤候様との御意の趣両
   侯より被仰渡難有仕合ニ奉存候段御請仰上候事
一、興道君御登城之節御料理等折々御頂戴被成毎度之御懇意ニ付御持傳被成候芦屋釜
   御献上被成候事
一、元和年中ニ一國一城端城の外御制禁之旨被仰出有之候節被仰付候ハ言田之城二武
   蔵守以来在城被仰付置候得共今度被仰出候ニ付而者小倉中津の御城之外ハ御解被
   成候間小倉御城下ニ屋敷居住被仰付此節も丹後宮津之御城下ニ屋敷御住居被仰付候
   節之通直ニ御家柄ニ被為對御城主の各二被仰付置候屋敷江七段の門松を立諸事城下
   之格ニ可被相心得旨被仰出候依之小倉御城下ニ御引出候成御屋敷御住居被成候御家
   ニ七段の門松を御立被成候子細ハ丹後ニ而御城主之御約束之節安良之御城二被成御
   座候時分武蔵守様四郎右衛門様と奉申候時分天正六年正月三日攝州伊丹之城主荒木
   攝津守村重謀反ニ付而藤孝公忠興公御出陳有之候へ而正月三日荒木が端城二押寄給
   ふ時立行君城門を壱番ニ御乗り破被成■兵搦手より落去しけるゆへ御働之験ニ城門ノ
   七段之枩を御自身御抜取被成候得て御帰被成候藤孝公御父子御覧被成高名の験なり
   汝が陳やの門二可立置よ御意被成候其節松赤松なりしゆへ二其後御門松を片々ハ御
   城之松と云而黒松を御立被成片々ハ御武功之松といふて赤松を御立被成候を吉例とし
   て御約束の御城主之格ニ御座候ニ付七段之門松被成候依之御家中ニも五段松立て申
   候事
一、興道君元和四年九月二日御卒去被成候昌傳院様と奉申し候事
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