津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■史談会11月例会

2014-11-15 18:46:31 | 熊本史談会

 今日は史談会の11月例会、時習館教授・高本紫溟先生のご子孫高本保夫会員に、御先祖である高本李彌太先生の五言律詩の解説をいただいた。
まずは絶句・律詩の基本的法則に付いてお話しいただいたが、半世紀以上前の国語の時間に偶数行の最末尾に押韻するいわゆる「韻をふむ」事くらいしか覚えておらず、何とも難しいことではあったが久しぶりによい勉強ができた。李彌太先生の詩・三編と李白の詩一編、白居易の古詩「長恨歌」並びに「売炭翁」の解説をいただく。御年92歳ユーモアを交えての1時間20分程の長時間、元気に解説いただいた。自作の七言絶句四編は時間の都合で次回に再度解説をしていただくこととした。

その後、K家文書を当方からご説明をし、来年のスケジュールにのせる宇土藩主の参勤交代に随従した藩士の道中日記を御紹介して本題終了。
100数日をかけて世界一周の船旅から帰られたK会員(82歳)の旅行談などを伺い、笑い声に包まれた例会であった。

近くのホテルで昼食後T・DrとN君と三人、慈眼庵の刑部家墓所・浅井・牧・堀部家などのお墓を廻り、その後小笠原少齋家の墓所を訪ね、堀内傳右衛門のご子孫の御宅を訪ねる。某珈琲店で休憩して解散したのはそろそろ五時といった頃、今回も楽しい例会となった。

来月は例会は御休み、忘年会を開催して今年の〆と相成る。いろいろ課題を残しているが偏に事務局の至らぬところである。深謝そして感謝。 

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■K家文書から・3 「加納曲齋」のこと

2014-11-15 07:05:20 | 歴史

 K家文書においてはこの書状の最期の宛名となっているのが加納曲齋である。忠興の決済を必要とする書状であるから、忠興の側近であることが判る。
曲齋から忠興へと上げられ忠興のローマ字印をもって決済されている。

加納曲齋は田邊城籠城衆の一人である。綿考輯録は次のように紹介している。

 ■加納曲斉 
相国寺首座(シュソ)なりしか、還俗して丹後の町人になり居候、総て律義もの成故、今度(田邊城籠城)も致籠城首尾よかりしとて、豊前にて千五百石被下、町奉行被仰付、飯岡豊前(後・誅伐)と相役也 (綿孝輯録・巻五)

相国寺は五山第二位の京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺である。山外塔頭に金閣寺・銀閣寺を有する。
曲齋はその首座にあった人だが、還俗して丹後に住していた折幽齋の居城・田邊城が三成の手により攻められた折城に入り籠城に一味した。
その故を以て細川家家臣として迎えられた。二代目以降は松山姓を名乗り明治に至った。 

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