23日付の地方各紙は、<昭和天皇 晩年まで苦悩 「細く長く生きても戦争責任のことをいわれる」>(中国新聞)、<昭和天皇 戦争責任を意識 「長く生きてもいわれる」>(沖縄タイムス)などの見出しで、元侍従・故小林忍氏の「日記」(写真中)を1面トップで、解説、「日記」詳報などとともに大々的に報じました。すべて共同電です。全国紙では産経新聞だけが地方紙と同様の扱いをしました。
これはきわめて悪質な政治的意図をもった記事(配信)、扱いと言わねばなりません。
第1に、事実を逆転させて天皇・裕仁の「戦争責任」を隠蔽し、美化していることです。
一連の記事は、裕仁天皇が「戦争責任」で「苦悩」たかのようにいいます。共同通信とともに「日記」を分析したという半藤一利、保阪正康の両氏も、「昭和天皇の心の中には、最後まで戦争責任があった」(半藤氏)「人間的な感情が湧いてくる…天皇が人間になっていく」(保阪氏)などと、裕仁天皇を美化しています。
しかし、報道されている「日記」詳報を読めば、裕仁の「心の中」にあったのは、自身の戦争責任ではなく、戦争責任から逃れたことに対する批判であったことが分かります。
1975年11月24日の「日記」にはこう記されています。
「御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており…」。
「帰国後の記者会見」とは、1975年10月31日の記者会見です。そこで裕仁は自身の戦争責任について聞かれ、こう答えています。
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」
「戦争責任」を「言葉のアヤ」「文学方面」と揶揄し、質問にまともに答えようともしなかったのです。ここに「戦争責任」に対する裕仁のとらえ方、姿勢がはっきり表れています。批判は当然です。
裕仁が「苦悩」したのは、こうした戦争責任に対する無責任で非人間的な態度に対する「世評」の批判です。けっして自身の「戦争責任」自体ではありません。この違いは天と地ほどあります。
各紙が見出しにとっている「長く生きても…」という言葉(1987年4月7日の日記)も、「戦争責任のことをいわれる」ことが嫌だからということです。
それをまるで裕仁が自身の「戦争責任」の良心の呵責に「苦悩」していたかのように言い、「人間的」と美化するのは、黒を白と言うようなものです。
第2の問題は、明仁天皇の退位が来年5月に迫ったこの時期にこうした記事が出たことの政治的意味(意図)です。
記事ははしなくも、「敗戦から73年。来年には『平成』も幕を閉じる。戦争の記憶が遠くなる中、昭和天皇が晩年、どういう思いで『大戦』に向き合ったのか、心奥に触れる価値ある日記だ」と書いています。ここに共同通信社およびその配信を大きく扱った各社の政治的意図が表れているのではないでしょうか。
それは、「平成」の終わりにあたり、昭和天皇の「苦悩」「人間性」を強調することによって、「天皇の戦争責任」を最終的に封印する。その状態で徳仁に代替わりさせたい、ということではないでしょうか。
裕仁の戦争責任を隠ぺい・封印するだけではありません。それは明仁天皇にも関わる重大問題です。明仁天皇はこれまで父・裕仁の戦争責任について明確に見解を述べたことがありません。裕仁を父に持ち、皇太子として薫陶を受け(写真右)、裕仁の後を継いで天皇になった明仁天皇には、「天皇の戦争責任」を認め謝罪する責任があるのではないでしょうか。「過去を顧み、深い反省」(8月15日「戦没者追悼式」での言葉)と言うなら、まず「天皇の戦争責任」について「反省」すべきではありませんか。「慰霊の旅」はけっしてその代わりにはなりません。
しかし明仁はそれをしないまま来年退位しようとしています。今回の記事は、その明仁の責任放棄を側面から助けるかのように、”裕仁の苦悩”で「天皇の戦争責任」問題にピリオドを打とうとするものではないでしょうか。
しかし、「天皇の戦争責任」が消えることは決してありません。
敗戦時にそれを明確にしなかったのは「国民」の責任であり、そのツケは子々孫々まで引き継がねばなりません。天皇が何代変わろうと、「天皇の戦争責任」を明確にし、教訓を導き、被害を与えた東アジアの人々に謝罪し賠償を行わねばなりません。それまで「天皇の戦争責任」が風化することはけっしてありません。