韓国政府は18日、安倍政権の半導体材料輸出規制の不当性をWHO(世界貿易機関)に改めて訴えました。この問題の発端は、帝国日本に強制動員された元徴用工の訴えを韓国大法院が認め、日本製鉄、三菱重工に損害賠償を命じた(2018年10月、11月、写真左)のに対し、安倍首相が「この問題は1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決済み」などとして反発し、韓国に対する輸出規制の報復に出たことにあります。
「解決済み」という言い分については、「請求権協定」で「解決」とされた「請求権」は「財産請求権」に対する「外交保護権」にすぎず、「慰謝料等の個人請求権は消滅していない」(2018年11月14日衆院外務委員会、三上外務省国際局長答弁)ことは政府自身が認めています。
安倍首相の言は国際的に通用しない居直りですが、ここでは安倍氏が金科玉条のように持ち出す「日韓請求権協定」の本質は何だったのかを確認します。「請求権協定」は「日韓基本条約」と一体で、1965年6月22日に調印されました。
「日韓条約」は第2条で、韓国併合条約(1910年)以前に結ばれた条約・協定だけを「もはや無効である」としました。「日本側は併合条約そのものは有効であって、第二次世界大戦後の大韓民国建国によって無効となったと解釈した」(文京沫立命館大教授『新・韓国現代史』岩波新書)のです。そして、「請求権協定」による「8億ドルの経済協力」で賠償問題を封じました。
「日韓条約」「請求権協定」の眼目・本質は、日本の植民地支配責任の棚上げ・責任放棄だったのです。当時の首相は佐藤栄作。安倍晋三氏の祖父・岸信介の実弟です(写真右)。
植民地支配責任棚上げの意図は、条約へ向けた数次にわたる日韓会談の中での日本側代表の発言にも表れていました。たとえば、第3次会談(1953年10月)において日本側首席代表の久保田貫一郎はこう言いました。
「(韓国が)賠償を要求するなら日本は、その間(植民支配の間―引用者)、韓人に与えた恩恵、すなわち治山、治水、電気、鉄道、港湾施設に対してまで、その返還を要求するだろう。…当時を外交史的に見たとき日本が進出しなかったらロシア、さもなくば中国に占領され現在の北韓のように、もっと悲惨だったろう」(第三次韓日会談請求権委員会会議録。文氏前掲書より)
安倍晋三氏や麻生太郎氏ら今日の歴史修正主義者に通じる暴言・妄言です。
「日韓条約」はアメリカの東アジア戦略に沿ったものだったことも銘記される必要があります。
「日韓条約はアメリカからすればインドシナ戦争(ベトナム戦争―引用者)の後方支援体制づくりとして結ばれた条約であった。すなわち、韓国がインドシナ戦争に軍事的に貢献し、この韓国を日本が経済的に支える仕組みがこの条約によってつくりだされた。…つまり、日韓条約は、六〇年代の軍事や経済をめぐる米日韓の利害の一致を反映するものであった」(文氏前掲書)
この屈辱的な「条約」「協定」を受け入れた韓国の政権は、軍事クーデターで成立した朴正熙政権でした。当然、韓国内では「条約」に対する激しい反対運動がおこりました。
「朴正熙はわずか八億ドルと引き換えで、植民地帝国だった日本の責任をウヤムヤにし後に日本が戦後補償は解決済みであると主張する口実を与えた。韓国でこれを屈辱外交であり、売国的取引であるとして、大規模な反対運動があったのはそのためである」(鈴木道彦独協大名誉教授『越境の時 一九六〇年代と在日』集英社新書)
日本でも反対運動は起こりました。しかし、それは韓国の比ではありませんでした。
「日本でも反対運動があったが、それが韓国に比べて弱々しいものだったのは、過去の歴史への反省の欠如と比例するものだった」(鈴木氏前掲書)
「日韓条約」「請求権協定」調印から今日で55年。棚上げされたままの植民地支配責任を棚卸しするのは、今に生きる私たち日本人の責任です。