アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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「ミッチーブーム」と「新元号ブーム」

2019年04月09日 | 天皇制とメディア

     

 あす10日、超党派の「天皇陛下御即位30年奉祝国会議員連盟」が主催する「感謝の集い」なるものが開かれます。この日は天皇明仁と皇后美智子が結婚して60年にあたる日です。

 明仁皇太子と正田美智子氏の婚約が正式発表されたのは1958年11月27日。それから結婚の59年4月10日まで、メディアは「美智子・婚約報道」に狂奔しました。俗にいう「ミッチーブーム」です。

 それは「皇太子が『平民』美智子妃と『恋愛結婚』をしたことが大々的に報じられ、今日に続く皇室のテレビ・週刊誌報道の先駆けとなった」(『天皇・皇室辞典』岩波書店)といわれるものです。その「ミッチーブーム」はいったい、どのような政治的役割を果たしたのでしょうか。

 「婚約発表」をスタート合図に新聞・テレビは一斉に「美智子報道」に走り出しました。それには仕掛けがありました。新聞・テレビ各社は、「皇太子妃の選考についての皇室会議開催の予定記事および放送は、宮内庁が正式に発表した場合にのみ、その発表の限度内で扱う」などとする11項目の「報道協定」(1958年7月29日)を結んでいたのです。

 メディア各社にその「協定」を結ばせた黒幕がいました。皇太子の教育掛(東宮御教育常時参与)として明仁に福沢諭吉の思想を叩き込み、妃選定でも中心的役割を担った人物、小泉信三その人でした。

  松浦総三(ジャーナリスト)は、「これは報道協定となっているが、事実は報道統制であり、報道の権限は全部宮内庁が握ることになる」とし、「戦後、新聞が天皇制に全面降伏するのは、美智子妃の報道にかんして、小泉信三が、各新聞社を訪問して、新聞社間で報道協定をむすんだ、皇太子妃報道に関する協定からであろう」と指摘しています(『松浦総三の仕事1 マスコミのなかの天皇』大月書店1984年)。

 事実上の報道統制下で各紙が「妃報道」に狂奔した結果、何が起こったでしょうか。

 当時は、岸信介内閣が日米安保条約の改定を目指し、反対運動を弾圧するための警職法の成立を目論んでいるさ中でした。
 松浦によれば、「(1958年)11月の新聞記事はわずか4日間(婚約発表から―引用者)なのに(美智子報道が)52回。ここで重要なのは警職法反対の記事が51回、つまり、婚約記事のキャンペーンによって、警職法反対というムードを完全に帳消しにしてしまったことだろう。もうひとつ、注目すべきは、あと一年半後にむかえる安保改定の記事は、婚約記事にはじきだされてたった10回しかないことである。12月になると、皇室記事は23回、警職法は3回になる。安保記事は…9回」(松浦総三、前掲書)

 「ミッチーブーム」の皇室報道が警職法・安保改定反対の声・報道をかき消したのです。

 翻って、岸信介の孫である安倍晋三首相は、今月1日「新元号」を発表しましたが、メディアがその報道に狂奔している隙に、翌2日、閣議で陸上自衛隊幹部をシナイ半島に派遣することを決定しました。2015年に成立を強行した戦争法(安保法)で新設された、国連が統括していない「国際連携活動」の初適用という重大な節目です。

 ところが各紙・テレビは、引き続き「新元号」報道に明け暮れ、陸自派遣の閣議決定は後景に追いやられました。これはまさに「ミッチーブーム」現象の再現ではないでしょうか。

 松浦総三は「支配層にとって戦後天皇制はどこまでも”安保堅持の象徴“でもあった」(前掲書)と断じていますが、この指摘は今日にも当てはまるでしょう。
 日米安保=軍事同盟堅持の”象徴”、そのための政治利用。ここに国家権力にとっての「象徴天皇制」の存在価値があるのではないでしょうか。

 


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