1972年5月15日、那覇市民会館で行われた「復帰式典」で屋良朝苗沖縄県知事(当時)はこうあいさつしました。「沖縄県の復帰は疑いもなく、ここにやってきました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情にてらして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望がいれられたとはいえないことも事実であります」。米軍基地の残存・強化に加え、核兵器持ち込みの密約まで明らかになったいま、屋良知事の指摘はますます悲しい方向で実証されています。市民会館の向かいにある与儀公園では、大雨の中、式典と並行して抗議の県民総決起大会が開かれました(写真左)。
その与儀公園に、蒸気機関車D51(デゴイチ)の実物が1両保存されています(写真右)。北九州市門司区の国鉄(当時)労働者有志が、「復帰」を記念して沖縄の子どもたちを北九州に招待しました。72年夏、小学5、6年生72人が8日間、国鉄職員の里親のもとで暮らしました。沖縄を離れるのは初めて、まして機関車など見たことがなかった沖縄の子どもたちにとってはまさに夢の生活、夢の乗り物でした。口々に「機関車がほしい」。それを聞いた里親の国鉄職員らが実物の機関車を贈ろうと決めました。しかし600㌔離れた島に重さ90㌧のD51を運ぶのは至難の業。それを全国の1400万円余の募金が後押ししました。そうして運ばれてきたのがこのD51です。当時招待された子どもの中には、わずか8日間の里親と今も家族づきあいを続けている人がいます。人の絆は時間の長さでも、距離の遠さでもありません。
41年目の「5・15」。沖縄では「祖国復帰」への批判が高まり、日本は「祖国」などではないとの声も少なくありません。対照的に、「琉球独立」論がかつてなく広がっています。
日本ははたして沖縄の「祖国」なのか、「復帰運動」は正しかったのか。大局的な政治的社会的視点とともに、草の根の庶民の視点も含め、「5・15」の全面的な検証をすすめ、沖縄と日本の進路を探ることは急務です。それはもちろんウチナーンチュウだけの問題ではありません。私たちヤマトンチュウ自身の課題です。D51に示された沖縄と本土の絆を今に。
<今日の注目社説>(15日琉球新報の社説から)
☆<本土復帰41年 自己決定権の尊重を 揺るがぬ普天間閉鎖の民意>
「1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約に基づき米国施政権下に置かれた沖縄が日本に復帰して、きょうで41年を迎えた。『復帰してよかった』と心から喜べない。残念だが、そんな思いの県民が少なくないだろう。・・・基地、振興策で多くの矛盾を抱える状況にいら立ち日米の対沖縄政策を『植民地政策だ』と批判する声が増えている。・・・必ずしも『独立』が県民の多数意見ではない。が、人間としての尊厳を傷つけるこの国の有り様を嘆き、悲しむ中で、『日本に復帰すべきだったのか』『自己決定権を取り戻すには独立しかないのでは』といった意見を各地のシンポジウムなどで耳にすることが多くなった。県民は憤っている。深く悩み、悲しんでいる。日本にとって、沖縄とは何なのだろうか」