広島県福山市の小学校養護教諭・桑野千春さんは、仕事の合間を縫って、東北の被災地へ通い続けています。もちろん自費で。
桑野さんの講演会(「東日本大震災被災地を巡って」~子どもたちの思いを大切にしながら~)が、15日、福山市人権平和資料館でありました。約50人が集いました。(写真はいずれも桑野さん撮影のスライドから)
「被災地へ行かなかったら、きっとずっと後悔する」
桑野さんのその思いは、20年前の「阪神淡路大震災」にさかのぼります。「何かしたい」と思いながら当時小学生でなにもできなくて、「とても悔しかった」。
そして迎えた「3・11」。当時呉市にいてなかなか動けなかった桑野さんが、やっと宿願を果たしたのが、2013年12月31日。それから昨年末までの1年間で、岩手に4回、宮城を3回訪れました。
桑野さんや、桑野さんが誘って一緒に行くようになった同僚の先生を、子どもたちは待ちわびています。桑野さんたちが通う前から行われている「保健室の姉さん『ちょこっと遊ぼう』」(毎月1回)は、子供たちとおとなが一緒になって食べたり遊んだりする人気企画。桑野さんたちもさっそく仲間入りです。
「広島にいてできることはないだろうか」。
桑野さんが考えたのは、「ちょこっと遊ぼう」で使う竹の水鉄砲を送ること。同僚教師の協力を得て作られた竹の水鉄砲が、広島と宮城を結びました。
子どもたちや仮設住宅の人たちとのふれあいだけでなく、桑野さんには「必ず行く所」があります。多くの犠牲者を出した石巻市の大川小学校と門脇小学校です。
「大川小学校の先生たちはなぜ子どもたちを山へ逃がさなかったのだろうか。自分だったらどうしただろうか」
小学校教諭の桑野さんにとって、被災現場の小学校は特別な所なのです。
「被災地へ行ってみて、聴いてみなければ、分からないことがたくさんある」
出会った人たちの言葉を、桑野さんは大切にしています。
「生きていれば、だれかが助けてくれる」(ハンドマッサージをしながら話した女性)
「風化したら人が来なくなる。建物があるからそれを見に人が来る。風化させないために残してほしい」(女川町の「震災遺構」存続をめぐって)
「(桑野さんに)気を付けて旅行を続けてくださいね」(陸前高田の地域の人たちがつくったカフェで、向かいの席の女性から)
桑野さんが「ぜひ行きたかった」というのが、「風の電話」(岩手県大槌町)です。
ガーデンデザイナーの佐々木格(いたる)さんが、海の見える小高い丘の所有地に建てた電話ボックス。そこには電話線がつながっていない「黒い電話」が置かれています。
電話の横には、佐々木さんのメッセージがあります。
「風の電話は心で話します 静かに目を閉じ 耳を澄ましてください 風の音が又は浪の音が 或いは小鳥のさえずりが聞こえたなら あなたの想いを伝えて下さい 想いはきっとその人に届くでしょう」
脇にはノートが置かれ、電話で“話した”人たちの想いが綴られています。
「あの日から2カ月たったけど、お母さんどこにいるの。親孝行できずにごめんね。会いたいよ。絶対、見つけてお家に連れて来るからね」(大槌町広報誌より)
以前友人を亡くした桑野さんも、「風の電話」を手にして、涙が止まりませんでした。
なぜ被災地へ?
「支援のため、という思いではありません。、行きたいから。人のためでなく、自分も癒されるから」
「当たり前のような毎日だけど、当たり前ではない。人は生かされている」
「保健室にくる子どもたちは小さな体で訴えています。子どもたちは日々、大切にされているだろうか」
桑野さんにとって、被災地と日常生活の場は、つながっています。
「これからも時間がとれる限り行きます。宮城、岩手のほかに、福島にも行きたい」
「風の電話」は、童話作家・いもとようこさんによって絵本になっています。その最後の場面。鳴らないはずの電話が鳴り続けます。電話ボックスをつくった、くまのおじさんが驚いて行ってみます。確かに「黒い電話」は鳴っています。
「届いたんだ。みんなの願いが届いたんだ」