アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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天皇制戦時体制の歴史示す「幻の甲子園」

2018年08月07日 | 天皇制と日本社会

     

  5日開幕した「第100回全国高校野球選手権大会」の開会式に皇太子夫妻が出席しました(写真中)。皇太子は「あいさつ」で、「これまで1世紀にわたり、青少年の夢を育み国民の大きな関心を集めてきた高校野球が果たしてきた役割は大きい」と述べました。

 これに先立ち、主催の朝日新聞は7月30日付社会面で、「皇室 球児に寄り添う」という大見出しで、これまで明仁天皇や皇太子ら皇族がのべ7回「夏の甲子園を訪れている」など、皇室と高校野球の関係をアピールしました。

 こうして「夏の甲子園」が「100回」=「1世紀」にわたり常に「青少年の夢を育み」、皇族が「球児に寄り添」ってきたかのように描くことは、高校野球と日本の歴史の重要な部分を捨象することになります。

 第1回大会(当時は中等学校大会)が行われたのは1915年。今年2018年が「第100回」では計算が合いません。42年から45年までの4年間、戦争のために中止になったからです。41年も途中で中止になりましたが、回数(第27回)にはカウントされています。 

 「(1941年)7月に文部省から全国運動競技開催中止命令が発せられ、スポーツの全国大会はすべて禁止されました。甲子園出場をかけた地方大会の真っ只中。…いきなり発令された中止令に、球児や関係者はどんなに失望したでしょう」(小野祥之氏『高校野球100年を読む』ポプラ新書)

 ところが政府は、41年大会を途中で中止させておいて、翌42年には文部省自らが主催者となって「夏の甲子園大会」を行っています。通算回数には数えられていないこの大会は「幻の甲子園」と言われています。それはどんなものだったか。以下、早坂隆氏(ルポライター)の『幻の甲子園 戦時下の球児たち』文芸春秋刊などを参考に振り返ってみます。

 政府が中止にした直接的理由…戦争の深まりの中、学徒の移動に制限が設けられたのが、中止の直接的な原因。この時期、軍関係の人員や物資の輸送を優先的に行うため、交通機関に多くの規制が課せられ、全国的に旅行制限が設けられていた。

 位置づけ…「大日本学徒体育振興大会」の中の一競技という位置づけ。大会の競技種目は野球のほか、柔道・剣道・相撲・陸上・水上・籠球・蹴球・射撃・「戦場運動」の10種目。「戦場運動」とは「手榴弾投擲突撃」「行軍競走」など。

 開会式(1942年8月22日)…場所は奈良・橿原神宮(初代天皇とされる神武天皇宮)の外苑運動場(野球競技の実施は甲子園)。分列行進で始まり、周囲には、軍服姿の陸軍将校たちが並ぶ。時の東条英機首相も出席し、戦時色の強い祝辞を述べた。大会の謳い文句は、『戦時下に示さん、日本の底力』。橋田邦彦文相(のちA級戦犯容疑者)が裕仁天皇の「青少年学徒に賜はりたる勅語」を「奉読」。

 特別ルール・呼称…文部省の通達によって、「選手」は「選士」に。「打者は投手の投球をよけてはならない(突撃精神に反する)」、「選士交代も認められない(最後まで死力を尽くして戦え)」などの特別ルール。

 甲子園での開会式・閉会式…出場16校の主将がスコアボードの前に一列に並んで綱を引き、特大の「日の丸」を掲揚。宮城(皇居)遥拝「君が代」斉唱、祈願黙とう。「戦士答辞(選手宣誓)」では「我らは…必勝不敗の信念を培い、皇国の次代を双肩にになうべき青年学徒として、あくまでも正々堂々と戦う」。閉会式では、選手、観客が一緒に「海ゆかば」(天皇のための死を賛美する歌)を歌う。

 球場内スローガン…スコアボードの左上に「勝って兜の緒を締めよ」、右上に「戦ひ抜かう大東亜戦」(写真右)。スタンドにも「防諜は民一億の非常戦」のスローガン。

 これでは野球大会というより、野球に名を借りた「学徒動員」であり「戦意高揚大会」です。

 こうした、「球児に寄り添う」とは真逆な歴史が高校野球史にあったことを忘れることはできません。
 その黒い歴史を刻んだ帝国日本の政府・軍の最高責任者が天皇だったことは言うまでもありません。

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