

天皇一家は5日、対馬丸記念館(那覇市)を訪れる前に記念館近くの「小桜の塔」(対馬丸犠牲者の慰霊碑)に行って供花しました(写真左)。
しかし、「海鳴りの像」(写真右)には行きませんでした。同じく沖縄戦による船舶犠牲者の慰霊碑にもかかわらず。対馬丸記念館のすぐ裏にあるにもかかわらずです。なぜなのか。
この問題を再び問わねばなりません。再びとは、11年前(2014年6月27日)に明仁天皇・美智子皇后が対馬丸記念館を訪れた際も、今回と全く同様に「小桜の塔」には行っても「海鳴りの像」には足を向けなかったからです(14年6月28日のブログ参照)。
徳仁天皇はおそらく「海鳴りの像」の存在自体を知らなかった(今も知らない)のでしょう。なぜなら、対馬丸記念館でこんなやりとりがあったからです。
<天皇陛下は「対馬丸だけが狙われたのですか」と質問。…平良次子館長は「当時は制海権が米国に渡っている状況で、日本の船という船が狙われている危険な状況でした。対馬丸が注目されていますが(戦時遭難船舶は)沖縄関係でも30隻ほどあります」と説明した。>(6日付琉球新報)
天皇は対馬丸以外に沖縄戦で撃沈された船舶があったことを知らなかったのです。認識不足も甚だしいと言わねばなりませんが、これはただの認識不足ではすまされません。
なぜなら11年前、明仁天皇の訪沖に際し、沖縄の戦時遭難船舶遺族会が、ぜひ「海鳴りの像」も訪れて船舶犠牲者全体を慰霊してほしいと、宮内庁に文書で申し入れていたからです(14年6月20日)。にもかかわらず宮内庁そして明仁天皇はこれを無視しました。
宮内庁が遺族会の要請を明仁天皇に伝えていれば、明仁天皇は対馬丸以外に犠牲になった船舶があり、それを慰霊する「海鳴りの像」があり、遺族が訪れることを望んでいることは知っていたはずです。知っていながら息子には伝えなかったのか。それともそもそも宮内庁が遺族会の要請を握りつぶしたのか。いずれにしても看過できない問題です。
「小桜の塔」と「海鳴りの像」の違いは何でしょうか。
それは「小桜」が日本軍(大本営)の命で児童らを疎開させた軍用船・対馬丸の慰霊碑なのに対し、「海鳴り」は民間船舶の慰霊碑だということです。
日本政府は軍人・軍属の犠牲者には手厚い(相対的に)補償を行っていますが、民間の犠牲者にはまったく補償を行っていません(「受忍論」)。同じ天皇制国家の国策による犠牲者であるにもかかわらずです。東京や大阪、そして沖縄(10・10空襲)など各地の米軍による空襲犠牲者が補償を求め続けていても、政府が一貫してこれを拒否しているのはその表れです。
天皇が「小桜の塔」には行くが「海鳴りの像」には見向きもしない、それどころか徳仁天皇は対馬丸以外に犠牲になった民間船舶があることすら知らない。その背景には、日本政府が戦争犠牲者を「軍人・軍属」に限定し、民間人を切り捨てている「戦後処理」における重大な根本問題があります。
そしてそれは、明仁天皇や徳仁天皇の「慰霊の旅」とは、そうした政府の差別政策・歴史改ざんの上で演じられているパフォーマンスにすぎないことを示しています。