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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

天皇が「公務軽減」を受け入れないのは憲法違反

2016年07月17日 | 天皇制と憲法

   

 天皇の「生前退位」が急浮上してきたのはなぜでしょうか。

 「(天皇は)『象徴としての地位と活動は一体不離』と述べるなど公務を誠実に務めたいとの姿勢を常に示しており、2010年の誕生日会見では『これ以上大きな負担軽減をするつもりはありません』と発言。退位の意向を示した背景には、天皇としておこなうべき公務が、高齢化という要因で制限されてしまうことへの考慮もあったとみられる」(14日付共同配信)

 「(天皇は)宮内庁が今年に入って公務軽減を検討した際に受け入れず、『象徴としてふさわしいあり方』ができないのであれば生前退位もやむを得ないとの意向を話していたことが宮内庁関係者への取材で分かった」(15日付朝日新聞)

 「生前退位」が問題になっているのは、高齢の天皇明仁が「公務軽減」をあくまでも拒否しているからです。メディアはそれを、「強い責任感の表れ」(14日付毎日新聞社説)などと賛美し、テレビが映す「街の声」も称賛すのものばかりです。

 これはきわめて重大な問題です。なぜなら、天皇が「公務軽減」を拒否することは、賛美どころか、日本国憲法に反する違憲行為であり、きびしく批判されなければならないからです。

 天皇の「公務」は、憲法(第6条と第7条)に定められた「国事行為」と、いわゆる「公的行為」に分かれます。今年はじめから7月7日までの天皇の「公務」は406件にのぼるといわれていますが、その大半は「公的行為」です。

 海外「慰霊」の旅(写真左はフィリピン旅行の際の閲兵)、被災地慰問(写真中は自衛隊機での熊本訪問)、国会の開会式出席(写真右)、国体、植樹祭はじめ各種行事への出席など、天皇の「負担」といわれているものはほとんどすべて憲法に定めのない「公的行為」です。

 憲法第4条第1項は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と規定しており、憲法の定めにない「公的行為」を行うこと自体が憲法に反しています。
 「公的行為」を是認する立場からは、「象徴としての地位に基づくもの」(象徴行為説)としてそれを認める学説もありますが、これは「憲法が国事行為を限定している意味を希薄化し、天皇の社会的・政治的機能の拡大につながる危険性を有していると言わざるをえない」(畑安次氏『日本国憲法 主権・人権・平和』ミネルヴァ書房)ものです。

 ただ、ここで強調したのは、「公的行為」自体の違憲性ではありません。問題は、たとえ「象徴行為説」などで「公的行為」を「合憲」とする立場をとるとしても、憲法第3条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」という原則から免れることはできないということです。この点で学説に異論はありません。

 「公人的行為にも『内閣の助言と承認』が求められるとともに、必要な経費は宮内庁の経理する公金(宮廷費)でまかなわれ、宮内庁の属する内閣府の長である内閣総理大臣が責任を負う、といったコントロールが及ぶことになる」(小嶋和司・大石眞氏、『憲法概説』有斐閣双書)

 百歩譲って「公的行為」が「合憲」だとしても、すべて「内閣の助言と承認」に基づかねばならないのであり、そこに天皇の意思が入り込む余地はありません。
 天皇明仁が「これ以上(公務の)負担軽減をするつもりはない」とか「公務軽減を拒否」することは、天皇自身がが「公務」(「公的行為」)の内容や量について自分の意思を通そうとすることであり、明白な憲法違反なのです。

 「公的行為」を天皇が自分で決めて実行する憲法違反が常態化しています。今回の「生前退位」問題は、図らずもその異常な実態をあぶり出したと言えるでしょう。

 いま必要なのは、「生前退位」の是非(「皇室典範」改定の是非)などではなく、天皇の「公務」(「公的行為」)のあり方、その是非であり、「公務」(憲法第3条、4条、7条関連)に関して常態化している天皇の憲法違反行為を即刻やめさせることです。

 


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天皇「生前退位」報道の異常と危険

2016年07月16日 | 天皇制と憲法

    

 日本を席巻したばかりか海外にも速報された天皇明仁の「生前退位」問題。その報道は極めて異常で危険なものです。

 ことの始まりは13日午後7時のNHKニュースが「独自ネタ」として報じたことでした。それを各メディアが一斉に追いかけ、「報道合戦」は今も続いています。

 第1の問題は、一連の報道がニュースソースの不明瞭な「リーク」を「事実」とする前提に立って展開されていることです。これはきわめて意図的で大掛かりな情報操作・世論操作と言わねばなりません。

 NHKが天皇が「生前退位」の意向を示したと断言(写真左)したのに続き、各メディアも「…意向を示されていることが分かった」(14日付共同通信)「…示されていることが明らかになった」(同毎日新聞)などと断定しました。

 ところがそのニュースソースはすべて「政府関係者」という匿名の中でも最もあいまいなものにすぎません。一方、宮内庁の山本信一郎次長が13日夜、「そのような事実は一切ない」と否定し、風岡典之長官も14日の定例会見で「そういう事実はない」と重ねて否定しました(写真右)。
 宮内庁が正式に「そういう事実はない」と否定していることをメディアが根拠も示さず勝手に事実と断定し、「すでに皇室典範の改正に着手」とまで報じる。これはきわめて異常な様相だと言わねばなりません。

 NHKにリークしてメディアを操っている者は誰で、その狙いは何でしょうか。2つの可能性が考えられます。

 1つは、宮内庁の「否定」が正しい、つまり天皇明仁はほんとうに「生前退位」の意向を示したことはないとすれば(共同通信は16日付で天皇は「早期退位」を想定していない、という揺り戻しの記事を配信しました=写真中)、リークしたのは安倍政権で、その狙いは、なにかと「平和憲法」を口にする明仁天皇と美智子皇后を「早期退位」に追い込むことだと考えられます。

 もう1つは、宮内庁の「否定」がウソ、つまり天皇明仁が「生前退位」の意向を示しているのは事実の場合(すべてのメディアはこの前提で報じているのですが)、きわめて重大な問題が生じます。それが第2の問題です。

 第2の問題は、天皇の憲法違反行為を、政府、メディア、そして「国民」がそろって容認してしまうことです。

 天皇が「生前退位」の意向を示していることを宮内庁が否定する(否定せざるをえない)のは、「憲法上の立場からも、(天皇が)国の制度に関係するような発言をされたことはこれまでもないし、今後もない」(風岡宮内庁長官、14日の記者会見)という建前があるからです。

 憲法第4条第1項は、「天皇は…国政に関する権能を有しない」と厳格に規定しています。風岡長官の言う「憲法上の立場」とはこのことです。ところが、「生前退位」は現行制度にはなく、その実現のためには皇室典範の改定か特別立法が必要です。
 つまり、天皇が「生前退位の意向」を示したのが事実であれば、天皇は現行制度の改変を望み、そのための法律改定を要求したということになります。これが憲法(第4条)に違反することは明白です。明らかな天皇の憲法違反行為です。

 そして、天皇が「生前退位」の意向を示したことは事実であるという前提に立って、天皇を気遣い、賛美し、皇室典範改定作業をすすめることは、政府もメディアも、そして「国民」も、天皇明仁の憲法違反行為を容認し、理解さえ示していることにほかなりません。これはきわめて異常で危険なことです。

 第3の問題は、憲法を無視して「天皇制」を一貫したものだと描く誤りです。

 すべてのメディアは「現在の天皇で125代を数える皇室」「江戸時代後期の光格天皇以降は約200年にわたり生前の譲位は例がない」(14日付共同)などと、「生前退位」が行われれば200年ぶりだという報じ方をしています。

 これは現在の天皇(皇室)制を「神武天皇」以来の一貫したものだと捉える誤った天皇史観に基づくものです。天皇制は、国民主権を原則とする日本国憲法の施行によってその性格が本質的に変わりました。さらに、大日本帝国憲法で天皇の地位・権限を憲法で定めた(立憲君主制)明治時代とそれ以前の時代との間にも本質的な差異があります。
 その違いを無視して「125代」「200年ぶり」などと言うのは、国民主権の憲法の下における「象徴天皇制」の本質を誤らせるものと言わねばなりません。

 以上3つの点を挙げましたが、実は「生前退位」論にはこれ以外に、メディアが指摘しない重大な問題があります。それは次回書きます。


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自民改憲草案・新国家主義の柱は「天皇元首化」

2016年05月07日 | 天皇制と憲法

   

 3日の「憲法記念日」を前後して、自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年4月27日決定、以下「草案」)に対する批判的論評・コメントが相次ぎました。
 第9条の明文改憲、「緊急事態条項」新設のほか、「最大の問題点は13条だ。『個人としての尊重』を『人として尊重』、『公共の福祉』を『公益および公の秩序』と言い換え、立憲主義の根本原理を抹殺した」(日本共産党・小池晃書記局長、4月30日付中国新聞)との指摘や、「私たちは一人一人の個人として尊重される存在であり、国家があって個人があるのではなく、個人があって国家がある」(青井未帆学習院大教授、3日付中国新聞)との指摘は重要です。

 しかしでは、自民党が狙う新たな「国家主義」の柱は何でしょうか。その点の指摘がないのはきわめて残念だと言わねばなりません。
 「草案」を貫く新たな「国家主義」の柱は、「前文」の冒頭と、第1条に書き込まれる次の文言に表れています。

 「草案」前文=「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」

 「草案」第1条=「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」

 「草案」のいう「元首」とは何か。『改憲草案Q&A』(自民党)はこう説明しています。
 「元首とは、英語ではHead of Stateであり、国の第一人者を意味します。明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在していました」

 「日本国」は「天皇を戴く国家」であり、天皇は「日本国の元首=第一人者」。これこそ「草案」を貫く「国家主義」の柱にほかなりません。
 
 そして「草案」は天皇を文字通り「元首」にするための具体的な改憲条項をいくつも盛り込んでいます。

 例えば、現行憲法第3条は「天皇の国事行為」について、「内閣の助言と承認」が必要としていますが、「草案」はこれを「内閣の進言」に変えます。その理由は、「天皇の行為に対して『承認』とは礼を失する」(「Q&A」)からです。

 また、現憲法には「国会開会式出席」(写真右)や「皇室外交」などを天皇に認める規定はありません。それらは天皇の「権威」を高めるため、また政治的に利用するため、いわゆる「公的行為」と称して脱法的に行われているものです。そこで「草案」は新たに「式典への出席その他の公的な行為を行う」(第6条第5項)との文言を盛り込み、「公的行為」を憲法に明記して天皇の行動・政治利用を合法的に拡大しようとしています。

 こうして「草案」は、「天皇元首化」によって新たな天皇制をつくりあげようとしているのです。

 もちろん「草案」も、天皇は「象徴」であること(第1条)、さらに「国政に関する権能を有しない」(草案第5条)ことを明記しています。その点で、明治憲法へのストレートな回帰ではありません。
 しかし「天皇元首化」が新たな国家主義の精神的支柱になるのは明白です。
 そしてそれが、9条の改変によって海外で戦闘を行う国防軍(自衛隊改め)の精神的シンボルとなり、あるいは「緊急事態」に際して市民の政府批判を抑える「治安維持」に利用されることは想像に難くありません。東日本大震災の直後に天皇が行った「ビデオメッセージ」(2011年3月16日)はその先取りといえるでしょう。

 こうした天皇制の改変=天皇元首化の狙い、そしてすでに進行している天皇・皇室の「公的行為」の拡大は絶対に軽視できません。

 しかし、「憲法記念日」前後の論稿・コメントで、「草案」のこうした天皇条項改変の危険性を指摘したものは、私が見た限り、沖縄タイムス(4日付)のダグラス・ラミス氏の論稿だけでした(それも編集部がつけた見出しには「天皇」の文字はありませんでした)。

 メディアや論壇を席巻している「天皇タブー」、さらに「民主的」人々の中にもある明仁天皇・美智子皇后への幻想、美化は、「憲法改正」問題が焦点になっているいま、重大な落とし穴になる恐れがあると警鐘を鳴らさざるをえません。


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「神武天皇式年祭」の公私混同は憲法に反する

2016年04月04日 | 天皇制と憲法

   

 天皇・皇后は「神武天皇没後2600年式年祭」(3日、神武天皇陵)に出席するため2日から奈良県橿原市を訪れました。NHKと民放テレビはいずれもこれを映像で流し、新聞も社会面で写真付きで報じました(写真右は4日付中国新聞)。

 しかし、今回の天皇・皇后はじめ皇族の「式年祭」出席は、憲法上重大な疑義があると言わざるをえません。

 「式年祭」は、天皇・皇后が「玉串」を捧げ、天皇が「御告文」を読み上げる(写真中)ことでも明らかなように、神道に基づく明白な宗教行為です。
 一方、憲法第20条第3項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」と、「政教分離」を厳格に規定しています。
 したがって「国の機関」としての天皇(皇族)が宗教活動が行えないことは言うまでもありません。

 にもかかわらずこれまで「式年祭」をはじめ多くの宗教活動が「皇室祭祀」として行われています。そのカラクリは、「皇室祭祀」は「国の機関」としての「公的行為」ではなく、天皇(皇族)の「私的行為」だ、という言い分です。これが「天皇の憲法違反」を回避する(脱法行為)の唯一の方法です。

 では今回の天皇らの「神武天皇式年祭」は「私的行為」と断言できるでしょうか。

 宮内庁がHPで公式に発表している「天皇・皇后の日程」の3月30日の欄にはこう記されています。

 「天皇皇后両陛下 ご説明(宮内庁総務課長(奈良県行幸啓(神武天皇二千六百年ご式年に当たり神武天皇陵ご参拝併せて地方事情ご視察)について))(御所)」

 今回の「式年祭」は、「地方視察」と併せた「行幸啓」という「公的活動」の一環として行うというのです。そのことを宮内庁(政府機関)の担当課長が宮内庁業務として「説明」したというのです。事実、天皇・皇后は、「式年祭」に先立つ2日の夕方に県立橿原考古学研究所を視察し、荒井正吾奈良県知事とも懇談しています。

 これは明らかに「私的行為」と「公的行為」の混同、意図的(政治的)な公私混同にほかなりません。

 「行幸」などのいわゆる「公的行為」自体、憲法に定められた「国事行為」にないもので、憲法上大きな問題があります。
 ところが今回の「式年祭」は、さらにその「公的行為」と混同させて天皇(皇族)の宗教活動を行い、それを報道させたものであり、憲法違反の疑いはきわめて濃厚です。

 NHKはじめテレビニュースを見ている人は、それが「私的行為」なのか「公的行為」なのかの区別などなく、ただ天皇・皇后の活動として「式年祭」を受け止めたでしょう。結果、天皇による「宗教活動」がまるで「公的活動」であるかのように流布し、さらに「神武天皇没後2600年」によってあたかも「天皇の歴史」が日本の歴史であるかのような印象を植え付けられたのです。メディアの責任はきわめて重大です。

 すでに1947年に「皇室祭祀令」が廃止されているにもかかわらず、実質的に戦前から継続する形で多くの「皇室祭祀」が行われています。それは「天皇を神格化ないしは権威化すること」(横田耕一氏、『憲法と天皇制』)にほかなりません。

 天皇(皇族)の宗教活動が「公的行為」であるかのように繰り返されている状況は、憲法の「主権在民」「政教分離」の原則において、絶対に許されるものではありません。


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