8日午後3時から11分間にわたって全国一斉に放送された「天皇のビデオメッセージ」について、何回かにわたって検討します。
1回目は、「メッセージ」の具体的な内容以前に、天皇が「ビデオメッセージ」を行ったこと自体が憲法違反だという問題です。
違憲性は2点あります。1つは、「天皇は…国政に関する権能を有しない」として政治的関与を禁じた憲法第4条違反です。
明仁天皇は「メッセージ」の冒頭、こう述べました。
「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したい」
この発言は憲法第4条を念頭に置いたものです。そしてたしかに「生前退位」というキーワードは1つも出てきません。
しかし、「メッセージ」は天皇の言葉とは裏腹に「現行の皇室制度に触れる」ことが網羅されています(詳しくは次回以降検証)。たとえば、「摂政」を否定したことです。「摂政」は憲法第5条、皇室典範第3章に明記されているれっきとした「現行の皇室制度」です。それを否定することが「政治的発言」であり「政治的関与」であることは明白です。
さらに、「個人として」という言葉もごまかしです。「個人として」といえば「天皇」ではなく私人としての「明仁」の考えだといいたいのでしょうが、この国を挙げての大々的なキャンペーンが「天皇」として行われたものであり、その内容が天皇としての意向であることは誰の目にも明らかです。
「保守派知識人」といわれる御厨貴東大名誉教授も、「今回の『ご意向』を巡る動きについては、天皇の政治的関与を禁じた憲法に抵触する『異常事態』が生じたとの指摘があるが、…なぜ『異常事態』となったのか、検証はすべきだろう」(9日付読売新聞)と述べ、「異常事態」であることを否定していません。
もう1つは、天皇がビデオで(もちろん生中継でも)国民に直接見解を述べる行為自体の違憲性です。
天皇が行える行為は憲法第6条と第7条に「国事行為」として明確に規定されています。その中に「ビデオメッセージ」などもちろん含まれていません。
この違憲性から逃れる言い訳は、「天皇陛下のお言葉は、象徴としての憲法上の地位に基づく『公的行為』と位置づけられる」(9日付読売新聞)という、いわゆる「公的行為」論です。
この「公的行為」論こそ今回の「メッセージ」の核心問題です。「公的行為」が憲法上認められるか否かは論争点ですが、仮に「公的行為」は合憲だとする立場をとるとしても、それが「国事行為」同様、「内閣の助言と承認により」(憲法第7条)行われなければならないとする点で学説上の争いはありません。
今回の「メッセージ」はどうでしょうか。安倍首相は直後に、「私としては、天皇陛下が国民に向けてご発言されたということを重く受け止めております」と述べました。「メッセージ」が天皇自身の発案であり、天皇自身が作成した原稿であったことは明白です。つまり、「内閣の助言と承認」のない「公的行為」が公然と行われたのです。宮内庁幹部は事前に内容も見ていたと言うかもしれませんが、内閣総理大臣をさしおいた「内閣の助言と承認」などありえません。
以上、2つの意味で、「天皇のビデオメッセージ」が憲法に反する行為であることは明白です。
問題なのは、この天皇の違憲性を指摘したメディア(新聞・テレビ)が皆無だということです。それどころか、メディアは口裏を合わせたように、「生前退位のご意向が強くにじむもの」「生前退位の強いご意向」と、同じフレーズを繰り返しています。報道用語についても政府(宮内庁)の要請があったと思わざるをえません。
天皇が使うのを避けた「生前退位」をメディアが繰り返し使って天皇の「意向」を代弁する。まさに天皇と大手メディア合作の違憲・脱法行為ではないでしょうか。
メディアだけではありません。各紙が掲載した「識者」も、「メッセージ」の違憲性を指摘したものはほとんどありませんでした。そんな中、次の2氏の指摘は注目されました。
「本来なら女性・女系天皇を容認した『皇室典範に関する有識者会議報告書』(2005年)のような形を最初に取らない限り、天皇のお言葉をきっかけにする形では天皇の政治介入になってしまう。客観的に見て、天皇の発意で政治が動いているように思える」「報道が先行する形になり、世論が動いて、宮内庁が反応を見ている。それが狙いではないか。…それが憲法上は問題なのだが」(横田耕一九州大名誉教授・憲法学、9日付中国新聞)
「『天皇の意向』なるものを報道機関に伝えた人物がいるのでしょう。『天皇の意向』が皇室典範改正論議の引き金になった以上、当該人物による天皇の政治利用が問題となるだけでなく、この人物が宮内庁に属しているのであれば、天皇の発言をコントロールすべき内閣にも政治責任が発生し得ます。
だれが天皇の意向をメディアに伝えたのか、責任を負うべき内閣はどんな判断をしていたのか、全く明らかにされていません。宮内庁や内閣の責任追及を可能にするためにも、メディアには一連の経緯を検証することが求められます」(西村裕一北海道大准教授・憲法学、9日付朝日新聞)
「検証」すべきメディアが「共犯」では話になりません。
「象徴天皇制」の在り方について考え議論することは必要です。しかしその前提として、「メッセージ」の違憲性を不問に付すことはできません。
政府、メディア、そして「市民」が一体となって天皇の違憲・脱法行為を黙認・容認することがいかに異常なことか明確にする必要があります。
大相撲春場所はあす千秋楽を迎え、琴奨菊の優勝も横綱昇進もなくなりました。
1月の初場所で琴奨菊が優勝したときは、「日本出身力士として10年ぶり」と大騒ぎされました。
その初場所初日の1月10日、奇妙な光景をテレビの中継で見ました。
大相撲の結びの一番では、行司の木村庄之助が「この相撲一番にて本日の打ち止め」と言うのがしきたりです。ところがこの日、庄之助は「…本日の結び」と言ったのです。「打ち止め」ではなく「結び」。なぜこの日に限り決まり文句が変わったのか。
理由は、この日が天皇・皇后のいわゆる「天覧相撲」だったからです(写真中)。
「天覧相撲」だとなぜ「打ち止め」が「結び」になるのか。アナウンサーは何やら「説明」していましたが意味不明でした。後で調べても分かりませんでした。確かなことは、「天覧相撲」では特別の言葉が使われる、ということです。
大相撲と天皇制はきわめて密接な関係にあります。その一端を挙げてみます。
★「天皇賜杯」と「御下賜金」…優勝力士に優勝杯(「天皇賜杯」)(写真右)を贈る習わしができたのは1926年、ときの皇太子(後の昭和天皇)が観戦し、相撲協会に渡した金(「御下賜金」)で製作したのが始まりです。さらにこれを機に東京と大阪に分かれていた相撲協会が合併し、「大日本相撲協会」が設立しました。天皇裕仁の観戦と資金提供が今日の相撲協会の原型をつくったのです。
★土俵の屋根と伊勢神宮…現在の土俵の屋根(屋形、写真左)の様式は神明造といいますが、それまでの入母屋造(法隆寺金堂など)から変わったのは、1931年、裕仁の「天覧夏場所」からです。神明造は天照大神を祀る伊勢神宮・神明社の様式です。
「賜杯の製作が…相撲協会合併の決定的な契機になったこともあり、天皇とのより強い結びつきを示し、国技の地位を盤石にする意向がなかったとは言えまい。そのために、皇室ゆかりの伊勢神宮の形にならったということは十分に考えられる」(内館牧子氏、『女はなぜ土俵にあがれないのか』)
★「国策」推進の一環…戦前・戦中の大相撲は天皇制大日本帝国の「国策」推進の道具でした。新田一郎氏の『相撲の歴史』によれば、当時相撲協会の会長・理事長には軍人が就くのが習わしでした。『武道としての相撲と国策』(藤生安太郎衆院議員著)では、相撲を素材として「日本民族の優秀性」を説き、「聖戦遂行」「国民総動員」の「国策」に沿った「相撲道」の振興が説かれました。台湾、満州には植民政策の一環として「相撲の普及と標準化」が図られました。
「ナショナリズムの高揚が相撲人気の活況と連動するという現象は、明治末期と共通するが、この、昭和十年代の相撲ブームの場合には、それが単なる社会現象としてでなく、『国策』の一環として演出されたものという性格を強く併せ持っていた点に特色がある」(新田氏、同著)
「賜杯」や「屋形」さらに冒頭の行司の言葉など、大相撲は天皇制との深い関係の歴史を今も受け継いでいます。天皇制が無意識のうちに日常生活に入り込んでいる例です。
今日の大相撲は、「ナショナリズム」や「国策」とどうかかわっているのでしょうか。