アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

高倉健さんと東北被災地と沖縄

2014年11月27日 | 天皇制と戦争・植民地支配

       

 私は2年10カ月ほど前から、手帳の裏表紙に、1枚の新聞写真を切り抜いて張っています。上中央の男の子の写真です。
 先日高倉健さんが亡くなって、追悼のテレビ番組や新聞でこの写真が取り上げられました。
 
 この写真を初めて知ったのは、2012年1月13日付の東京新聞でした。東日本大震災の3日後、2011年3月14日に共同通信が配信したものです。
 健さんはこの写真を新聞で見て、遺作となった映画「あなたへ」の台本に張りつけ、毎日「気合を入れていた」という記事でした。その話に感動して、健さんに習って手帳に張りました。

 昨日(26日)付の中国新聞に、健さんとこの男子の「秘話」が載っていました(おそらく共同電)(写真右)。
 男の子は気仙沼の中学2年になった松本魁翔(かいと)君。「健さんに誓う被災地再興」「報道写真が縁 手紙交流」と題した記事の要点を紹介します。

 <(魁翔君は)津波で流された船で自宅が壊され、母、姉、妹と今も仮設住宅で暮らす。写真は、当時10歳の魁翔君が断水の続く中、井戸まで何往復もして大きなペットボトルに生活用水を運んでいたときに撮影された。母子家庭で「男手が足りないから」とがれきの中を歩いた。

 初めて手紙を出し、返事が届いたのは中学入学直前の昨年4月初め。「常に被災地を忘れないことを心に刻もうと(映画の)撮影にのぞんでいました」「遠くからですが貴方の成長を見守っています」と温かい言葉が並んでいた。

 「頑張っていれば見ていてくれる人がいる」とうれしかった。特に「負けないで!」という最後の言葉は、部活のバスケットボールの練習中など諦めそうなとき、よく思い出す。仮設住宅のトイレにこもり一人で手紙を読むこともある。

 高倉さんは「人生で一度しか味わえない子ども時代の日常を平穏に過ごしてほしい」とも記しており、自分とのことがマスコミで取り上げられて騒がれると魁翔君のためにならないと考えていたようだという。公にしないことを「男と男の約束だ」と捉え、手紙のことはずっと秘密にしていたが「自分のようにこの手紙で勇気づけられる人もいるかもしれない」と公開した。
 将来の夢は得意なスポーツで有名になって気仙沼を盛り上げること。「震災とか悲しいことを思い出さないでいい、楽しい所にしたい」と力強く話した。>

 健さんの「秘話」は被災地とのつながりだけではありませんでした。沖縄にも「秘話」があることを11月22日付の琉球新報で知りました。

 初の主演映画が「電光空手打ち」(1956)で、沖縄空手の達人の役でした。その後も「網走番外地」シリーズの「南国の対決」(66)の沖縄ロケなど、仕事でも縁がありました。
 しかし、健さんと沖縄のほんとうのつながりは、私的なものでした。

 親交があった那覇市の石材会社社長・緑間禎さんによれば、「高倉健さんは沖縄が大好きで『世界一の海と空、そして人情の島』と話してくれた。八重山のことも本当に大切に思っていた」。

 緑間さんが28年前に健さんと出会ったきっかけは「墓石」でした。健さんから直接、「恩師である映画監督の遺骨を八重山に納骨したい」と墓建立の依頼があったのです。
 「(健さんは)『監督の名前や墓の場所は口外しないでほしい』と要望した。緑間さんは『多くを語らない健さんらしい願いなので、僕も健さんと会ったことすら、家族と身近な社員以外には秘密にしてきた』と明かす」

 「『毎年(墓がある)八重山に来ます』と語り、本当にこられていたようだ」という緑間さん。「恩師の家族を大切に守り、若造だった僕にも敬語で話す、礼儀正しく律儀なスターだった」と振り返ります。

 さらに同紙によれば、ダイビングが好きで生前何度も西表島を訪れた健さんは、石垣市立冨野小中学校と交流がありました。
 1996年に石垣市を訪れた健さんが偶然同校の運動会を見て、ラジオ番組で「とっても感慨深かった」と紹介。後日その番組テープと手紙が送られてきたのがきっかけでした。
 以後文通は続き、健さんから著書や双眼鏡が同校に贈られました。双眼鏡は今も児童たちが愛用しているといいます。

 当時校長だった鳩間真英さんによると、「双眼鏡が届けられた時、高倉さんは学校近くまで来ていたが校舎には入らず、付添の人が手渡した」。「有名な方なので、自分が入ると困惑させると思ったのだろう。気配りのある人で高倉さんらしいなと感じた」。

 表に出すことを嫌った(避けた)健さん。「大事なものは目に見えない」という言葉を思い出します。

 出世作となった任侠映画にはやはり違和感があります。最晩年、叙勲を受けたことも気になります。同じ東映のスターだった菅原文太さんのように、公の場で政治的な発言・応援をすることもありませんでした。
 しかし、私は高倉健さんの謙虚さ、子どもたちへのまなざし、被災地や沖縄への思いやりに、大きな感動をおぼえます。それは、政治・社会変革をはじめ、すべての活動の根っこになるものではないかとも思います。

 健さんが、ファンへのメッセージを求められたとき、照れながら語ったという次の言葉とともに、同時代のほんとうの「スター」であった「高倉健」を記憶にとどめようと思います。

 「みんなしんどいところで我慢してやっている。人は負けることがある。それでも負けないぞと思ってやっていれば、いい人に出会える。その出会いを信じて、頑張るしかないんじゃないでしょうか」

 


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広島大「慰安婦」授業への「産経」攻撃に危機感

2014年05月29日 | 天皇制と戦争・植民地支配

HpPhoto 広島大学でいま、重大な事態が起こっています。
 「従軍慰安婦」(性奴隷)にかかわる授業に対し、産経新聞が攻撃を加えてきたのです。

 28日には学問の自由と大学の自治を守るため、同校の教職員組合主催の緊急集会が開かれました(残念ながら行くことはできませんでした)。

 ことの発端は今月21日付の産経新聞1面連載記事(写真右)です。それは、「いつから日本の大学は韓国の政治的主張の発信基地に成り下がってしまったのか」という、「広島大学で韓国籍の男性准教授の講義を受けた男子学生(19)」の言葉で始まります。

 4月28日の同准教授の「演劇と映画」と題する講義で、元「慰安婦」の証言をもとにした韓国のドキュメンタリー映画「終わらない戦争」が教材にされたことに、男子学生が不快感をもったという記事です。

 記事はその男子学生の感想を唯一の「ニュースソース」とし、「映像を見せられた」「観賞するしかなかった」などと、まるで学生たちがいやいや映画を押し付けられたように描いて授業に干渉し、准教授を攻撃するもので、きわめて稚拙で政治的なものです。

 しかしこの記事によって、広島大には「抗議の電話」が殺到。国会では日本維新の会の衆院議員が文科省に見解を求め、「在特会」は同准教授の「講義阻止」を広言しているといいます。

 一方、日本科学者会議広島支部幹事会は23日、「『産経新聞』報道を契機とする言論への圧力を許さず、学問の自由を守ろう」と題する声明を発表しました。

 声明はこう指摘しています。
 「かつてドイツでは、政権獲得前のナチス党が、その青年組織に告発させる形で意に沿わない学説をもつ大学教授をつるし上げさせ、言論を委縮させていった歴史がある。その忌まわしい歴史を彷彿とさせる本件にたいして、われわれが拱手傍観しているようなことがあれば、特定の政治的主張をもつ報道機関がその意に沿わない講義のひとつひとつを論評し、特定の政治的主張をもつ外部のものが大学教育に介入してくるきっかけを与えることになる」

 そして声明は、広島大当局に「毅然とした姿勢」をとること求めるとともに、「広島大学内外のすべての大学人」に、「ともに学問の自由を守る行動をとるよう」訴えています。

 以上のような経過自体問題ですが、私がさらに危機感を持つのは、この重大事態に対し、NHKなど放送メディアはもとより、中国新聞までが、一切報道していないことです。
 報道の価値なしとの判断なら、その鈍感さは致命的であり、もしもそれが同じ報道機関としての「遠慮」「かばいあい」だとすれば、ことはさらに重大です。

 声明の指摘をまつまでもなく、言論・学問の自由への攻撃は、戦争への道です。「従軍慰安婦」の歴史の歪曲とも合わせ、大学人のみならず、絶対に拱手傍観してはならない事態です。


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