アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

映画「野火」と「日本のいちばん長い日」

2015年08月25日 | 映画

    

 「敗戦70年」のこの夏、2つの「戦争映画」が同時期に公開されました。
 塚本晋也監督「野火」(大岡昇平原作)と原田眞人監督「日本のいちばん長い日」(半藤一利原作)です。多くの点で対照的なこの2つの作品で、映画が戦争を描くということ、戦争の歴史を継承することの意味をあらためて考えさせられました。

 「野火」は塚本監督が10年前の戦争体験者からの聞き取りをもとに自主制作したもの。主演を自ら演じたほか、他の出演者もけっして著名なスターではありません。
 一方、「日本の・・・」は大手映画会社の制作・配給で、出演者も役所広司、本木雅弘、松坂桃李など人気スターを並べました。この違いは作品の質に大きく影響しています。

 「野火」は大戦末期のフィリピン・レイテ島を舞台に、ひたすら逃げ回る敗残兵の恐怖と狂気、米軍による猛烈な攻撃を再現します。これでもかと血が流れ、肉片が飛び散り、人体が破壊されていきます。飢餓の極限に追い込まれた兵士たちの欲望はやがて仲間の人肉へ・・・。目を覆いたくなるような場面の連続で、気分が悪くなりそうです。

 実はそれこそがこの映画の狙いです。塚本監督は、「戦場では人は物になってしまう。そこに絶対に大義はない。ヒロイズムもなければメロドラマさえない」「若い中高生のトラウマになるというか、(戦争に)近づきたくないと本能的に体の中に刻まれてくれれば」(7月28日付琉球新報)と語っています。

 「日本の・・・」は「玉音放送」に至るまでの阿南惟幾陸軍大臣(役所)に焦点をあてながら、主題はあくまでも昭和天皇(本木=写真はNHKから)の「聖断」です。天皇の「慈愛」を示すエピソード(おそらく原田監督の創作)もまじえながら、全編昭和天皇(天皇制)賛美に貫かれています。ラスト近くで鈴木貫太郎首相(山崎努)が「日本のご皇室は絶対に滅びない」と述べ、阿南が「私もそう信じております」と応えるところに、この映画の主張が凝縮されているようでした。
 ポツダム宣言受諾に際して日本が「国体護持」(天皇制維持)にこだわったことはよく描かれていますが、そこに批判的な視点はありません。天皇裕仁が終戦を引き延ばした責任にはまったく触れていません。天皇が拒絶した終戦の上奏(1945年2月)を行った近衛文麿がまったく登場しないのは象徴的です。

 どちらの映画が先の戦争の「真実」に迫っているかは明白です。その違いは何を示しているでしょうか。
 「野火」の舞台は最前線の戦場であり、そこにいるのは末端の兵士(庶民)です。対して「日本の・・・」の舞台は東京・皇居であり、登場人物は文字通り国家権力のトップたち。あまりにも対照的です。「日本の・・・」において昭和天皇、阿南陸相はまさに「ヒーロー」なのです。
 この対照は、戦争の真実がどちらにあるのかをはっきり示しています。人間を破壊する戦争の真実は、戦場にあるのです。東京ではありません。このことは、国会で審議中の戦争法案を考えるうえで、貴重なヒントを与えているのではないでしょうか。

 もう1つ。「日本の・・・」を見て考えさせられたことがあります。
 原田監督は制作の意図をこう語っています。「日本は秘密保護法のころからおかしくなっている。その根っこに何があるのか描いておきたかった」「憲法をいじっていいのか」「歴史に背を向ける若者に、それでいいのかと問いたい」(8月7日NHKラジオ深夜便)。
 きわめて正当な意見です。この限りでは、原田監督も安倍政権に批判的であり、おそらく戦争法案にも反対ではないでしょうか。その監督が、戦争自体は否定しながら、最大の戦争責任者である昭和天皇を手放しで美化し、天皇制の存続を期待する。「戦争責任」の捉え方の難しさ、“草の根天皇制”の根深さをあらためて見る思いです。

 原田監督は「昭和天皇を主役の1人として描ける時代になった」と映画における「天皇タブー」の緩和を歓迎しています。それには同感です。しかし、それだけにどういう視点で「昭和天皇」を描くのかがこれまで以上に問われることになります。歴史の真実と映画の関係が試されます。それを誤れば、間違った「昭和天皇」像が甘美な「ヒロイズム」とともに流布されることになります。「日本の・・・」は皮肉にも、その危険性を示す例になったのではないでしょうか。

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