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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日本人が忘れてならない記念日は「8・14」

2024年08月16日 | 日本人の歴史認識
   

 日本のメディアは「8・15終戦神話」によってこの日の前後に「戦争特集」を組みます(「8月ジャーナリズム」)。しかし、日本人が本当に忘れてならない記念日は「8・14」の方です。

 韓国では文在寅(ムン・ジェイン)前政権が2017年に法律で「8・14」を「国家記念日のメモリアルデー」に指定しました。「8・14」は何があった日でしょうか。

 日本軍「慰安婦」(戦時性奴隷)の被害者・金学順(キム・ハクスン)さんがソウルで記者会見し、初めて実名で名乗り出て日本政府を告発した日、それが1991年の8月14日です(写真左)。

 キム・ハクスンさんの告発を契機に、韓国、中国、フィリピン、台湾、東チモール、マレーシア、インドネシア、オランダ、そして日本から性奴隷の被害者が相次いで名乗り出ました。

 33年目のこの日も、韓国では政府主催の記念式典が開催され、「元慰安婦」の李溶沫(イ・ヨンス)さんが出席しました(写真中=15日付沖縄タイムス=共同)。

 また支援団体の「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」などは同日、「平和の少女像」があるソウルの日本大使館付近で通常より大規模な「水曜集会」を開催しました。

 キム・ハクスンさんはなぜ告発に踏み切ったのでしょうか。

「1990年ごろ、日本政府が「慰安婦」を連れ歩いたのは民間業者だと言っているというニュースを聞いて、私がここに生きているのに、なんでこんなことを言うのか、日本の政府はウソを言っていると思いました。私はそれを許すことができませんでした。私はとにかく日本政府に事実を認めさせなければいけないと思いました。
 私はこの時、朝鮮を植民地として支配をし、日本が起こした戦争に朝鮮人を引っ張っていき、巻き込んでおきながら、その責任をとらないということは、私は許されないと思いました」(日本軍「慰安婦」問題解決全国行動のチラシより)

 キム・ハクスンさんは91年12月、日本政府を相手に裁判を起こします。その時の記者会見ではこう述べています。

一生、涙のなかで生きてきました。こんなことを金で補償できるでしょうか。私を17歳のときに戻してください」(『「慰安婦」問題と未来の責任』大月書店2017年より)

 キム・ハクスンの訴えは日本政府に届いたでしょうか。逆です。日本政府はその後も歴史の事実を否定し続け、安倍晋三元首相に至っては2015年、朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)との間で「日韓合意」を交わし、後世にわたってこの問題にフタをしようとしました。安倍元首相の下でその「日韓合意」を非公開で交わしたのが当時の外相、現首相の岸田文雄氏です。「合意」では「平和の少女像」を設置しないとする密約があったと言われています。

 岸田氏は就任以来、韓国やドイツの市民団体がベルリンに設置した「平和の少女像」(写真右)を撤去させる圧力をかけ続け、ついにベルリン当局に撤去を約束させました(7月24日のブログ参照)。
 これは、朝鮮人強制連行・強制労働の事実を隠ぺいしたまま「佐渡島金山」をユネスコ世界遺産に登録させたことと並んで、岸田政権の歴史的汚点の1つです。

 日本政府に戦時性奴隷の事実を認めさせ、被害者・遺族に謝罪させ、補償させなければなりません。33年前のキム・ハクスンさんの訴えを受け止めて声を上げなければならないのは、私たち日本人市民です。
 だから日本人は「8・14」を忘れてはならないのです。


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「渋沢紙幣」韓国市民が撤回要求、日本はお祭り騒ぎ

2024年07月04日 | 日本人の歴史認識
   

 新紙幣が発行された3日、岸田文雄首相は「新紙幣が国民に親しまれ、日本の経済に元気を与えてくれることを期待したい」と述べました。デパートは記念セール、銀行は顧客獲得キャンペーン、東京タワーは渋沢栄一にちなんで藍色にライトアップ、市民は両替に行列…。

 長野県のある町立小中学校は、渋沢ゆかりの「みそポテト」など3人にちなんだ料理を給食に出しました。学校にまで「渋沢」です。

 NHKはじめメディアは数日前から関連の話題を流し続け、朝日新聞は号外まで出しました。まさに官・民・メディア挙げてお祭り騒ぎです。

 しかし、韓国は違います。

 韓国の市民団体は渋沢紙幣に、「強い遺憾を表明し、直ちに撤回するよう」(3日付ハンギョレ新聞日本語電子版)要求しました。以下、抜粋です。

<日帝強占(植民地支配-私)期に日本の銀行を朝鮮に進出させ、植民地政策を主導した渋沢栄一の顔が日本の新紙幣に使われることについて、韓国の独立運動家と子孫・遺族の団体「光復会」は強い遺憾を表明し、直ちに撤回するよう求めた

 光復会は1日の声明で、「日帝の侵奪の張本人を貨幣の人物とする決定は、植民地支配を正当化することを狙った欺瞞的行為」だとしつつ、このように述べた。

「渋沢栄一は我が民族からの経済的収奪の先兵役を果たした第一銀行の所有者で、鉄道を敷設して韓国の資本を収奪し、利権侵奪のために第一銀行の紙幣発行を主導しつつ、貨幣に自身の肖像画を描き入れ、我々に恥辱を抱かせた張本人」

「過去の誤った行為を反省するどころか、帝国主義の蛮行を連想させる人物を使う日本政府の本音はいかなるものか」「本当に韓国との関係改善と友好増進を尊重するのなら、問題の人物の貨幣への使用を直ちに中止するよう願う」

 渋沢が設立した第一銀行は、日本が朝鮮半島に対する影響力を拡大しはじめる1878年に、釜山に支店を設立した。その後、金融・貨幣分野で日本政府の代理人役を果たし、朝鮮内で様々な特権を獲得した。特に1905年に、朝鮮の国庫金の取り扱い▽貨幣整理事業▽第一銀行券公認の「3大特権」を得てからは、事実上朝鮮の中央銀行同然の地位を確保した。渋沢は晩年、早くから朝鮮に進出した理由について「日本が朝鮮を失うことになれば、国力を維持することは困難だと判断したため」だと述べている。>(3日付ハンギョレ新聞)

 韓国市民団体の「遺憾・撤回要求声明」、ハンギョレ新聞の解説と、日本のお祭り騒ぎ。なんという落差でしょう。

 日本市民のどのくらいが、渋沢の「植民地支配の張本人」という実像を知っているでしょうか。知らないからといって政府に乗せられて「植民地支配の正当化」に加担していることが許されるものではありません。知らないことは罪です。

 メディアはどうでしょう。渋沢の実像を知らないとすればあまりにも勉強不足。知って口をつぐんでいるとすれば、メディアとしての責任放棄か政府への迎合にほかなりません。韓国市民団体の遺憾・撤回要求も、日本のメディアは無視しています。

 政府にとって不都合な事実、歴史の真実を市民に伝えることは、メディアにとって死活的に重要な責務であることを肝に銘じなければなりません。



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「渋沢栄一1万円札」に無批判な日本社会

2024年06月12日 | 日本人の歴史認識
  

 新紙幣発行まで1カ月を切った、と各種のメディアが報じています。「新紙幣対応 企業は悲鳴」(7日付京都新聞=共同)など、システム上の問題や市民の反応が中心です。

 新1万円札の「顔」となる渋沢栄一が30年暮らした東京都北区では、「官民あげて様々な企画で(渋沢の)功績をPRし、盛り上がっている」(7日付朝日新聞デジタル)といいます。

 渋沢が福沢諭吉に続いて日本の最高額紙幣の「顔」(いわば貨幣経済の象徴)になることについて、日本のメディアも市民も何の批判もせず、むしろ歓迎しています。

 しかし、韓国は違います。安倍晋三政権が渋沢を次の「顔」と決めた時(2019年)から、厳しく批判をしてきました(2019年4月11日付のブログ参照)。

 「渋沢栄一を図柄にした紙幣は1902年から04年の大韓帝国下で発行された経緯があり、韓国メディアは9日、日本の紙幣判断を批判的に報じた聯合ニュースは、当時紙幣を発行した第一銀行頭取を務めた渋沢栄一を『韓鮮半島で経済侵奪した象徴的人物』などと伝えた。渋沢栄一が設立した第一銀行は02年に1㌆券、5㌆券、10㌆券の3種類を当時の大韓帝国下で発行した。聯合ニュースは日本が軍事的圧力を背景に紙幣の流通を図ったと指摘し『植民地支配の被害国への配慮が欠けているとの批判が予想される』と主張した」(19年4月10日付日経新聞)

 また、東亜日報も渋沢の起用は「愛国心を強調する安倍晋三首相の政治哲学と合致する」とし、中央日報は、渋沢が初代韓国統監だった伊藤博文と「親友」だったと強調しました(19年4月10日付朝日新聞デジタルより)。

 なぜ韓国メディアは渋沢が1万円札の「顔」になることを批判したのか。それは渋沢が銀行や鉄道によって、あるいは朝鮮半島に進出した日本企業の後ろ盾として、半島の植民地支配を推進した中心人物だったからです。

 渋沢は親友だった伊藤博文と二人三脚(伊藤が政治、渋沢が経済)で、朝鮮半島の植民地支配を強行しました(植民地支配において渋沢が果たした役割については、19年10月3日付、21年2月16日付のブログ参照)。

 現在の1万円札の「顔」である福沢諭吉も、強烈な朝鮮差別者、朝鮮侵略論者でした(福沢の正体については、2018年2月3日付、同3月1日付ブログ参照)。

 2代続けて朝鮮半島侵略・植民地支配の中心人物を最高額紙幣の「顔」にする。ここに、日本がいかに侵略戦争・植民地支配の加害の歴史に無反省であるか、たんに無反省であるだけでなく、朝鮮半島の人々を新たに傷つけて恥じない国であるかが象徴的に表れています。

 それは日本政府だけでなく、渋沢や福沢の正体や彼らを紙幣の「顔」にすることを批判的に報道・論評しないメディア、そして渋沢や福沢を賛美する日本社会全体の共同責任です。

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ガザ・済州島・阪神-1948年の地平

2024年04月24日 | 日本人の歴史認識
   

 76年前の1948年4月24日、在日朝鮮人ら市民約1万5000人が兵庫県庁に詰めかけ、GHQの「朝鮮人学校閉鎖命令」に抗議し撤回を要求しました。これに対しGHQは「非常事態宣言」を発し、米軍と日本の警察が一体となって徹底的な弾圧を行いました。「4・24阪神教育闘争」です(写真右)。

 2日後の4月26日、大阪の3万人集会が武力弾圧され、金太一少年(当時16歳)が警察に射殺されました。「4.26大阪教育闘争事件」です(2023年4月24日のブログ参照)。

 同じ4月の3日には、韓国・済州島で米軍と韓国・李承晩傀儡政権によって大虐殺が行われました。「済州島4・3」です(4日のブログ参照)

 1948年は、日本と韓国の現代史にとって大きな節目の年でした。

「1948年は、緊迫する状況が続いた。南朝鮮での単独選挙に反対する「4・3済州島人民蜂起」、そして呼応するように日本での民族教育に対し、非常事態宣言まで出して弾圧した「4・24阪神教育闘争」、分断固定化への「5・10南朝鮮単独選挙」の強行、南北分断が顕在化した「8・15大韓民国(韓国)発足」「9・9朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)発足」、さらに1949年には、日本で下山事件・三鷹事件・松川事件が起こる。
 各々の事象は偶発的・個別的に起きたのではなく、巧みに連関しあい、その延長線上に1950年6月勃発の朝鮮戦争が存在するのである」(飯田光徳・日本コリア協会大阪理事長「阪神教育闘争と今日」、部落問題研究所発行月刊誌「人権と部落問題」2019年2月号所収)

 その1948年の記憶に、もう1つ、中東への視点を加えなければなりません。1948年5月14日のイスラエル建国(イギリスからの独立宣言)です。それと同時にパレスチナに対する熾烈な攻撃が始まりました。それが今のガザにつながっています。

「今回の戦争(イスラエルによるガザ攻撃-私)は、1948年のイスラエル建国時に引き起こされたパレスチナ住民に対する「民族浄化」、虐殺・難民化のプロセス(=アラビア語では「ナクバ」(大災禍)と呼ぶ)を彷彿とさせるような、より根源的・重大な性格を帯びていると言える」(栗田禎子千葉大教授「ハマスが仕掛けた「シオニズムの実証実験」」月刊「現代思想」2月号所収)

 そのイスラエルのジェノサイドを「国際社会」はいまだに止められません。なぜか。栗田禎子氏はこう指摘します。

「ホロコーストや人種主義の問題が、その背景にある植民地支配や戦争という問題と切り離され、矮小化されて論じられてきたことに起因するのかもしれない―戦後世界における重要な成果だったはずのファシズムの克服は、実は形骸化しているのではないか。ガザの事態をめぐる国際社会(「先進諸国」)の状況は、私たちが既に新たなファシズムの支配の下で沈黙させられつつあることを示している」(同論文)

 日本(阪神)―韓国(済州島)―パレスチナ(ガザ)。同じ1948年に起こったそれぞれの悲劇は、別問題のようで実は通底しています。いずれも直接・間接にアメリカが仕掛けたものだということです。

 さらに1948年は、極東国際軍事裁判(東京裁判)が東条英機らを絞首刑にする一方、天皇裕仁の戦争責任を不問にし(11月12日)、A級戦犯容疑の岸信介を釈放した(12月24日)年でもあります。いずれもアメリカの戦略です。

「新たなファシズムの支配」が強まっているいま、「1948年」の歴史的意味を振りかえる意義は小さくありません。「沈黙」させられないためにも。

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京都「耳塚」異聞―関東大震災・植民地支配

2023年12月16日 | 日本人の歴史認識
   

 京都市にある「耳塚」(写真)が、豊臣秀吉の朝鮮侵略を象徴する史跡であることを、故中塚明氏の著書によって紹介しましたが(11月13日のブログ参照)、「耳塚」にはほかの意味もあることを、藤井裕行氏の『歴史の闇に葬られた手話と口話』(12月12日のブログ参照)で知りました。以下、抜粋します。

< 京都の東山七条に「耳塚」がある。豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592~1598年)で、戦功の証しとして朝鮮と明国の将兵や民衆の耳を、塩漬けにして持ち帰ったものを葬った塚のことである。江戸時代には朝鮮通信使が立ち寄り、ねんごろに供養したと伝えられている。

 耳塚周辺の「玉垣」は、大正4年(1915年)に東西の歌舞伎役者たちの寄進によって建てられ、発起人は京都の侠客で「伏見の勇山」と呼ばれた小畑岩次郎。

 その耳塚の前で、私は一人の年老いた「ろう者」と会った。京都ろうあ協会の発足に尽力し、初代会長を務め、全日本ろうあ連盟の幹事を20年にわたり務めた明石欽造さんだ。

 明石さんが耳塚を指さして、こう切り出した。「あの耳塚は、豊臣秀吉の蛮行を伝える史跡だが、関東大震災で犠牲になった、多くの「ろう者」たちの御霊を祀る塚でもある」と、熟達した手話で語ってくれた。

 さらに明石さんは「秀吉は、朝鮮の耳がきこえる人たちの耳(命)を奪った。そして、次は耳のきこえない人たちの耳(命)を、関東大震災が奪い、戦時中は、統治下の朝鮮の耳のきこえない人たちに日本の手話を強要し、朝鮮独自の手話の誕生と普及を阻んだ」と手話で語り、次に両手のひらを合わせ、耳塚に向かって静かに合掌された。>

 明石欽造氏の言葉は、秀吉の朝鮮侵略から関東大震災、アジア・太平洋戦争に至る350年余にわたる日本の朝鮮人差別、ろうあ者に対する迫害の歴史を貫いています。

 全日本ろうあ連盟・久松三二事務局長の言葉が想起されます。

「当時(戦時中)は手話を使うと手をたたかれる体罰もあった。手話は、ろうの親子や子どもたちの間でひっそりと受け継がれていった。…日本語を「国語」と呼ぶことで、多言語、多文化、多民族への理解に壁をつくってしまった。…アイヌや琉球の言葉が保護されてこなかったように、手話も長らく言語だと思われてこなかった」(2021年10月31日付朝日新聞デジタル=9月26日のブログ参照)

 朝鮮半島侵略・植民地支配と障がい者差別、アイヌ民族、琉球民族迫害は一体不可分です。ろうあ者犠牲の歴史、手話の歴史はそれをものがたっています。

 その歴史を今に伝えている「耳塚」。しかし、その存在を、ましてそのいわれを知っている人は、地元・京都市民でも多くはいません。

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「耳塚」が示す朝鮮侵略の歴史を学ぶ意味・中塚明氏の遺訓

2023年11月13日 | 日本人の歴史認識
   

 京都市東山区の三十三間堂、その向かいの国立博物館は観光名所として有名です。では、その近くにある「耳塚」という史跡をご存知でしょうか?豊臣秀吉を祀った豊国神社から歩いて1分ほどの所にあります(写真)。

 私は、先月29日に亡くなった中塚明氏(奈良女子大名誉教授、1日のブログ参照))の『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』(高文研、2002年)を読むまで知りませんでした。「豊臣秀吉の朝鮮侵略」の章にこう書かれています(抜粋)。

「この(1592~98年秀吉の)朝鮮侵略にかかわる日本にある遺跡を一つとりあげます。それは「耳塚」です。
 秀吉は朝鮮に出兵した日本の武士たちに、戦った朝鮮の兵士はもとより、一般の老若男女すべてをなで斬りすることを指示していました。首を持ち帰ることはかさばってむずかしいので、鼻切りを命じたのです。
 送られてきた鼻を埋めたのが、この「耳塚」です。耳塚といいますが、耳も鼻もあったのです。その数は、在日朝鮮人の歴史家の研究によれば「少なくとも10万以上」といわれています」

 日本では(とりわけNHKの大河ドラマなどによって)「偉人」視されることが多い秀吉ですが、実際は残虐な侵略者です。それを象徴するのが「耳塚」です。

 「耳塚」が持つ象徴性は秀吉の侵略にとどまりません。中塚氏の記述はさらにこう続きます。

「近代日本が朝鮮に勢力を広げるのに大きな画期となったのは、日清戦争(1894年)でした。当時、まだ若かった歌人の与謝野鉄幹は、日清戦争の宣戦の詔勅(明治天皇)に感動し歌をよみました。「いにしへに何かゆづらむ耳塚を再びつくもほどちかくして」。「昔の人にどうしてゆずることがあろうか、昔の人に負けないで耳塚を再びきずく日も近いのだ」とうたったのです」

 鉄幹がこう詠んだ翌1895年10月8日、日本は朝鮮駐在の日本公使・三浦梧楼(長州出身)の指揮のもと、軍隊などが景福宮に押し入り、朝鮮国王の妃・明成皇后を殺害するという前代未聞の暴挙(いわゆる「閔妃暗殺事件」)を行いました。「「耳塚」を再びきずく日も近いとうたった与謝野鉄幹も、この事件にかかわったとみられ、日本に連れもどされています」(中塚氏前掲書)

 「耳塚」に象徴される秀吉の残虐な朝鮮侵略は、近代日本の侵略・植民地支配の歴史につながっているのです。

 『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』は昨年8月、増補改訂版が出版されました。その第3部「未来のために歴史を語り合おう」は中塚氏が新たに書き下ろしたものです。その中で氏はこう書いています。

「天皇の戦争責任を認めず植民地支配を正当化し続けてきたのは、敗戦後、いまにいたるまでの日本政府の責任であることはいうまでもありません。
 しかし、読者の皆さん、“政府の責任だ”といって政府を批判するだけでは、日本人として植民地問題など国際的な問題に対する責任がなくなるわけではありません。
 私たち市民の自覚的行動があれば、日本政府の政策を改めさせることができるはずです。
 市民が事実にもとづいた歴史の見方を身につけ、発言し行動できれば、日本政府やまちがったマスコミの報道を変えることができます。これが「民主主義国」の建て前です」

 ウクライナ戦争、パレスチナ戦争で歴史を学び声を上げることの必要性が痛感されていますが、日本人が何よりも学ばなければならないのは、明治以降の侵略・植民地支配の加害の歴史です。中塚氏の遺訓を胸に刻み続けたいと思います。


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日本メディアが報じない日朝関係史の泰斗・中塚明氏の“遺言”

2023年11月01日 | 日本人の歴史認識
   

 中塚明・奈良女子大名誉教授が10月29日に死去されたと、31日付のハンギョレ新聞(日本語電子版)の記事で知りました(写真左、ハンギョレ新聞より)。

 記事の見出しは<景福宮の不法占領を明らかにした「日本の良心」中塚明教授死去

 記事から抜粋します。

< 日本の歴史歪曲を批判し、「日本の良心」とも呼ばれた奈良女子大学の中塚明名誉教授が29日死去した。享年94。
 日本近代史を専攻した故人は、1960年代から日清戦争をはじめとする近代日本の朝鮮侵略史研究に力を入れ、多くの研究成果をあげた。

 故人が1997年に出した『歴史の偽造をただす―戦史から消された日本軍の「朝鮮王宮占領」』は、1894年に日本軍が行った景福宮不法占領の真実を詳細に記録した日清戦争の「戦史草案」を探し出し、日本軍の景福宮不法占領の真実を100年ぶりに明らかにした力作として評価される。

 共著『東学農民戦争と日本-もう一つの日清戦争』(2013年)は、日本が国際法と朝鮮の国内法に違反してまで鎮圧部隊を送り込み、東学農民軍を残酷に虐殺した事実(1894年)を明らかにした。

 故人はこのような研究成果を評価され、2014年に高敞(コチャン)東学農民革命記念事業会が与える第7回緑豆大賞を受賞した。

 故人は2006年から「韓日市民が一緒に東学農民軍の戦跡地を訪ねる紀行」の日本側の企画者として、計17回の韓日東学紀行を実現させた。30日、日本の紀行団も出席した中、全羅南道羅州(ナジュ)で除幕式が行われた「羅州東学農民軍犠牲者を追悼する謝罪の碑」(写真右)建立にも積極的に取り組んだ。

 1993年に奈良女子大学教授を定年退職した故人は、2全羅南道の道立図書館が建てられた2012年、東アジア近代史研究資料1万5千点を寄贈した。>

 私は中塚氏とは直接面識はありませんでしたが、たいへん多くのことを学びました。とりわけ『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』(高文研、2002年)は座右の書です。

 上記ハンギョレ新聞の記事はこう結んでいます。

< 昨年93歳という高齢で韓国を訪れた中塚氏に、韓日関係をどのように解決すべきか尋ねたところ、このように答えた。「朝鮮半島の植民地支配が合法的だったという日本政府の認識が変わらない限り、この問題は解決できません。日本は違法な植民地支配を認め、謝罪しなければなりません」

 まさに中塚氏の生涯をかけた“遺言”です。

 この中塚氏の死去を、日本のメディアは31日夜の時点までまったく報じていません(社会面の死亡短信記事を含め)。韓国のハンギョレ新聞が「日本の良心」と敬称し、詳細な業績を紹介してその死を悼んだのとあまりも対照的です。

 中塚氏の業績を正当に評価しないばかりか、その死去すら報じない。それはたんに日本メディアの怠慢や無知を示すだけでなく、日本・日本人が朝鮮半島の人々に対する歴史的加害責任にいかに背を向けているかを象徴するものではないでしょうか。

 余談ですが、私が「赤旗」の記者になった時(1978年)の政治部長は、のちに日本共産党の参院議員になった吉岡吉典氏(2009年死去)でした。吉岡氏も日朝関係史の優れた研究者で、中塚氏と深い親交があったと聞いています。



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ジェノサイドへの沈黙は歴史の忘却―岡真理氏・駒込武氏指摘

2023年10月31日 | 日本人の歴史認識
   

 「歴史の忘却に抗して―パレスチナにおけるジェノサイドを見すえながら、危機の時代における人文知の役割を問う―」と題した緊急学習会が27日夜、京都大学で行われました。岡真理氏(早稲田大教授、写真左)、駒込武氏(京都大教授、写真中)らが講演・発言しました。

 岡氏は、イスラエル市民に対する殺傷、人質は戦争犯罪だが、ハマス(ハマース)はなぜ敢えてそれを行わざるを得なかったのかとして、イスラエルによるパレスチナ占領、それを後押しした欧米諸国の歴史的責任を指摘しました(23日のブログ参照)。

 そのうえで、歴史的経過を踏まえないでハマスを「テロ集団」と断じる報道によって「何が忘却されているのか?」としてこう述べました、

「忘却されているのは、イスラエルが入植者植民地主義国家であり、ユダヤ人至上主義のアパルトヘイト国家であること。そして、ハマースはイスラエルの占領から祖国の解放を目指す民族解放運動だということ」

 そして、「現在進行中のイスラエルによるジェノサイドに対して沈黙することはイスラエルと共犯だ」と指摘。とりわけ、「日本の市民が沈黙することは、自らの歴史の忘却にほかならない」とし、沈黙によって忘却されるものを次のように述べました。

第1に、植民地支配・占領の歴史において、日本は朝鮮・台湾の人々の抵抗に対し、どのような暴力を行使してきたのか。

 第2に、南アフリカのアパルトヘイトに対し、日本はどのような姿勢をとってきたのか。

 第3に、惨事の衝撃(関東大震災)による流言飛語やそれに便乗した当局の言説に煽られ、メディアもそれに共犯し、いかなる集団虐殺をもたらしたのか。

 そして第4に、核兵器によるジェノサイドを経験した国として、今、広島と長崎に核爆弾を投下した国(アメリカ)が、武器をイスラエルに供与してジェノサイドを行っていることに対する責任である」

 続いて登壇した駒込氏は、帝国日本の植民地支配下の台湾で起きた霧社事件(1930年)とガザの事態の共通性に触れたうえで、次のように述べました(霧社事件については後日のブログで取り上げます)。

「占領(植民地化)は、長期間にわたって継続する構造的な暴力である。占領者はむき出しの暴力を行使する。一方、時に被占領者による対抗的暴力が噴出すると、占領者はそれを口実にさらなるジェノサイドを行う。

 大切なことは、歴史の忘却に抗して、根源的な暴力としての構造的な暴力の歴史を透視し、可視化すること。そこに人文知の役割がある」

 「沈黙」は「歴史の忘却」である―両氏の指摘はイスラエルによるジェノサイドについて述べたものですが、社会・世界のあらゆる出来事について言えることでしょう。
 歴史、とりわけ自国の歴史はけっして忘却してはならない。その前に正しい歴史を学ばねばならない。そして不正義に対して沈黙してはならない、と痛感します。

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「琉球人遺骨盗掘」高裁判決が遺した課題

2023年10月19日 | 日本人の歴史認識
   

 京都帝国大学(現京都大学)医学部の教授らが1929年に沖縄で琉球人の遺骨を盗掘して持ち去り、京都大がいまだに返還していない問題。遺族らが返還を求めた訴訟で大阪高裁は訴えを棄却したものの、原告を「先住民族である琉球民族」とし、「付言」で「遺骨は単なるモノではない。ふるさとで静かに眠る権利があると信じる」とする判決を下しました(9月22日)。

 原告、被告双方が10日までに上告せず、高裁判決は確定しました。

 先に被告の京都大に焦点を当てて書きましたが(9月25日付ブログ)、もちろんこれは京都大だけの問題ではありません。

 波平恒男琉球大学名誉教授は、18日付の琉球新報(連載「遺骨返還訴訟 高裁判決を読み解く」下)で、大阪高裁が訴えを棄却した背景にある日本の現行法制度(民法)の根本的問題を指摘しています(以下要旨)。

< 高裁が訴えを棄却した根拠は、民法897条の「墳墓の所有権」規定。被告の京都大は原告らは「祭祀承継者ではない」と主張した。
 1947年の民法改正で「家・戸主・家督相続」は廃止されたが、墳墓は分割できないことから「慣習に従って祖先の祭祀を主宰すべき者」(大抵は長男)が単独相続すべきと法定された。

 つまり、現行民法の祭祀継承者規定は、戦前の家・戸主権の伝統の名残で、家単位の墓が原則一人の者によって相続されることを想定しているのである。

 これに対し、琉球・沖縄では琉球王国以来、歴史的条件が大きく異なっていた。戦後まで「風葬」「洗骨」が続き、墳墓も村墓、模合(もあい)墓、入込墓、門中(もんちゅう)墓など、集団で先祖をまつる伝統が続いてきた。

 このような独自の葬送文化を持ってきた琉球・沖縄からの遺骨持ち出し=盗掘問題の解決には、国内法の論理だけでは不十分である

 少数民族や先住民族の遺骨返還は世界的な潮流になっている。いくつかの国際人権法も、独自の文化を持った少数派や先住民の権利の擁護と発展をうたっている。日本もこれらの条約を批准しているが、日本政府はそれらに見合った国内法の整備にはこれまでずっと後ろ向きだった

 こうした国内法の未整備の分野で、「正義」(少数派の宗教的人格権・文化享有権など)を実現するにはどうすべきか。大阪高裁判決がわれわれに遺した重い課題だ。>

 現行民法は、少数・先住民族への考慮が完全に欠落しており、司法はその日本の法論理(伝統・慣習)に基づいて先住民族との争いを裁いている、ということです。
 これは日本の法制度における植民地主義の存続以外のなにものでもありません。

 板垣竜太同志社大学教授は、これを「植民地主義的ダブルスタンダード」と呼んでいます(7日付琉球新報、同上連載上)。

 波平氏が指摘するように、「世界的潮流」は違います。
 たとえば、オーストラリアでは今月14日、アポリジニなどの先住民の意見を議会に反映しやすくする憲法改正の是非を問う国民投票が行われました。結果は「否決」でしたが、アルバニージー首相は「新たな道を模索しなければならない」と述べています(15日付京都新聞=共同)。
 オーストラリアでは2008年、ラッド首相(当時)が先住民族の子どもたちを親元から隔離したこと(同化政策)に対し公式に謝罪しています。

 日本政府との違いは歴然です。日本の後進性、反民主性は数々ありますが、その典型は植民地主義が政治、社会、国民性の中に根強く残っていることです。
 それを1日も早く清算すること。それこそが「遺骨盗掘判決」が遺した課題です。

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「関東大震災大虐殺」100年目の最大課題は真相究明

2023年08月31日 | 日本人の歴史認識
   

 関東大震災(1923年9月1日)をきっかけに発生した日本人(政府と市民)による朝鮮人、中国人、台湾人、社会主義者などの日本人に対する大虐殺から明日で100年です。
 遠い昔の出来事のようですが、その根は断たれていません。それは、今日の在日コリアンはじめ外国人に対するヘイトスピーチ・ヘイトクライムに形を変えて生き続けています。

 なぜなのか? 最大の問題は、いまだに大虐殺の真相が明らかになっていないこと、日本政府がこの100年、一貫して実態調査を放棄・妨害し、事実を隠蔽してきたことです。

 関東大震災時に朝鮮人はどれほど虐殺されたのか。

 大韓民国臨時政府(当時)の機関紙「独立新聞」社長・金承学氏の調査では6661人、吉野作造報告書では2711人(うち東京724人)、諸新聞の集計では1464人。朝鮮総督府の発表は832人です(在日本朝鮮人人権協会発行「人権と生活」誌2023年6月号)。
 中央防災会議(内閣府)の報告書(2006年7月)では、「震災犠牲者10万5000人の1~数%」(1050人~)となっています。ばらばらで調査の主体によって大きな差があります。

 日本弁護士連合会(日弁連)は、虐殺を目撃した文戊仙(ムン・ムソン)氏の人権救済申し立てを受け、2003年8月25日、日本政府に「真相調査・原因究明・被害者や遺族への謝罪」を要求する「勧告書」を提出しました。
 しかし、政府はそれを今日まで20年間無視し続けています。

 「勧告書」をまとめる中心となった梓沢和幸弁護士は、日本政府が真相を隠ぺいしているからくり、そして今度の課題についてこう指摘しています。

「当時、起こった虐殺事件のいくつかは裁判になっている。…ところが当時の裁判資料は裁判所にはなく、検察庁が保持しているのですが、この検察庁が全く出さないのです。…これからのポイントは、この検察庁にある判決資料を捨てさせない、そして公開させる、これが真相究明における一番のポイントではないでしょうか」(前掲「人権と生活」所収のインタビュー)

 検察庁に資料があるが、出さない。この事実はほとんど知られていないのではないでしょうか(私は初めて知りました)。政府の狡猾さとともに、日本人がこの問題にいかに無関心かを示しています。

 しかし、韓国は違います。

 韓国では2022年7月、40余の市民団体が結集して「関東虐殺100周忌追悼事業推進委員会」が発足しました。「発足宣言」はこう述べています。

日本帝国主義の朝鮮人に対する植民地支配を象徴的に示す関東大虐殺の真実を隠しておくことは、これ以上容認できない。…どれほど多くの人々が虐殺されたのか、犠牲者の遺体はどこにあるのか、(日本政府に対し)虐殺の被害者に関するあらゆる調査資料を公開することを求める。…散り散りになった被害者の遺体を故郷にお迎えするとともに、無念の濡れ衣で亡くなった被害者たちの名誉回復のために努力しなければならない」(2022年7月14日付ハンギョレ新聞日本語電子版、写真右)

 ここで述べられていることは、本来私たち日本人こそが行わねばならないことです。

「日本が一刻も早くとるべき行動は、真相発表を要求する運動を封殺し被害者側に立証責任を負わせてきた態度を改め、加害者側から真相を調査・発表することであり…虐殺の罪を認め責任を果たすことである。それが100年間の「無責任」を終わらせる唯一の方法であろう」(鄭永寿・人権協会会員、前掲「人権と生活」)

 加害国・日本の政府と市民の責任があらためて厳しく問われています。

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