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雨が降り、稲刈りが中止になった。雨が降れば絵を描きに行くことにしている。いつものように篠窪に絵を描きに行った。やはり篠窪はいい。絵を描きたくなる何かがある。2枚描くことができた。水彩人展で色々感じる所はあったが、残念ながら今のところ絵が変わることはなかったようだ。
絵を描き始めれば、何も考えることができない。絵は頭で描くものでないから、これでいいと思っている。ともかく慌てない。時間をかけて自分に至ればそれでいい。慌てたところで意味がない。生涯をかけて行きつけばいい。身体が覚える絵の描き方には時間がかかるのは止む得ない。
ゆっくりとただし少しづつでも前に進むのがいい。一日一日、焦らずしかし確実にやってゆきたい。篠窪では緑色の変化を追っていた。緑の微妙な濃淡の中に、いろいろのことが潜んでいる。それを何とか感じようとしていた。特別なことはなかったが、もしかしたらその意識が絵に表れたかもしれない。
昨日金沢に来た。サウナがあるのでドーミーインに泊まった。全国どこのドーミーインもサウナがあるところので時々泊まる。金沢のドーミーインは温泉ということだ。これを書き終わったら入りに行くつもりだ。
今回の金沢の要件は水彩人の石川展の企画である。会場を探して、来年の会期が決められればと思っている。本当は講習会ぐらいできればと思うのだが。やるとなれば、どういう手順にするか、作品の搬出入はどうするか。決めることがいろいろある。
もう一つは懐かしい場所の絵をかいてみたくなったということがある。学生の頃、金沢近郊を描きに行った。そういう場所をもう一度回ってみたいと考えている。どう見えるかが楽しみなのだ。記憶で絵を描くようになって、記憶にある場所を確認する必要が出てきた。
昨日は昼にはもうついてしまい。夕方まで歩いてみた。小立野3丁目までバスで行き、ゆっくりと香林坊まで下りてきた。途中金沢美大のあったあたりが、ずいぶん整った場所になっていた。彫刻の人たちが、石で作品を作っていた建物が、本多博物館になったようだ。
そして金沢女子短大、北陸女子短大が続いてあったはずなのだが、コンサートを聞きに行った建物が残っていて、工芸館というものになったようだ。金沢は伝統文化の町ということなのだろうけれど、ここまで作られてしまうとむしろ違和感を感ずる。
金沢大学もほかの大学もみんな町の中心地から離れたようだ。こうして観光の街に特化したことで、独特の繁栄をしている。これがよかったのか悪かったのか。そういうことはよくわからない。経済が一番の社会だから、これは正解ということなのだろう。観光を中心に置こうといしている石垣島もよく金沢の実態を調べたほうがいいだろう。
さらに中心街に向かって降りてゆくと、21世紀美術館があり、香林坊に出る。気持ちのほうは昔に戻っているのだが、現実は変化が大きすぎて、50年という年月が経っていると迫ってくる。小立野のお店は記憶のあるものは一軒もなかった。大学病院も昔の姿ではない。兼六園はさすがに昔のままだ。
記憶の世界の中でうろつくことは、悪いわけではないのだが、年月というものは何者なのだろう。今は大学で残っているのは石垣と石川門だけ。かろうじて金沢城らしき森は見えるのだが、あの一番高いあたりには、生物科の人が植物園を作っていたことがある。
植物好きだったので、その植物園の管理にいくらか加えてもらったことがある。よく昼飯を食べに本丸跡まで上って行ったものだ。学食でもらったトレーを持って、本丸跡まで上がって行き食べる。これが結構ハイキング気分で悪くない。よくもそんなことを一人でやっていたものだ。
気の利いた連中ならデートコースということだが、そういうこととは全く縁のなかったのだから、多分一人で登って行き食べていたのだろう。そういえば、本丸のあたりは弾薬庫があった。トンネルもあったりして、その奥に周りを高い土塁で囲んだ場所があり、そこがかつて弾薬庫があったということだった。あれも今はないのだろう。
歴史を観光に都合よく残すのが、遺跡調査ということだ。金沢城だって再現するのかもしれない。軍隊がいた時代も大学があった時代も、消えてゆく時代。もちろん金沢城ができる前だって歴史はあった。観光で調えられた金沢もいつか歴史になる。
弾薬庫跡は絵をよく描いた場所だ。その不思議な場所の感覚が面白かった。トンネルが通れないほど雑木やシダで埋め尽くされていた。私はそれをきれいに取り払い、通れるように直した。そうしなければいけないような気分だった。美術研究室の倉庫がやはり、古い倉庫で面白い建物だったのだが、あれは江戸時代の長屋の一つと聞いていたが、今は整備されたのだろうか。
あそこに歴代の美術研究室の諸先輩の卒業制作の作品が置かれていた。実はそういうどうでもいい作品以外にもそれなりの美術品が収められていた。あれはどうなったものだろうか。誰かが猫糞したのだろうか。そんなことはないだろう。本多博物館にでもあるのだろう。
なぜあのころ道を誤ったのか。ということはよく考えたものだ。もちろん何を間違ったと分かるわけではないのだが、違った道もあったはずだと思うことがある。やはり学園闘争の時代が影響した。今も金沢に来てそういうことを思っている。全部を生きるということはできない。あれもこれもあきらめて今を生きているのが人間だろう。生をあきらめ死をあきらむる。
明日は松任の「うるわし」の状況を調べに行く。うまく借りられればいいと思うのだがどうなるか。そのあと北野さんに絵を描く場所を聞いてみようかなど思っている。一つはよい港を描いてみたい。もう一つは白山の奥のほうの川を描いてみたい。
その二つが記憶の底にあるものだ。金石と鶴来あたりに行ってみたい。中宮温泉とか、岩間温泉とか、別当出会いまで行ってみたい。といっても白山スーパー林道ができる前の記憶しかない。きっと行けばがっかりすのだろう。中宮温泉から白川郷のほうまで抜けられるようになったのだ。
記憶というやつは困ったもので、たいていは昔が良いのだ。中宮温泉の河原に沸いていた温泉は今では全く違っているはずだ。記憶の中にあるものの、時間による変化は、たいていはひどいことになる。だから記憶の中の風景を描いているのかもしれない。
記憶はすべてを美しくする。その時間による映像の美化は絵を描くということの何かにどうもつながっている。美しいものを抱えているから、頑張って生きていられるのかもしれない。美術部の同窓会が25日にある。