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手取川を描こうと思って

2022-09-23 04:17:53 | 暮らし


 昔、学生だった頃、美術教室の彫刻家の教授だった米林先生のお宅になんどかお邪魔した。その時手取川を見た印象が残っていて、もう一度か気に行きたくなった。女医さんだった奥さんにずいぶん御馳走を作っていただいた。なんで貧乏学生の私にあんなに親切にしてくれたのだろう。食べたこともないような珍しい料理をわざわざ作ってくれた。

 米林先生はよほどの食通だったのかもしれない。がそれよりもしかしたら米林先生から草家人叔父のことを聞かれたことがあったから、学生時代の知り合いだったのかもしれない。彫刻の授業も少しだけ受けたが、授業はどちらかといえば、職人的訓練という感じだった。

 米林先生は仏像彫刻をされていた。そういえば、草家人叔父も、法隆寺の再建や仏像修復の仕事をやっていたから、そういう関連があったのかもしれない。今になっては全くわからないことだが。いずれにしても先生には格別に親切にしてもらった。

 特に陶芸の作品で卒業制作を作るときには、粘土を彫刻予算で沢山買い入れてくれた。そして卒業制作に使わせてくれた。何にも言われなかったのだが、今思えば私が陶板で大きな作品を作るということを知ったうえで、粘土を買ってくれたとしか思えない。

 本当の優しさを持った先生だった。話は思い出話になってしまったが、先生の家に行くときに、手取川の河原を歩いた。その風景が忘れられない記憶の底にある。それでもう一度その場所に行ってみたかった。今回手取川の絵を描いた。何か込み上げてくる感情があった。絵に感情は反映しているのだろうか。何かを表そうとしたわけではない。

 忘れることのできないつらい記憶もある。先生が一緒に酒を飲んでくれて忘れた。友人には先生に命を助けられた人が居る。いろいろあってもう死にたいと、先生の教室の窓から飛び降りようとしたそうだ。そうしたら分かった、自分も一緒に飛び降りるからと言って先に飛び降りようとしたので、気が抜けて死ななかったそうだ。

 果たしてそんな先生がどこにいるだろうか。もう先生も亡くなられたので逸話を書いておくが、先生と学生で忘年会をして、次に店へ行こうということで、先生が飲酒運転をした。ところが、運悪く接触事故。警察も来てしまった。しかしなんとか、アルコールチェックなしで済んだ。あれは助かった。

 先生に大変怒られたこともある。わたしが先生を見たのに避けて挨拶をしなかったというのだ。何度も怒られたのだが、どこで先生にお会いしたのかがわからない。多分先生は他の誰かを私だと思ったに違いない。そんなに怒られても先生になんで私が挨拶をしないわけがない。

 そういえば裸婦のモデルさんはいつも先生の部屋で食事を食べていた。先生が気を使って、そういうことにしたのだと思う。ほかの先生はそういうことに気を遣うようなことはない。特別に暖かい先生だった。先生には十分お礼を伝えることもできなかった。

 そう、なんで先生を思い出したかといえば、手取川を描いたからだ。手取川をどんどんさかのぼり、別当出会いまで言って絵を描いた。私が白山に上ったころはまだ手取りダムはなかった。ダムができて全く様子が変わった。

 そもそも白峰まで行けた電車もなくなった。あれほど山の奥の白峰まで行ったのだから不思議だ。昔だって赤字路線だっただろう。確か、鶴来あたりで乗り換えたような気がするが違ったか。名古屋まで鉄道路線を作るというのが目標だったとか聞いたことがある。

 白峰の集落だけは昔の様子を残していた。牛首織が白峰の織物だ。紬の布を集めていたころ、牛首織の反物を手に入れたことがある。ここの旅館に泊まって、白山に上ったこともあった。中宮道のほうを上ったのだろうか。釈迦新道を上ったのだろうか。そもそも50年たった今でも新道というのだろうか。白山に上る道はすべて歩いたはずだ。

 金沢大学にいる間に10数回白山登山をした。美術部の初めて登山をするという人をたくさん連れて上った。最初は富山勤労者山岳会で活躍した般若さんに連れて行ってもらった。その後はたいていは松木さんと一緒だったと思う。松木さんは医学部の方で、私が最も影響を受けた人だ。何度も山に連れて行ってもらった。

 人間というものの魅力ということで考えるとこれほどの人はその後も見たことがない。自分が天才ではないということを教えてくれた人だ。恥ずかしながら、もしかしたらと高校時代は思っていた。小生意気な奴だったわけだ。松木さんに会ったら、これは格が違うとたちどころに天才とはどういものか理解できた。

 すべてに人間の桁が違う。今はいかにもよい、年寄りのお医者さんのように見えるが、あんな破天荒の人がこうもおさまるものかと思うと不思議な気がしてくる。医療が人間を作るということがあったのだろう。どこで変わったのか、変わらないのか。この辺が人間の面白いところだ。

 昔の松木さんはみんなで酒を飲むと、今から卯辰山までマラソンするぞーと叫ぶ。そしてそのまま走り出す。卯辰山の上のほうはずいぶんの山の中なに、なぜか意味の分からない。その後山の中にスナックができて、そこがゴールだことがある。そこでもう一度飲む。なぜかそのスナックは夜になると結構混んでいた。

 のちにそのスナックは麻薬取締法で捕まった。そうだったのか思ったが、当時はそういうことは全く思いつくこともなかった。今考えれば、おかしな連中が突然、そういうところになだれ込んでくるのだから、向こうも驚いたことだろう。

 人間どんな生き方をしたところで、年を取って死ぬ。それは受け入れなければならない。昨日馬小屋で寝たら、今日金沢駅のそばのドーミーインで目が覚めて起きる。そんなものだ。50年などという時間はあると思えばあるが、ないと思えば何もない。

 金沢に来れば、思い出で悲しいのはわかっていた。何が悲しいのかといえば、あの頃と何も変わらないということだろう。人間はどうしようもないものだということ。このどうしようもない人間が絵に出てくればいいのだが、絵も結局のところ装っているということを知る。

 本音がいいとも思わないが、どこまで描けるかだけはやってみるつもりだ。今日は金石港に行ってみる。昔の姿はないだろうが、行くだけは行く。ドーム型の弾薬庫に泊まったことがあった内灘。大学ができて病院ができて、昔の内灘ではない。すべてが変わったということを確認するために金沢に来たようなものかもしれない。
 
 手取川の絵のことを描こうとして、昔話だけになった。
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