第78回 水彩画 日曜展示
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465「島の岬」
ファブリアーノ 10号
2021.9
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466「楽天地」
ファブリアーノ 10号
2021.9
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467「森の中の明るい場所」
ファブリアーノ 10号
2021.9
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468「天竜峡」
ファブリアーノ 10号
2021.9
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469「島の夕暮れ」
ファブリアーノ 10号
2021.9
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470「多古漁港」
ファブリアーノ 10号
2021.9
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471「石垣の空と海」
ファブリアーノ 10号
2021.9
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472「石垣の海」
ファブリアーノ 10号
2021.9
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473「秋田の村」
ファブリアーノ 10号
2021.9
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474「西表島を望む」
ファブリアーノ 10号
2021.9
色々の風景を書いているが、今見ている眼前の風景を描いていても、それは記憶の中の風景である。写真の風景もあれば、他人の絵の記憶もある。そしてそれらの総合として、自分のいままで観てきた世界の記憶がよみがえってくる。
ここにも秋田の村という絵がある。秋田の村の風景に一番近いと思ったのでそのような題名にした。本当にある場所の風景なのだが、別段どこでも良いとも言える。ただこの絵は山形でも、岩手でも無く、やはり秋田の豊かさを感じさせる農村の絵なのだ。
石垣島の風景を描いていても、同じことで、伊豆の海を思い出していることもままある。軽トラックが港に泊まっている姿が目に焼き付いていて、現われてきた。もちろん石垣島でも軽トラックは好きだから、よく見ている。
記憶の中の風景の方が、生々しい絵の上の現実である。それは学生の頃に、落ち葉を拾って描いていた。それをリアルに描いてみていたのだ。ところがどれだけ正確な絵にしても落ち葉らしくならない。落ち葉を捨ててしまい、頭の中に残っている落ち葉を描いてみた。そうしたら強烈に落ち葉だったのだ。人間が見ているものは、カメラのように目に映っているものだけではない。写真の落ち葉では、落ち葉では無い。
絵に於いての見ていると言うことは記憶の集大成だと言うことに気付いた。木の葉は春に出てきたときの柔らなかなものだ。夏には生き生きとしたみどりそのものになり、あきに成って落ちる。葉が落ち葉になるには時間というものが伴っている。絵は時間をかけて出来上がった落ち葉を描いているのだと思う。