地場・旬・自給

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水彩人研究会 東京都美術館

2014-09-23 04:04:42 | 水彩画
東京都美術館で水彩人が主催して、水彩画研究会を開催する。9月27日一日の開催である。朝から行うので、参加希望者は会場で申し込みをお願いしたい。昨年に引き続き第2回ということに成る。今回は水彩人に出品している絵を基にして、具体的に作者が語るいうことをやろうと言うことに成っている。



「黒姫山放牧地」 中判全紙




「北斗台地の畑」 中判全紙




「信濃川河畔」 中判全紙



「妙高山麓の村」 中判全紙

ワークショップ 水彩人討論会
レポート 笹村 出

16回水彩人展に4点の風景を出品している。どれもが日本の里地里山風景である。日本の自然に溶け込んだ、畑や集落を描いたつもりだ。畑や村がまるで自然の一部であるかのように、そこにあるということを描いてみたかった。日本人の暮らしの原風景の様なものに出会って描いた。場所は長野のあちこちである。自分の育った頃の山梨の山村の空気に通じているから描きたくなるのだと思う。もうふるさとには故郷の風景は無い。日本人の暮らしが作り出した風景を直に描いてみたかった。こういう目的のある絵が、本来の絵画であるのかどうかを、研究したいと考えて提出したレポートの様なものだ。

絵画に目的があれば、それはポスターの様な物である。今回の絵はポスターの方が、自分のやるべき仕事かもしれないと考えた所がある。自分の思想信条のポスター。人類の軟着陸地点としての、「地場・旬・自給」の世界。

自分なりに小さな決意して、この4点を出品した。もう年齢的にも結論は近付いている。自分としてはだいぶ変わったものを出したつもりだが、たぶん他の人が見れば、さして変わらないということに成っているのかもしれない。その辺をみんなに聞いてみたいと思っている。水彩人は自分の絵の勉強の為にやっている展覧会である。

少し前までは、暮らしている空間の、畑や田んぼや家のある空間にある、漠然とした雰囲気の様なものを描いていたと言える。それはその場で見て描いているのだが、どちらかと言えば抽象的な表現に成ることが多かった。見れば見るほど抽象的になる所が、多分私のものの味方なのかもしれない。

見えているものを内なる目で見つめて行くとそうなったと言える。私にとっては、良く見ると言うことは、写真機の目から離れて行くことであった。写真機の目で見えているものは、自分の見えている現実の空気を反映していない。そんなものを写すのは絵画ではないと決めていた。

描いているのは「私絵画」であって、見る人のことを基本的に考えていなかったので、説明的な要素については、気にも留めなかったようなのだ。これまでは自分の絵を見る人がいるとしても、極めて少数の、似たような世界に入り込んでしまったような人だけだろうと考えていた。こういう諦めが、自分の繪の方向には影響してきた。

最近どうも、絵画のイデオロギーポスター的役割の様なものが頭に入り込んできている。私の描いた絵画、軟着陸の地点である。というような世俗的な思惑。芸術とは言い難いもの。それでもいいというような居直り。

「私絵画」の意味。絵を描くと言うことが、社会的な意味としては私ごとの行為に成った、と考えている。社会的影響とか社会的意味とかいう方向から考えれば、成熟した資本主義経済の中では、絵は商品である。これは価値観ではなく、社会科学的事実。自分がやっていることを、そういう方向からは到底考えられない。商品という考え方で、私の絵をとらえることが我慢ならない。それは私自身がそういう世界で、挫折したということも当然ある。

それでも絵を描くと言うことが、捨てきれないもので、自分という人間には描くことが、とても重要なことである。たぶん、それぞれにとっては絵を描く事が、人間のすべてであると言えるような人が沢山いる。そうした個人的な思いをどのように紡ぎ合うのかということである。それが水彩人における絵画の研究だと思う。

角度を変えてもう一度考えれば、描いているものの自分にとっての意味は、軟着陸地点である。自分の目指してきた地場・旬・自給の到達した暮らし世界である。このまま競争社会が深刻化して行けば、また戦争に至る。戦争に至れば、今度は核戦争だろう。そうなれば人類には悲惨な結末が待っている。そうならない為には、他人や、他国と競争するのではなく、自分自身を深めてゆくという生き方に転換しなければならない。その目印の地点としての絵図の様なものなのかもしれない。ポスターのようなものかもしれない。

個人の哲学の様なものを、人間の思想の様なものを、あるいは人格の様なものを、そういうもろもろの厄介な物をむき出しにしなければ、絵画ではないと考えている。

何故そんな個人的なことを、共同で研究しなければならないか。そうしなければ本質に至れないと考えたのか。このあたりの模索が水彩人の始まりである。始まりであり、現在進行中の紆余曲折的経過である。

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2 コメント

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好きな絵画 (市川)
2014-09-23 09:47:38
絵画を商品として考えているのは、まず画商、そして生活費を工面しなくてはならない画家でしょう。

しかし、最終的に絵画を購入する人は、商品だとは思って購入していません。少なくも私はそうです。

キャンバスに絵の具が塗ってあるだけなのに、その技法により、さわやかなマイナスイオンが放射されてくるような見事な風景画、胸が締め付けられるような郷愁を誘う田舎の家を描いた絵画、愛おしさに思わず抱きしめたくなるような少女や裸婦を描いた絵画、性格まで描かれているような肖像画。

笹村さんから見れば、芸術とはほど遠い世俗的な感動に過ぎないのでしょうが、鑑賞する喜びを与えてくれる
絵画には高い価格が付けられるのです。
誰もほしがらない絵画には、商業的にはもちろん、芸術的にも価値はないと思っています。
画家が亡くなってから、高値が付けられた絵画もありますから、最終的には時代が決めていくのでしょう。
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商品絵画 (笹村 出)
2014-09-23 10:20:37
商品絵画の意味は何度か書いています。
資本主義社会における、絵画は商品です。

投資対象としての絵画取引が主流です。
お宝探偵団を見ているとよく分ります。

株や、土地と同じような扱いを受けたのが、絵画ブーム時代でした。

死んでから高値が付く絵より、
死んで無価値になるのが絵の現実です。

そうした、資本主義社会の意味づけを、取り除いて、
絵画の本質を自問したいと考えています。
商品だから悪いとか良いとかいう議論ではないです。
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