地場・旬・自給

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共同の意味

2013-01-29 04:24:02 | 水彩画
水彩人は「水彩による、自由な表現」を目的する会である。あしがら農の会は「地場・旬・自給」を目的に、市民が農業に取り組む会である。農の会には農業者を目指す人と、市民的に自給を目指す人とがいる。以前は農業者を目指す、農業的力量のある人が、農作業の中心に居て、市民的な人を引っ張って行くということであった。しかし、農業を目指す人は、農業で生計を立てると言う大事業である。とても、自給的な人のお手伝いどころではない。そして、農業者を目指す人は個々に独立していった。農の会全体で、共同することは無くなった。共同するということは自分の為のことだ。この事はどちらかとえば、絵を描くことで知った。絵を描くことは、一人のことである。様々な芸術の分野の中でも、個人で完結している分野とも言える。何故、絵を描くのに共同が必要なのか。

水彩人同人の松波氏は面白い絵のことをいつも書いている。そこで私の絵の批評を評価してくれた。何故他の人の絵に対して、本気で考えて見るかと言えば、それしか自分の絵を良くする道はないと考えているからである。普通の人である私にとって絵を描くと言うことは、人生を少しでも深く味わい、日々を充実して生き、生きる真実に触れるために絵を描いている。社会や歴史に影響するような、芸術をやっている訳ではない。その上で自己確認のように絵を描く。その時に、必要なのは仲間である。仲間と共同で探求することである。自分の絵が成長するということは、自分を否定するということである。自分の越えられないと考えている限界を、超えることだ。今までの自分が居た所を越えない限り成長というものはない。脱皮することで、前より深く成る。この繰り返しである。絵を描く人は自分の殻により深く閉じ籠ることが、自分の絵の世界を深めると思い込んでいる。つまり、天才のそうした姿を自分に重ね合わせ、普通の人が絵を描くと言う事の意味を間違うのだろう。

自己満足で今の自分がいいと思うのは、衰退である。自己を客観視して、その物差しとして仲間がいる。その仲間の目で自分の絵を見ることである。それにはよりすぐれた仲間と、切磋琢磨しなければならない。自分の修業の一里塚としての絵である。後退しているなら、修業方法が間違っているのだ。仲間はこの修業に必要なのだ。そのことは、道元が一人で山に入った訳でないことでもわかる。一人では道を誤る。座禅修行でも、一人で座るのは、人間が狂ってしまうので良くないと言われる。自己完結すると、つじつまが合いすぎる。他人がそこに入り込むことが煩わしく成る。当然のことで他人は自分と考え方、やり方が違う。能力差がある。足手まといであるかのように見える。しかし、仲間の人の絵を本気で考えて見ることで、自分のことが分かる。共同することでの効果が出る。それが絵にも表れる。

農の会では、市民のグループ田んぼの方が収量が多い。専業を目指している人の田んぼより、長年やられているMOA自然農法の方々の田んぼより多い。地域の平均収量よりも、有機農業でありながら収量が多い。大豆も小麦もお茶もそうである。理由は簡単である。共同だからである。自分の為より、みんなの為と感ずることで、力が出せる。また、そうでなければ本当の共同という事ではない。共同ということは、変な言い方だが、陰徳を積むと言う事だと思っている。知らない間に、誰かが田んぼの石に気付いて拾うかどうかである。そういう無数の思いを積み重ねるから、結果として共同の方が収量が多く成る。共同の道を探るべきだ。一人でもやれる人には共同は迷惑なことだと思うだろうが、実は、その方が能力のある人、力のある人に大切なことではないだろうか。絵の場合、良くなるという事が分かりにくい。しかし、私は水彩人の御蔭で少しづつ進んで来たと思っている。競争社会の中で、なかなか受け止めにくい所なのだろう。

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